父と息子の鬼ごっこ(1)
「ラディオス様、これは私が料理長に言って作らせた最高級のデザートですの。」
甘い笑みを浮かべて体を寄せてくるシェリルにラオはウンザリしていた。
今すぐにでも離れたいのに強く掴まれた腕はビクともしない。
鼻につく香水の匂いは嗅覚が麻痺してしまうのではないかと思うほどキツく、料理の匂いなど分からない程甘ったるい。
…美緒はこんな匂いはしない。
あまり濃く化粧をせず、香水もつけない美緒は微かな化粧の匂いと整髪に使う花の油の控えめな甘さが丁度良いのだ。
他の男はこの匂いを好むかもしれないが、ラオにとってはあまり嗅ぎたくない部類に入る。特に五感が発達しているため嫌でも強烈な匂いは感情を刺激した。
こんなもので釣られるのはドワーフぐらいではないか?
年中鉱山を発掘したり、大地の下に住む年老いた姿の小人たちを思い起こしながら、シェリルの腕から自身の腕を抜く。
「離れろ。」
「そんな…御口に合われませんでしたか?」
「違う。」
何時までもこんなキツい匂いの傍にいたくないのだ。
昔の自分を叱咤したい気持ちでいっぱいになりながら、ラオはシェリルを引き離そうとその細い肩に触れる。
が、そこでピタリと動くのを止めた。
懐かしい気配が城の最上階に現れたのだ。
どうして今頃と思う反面、嫌なタイミングだと眉を顰める。
自分とよく似た気配のすぐ傍に愛しい恋人の気配があることに気が付いた。…美緒。名が音として零れ落ちる前に二人の気配がパッと掻き消えた。
「!」
「きゃっ!」
驚きに立ち上がると脇にいたシェリルが小さく悲鳴を上げた。
けれどラオはそれどころではなかった。
…ない。城のどこを探っても恋人の気配が欠片も感じられない。だが、すぐに合点が行く。
愉快な事を好むあの父親の仕業だ。
例え父と言えども別の男と美緒が共にいる。そう考えただけで胸がざわつき、どうしようもなく嫌だと思う。
「…ラディオス、様…?」
ラオの全身から発せられる魔力の波に恐れを抱いたのか、若干震えを帯びた声が名を呼んだ。
見下ろした先には椅子から落ちて床に座り込むシェリルがいる。
違う。俺が呼んで欲しいのはその名ではなく、お前でもない。
伸ばされた細い腕をラオは冷たく振り払った。
驚愕、困惑、恐怖。それら負の感情を宿して見上げてくる瞳を見た途端、何もかもが冷めたような気がした。
何故親が決めただけの許婚を抱いてしまったのだろう。だとしても、もう今は美緒がいる。この形だけの許婚なぞ何の意味もない。
父が一言許婚は無かった事にすると言えばそれだけで解決する話ではないか。
それなのに何故自分はこの女に情を与え、城に住む事まで許可してしまったのだ?見下ろしてみても座り込むシェリルに対する感情は湧いてこない。
あるとするならば‘何故この女を傍に置いていたんだ’という自分自身への疑問くらいだ。
…美緒と一緒にいる内に気が緩んだか?
「…下がれ。」
「え…、?」
「聞こえなかったか?下がれと言ったんだ。何度も言わせるな。それとも、今すぐ此処でその手足を手折って欲しいのか。」
スッと冷たく瞳を細めて見やればシェリルは慌てて立ち上がり、淑女の礼をして私室を出て行こうとする。
魔力に当てられたのだろう。その体は小刻みに震え、足取りも覚束無い。
…そうだ。許婚という言葉で縛られた関係の者など俺には不要な物だった。
必要な者は恋人であり婚約者である美緒だけ。それ以外の女など取るに足らぬ存在ではないか。
彼女の存在と比べるべくもない。
シェリルと入れ違いで部屋に入って来た側近にラオは目を眇める。
普段の温厚そうな微笑とは違い、どこか軽薄さを含んだ笑みを口元に貼り付けた側近が残されていた食事を侍女に片付けさせた。
「俺は如何かしていたようだ。…キア。」
キアと呼ばれた側近は殊更笑みを深くして魔王の前へ片膝をつく。
婚約者と共にいるラオも魔王ではあるが、今目の前にいるのは数百数千の魔族の王、最強にして冷酷非道と謳われる氷の魔王だった。
「えぇ。――…お帰りなさいませ、陛下。」
「あぁ。…あの女を屋敷へ追い返せ。俺の許可が無い限り城の敷地内へは一歩も入れるな。」
今、シェリルが纏わり付いて来ても自分は躊躇いもせず先程の言葉通り細い手足を手折れるのだ。
三大貴族の中でも最も有力であるマクファーレン家の娘を手にかけたとあれば、少々厄介な事になる。有力とは言え一貴族に過ぎないが、その傘下を考えると出来る限り危害を加えるべきではない。
「御意。」
立ち上がって歩き出せば側近は扉を開けた。
向かうのは謁見の間。
軽く翻った服から香った甘ったるい匂いが酷く苛立たせ、マントや上着を脱いで通りかかった使用人に捨てるよう言う。
安くはない服だが、洗っても着る気にはならず、一秒たりとも傍に置いておきたくない。
ビロードの絨毯が美しい謁見の間、己の居るべき玉座に座り目の前の空間に手を翳せば世界の地図が現れた。
「…リア。」
名を呼べば一つの大陸が拡大され、更にその端にある小さな小さな国が画面いっぱいに広がる。
それ以上は無理なようだったがラオにとってはそれだけで十分だった。