魔王とあたし
生まれた時から、あたしの心臓の上には痣があった。
赤ん坊の頃はほとんど目立たないくらい小さかったのに、成長するにつれて痣も段々と大きく広がっていって、今では刺青のようにハッキリとしたものになってしまっている。
まるでコウモリが翼を広げたような、そんなカタチ。
こんな痣もあるのかと鏡を見ながら感心していたあの頃の自分を叱責してやりたい気分だ。
溜め息を吐くと隣に座っていた黒髪の男が顔を上げる。
「如何した…?」
やや掠れ気味の低い美声がゆったりとした口調で問いかけてくる。
見上げればあたしより一回りも大きな超絶美形が本を片手にジッとコチラを見ていて、少し筋張った大きな手があたしの髪を梳いた。
雑誌のモデルやテレビに出ているアイドルなんて道端の石ころに思えてしまうくらい完璧過ぎる顔立ちと体格。
十八の誕生日に突然現れたこの男はあたしの‘夫’となる、‘婚約者’らしい。
残念ながら婚約した覚えなど毛先程もないのだけれど、何でかこの男は母のお腹の中にいたあたしと知らぬ間に契約を交わしていたとか何とか。
元いた世界からあっという間に別世界へ連れて行かれ、大きなこの城で暮らし始めて一ヶ月。
家族が心配するのではと思ったが、不思議なことに元の世界には‘あたし’がちゃんと存在していて、何時もと変わらぬ日常を過ごしている。
アチラの‘あたし’はコチラのあたしの分身だそうな。よく分からん。
最初は帰りたいと騒いでいたけれどこの男の意志は固く、決して不自由はさせないからと言った言葉通りまるでお姫様のような暮らしが待っていた。
…まぁ、お姫様は柄じゃないので派手なドレスなんかは断ったが。
とりあえず美形だけど悪役顔の男は魔王でもある。
「どうした?じゃない。アンタ仕事くらいキチンとやんなさいよ?」
「リア…名前、」
「…ラオ、仕事くらいやりなさい。」
アンタ、と言う呼び方は嫌だったらしい。少しだけ眉を顰めて訂正を促すラオに仕方なく言い直せば、無表情気味だった顔に微笑が浮かぶ。
リアはあたしの本名ではない。
ただ彼が他者にあたしの名を知られたくないという、無駄に深い嫉妬によってそう呼ばれているだけだ。
ちなみにリアというのは‘私の花嫁’という意味だと知ったのはつい最近のこと。
何度言っても絶対首を縦に振らない彼に折れて、結局、そのままになってしまった。
仕事を促しながら執務机を指で示せば困った顔をする穏やかそうな青年と、一センチほどの書類の束があって、ラオは嫌だと頭を振る。
頑張れば一時間ほどで終わらせられる量なのにあたしから離れるからやりたくないと駄々をこねる魔王陛下の実年齢は二百五十余り。いい歳した大人が恥ずかしくないのかと溜め息も吐きたくなるだろう。
「ちゃんと待っててあげるから。仕事くらいしなさいよ。」
「……嫌だ。」
「はぁ…。なら今日から午後のお茶会はナシね。」
「!」
お茶会はなし、と言うと素早い動きであたしを見やった。
鋭い瞳が動揺しているのはすぐ分かる。
「あたし、キチンと仕事できない人って嫌いなんだよねぇ。」
「っ、す、する…!」
「ん?なに?」
「これからはキチンと仕事はする、だから…っ、」
今にも泣き出しちゃいそうな子犬の目で訴えてくる。
悪役顔なのに可愛く見えるのは気のせいにしておきたい。
不安そうに口を真一文字に結んであたしの返答を待つラオに、仕方ないなぁと笑いかけてやった。
「じゃあ待っててあげるから、さっさと終わらせてお茶会しよっか?」
あたしの言葉にパッと表情を明るくして何度も頷く。そうしてちょっとだけ慌てた様子で執務机に座って書類と向き合い出す彼に、傍に控えていた青年が苦笑した。
「流石ですね。」
「全く、この一ヶ月で扱いに慣れちゃったわ。」
「ふふっ、申し訳ありません。王は貴女が絡むと如何にも意固地になってしまわれて…。」
元々何かに執着することが無かっただけに反動が強かったのかもと書類にサインしていくラオを二人で見た。
普段のラオはあたしと一緒にいるラオとは正反対なのだ。
何百種も存在する魔の頂点に立つ男、魔王。時には冷酷非道な行いもするし、無慈悲になることもあるが、それは王であるが故の行為であり、魔族特有の残虐性からも多少は影響を受けているのかもしれない。
しかし、こうして一緒にいる時のラオは甘えたで寂しがり、時々我が儘を言ってはあたしや周囲を困らせ、でもあたしに嫌われるのを何より怖がる大きくて小さな子供だ。
「ねぇ、料理長に伝言を頼んでもいい?」
「勿論。何なりと。」
一生懸命仕事をこなす‘婚約者’を眺めながら小さく笑う。
「明日のおやつはプリンにしてあげてって、言っておいて。」
魔王の大好物と化している甘味の名前に、青年は必ず伝えておきますと笑みを零して頷いた。