勇者様は魔王の悩み所
ふわりと鼻をかすめた匂いは少し甘みを含んだエキゾチックな香りの花から作られた魔王お気に入りの香水のもの。
キュッと抱き込まれて朝の冴えた空気で冷えてしまった体に温もりが心地良い。
マント越しに勇者の声が聞こえたけれどラオはあたしを見つめていた。
「無事か?」
「とりあえずはね。危うく城から連れ出されるところだったけど。」
「…何?」
あたしの言葉に眉を寄せ、それからあたしの腕を見たラオは殊更剣呑な光を瞳に宿す。
視線を辿れば勇者に掴まれた部分が赤くなってしまっていた。
どんだけ強く掴んだのよ、あいつ。
呆れるあたしとは裏腹に怒りを湛えたラオが勇者を睨み付ける。
「貴様…っ、よくもリアを…」
「か弱い姫を無理矢理攫って幽閉させている魔王のお前に言えた義理か!」
「…結局勘違いしたままなのね。」
姫?訳が分からないと言いたげな顔をしたラオに、勘違いしてるのよと言えば何やら納得した表情で頷かれた。
そんなあたしたちを余所に勇者は無駄に正義感を燃やしていく。
「人間に害を成す魔族を野放しにしておく訳にはいかない!お前を倒せば魔族も大人しくなるだろう!!」
勘違いの激しい勇者に興が削がれたのか怒りを引っ込めたラオは、面倒臭いと言わんばかりの声音で「俺は何もしていない。」と言う。
インキュバスのように人間を襲う魔族はいるが基本的にこの魔王は各魔族に対して口を挟むことも、何かを命令することも皆無に等しいので人間に危害を加えることなどない。
害を与えるのもほんの一握りの魔族だけだろう。
朝も早い時間帯から叩き起こされ良くなかったラオの機嫌が急降下していくのが分かる。
あたしも起こされたあげく勇者の阿呆な勘違いに付き合わされて結構腹が立っているのだ。
「ラオ。」
「何だ?」
「あれ、捨てちゃって。」
あれ、と勇者を指差せばラオは深く頷いて勇者へ手の平を向けた。
勇者がパッと剣を向けて戦う体勢をしたけれど、ラオがスッと手を横へ向けた瞬間その姿は消えてしまう。
同時に足元から聞こえていた騒音も止んだ。
「勇者も、その仲間も煩くて敵わないな。」
「どこにやったの?」
「国元に帰してやった。」
それは良い。当分来る事もないだろう。
城の修繕にどれだけ掛かると思っているんだと珍しく文句を言うラオを見上げれば、和やかな瞳と視線がかち合った。
けれどすぐに「寝直そう。」とベッドで誘われ、優しく毛布をかけられてしまう。
階下からはまだ忙しそうに人々が動き回る音がした。それに良いのかと聞くと今は眠いから起きたらやると瞼を閉じたまま返される。
相当眠かったのかすぐに規則正しい寝息が聞こえてきて、笑ってしまった。
…皺になっても知らないわよ。
服も着込んだままスヤスヤと眠るラオに寄り添ってあたしも瞼を閉じた。
日がたいぶ昇ってからあたしは起床した。
起きた時には既に隣に魔王の姿はなく、着替えと食事を済ませて階下へ下りたあたしの目の前に広がったのはまさに惨状だった。
城の壁に開いたいくつもの穴、全壊してしまっている部屋の数々、壊れた調度品、焼け焦げた絨毯など。それはもう様々なものが使い物にならなくなってしまっているではないか。
せっせと片付けをする使用人たちの中にラオと側近の姿があった。
二人は壊れた場所を何やら調べているようで、側近が何かを言うとやや疲れた表情でラオが手を額に当てる。
早朝に来られた挙げ句、これだけ盛大に暴れられれば溜め息だって出るだろう。
あたしに気付いた使用人たちがラオのいるところまで歩きやすいように散らばっていた諸々の残骸を退かしてくれた。
それに礼を言いながら歩み寄れば気付いたラオが振り返って抱き付いてくる。
「おはよう。すごい惨状ね、これ。」
「…あぁ、良い迷惑だ。」
側近が苦笑して教えてくれた。
壊された調度品だけでも数千万近い被害があり、怪我をした使用人や兵士、燃やされた絵や絨毯などを合わせると億は軽く超えるのだとか。
城自体はラオの魔力ですぐに修復出来ても物までは無理らしい。
…元の世界で裁判やったら確実に勇者から弁償金を搾り取れるわね。
残念なことにこの世界に裁判という制度はないので、弁償金を請求することも出来ないようだ。
「仕返しに勇者とその仲間の家とか叩き潰すってどう?」
それは良い考えだと頷くラオに「冗談にならないので止めて下さい。」と側近は口元を引きつらせた。
魔王が本気でやれば普通の家なんて原型どころか灰すら残らなくなりそうなので、確かに冗談にしてはリアル過ぎてダメかもしれない。
ある程度散らばっていた残骸が片付けられ、危ないからと側近と共に後ろへ下がる。
壊れた部屋にラオが手を翳せばぶわりと強い風が吹き、ガラガラと音を立てながら崩れた壁に残骸が戻っていく。まるでビデオを逆再生させたような光景に見入ってしまった。
全てが戻るとサッと色が代わり、ひび割れが消えていった。
それはほんの少しの間の出来事で元通りに戻った部屋の壁を確かめるように触ってからラオは「問題ない。」と言って振り返る。側近はお疲れ様でしたと恭しく頭を下げた。
「…ビックリしたわ。」
素直にそう告げると魔王は口角を上げて笑う。
「城に限ってしか出来ないがな。」
疲れたと呟いて傍にあった赤い革張りのソファーに腰掛けた。
かなりの広範囲を修復したのだから結構力を使ったのだろう。
本当に疲れた様子で椅子に体を預けるラオの頭を褒めるように撫でてやれば、気持ち良さそうに目が細められ、気付けばラオは眠ってしまっていた。