三角形の輪郭(りんかく)
第一章:二十八歳のぬるい夜
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二十八歳という年齢は、驚くほどぬるい。
熱狂するほど若くはなく、かといってすべてを諦めて枯れるには早すぎる。人生の岐路に立たされているという緊張感だけが先にあって、その岐路がどちらへ向かっているのか、当の本人にすら見えていない。そういう、宙ぶらりんな温度の年齢だった。
金曜日の午後八時、淀屋橋のオフィスを出て御堂筋を歩いていると、初夏の夜風がストールをすり抜けて肌にまとわりついた。梅雨入り前の、湿気を含んだ生暖かい風。街路樹の公孫樹の葉が、ビルの照明を反射してぬらぬらと光っている。それが、今の自分の人生そのもののようで、美咲は小さくため息をついた。
スマートフォンの画面が震え、画面に『香織』の二文字が表示される。
美咲はバッグの肩紐をかけ直しながら、通話ボタンをスライドさせた。
「もしもし、香織? 今、駅に向かってるところ」
『お疲れ、美咲。こっちも今、京橋の改札出た。いつもの店でいいよね?』
受話器の向こうから聞こえる香織の声は、少し疲れているようでありながら、どこか張り詰めたエネルギーを孕んでいた。高校の一年、同じクラスの隣の席になって以来、十四年間聴き続けてきた声だ。互いの声のトーンだけで、その日の精神状態がパーセント単位で把握できる。
「うん、いつものところで。私も今から京阪の準急乗るから、十五分くらいで着くと思う」
『了解。冷たいビール、先に頼んどくわ』
短いやり取りで通話を切り、美咲は地下ホームへと階段を下りた。ちょうどホームに入ってきた京阪電車の準急に乗り込む。金曜夜の車内はそれなりに混み合っていたが、ドア近くの手すりに寄りかかり、ほっと息をついた。淀屋橋から京橋までは、この短い移動時間が、オンからオフへと頭を切り替えるスイッチになっていた。
窓の外を流れる暗闇を見つめながら、美咲は自分の「二十八歳」について考えていた。
インテリア関連の商社に勤めて五年。仕事は一通り覚え、後輩もでき、それなりに裁量も与えられている。大きな不満はない。しかし、劇的な変化もない。
恋愛にいたっては、半年前、三年間付き合って「なんとなく結婚するのだろう」と思っていた男に、突然「他に好きな人ができた」と振られて以来、完全に休業状態だった。
あの夜のことを思い出す。別れを告げられた二時間後、美咲は香織のマンションの床に座り込み、コンビニで買い占めた缶ビールとハイボールの空き缶の山の中で、文字通り朝まで泣き明かした。香織は文句一つ言わず、美咲の涙で濡れたティッシュの山を片付け、ただ隣で一緒に酒を飲み、時折「その男、見る目なさすぎ」とだけ言って、美咲の背中を叩き続けてくれた。
――男はいつか去るけど、私たちは一生モノ。
あの夜、朝日がカーテンの隙間から差し込んできたとき、二人の間で言葉にならなかった共通の確信がそれだった。恋愛の不確かさに比べて、十四年かけて築き上げてきた友情という名のセーフティネットは、あまりにも強固で、美咲の人生の立派な背骨になっていた。
京橋駅の喧騒に降り立つと、居酒屋の赤提灯とネオンの光が、網膜をチカチカと刺激した。目指すのは、商店街の路地を少し奥に入ったところにある、古いビルの一角。暖簾をくぐると、出汁と潮の香りが優しく鼻腔をくすぐった。二人が「いつものところ」と呼ぶ、大衆的でありながら鮮魚が抜群に美味い居酒屋だ。
「美咲、こっち!」
奥の小上がりから、香織が手を振っていた。緩くウェーブしたミディアムヘアに、ベージュのリネンシャツ。アパレルブランドのプレスとして働く香織は、いつ見ても華やかで、どこか都会的な垢抜けた雰囲気を纏っている。だが、美咲の前で見せる笑顔は、あの高校の教室で購買のパンを分け合っていた頃と何一つ変わっていなかった。
「お疲れ様。今週も生き延びたね」
美咲が席につくと同時に、絶妙なタイミングでキンキンに冷えた生ビールが二つ、テーブルに置かれた。
「本当にお疲れ様。乾杯」
ジョッキを合わせる鈍い音が、一週間の終わりを告げるゴングのように響いた。冷たい琥珀色の液体が喉を駆け抜けていく。その瞬間、脳の奥の硬い結び目が、するすると解けていくような感覚があった。
「ぷはぁ、生き返る。今週、まじで狂いそうなくらい忙しかった」
香織がジョッキを置き、ぷはっと息を吐きながら枝豆に手を伸ばす。
「展示会前だっけ? プレスってこの時期一番大変そうだよね」
「そうなの。服のデザインは良くても、見せ方一つで売れ行きが全然違うから、営業とか上層部からのプレッシャーがすごくてさ。あー、もう全部投げ出して南の島にでも行きたい」
「行こうよ、次の連休。沖縄でもどこでも」
「いいね、行っちゃう?」
香織はケラケラと笑い、お造りの盛り合わせを注文した。届いたマグロの赤身と、ツヤツヤと輝く一匹丸ごとのアジ。この店は、大将が毎朝市場から仕入れてくる瀬戸内の魚が絶品なのだ。
「相変わらずここの魚は裏切らないね」
「でしょ? あ、そういえばさ、美咲。来週の日曜日って空いてる?」
香織が醤油皿に箸を止め、思い出したように顔を上げた。
「日曜日? うん、今のところは特に予定ないけど。何かある?」
「うん。大学のときのサークルの先輩から連絡があってさ。ちょっとした飲み会というか、集まりがあるから来ないかって」
美咲は少しだけ眉をひそめた。
「サークルの集まり? 私、部外者だけど大丈夫なの?」
「全然大丈夫。っていうか、先輩も『誰か気の合う友達連れてきてよ』って言ってたし。要するに、ちょっとした既婚未婚交えた異業種交流会みたいなやつ。コンパってほどガチなやつじゃないから、気楽に美味しいもの食べに行く感覚でさ。どう?」
美咲はジョッキを口元に運んだまま、一瞬躊躇した。正直なところ、二十八歳になってからの「出会いの場」ほど億劫なものはない。お互いの職業やスペックを探り合い、休日の過ごし方という名の無難な質問を投げ合い、大して興味もない相手に愛想笑いを浮かべる。そのエネルギーを消費するくらいなら、家でネットフリックスを観ながら、お気に入りのチョコレートでも齧っている方が何倍も有意義に思えた。
「うーん……乗り気じゃないなぁ、正直」
美咲が正直に言うと、香織は「だよね」と苦笑しながらも、両手を合わせた。
「分かってる、分かってるよ。私もコンパなんて今さらエネルギー使いたくない。でもさ、その先輩、仕事でちょっとお世話になってて、断りにくくて……。一人で行くの、まじでアウェイだし地獄なんだよ。お願い、美咲。一緒に来て、当たり障りなく時間だけ潰して、終わったら二人で二次会しよ? 美味しいイタリアン奢るから」
香織にそう言われて真っ直ぐ見つめられると、美咲はいつも弱い。高校時代から、香織の突拍子もない提案に巻き込まれるのは美咲の役目だったし、結果的にそれが楽しい思い出になることも多かった。
「……本当に、当たり障りなく過ごして、時間になったら即退散でいい?」
「もちろん! むしろ私もそれを望んでる。予定調和の愛想笑いマシーンになろう」
「分かった。じゃあ行く。イタリアン、高めのワイン頼んじゃうからね」
「オッケー、任せて!」
香織は嬉しそうに笑い、追加のレモンサワーを注文した。その時の二人は、本当にただの数合わせの、退屈な二時間をやり過ごすためだけのつもりだった。
2
日曜日。約束の場所は、梅田の少し落ち着いたエリアにある、お洒落なダイニングバーだった。コンクリート打ちっぱなしの壁に、間接照明の温かみのある光。いかにも「大人の男女の集まり」に好まれそうなロケーションだった。
美咲は、清潔感のあるネイビーのサマーニットに、白いワイドパンツという、主張しすぎない「大人シンプル」な服装を選んだ。香織もまた、やりすぎない綺麗めのワンピース姿で、二人は示し合わせたかのように「やる気のない、しかしマナーは守った」完璧な戦闘服を纏っていた。
店内に案内されると、奥の個室風のソファ席には、すでに男女合わせて六人ほどの先客がいた。香織の先輩だという、いかにも広告代理店風の垢抜けた男性が「おー、香織ちゃん! 久しぶり!」と手を振る。
席配置は、自然と男女が交互になるようになっていた。香織の隣には、中堅の不動産会社に勤めているという三十代前半の男が座った。名前は、山下と言った。短髪で、一見するとスポーツマン風の爽やかな印象を与える男だったが、美咲は直感的に、その男の放つある種の「粘着質な空気」を察知した。
「香織さんって、アパレル関係なんだ。どおりでお洒落だと思った。普段、どの辺で遊ぶの?」
山下は、乾杯が終わるや否や、香織に怒涛の勢いで話しかけ始めた。香織は大人の対応で丁寧に答えているが、美咲には分かった。香織の笑顔の口角が、ほんの数ミリだけ引き攣っている。相手をこれ以上踏み込ませないための、防衛線の笑顔だ。
しかし、山下はその防衛線に気づく様子がなかった。それどころか、アルコールが入るにつれて、彼の距離感はさらに縮まっていった。
「京橋か! いいね、俺もよく行くよ。今から LINE交換しない?」
山下はスマートフォンを取り出し、香織の目の前に突きつけた。香織は一瞬、美咲の方に助けを求めるような視線を送った。
「あ、すみません。山下さん、香織って今、ちょうど大きなプロジェクトの真っ最中で、週末もほとんど休みがない状態なんですよ」
美咲が横からすっと割って入る。
「え、そうなの? でも、ご飯くらい食べる時間あるでしょ。夜遅くても俺、合わせるし」
山下は引かなかった。その目が、少し爛々(らんらん)としていて気味が悪い。美咲は、直感的に「あ、この人、人の拒絶を都合よく解釈するタイプだ」と察した。
美咲は時計に目をやった。開始から一時間半。事前に決めていたサインとして、テーブルの下で香織の膝を二回叩いた。
「――あ、すみません、山下さん、皆さん」
香織がすかさず声を上げた。
「本当に申し訳ないんですけど、明日、朝一番で海外とのオンラインミーティングが入っていまして……。そろそろ失礼しないといけない時間なんです」
「えー、もう帰っちゃうの?」
山下が不満そうに声を張り上げたが、二人は引き止める声を背中で受け流しながら、逃げるように店を出た。階段を駆け上がり、梅田の夜風に当たった瞬間、二人は同時に深い、深いため息を吐き出した。
「……疲れたーーー!」
「お疲れ様。あの山下って人、ちょっと凄かったね」
美咲が苦笑しながら言うと、香織は自分のスマートフォンを見つめて、顔をしかめた。
「見て、これ。店出てまだ三分しか経ってないのに、もうLINE来てる」
画面には【今日は楽しかった! メッセージありがとう。無事に家着いた? 落ち着いたら来週の木曜あたり、仕事終わりに京橋で飲まない?】という、息の詰まるような長文が送られてきていた。
「早っ……。ちょっと引くね、このスピード感」
「うわ、しかも『既読』つけちゃった。どうしよう」
「とりあえず定型文送って放置でいいよ。これ以上、距離縮めさせない方がいい」
「あー、まじで美咲がいてくれて良かった。一人だったら完全に拉致されてたわ」
香織は美咲の腕に抱きつき、頭をすり寄せた。その時、香織のスマートフォンの画面が、再び静かに光った。山下からの二通目のメッセージ。
【既読ついてるけど忙しいのかな? 無理しないでね。返事待ってます!】
その文字が持つ異常な執着の温度に、二人はまだ気づいていなかった。
3
それからの二週間、香織を取り巻く状況は、緩やかに、しかし確実に悪化していった。平日の夜、美咲が自宅でハーブティーを飲みながら読書をしていると、香織から何枚ものスクリーンショットが送られてくるのが常態化していた。すべて、山下からのLINEだった。
【おはよう! 今日も一日頑張ろう】
【今、お昼ご飯。香織ちゃんは何食べてる?】
【仕事終わった! 京橋の近くにいるんだけど、今からちょっとだけでも会えない?】
香織が「仕事が忙しいので」と一貫して冷淡な返信を返しているにもかかわらず、山下からの連絡は途絶えることがなかった。それどころか、返信がないと数時間おきに【おーい】【生きてる?】【体調崩した? 心配です】と、通知が重なる。
「美咲、まじでどうしたらいいと思う?」
木曜日の深夜、かかってきた香織の声は、明らかに怯えていた。
「ブロックはしてないの?」
「怖くてできないの。だって、ブロックしたら、今度は会社の前で待ち伏せされたりするんじゃないかって……。私、会社のInstagramの担当もしてるから、顔も勤務地も調べればすぐ分かっちゃうし」
香織の懸念はもっともだった。山下という男の行動には、一般的な「好意」を超えた、歪んだ支配欲のようなものが透けて見えていた。自分の思い通りにならない相手に対して、執着を強めていくタイプだ。
「分かった。無理にブロックはしないで、既読スルーを徹底して。絶対に二人きりで会う約束はしちゃダメだよ。何かあったら、すぐに私に言って」
「うん……ありがとう、美咲。本当にごめんね、いつもこんな相談ばっかりで」
「何言ってるの。私たちの仲でしょ。しっかりして、香織」
電話を切り、美咲は重い気持ちでベッドに入った。親友の危機に対して、自分にできることが「相談に乗る」くらいしかないことが、もどかしかった。警察に駆け込むにはまだ実害が薄く、共通の知人である香織の先輩に相談しても「山下も悪気はないと思うんだけどね」と濁されるのが関の山だった。
翌週の月曜日。美咲の仕事の方で、一つの重要なアポイントメントが入っていた。今回のインテリアプロジェクトの目玉である、大手デザイン事務所との合同打ち合わせ。先方の担当者は、業界内でも「非常に優秀で、仕事が早い」と噂されている、藤沢という名の男性だった。
午後三時、美咲の会社の会議室。定刻の五分前、ドアがノックされ、一人の男性が入ってきた。
「初めまして。フロンティア・デザインの藤沢です。本日はよろしくお願いいたします」
美咲は、一瞬、息を呑んだ。背が高く、仕立ての良いネイビーのスーツを完璧に着こなしている。髪型は清潔感のあるショートで、知的な眼鏡の奥にある瞳は、穏やかでありながら確かな意思を宿していた。何より印象的だったのは、その「立ち振る舞い」だった。名刺を差し出す角度、椅子の引き方、そして挨拶の声のトーン。そのすべてが、計算されているかのように無駄がなく、洗練されていた。
打ち合わせが始まると、美咲は藤沢の仕事ぶりにさらに圧倒された。こちらの抽象的な要望や予算の制限を、彼は驚くほどのスピードで噛み砕き、具体的なデザイン案としてホワイトボードに描き出していく。
「奥村さん、このエリアの照明ですが、通常のダウンライトよりも、少し温かみのある間接照明を仕込んだ方が、全体の『大人シンプル』な世界観が引き立つと思うのですが、いかがでしょうか」
「……ええ、素晴らしいと思います」
藤沢の話し方は、決して押し付けがましくない。こちらの意見を丁寧に汲み上げながら、より良い方向へとリードしていく。そのスマートな態度に、美咲は仕事としてのプロフェッショナリズムを強く感じると同時に、一人の男性としての圧倒的な「余裕」を感じていた。
「きっと、素敵な奥さんか、彼女がいるんだろうな」
美咲は、心の中でそんな既定路線を思い描いていた。
二時間に及ぶ密度の濃い打ち合わせが終わり、書類をまとめていると、藤沢がふっと表情を緩めた。
「奥村さん、非常に有意義な時間でした。もしよろしければ、この後、少し早いですが、近くで軽い食事でもいかがですか」
下心が全く感じられない、純粋なビジネスの延長としての提案。美咲に断る理由はなかった。
「はい、喜んで。ぜひご一緒させてください」
4
藤沢に連れて行かれたのは、北新地の路地裏にある、看板のない隠れ家のような小料理屋だった。店内は、磨き上げられた一枚板のカウンター席のみ。白木の高貴な香りが漂い、静かなジャズが流れている。
食事をしながらの会話は、驚くほど弾んだ。藤沢は美咲の仕事に対する情熱や、デザインに対するこだわりを、本当に楽しそうに聞いてくれた。自分の実績を誇示するような真似は一切せず、常に美咲が話しやすいように話題を提供してくれる。会話が途切れた一瞬の沈黙すら、心地よく感じられるほどの空間だった。
お互いに日本酒に移り、少し酔いが回ってきた頃、美咲は少しお酒の勢いを借りて、ずっと気になっていた質問を口にした。
「藤沢さんのような、お仕事もできて素敵な方に、彼女がいらっしゃらないのが不思議だなと思って」
藤沢は一瞬、驚いたように目を見張ったが、すぐに声を立てて笑った。
「ハハ、そうですか? 残念ながら、今は本当にいないんですよ。ここ二、三年は、この事務所の立ち上げとプロジェクトに付きっきりで、恋愛をする心の余裕が完全になくなっていまして」
その答えは、あまりに滑らかで、あまりに用意されていた。まるで、何度も同じ質問をかわしてきたかのような自然さだった。美咲はその時、まだそれが単なる謙遜だと思っていたが、後になって振り返れば、その滑らかさの奥にあったのは、ある種の「訓練された防御」だったのかもしれない。
「そうなんですか……。なんだか、意外です」
美咲は、胸の奥で小さな安堵の息が漏れるのを感じた。その時、美咲のバッグの中で、スマートフォンが激しく振動した。一度切れたが、すぐにまた鳴り出す。執拗な着信。
『美咲……どうしよう、助けて……』
受話器から聞こえる香織の声は、ガタガタと震えていた。
『今、仕事が終わって、京橋の駅に向かって歩いてたの。そしたら……後ろから、山下が歩いてきて……「偶然通りかかった」って言って、しつこく腕を掴んできて……。コンビニのイートインに逃げ込んだんだけど、山下、お店の外でずっと待ってるの……』
「分かった、香織。今すぐそこから動かないで」
美咲がパニックになりかけながら叫んだその時、背後から静かな声がした。
「奥村さん。どうかしましたか」
振り返ると、藤沢が心配そうな表情で立っていた。美咲は一瞬迷ったが、香織の安全が最優先だった。電話をスピーカーモードにし、藤沢に事情を早口で説明する。
藤沢は、美咲の言葉を静かに聞いた。その表情から笑みが消え、極めて冷静で鋭い顔つきに変わった。
「香織さん、初めまして。美咲さんの仕事仲間の藤沢と申します。今から私と美咲さんで、タクシーでそちらへ向かいます。到着するまであと十五分ほどかかります。それまで、絶対にコンビニの店外へは出ず、できるだけ店員の目の届く場所にいてください。大丈夫です、私たちが必ず助けます」
その冷静で論理的な指示は、パニックになっていた香織の心を一瞬で落ち着かせたようだった。
「奥村さん、大将にお会計は済ませてあります。表通りでタクシーを拾いましょう」
藤沢は素早く店を出ると、大通りで流しのタクシーに素早く手を挙げ、美咲のためにドアを開けた。その無駄のない動作と、迷いのない眼差しに、美咲は激しく高鳴る鼓動を感じていた。恐怖によるものだけではない。この最悪の状況の中で、目の前にいる男性が、あまりにも頼もしく、そしてあまりにもスマートに見えたからだった。
二人はタクシーへと乗り込んだ。ドアが静かに閉まり、車は香織の待つ京橋へと、夜の街を滑るように加速していった。
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第二章:冷めたカクテルと見知らぬ視線
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北新地から京橋へと向かうタクシーの車内は、奇妙な静寂に包まれていた。窓の外を流れるのは、ネオンの光が歪んだ街並みと、家路を急ぐ人々の影。美咲は助手席の藤沢の横顔を、後部座席からじっと見つめていた。
藤沢はスマートフォンで京橋駅周辺の地図を確認しながら、運転手に的確なルートを指示している。その横顔には、さっきまで小料理屋で見せていた穏やかな笑みは一切なく、冷徹とも言えるほどの冷静さが宿っていた。
「奥村さん」
藤沢が振り返らずに、低い、しかしよく通る声で言った。
「相手が逆上した際、女性二人が標的になるのが一番危険です。僕が先に行きます。奥村さんは一歩引いた位置にいてください」
「でも、藤沢さんにそこまでご迷惑をおかけするわけには……」
「ビジネスでもプライベートでも、危機管理の基本は同じです」
藤沢はフッと声を和らげ、バックミラー越しに美咲と目を合わせた。
「それに、僕が自ら首を突っ込んだんです。奥村さんの大切なご友人は、僕にとっても守るべき対象ですから」
タクシーが京橋の繁華街へと滑り込む。歓楽街特有の、雑多で混沌としたエネルギーが車内まで漏れてくるようだった。車が目的のコンビニの少し手前で停車する。
少し離れた場所からコンビニのガラス張りの店内が見える。イートインスペースのカウンター席に、背中を丸めて座り、必死にスマートフォンを握りしめている香織の姿が見えた。その表情は蒼白で、心細さに震えているのが遠目からでも分かった。そして、その店の外。自動ドアから数メートル離れた街灯の影に、一人の男が立っていた。山下だ。
「あの男ですね」
藤沢が静かに言った。美咲が小さく頷くのを確認すると、彼は迷いのない足取りで山下の方へと歩き出した。
「こんばんは、山下さん」
藤沢の声は、驚くほど爽やかで、まるで古い友人に声をかけるかのようだった。山下がビクッと肩を揺らし、不機嫌そうに藤沢を見上げた。
「……あ? 誰だよお前」
「フロンティア・デザインの藤沢と申します。そちらのコンビニの中にいる香織さんの、仕事の共同経営者です」
藤沢は懐から名刺入れを取り出し、完璧な角度で名刺を差し出した。それは、夜の街の不審者を相手にしているとは思えないほど、洗練されたビジネスの所作だった。
「パートナーぇ? 何だよそれ。今、俺、香織ちゃんと待ち合わせしてんだけど。邪魔すんなよ」
山下は名刺を受け取ろうともせず、吐き捨てるように言った。藤沢は差し出した名刺を美しく引っ込めると、少しも怯むことなく、むしろ憐れむような笑みを浮かべた。
「待ち合わせ、ですか。それは奇妙ですね。香織さんは今、僕のオフィスとの合同プロジェクトの件で、大変なパニック状態になって私に泣きついてこられたのですが。あなたの『熱心すぎるお誘い』のせいで、業務に甚大な支障が出ている、と」
「はあ? 何言ってんの?」
「山下さん」
藤沢の声のトーンが、一段低くなった。
「あなたのスマートフォンに入っている送信履歴、そして香織さんが保存しているスクリーンショット。これらが法的にどう解釈されるか、ご存知ですか。すでにこちらの顧問弁護士には共有済みです。これ以上、彼女の行動を制限し、精神的苦痛を与え続けるのであれば、明日付けで正式な警告書をあなたの勤務先、ならびに法的機関へ提出することになりますが、よろしいですね」
藤沢は嘘を言っていた。弁護士への共有など、この短時間でできているはずがない。しかし、その話し方、表情、そして圧倒的な社会的ステータスを感じさせる佇まいが、その言葉に絶対的な「真実味」を与えていた。
山下の顔から、急速に血の気が引いていくのが分かった。
「……チッ、何なんだよ、まじで。ただの親切じゃんかよ」
山下は悪態をつきながらも、藤沢の冷徹な視線に耐えかねたように、一歩、また一歩と後退りし始めた。やがて逃げるように踵を返し、京橋の雑踏の中へと消えていった。その背中は、さっきまでの傲慢さが嘘のように小さく見えた。
美咲は、しばらく息をすることすら忘れていた。あまりにも鮮やかで、誰も傷つけず、しかし決定的な幕引き。
「奥村さん、もう大丈夫です。香織さんを呼びましょう」
藤沢がいつもの穏やかな笑顔に戻り、美咲を振り返った。その時、彼のジャケットのポケットにしまわれた右手が、まだ微かに震えていることに、美咲は気づいた。あれほど堂々と、あれほど鮮やかに事態を収めたはずの人が、実際にはアドレナリンと緊張の余韻の中にいる。完璧に見える人間の、その内側にある人間らしさに、美咲の胸の中には、憧れとは少し違う、もっと生々しい感情が生まれていた。
2
「……本当に、ありがとうございました……!」
コンビニのイートインから救出された香織は、近くの静かな喫茶店に入るなり、藤沢に向かって何度も何度も頭を下げた。手元に置かれた温かいココアの湯気が、彼女の強張った横顔を少しずつ和らげていく。
「いいえ、怪我がなくて本当に良かったです。山下さんも、おそらくもう二度と近づいてこないでしょう」
藤沢はブレンドコーヒーのカップを傾けながら、まるですれ違いざまに道を教えただけのような軽やかさで言った。
美咲は香織の隣に座り、その冷え切った手をずっと握りしめていた。
「香織、本当に怖かったよね。もっと早く気づいてあげられなくてごめん」
「ううん、美咲のせいじゃないよ……。でも、藤沢さんが来てくださらなかったら、私、今頃どうなってたか……」
香織の瞳に、再び涙がじわりと浮かぶ。藤沢はポケットから清潔なハンカチを取り出し、そっと香織の前に差し出した。
「自分を責める必要はありませんよ、香織さん。ああいうタイプの人間は、親切や大人の対応を都合よく歪めて受け取るんです。あなたは何も悪くない」
その言葉は、傷つき、怯えていた香織の心に、一番欲しかった救いとして染み込んでいくようだった。香織はハンカチを受け取り、目元を拭いながら、藤沢を真っ直ぐに見つめた。その時の香織の瞳の温度が、単なる「恩人への感謝」から、別の何かへと変化した瞬間を、美咲は見逃さなかった。
「あの、藤沢さん」
香織が少し声を震わせながら言った。
「このお礼、どうしてもさせてください。今度、改めて私に、美味しいお店を紹介させていただけませんか」
藤沢は一瞬、困ったように眉を下げたが、すぐに魅力的な笑みを浮かべた。
「お礼なんて大層なものは必要ありませんが……そうですね、もし香織さんが元気になられたら、三人で美味しいものでも食べに行きましょう」
藤沢は、あくまで「三人で」と言った。その絶妙な距離感の取り方もまた、大人の男としての完璧なマナーだった。けれど美咲は、その返答の速さの中に、わずかな逃げの気配を感じ取っていた。二人きりで会うことを、彼は無意識に避けている。それがただの誠実さなのか、それとも彼自身が誰かと深く関わることを恐れているからなのか、この時点ではまだ、美咲には分からなかった。
「はい! ぜひ、三人で!」
香織が嬉しそうに声を弾ませる。美咲はその横で、ただ「うん、そうだね」と微笑むことしかできなかった。
3
それからの一ヶ月、三人の関係は、驚くほどのスピードで親密さを増していった。山下からの連絡は、藤沢の警告通り完全に途絶え、香織の日常には平和が戻っていた。しかし、その平和と引き換えにするように、三人のスケジュールは週末ごとに「三人での予定」で埋まるようになっていった。
ある土曜日、藤沢の提案で、三人で少し遠出をすることになった。目的地は、神戸の六甲山を越えた先にある、有馬の静かな温泉街。
「お待たせしました」
待ち合わせ場所の梅田のロータリーに現れた藤沢は、普段のスーツ姿とは打って変わって、上質な白のサマーニットにライトグレーのスラックスという、リラクシーでありながら洗練された私服姿だった。
「うわぁ、藤沢さん、私服もすごくお洒落!」
香織が素直な感嘆の声を上げる。今日の香織は、ノースリーブのサマーワンピースに麦わら帽子という、夏の妖精のような愛らしさだった。
「あ、美咲、私が後ろに行くよ! 藤沢さんの運転のナビ、美咲がしてあげて」
香織がそう言って、美咲の背中を助手席へと押し込んだ。戸惑いながらも、美咲は藤沢の隣、助手席へと腰を下ろした。ドアが閉まると、車内には藤沢が愛用しているという、微かなシトラスとウッドの香りが満ちていた。
阪神高速に乗ると、窓の外には青い大阪湾が広がった。車内には、藤沢がセレクトしたという、軽快なボサノヴァが流れている。
「藤沢さん、本当に運転が上手ですね」
後部座席から、香織が身を乗り出すようにして話しかける。
「へぇー! 藤沢さんの学生時代って、どんな感じだったんですか? やっぱりモテモテだったんでしょう?」
香織の質問は、いつもストレートで、天真爛漫だ。美咲なら「プライベートに踏み込みすぎかな」と躊躇してしまうような領域にも、香織は持ち前の愛嬌で軽々と踏み込んでいく。
「まさか。当時はデザインの課題に追われて、毎日泥のように寝るだけの生活でしたよ。女性とデートをする時間なんて、これっぽっちもありませんでした」
その答え方は、あの北新地の夜に聞いたものと、驚くほど似ていた。同じ言葉、同じ滑らかさ、同じ一瞬の硬さ。美咲は、後部座席から聞こえるその声の端に、ほんの微かな早口を感じ取った。この人は、恋愛の話題そのものから、いつも一歩引いている。まるで、そこに何か触れられたくない古傷があるかのように。
「……じゃあ、美咲は?」
不意に、香織が小さな声で言った。
「美咲は、藤沢さんみたいな人、どう思う?」
車内の空気が、一瞬だけぴりりと張り詰めたような気がした。
「……素敵だと思うよ。仕事もできて、こんなに優しい人、滅多にいないもの」
それが、美咲の精一杯の、そして最大限の「嘘のない本音」だった。
「ですよね!」
香織は何事もなかったかのように嬉しそうに笑ったが、美咲の胸の中のシーソーは、ギッコンバッタンと不穏な音を立てて揺れ動いていた。親友が、大好きな人が、同じ男性を見つめている。そして自分もまた、その男性の重力から、もう逃れられなくなっている。
4
ドライブの帰り道、夜の御堂筋はイルミネーションのように美しく輝いていた。梅田の駅近くで車を降りると、二人はどちらからともなく、「ちょっとだけ、飲んで帰る?」と言い合った。いつもの合言葉だった。
駅近くの、少し照明を落とした大人っぽい雰囲気のバルに入る。カウンター席に並んで座り、冷えたスパークリングワインで乾杯した。
「あー、やっぱり藤沢さんって最高だよね」
香織がグラスを置き、トロンとした目で言った。
「私さ……」
香織がグラスを持つ手を止め、美咲の方を真っ直ぐに見た。その目は、いつになく真剣だった。
「私、藤沢さんのこと、本気で好きになっちゃったみたい」
心臓が、ドクンと大きく波打った。分かっていた。確信もしていた。それでも、香織の口から直接その言葉を聞かされると、胸の奥を鋭い刃物で刺されたような痛みが走った。
「……そっか。香織、本気なんだね」
「うん。美咲は、応援してくれる?」
香織が顔を上げ、不安そうに、しかし期待に満ちた目で美咲を見つめる。いつもなら、「あったり前じゃん!」と、背中を叩いて笑い飛ばしていたはずだった。それが、十四年間続いてきた、二人の「無敵の友情」の形だった。しかし、今の美咲の唇は、鉛のように重く、どうしてもその言葉を形にすることができなかった。
「美咲……?」
激しい葛藤の末、美咲はゆっくりとグラスを置き、香織の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「……香織。ごめん。私……私も、藤沢さんのこと、好きになっちゃった」
バルの喧騒が、一瞬にして消え去ったような気がした。香織の目が見開かれ、手にしたグラスが微かにカタカタと震える。何でも話せる仲で、楽しい時も悲しい時も、失恋の夜も、すべてを分け合ってきた親友。その二人の間に、初めて、冷たくて、重い、名前のない「境界線」が引かれた瞬間だった。冷めかけたカクテルの泡が、二人の沈黙の中で、静かに、しかし確実に消えていった。
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第三章:秘密の境界線
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告白のあと、バルのカウンターに満ちた沈黙は、今までに経験したことのない異質な冷たさを孕んでいた。
「……そっか」
しばらくして香織の口から漏れたのは、ひどく掠れた、感情の抜け落ちた声だった。彼女は手元のスパークリングワインのグラスを見つめたまま、微動だにしない。いつもなら、お互いの感情が高ぶったときは、言葉が溢れて止まらなくなる二人だった。それなのに、今は言葉の引き出しがすべてロックされてしまったかのように、空間が静止している。
「香織、ごめん」
美咲は、絞り出すように言った。
「あの日、北新地で初めて藤沢さんに会って、打ち合わせをして、それから二人で食事をした時から……私、あの人の仕事に対する姿勢とか、誰に対しても変わらない誠実さに、ずっと惹かれてたの。香織が山下に絡まれて、一緒にタクシーで京橋に向かった時も、実は私、怖さと同じくらい、藤沢さんが隣にいてくれることに救われてた」
香織はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、いつもの天真爛漫な輝きはなく、大人の女性としての、剥き出しの動揺が揺らめいていた。
「美咲が……藤沢さんのこと、そんな風に見てたなんて、私、全然気づかなかった。いつも仕事の話ばっかりしてたから、ただの頼れるビジネスパートナーだと思ってた」
「カモフラージュ、してたんだと思う。自分でも、この気持ちを認めちゃったら、香織との関係がどうなるか分からなくて怖かったから」
美咲は自嘲気味に微笑んだ。香織はグラスの脚を細い指でなぞりながら、ふっと小さく息を吐いた。それは溜息というよりも、身体の奥に溜まった熱を無理に逃がすような音だった。
「責めてるわけじゃないよ、美咲。藤沢さん、本当に素敵だもん。美咲が惹かれるのも当たり前だし、むしろ見る目あるなって思う。……でも、不思議だね。私たち、高校の時から服の趣味も、好きな映画も、美味しいと思うお店も、驚くほど全部一緒だったじゃない? だから、いつか男の人の趣味も被る日が来るんじゃないかって、ちょっとだけ思ったことはあったの。それが、まさか二十八歳になって、こんな形で現実になるなんてね」
彼女の言葉には、トゲはなかった。しかし、確実な「距離」があった。今までは、どんな秘密も共有することで二人の絆は強くなってきた。けれど、この「藤沢さんへの好意」という秘密は、共有した瞬間に、二人を繋ぐ鎖ではなく、二人を隔てる壁になってしまった。
「……もう遅いし、帰ろっか。明日も早いし」
香織が席を立ち、伝票を手に取った。改札の吸い込み口に定期券が通る乾いた音が、二人の世界の終わりを告げるシャッターの音のように聞こえた。
美咲は一人、守口市行きのホームへ向かう階段を降りながら、胸の奥がじんわりと、確実に押し潰されていくような痛みを覚えていた。何でも話せる親友。その存在がどれほど自分の人生の支えだったかを、その関係にひびが入った今、身に染みて理解していた。
2
月曜日。週末の冷たい余韻を引きずったまま、美咲はオフィスでの業務に没頭していた。しかし、午後三時、社内の共有スケジュールに『15:00〜 フロンティア・デザイン藤沢様 打ち合わせ』の文字が表示された瞬間、美咲の心臓は容赦なく跳ね上がった。
会議室のドアを開けると、そこにはいつも通りの、完璧なネイビーのスーツを纏った藤沢が座っていた。
「こんにちは、奥村さん。先日はドライブ、ありがとうございました」
打ち合わせが始まると、藤沢はいつものように圧倒的なプロフェッショナリズムを発揮した。しかし、その合間にふと、彼が香織の名前を口にする瞬間、美咲は彼の声の温度にわずかな落ち着かなさを感じた。まるで、その名前が持つ重みを、彼自身も持て余しているかのようだった。
「香織さんは、最近いかがですか?」
「……香織、ですか。ええ、仕事が忙しいみたいで、最近はあまりゆっくり話せていないんです」
美咲は、嘘ではない範囲で言葉を濁した。藤沢は、手元のグラスを指先で弄びながら、ふっと視線を落とした。
打ち合わせが終わり、藤沢をエレベーターホールまで見送る。エレベーターのドアが閉まり、彼の姿が見えなくなった瞬間、美咲はホールの壁にそっと背中を預けた。藤沢のことが、好きだ。しかし、その気持ちが強くなればなるほど、香織との十四年間の歴史が、音を立てて崩れていくような恐怖が美咲を支配した。
3
美咲と香織の間に引かれた「秘密の境界線」は、日常の些細な部分に、確実に変化をもたらしていた。今までは、一日に何度も往復していたLINEのラリーが、目に見えて減っていた。
木曜日、香織から送られてきたメッセージは、三人の関係をさらに次のフェーズへと進めるものだった。三人での、京橋のイタリアンでの「お祝い」の食事会。山下の一件の、本当の意味での区切りとして、藤沢が予約してくれたのだという。
土曜日の午後七時。案内された半個室のような落ち着いたテーブル席で、香織は鮮やかなサックスブルーのブラウスを着ており、いつも以上にメイクに気合いが入っているのが分かった。
「奥村さんなら、あの窓辺にどんなカーテンを合わせますか」
不意に、藤沢が美咲に話を振った。美咲がプロとしての意見を口にすると、藤沢は深く満足したように頷いた。
「素晴らしい。さすが奥村さんだ。やはり、あなたの色彩感覚は信頼できる」
藤沢の、仕事仲間としての最大級の賛辞。それは美咲にとって、どんな甘い言葉よりも胸に響くものだった。しかし、喜びを感じたのも束の間、正面に座る香織の表情が、一瞬だけピキリと凍りついたのを、美咲は見逃さなかった。
「へぇー、やっぱり二人は仕事の波長が合うんだね。なんだか羨ましいな」
食事の手が進むにつれ、香織の行動はさらに大胆になっていった。藤沢のスマートフォンの画面を覗き込むために、彼女の肩が、藤沢の腕とわずかに触れ合う。
「私、いつかこんなホテルに、大好きな人と一緒に行けたら死んでもいいな」
藤沢は、一瞬だけ動きを止め、それからいつもの完璧な大人の笑顔を浮かべた。
「香織さんなら、きっと素敵なパートナーと行けますよ」
それは、藤沢なりの、スマートな「受け流し」だった。しかし、その会話を聞いていた美咲は、胸の奥がざわざわと波立つのを抑えられなかった。藤沢は、香織の好意に気づいているのだろうか。それとも、気づいていながら、大人のマナーとして泳がせているのだろうか。
「美咲、どうしたの? 全然喋ってないじゃん」
香織が藤沢の隣から、美咲に向かってグラスを掲げた。その笑顔は、一見するといつも通り楽しそうだったが、目の奥は笑っていなかった。
「私、少しお手洗いに行ってくるね」
席を立ち、足早に化粧室へと向かう。個室に入り、鍵を閉めた瞬間、美咲は深い、深いため息を吐き出した。
数分後、気持ちを落ち着かせて席に戻ろうと、廊下を歩いていた時のことだった。店の奥にある、少し薄暗い喫煙所の近くを通りかかったとき、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「……ですから、今回のプロジェクトが終わるまでは、プライベートな関係を進めるつもりはありません」
藤沢の声だった。いつになく、冷徹で、ビジネスライクなトーン。
「そんなこと言わずに、ちょっとくらい期待させてくれたっていいじゃないですか。私、藤沢さんのこと、本当に……」
香織の声だった。香織は、藤沢にすがりつくようにして、彼のジャケットの袖を掴んでいた。
「香織さん」
藤沢は、彼女の手を優しく、しかし確実に引き剥がした。その動作には、一切の躊躇がなかった。
「あなたの気持ちは、非常に光栄に思っています。ですが、僕は奥村さんとの仕事も、あなたとの友人としての関係も、とても大切に思っているんです。この3人のバランスを、僕の軽率な行動で壊したくはありません」
「……3人のバランス? 美咲が関係あるんですか?」
香織の声が、鋭く尖る。
「奥村さんは、僕にとって素晴らしいビジネスパートナーです。そして、彼女があなたをどれほど大切に思っているかも、僕は知っています。だからこそ、僕は誰か一人のものになるわけにはいかないんです。……申し訳ありません」
藤沢の言葉は、完璧な「正論」であり、同時に「誰も選ばない」という冷酷な宣言でもあった。美咲は、胸が張り裂けそうになりながら、その場から静かに立ち去った。藤沢の誠実さが、今は何よりも痛かった。
席に戻ると、数分後に藤沢と香織が戻ってきた。香織の顔は少し強張っており、藤沢はいつも通りのスマートな表情を崩していなかった。
店を出ると、京橋の夜風が、三人の間に流れる重い空気を吹き飛ばそうとするかのように、激しく吹き抜けた。
「ううん、私、今日は美咲の家に泊まろうかなって思って」
香織が美咲の腕をギュッと掴んだ。その力は、驚くほど強かった。
「……うん。分かった。じゃあ、私の家に行こう」
バックミラーに映る藤沢のスマートな姿が、小さくなっていく。これから始まる、親友との、本当の本音の夜。美咲は、ガタガタと震える自分の手を、座席の下でそっと隠した。
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第四章:取引先の男性
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守口市の自宅マンション。玄関で靴を脱ぎ、香織はリビングのローテーブルの前にきちんと膝を揃えて座った。いつもなら「相変わらずお洒落な部屋〜」と言ってソファにダイブするはずだった彼女が、今日は静かに、けれど明確な覚悟をもって座っている。
「お茶、淹れるね。ハーブティーでいい?」
「ううん、お酒ちょうだい」
香織の声は、低く、どこか掠れていた。テーブルにグラスを置くと、香織はすぐにそれを手に取り、喉を鳴らして半分ほど飲み干した。
「……ねえ、美咲。さっき、お店の洗面所のところで、私たちの話聞いてたでしょ」
心臓が、ドキンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
「隠さなくていいよ。私、十四年も美咲と一緒にいるんだよ? 考えてることくらい、全部分かる」
美咲は嘘を突くのを諦めた。
「うん。……聞いてた。盗み聞きするつもりじゃなかったの。ただ、動けなくなっちゃって」
「藤沢さん、私のこと振ったよ」
香織が自嘲気味に笑った。その唇が、微かに震えている。
「完璧な正論でね。今は仕事が恋人だから、誰とも付き合う気はないって。でもさ、それだけじゃなかった。藤沢さん、美咲の名前を出したの。美咲との仕事の信頼関係を壊したくないし、美咲が私のことをどれだけ大切に思っているか知ってるから、自分はその間に挟まるわけにはいかないって」
香織はそこで一度言葉を切り、ワインボトルを掴んで自分のグラスにドボドボと液体を注ぎ足した。
「私、それが一番悔しかった。……ねえ、美咲は藤沢さんに、自分の気持ちを伝えるつもりはあるの?」
その質問は、美咲の胸の最も柔らかい部分を正確に射抜いた。伝える。そんなこと、考えたこともなかった。いや、考えるのが怖かったのだ。
「……ないよ。私は、今のままでいい。仕事のパートナーとして、藤沢さんの近くにいられるだけで十分。香織を傷つけてまで、自分の気持ちを通そうなんて思わない」
「嘘つき」
香織の声が、リビングの静寂にパチンと響いた。
「美咲、それ、一番ずるいよ」
2
「ずるいって……どういうこと?」
「だってそうじゃん。美咲は『私は何もしない、今のままでいい』って綺麗な顔をして、藤沢さんの隣に居続けるんでしょ? 仕事っていう、誰も文句を言えない大義名分を使ってさ。私は、気持ちをぶつけて、振られて、傷ついて、もう藤沢さんの前にどんな顔をして現れればいいか分からないのに。美咲は、これからも毎週、あの人と二人きりで会議室で会って、波長が合うだの、信頼してるだの言われながら、特別な関係を続けていくんでしょ? それのどこが『今のままでいい』なのよ。一番特等席にいるのは、美咲じゃない」
香織の言葉は、弾丸のように美咲の胸を打ち抜いた。美咲は返す言葉がなかった。確かに、香織の言う通りかもしれない。自分は「友情を守るため」という免罪符を盾にして、傷つくリスクを背負うことから逃げていただけだ。そして、ビジネスパートナーという絶対的な安全圏から、藤沢の横顔を独占しようとしていた。
「私……そんなつもりじゃ……」
「分かってるよ。美咲が悪意でやってるわけじゃないことくらい、私が一番分かってる。でもね、美咲。私、今のまま三人で平気な顔をして飲みに行ったり、ドライブしたりするのは、もう限界」
十四年間、何でも話せる仲だった。それが、今、目の前でサラサラと砂のように崩れていくのを、美咲はただ見つめることしかできなかった。
「香織……じゃあ、私たちは、どうすればいいの?」
美咲の瞳からも、堪えていた涙があふれ出た。
「分からない。分からないよ……」
香織は、ソファに体を埋め、膝を抱えて泣き出した。高校の教室で、テストの点数が悪くて一緒に泣き真似をした時のように、二人は泣いていた。けれど、あの頃と決定的に違うのは、今の二人は、お互いを慰めるために抱き合うことすらできないということだった。
その夜、二人はそれ以上一言も交わさなかった。翌朝、美咲が目を覚ましたとき、リビングのソファには、綺麗に畳まれた毛布だけが残されていた。テーブルの上には、小さなメモ用紙が置かれていた。
【美咲へ。昨日は遅くまでごめんね。少し頭を冷やします。仕事、頑張ってね。】
いつもの丸っこい、見慣れた香織の文字。しかし、そこにはかつてのような可愛いイラストも、ハートマークも添えられていなかった。美咲は、そのメモを胸に抱きしめ、誰もいない静かな部屋で、声をあげずに泣いた。
3
月曜日が来ても、香織からの連絡はなかった。しかし、現実は容赦なく進んでいく。その週の木曜日、美咲はフロンティア・デザインのオフィスがある西天満へと向かっていた。今回は、ホテルのインテリアプロジェクトの最終デザインコンペに向けた、藤沢との「打ち合わせ兼飲み会」がセットされていた。
午後八時。二人は西天満の静かな住宅街にある、老舗の割烹へと移動した。案内されたのは、庭園が見える完全な個室だった。微かに聞こえる鹿威し(ししおどし)の音が、心地よい緊張感を演出している。
会話は自然とプロジェクトの進行から、徐々にプライベートな話題へと移っていった。
「そういえば、奥村さん。香織さんは、最近いかがですか」
美咲は、心臓が一瞬止まるかと思った。
「……香織、ですか。ええ、仕事が忙しいみたいで、最近はあまりゆっくり話せていないんです」
藤沢は、手元のグラスを指先で弄びながら、ふっと視線を落とした。その表情には、いつもの完璧なマナーの裏に、微かな「翳り」のようなものが混ざっているように見えた。
「そうですか。……実は、奥村さんには正直にお話ししておかなければならないと思いまして。先日の京橋の夜、僕はお手洗いの前で、香織さんから非常に真っ直ぐな好意を伝えていただきました」
美咲は、知っている、とは言えなかった。ただ、静かに藤沢の言葉を待った。
「僕は、そのお気持ちをお断りしました。理由は、彼女に告げた通りです。今はプロジェクトに集中したいということ、そして……何より、奥村さんと香織さんの、あの十四年間かけて築き上げてきた素晴らしい友情を、僕という異性の存在で壊したくはなかったからです」
藤沢の言葉は、どこまでも誠実だった。彼は、自分の魅力を自覚しているからこそ、それが他人の人生にもたらす影響を、極めて冷徹に、そして優しくコントロールしようとしていた。
しかし、美咲の胸の中には、香織のあの言葉が鳴り響いていた。
『美咲は仕事っていう大義名分を使って、藤沢さんの隣に居続けるんでしょ? それが一番ずるいよ』
美咲は、握りしめていたおしぼりを、そっとテーブルに置いた。
「藤沢さん。藤沢さんのその優しさは、本当に素敵だと思います。でも……その優しさが、時に一番残酷になることもあるんです」
藤沢は、意外そうな表情で目を見張った。完璧な大人の男である彼が、美咲の言葉に明確な動揺を見せたのは、これが初めてだった。
4
「残酷、ですか」
藤沢は、美咲の言葉を繰り返すように呟いた。その声は、いつもの低音の響きを失い、どこか少年のような危うさを孕んでいた。
「はい」
美咲は、もう引き返せないと確信していた。ここで自分の気持ちを隠し通すことは、香織を裏切り、藤沢の誠実さからも逃げることになる。
「藤沢さんは、誰も傷つけないために、あの綺麗な『三角形』のままでいようとしてくださっています。でも、その結果、香織は一人で傷ついて、私との十四年間の友情も、今、壊れかけているんです。なぜなら、私たちは二人とも、藤沢さんのことが、本当に、本気で好きだからです」
個室の中に、完全な沈黙が訪れた。鹿威しの音が、カタン、と規則正しく響く。
藤沢は、眼鏡を外し、眉間のあたりを指で強く押さえた。いつもの完璧な佇まいが、美咲の剥き出しの本音によって、内側から瓦解していくのが分かった。
「……気づいては、いました」
長い沈黙のあと、藤沢がゆっくりと顔を上げた。その目は、これまでになく真剣で、そして深い苦悩に満ちていた。
「香織さんの眼差しも、そして、奥村さん、あなたの僕に向ける眼差しも。ビジネスパートナーとしての信頼以上のものがそこにあることに、気づかないほど僕は鈍感ではありません。でも、僕はそれを認めるのが怖かった。どちらか一人を選ぶということは、もう一人を完全に拒絶するということであり、お二人の絆を、僕がこの手で引き裂くことになる。だから、気づかない振りをして、全員が傷つかない『最善の選択』を探していたんです。……それが、一番残酷だったとは」
藤沢は、自嘲気味に微笑んだ。その表情は、美咲が初めて見る、彼の「大人の仮面」を脱いだ、一人の等身大の男の顔だった。
「藤沢さん、誰も傷つけない恋愛なんて、きっとないんです」
美咲は、涙を堪えながら微笑んだ。
「私たちは二十八歳です。もう、ただ楽しいだけの恋なんてできない。誰かを本気で好きになるということは、他の誰かを傷つける覚悟を持つということだって、香織の涙を見て、ようやく私も分かったんです。私は、藤沢さんのことが好きです。仕事のパートナーとしてではなく、一人の女性として、あなたの隣にいたい。これが、私の本音です。香織にも、もう伝えました」
藤沢は、美咲の告白を、真っ直ぐに受け止めた。彼はもう、目を逸らさなかった。
「奥村さん。あなたのその真っ直ぐな気持ちに、僕はどう応えるべきなのか……。今すぐには、答えを出せそうにありません。僕にとっても、あなたはあまりにも大切な存在になりすぎているから」
「はい。今すぐ答えが欲しいわけじゃありません。ただ、知ってほしかったんです」
美咲は立ち上がり、バッグを手にした。驚くほど晴れやかな気持ちで、割烹の個室をあとにした。夜の西天満の街を歩きながら、美咲は『香織』のトーク画面を開いた。
【美咲:香織、さっき藤沢さんに、私の気持ちを全部伝えてきたよ。ずるい私でいるのは、もうやめた。香織が私のことを許してくれなくても、私は香織の親友でいたい。また、いつでも連絡して。待ってる。】
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第五章:グラス越しの最適解
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藤沢智明(ふじさわ ともあき・三十一)は、自他ともに認める「論理の人」だった。大学で建築とインダストリアルデザインを学び、大手設計事務所で数々の実績を積んだ後、三年前、満を持してフロンティア・デザインを立ち上げた。彼の仕事の流儀は極めてシンプルだ。クライアントの曖昧な要望を徹底的に分析し、予算、構造、法規、そして美観というすべてのピースがピタリとはまる「最適解」を導き出すこと。そこに個人の身勝手な感情や、予定調和な妥協が入り込む余地はなかった。
しかし、彼が誰にも語らない事実があった。二十六歳のとき、彼には婚約者がいた。同じ設計事務所で働いていた、有能な女性だった。彼女との関係が壊れた理由は、浮気でも金銭問題でもない。藤沢が「彼女を傷つけないため」という名目で、あらゆる決定を先回りしてコントロールし続けたことだった。結婚式場の選定も、両家の顔合わせの段取りも、彼女の仕事とのバランスも、藤沢は常に「彼女が悩まなくて済むように」と、先に答えを用意した。
『あなたは、私が何を選ぶかより、あなたが傷つかない選択を先に決めてる。私はあなたの隣で、あなたに管理されているだけの人形みたいだった』
婚約破棄を告げられたその言葉は、五年経った今も、藤沢の胸の奥に、抜けない棘として残っていた。それ以来、彼は誰かと本気で向き合うことを、無意識に避け続けてきた。仕事という完璧な城壁の中に閉じこもれば、誰も傷つけずに済む。傷つく可能性そのものを、最初から排除できる。恋愛の話題になると、藤沢の答えがいつも滑らかで、しかしどこか用意されたものに聞こえたのは、そのためだった。
美咲と香織、二人の女性の想いを知りながら、彼が「誰も選ばない」という選択を取ろうとしたのは、優しさだけではなかった。もう一度、誰かに深く踏み込まれることへの、単純な恐怖だったのだ。
割烹で美咲が去った後、藤沢はしばらくの間、微動だにせずカウンターのグラスを見つめていた。美咲が飲み干したグラスの底には、ほんの少しの日本酒が残り、白木のテーブルに小さな輪の染みを作っている。
『藤沢さんは、誰も傷つけないために、あの綺麗な「三角形」のままでいようとしてくださっています』
耳の奥で、彼女の静かな、けれど刃のように鋭い言葉がリフレインしていた。藤沢は眼鏡を外し、おしぼりで顔を覆った。ふっと漏れた溜息は、自分自身の「傲慢さ」に対する嫌悪に満ちていた。
「……また、同じことをしているのか、僕は」
かつての婚約者と同じ構図を、彼はまた繰り返そうとしていた。誰も傷つけない「最適解」を演じることで、実際には自分自身が傷つくことから、最も巧妙に逃げていたのだ。二人の大人の女性が、自分に対してどれほどの熱量と覚悟を持って向き合っていたか。それを知りながら「綺麗な三角形」に閉じ込めようとした自分こそが、彼女たちの関係を最も残酷に侵食していたのだと、藤沢は初めて痛感していた。
2
その週、思いがけない形で、もう一つの問題が持ち上がった。
木曜日の夕方、藤沢から緊迫した声で電話が入った。
「奥村さん、少しよろしいですか。……香織さんから連絡がありました。山下という男が、また現れたそうです」
美咲の血の気が引いた。山下は、香織の職場近くで数週間ぶりに姿を見せ、今度は「もう関わらないでほしいなら、一度きちんと話し合うべきだ」と、遠回しな脅しめいた言葉で接触してきたのだという。以前のように酔って感情的に迫るのではなく、今回は妙に落ち着いた口調で、それがかえって不気味だった。
美咲はすぐに西天満のオフィスへ向かい、藤沢、香織と三人で今後の対応を話し合った。
「今回は、僕一人の言葉で退けるだけでは根本的な解決になりません」
藤沢はきっぱりと言った。以前のように、その場の鋭い言葉一つで相手を退けるという方法は、一時しのぎに過ぎない。相手が「話し合い」という体裁を装って接触を続ける限り、いつまた同じことが繰り返されるか分からない。
「香織さん、正式に警察に相談しましょう。それから、僕の顧問弁護士にも今度こそ本当に相談します」
その日のうちに、藤沢は顧問弁護士に正式に相談の予約を入れ、翌日、香織とともに最寄りの警察署へ同行した。ストーカー規制法に基づく警告と、接触禁止の申し入れ。手続きは煩雑で、地味で、以前のような鮮やかな一撃とは程遠かった。書類を何枚も書き、担当の警察官に何度も同じ経緯を説明し、弁護士との打ち合わせでは専門用語の応酬に香織が疲れ切った顔を見せる場面もあった。
「格好悪いところをお見せしました」
すべての手続きを終えた夜、藤沢は疲れた顔で美咲に言った。
「以前は、その場の言葉だけで彼を追い返せた。今回は、警察に、弁護士に、書類に、何日もかかった。……僕は、自分がスマートに解決できることにしか、価値がないと思い込んでいたのかもしれません」
その告白は、美咲がこれまで見たどの藤沢よりも、人間らしいものだった。完璧な男が、不格好な現実と向き合っている。美咲は、その不格好さにこそ、初めて心の底から安堵した。
数日後、山下からの正式な接触禁止の通知が届き、彼が二度と姿を見せることはなかった。香織の日常に、今度こそ本当の意味での平穏が戻った。
「まじで、二回も助けてもらっちゃったね、あの人に」
手続きがすべて終わった夜、香織は美咲に電話でそう言って、力なく笑った。
「格好いい藤沢さんも、格好悪い藤沢さんも、私、両方見ちゃったな」
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第六章:三角形、最後の夜
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コンペを控えたある夜、美咲は藤沢のオフィスに呼ばれた。二人きりで会うのは、あの割烹の夜以来だった。西天満のオフィスは、スタッフがすでに退社したあとの静けさに包まれていた。
「奥村さん。僕は、来月末をもってこのフロンティア・デザインをクローズし、パリの建築事務所へ移籍することに決めました」
美咲は言葉を失った。
「実は、半年前から先方の事務所から熱心なオファーを受けていたんです。ですが、国内でのいくつかのプロジェクト、特に奥村さんと進めているホテルの件をどうしても成功させたくて、返事を保留にしていました」
藤沢は、デスクの上の万年筆に視線を落とした。
「先週、山下さんの件で、僕は自分がどれほど『格好つけること』に逃げていたかを思い知りました。そして、奥村さんに指摘されたことも、ずっと考えていました。……僕には、お二人のどちらか一人を選ぶ資格も、覚悟も足りていません。だから今、この国を離れることは、逃げでもあり、同時に、僕なりのけじめでもあるんです」
「逃げだと、分かっているんですね」
美咲が静かに言うと、藤沢は驚いたように顔を上げた。
「はい。……分かっています。誰も傷つけない選択をしているつもりで、僕は結局、一番傷つきたくない自分を守っているだけなのかもしれない。それでも、僕はお二人のことを、これ以上、僕の未熟さで振り回したくない」
その素直な告白に、美咲はかえって彼への信頼を深めた。完璧な聖人としてではなく、迷い、逃げ、それでも前に進もうとする一人の人間として。
「三人で、もう一度話をさせてください」
2
金曜日の夕方、西天満のオフィス。スタッフは全員退社しており、広いフロアには、打ち合わせ用の大きなガラス天板のテーブルと、三つの椅子だけが用意されていた。美咲と香織は、ビルの下で合流し、並んでエレベーターに乗った。
「緊張する?」
オフィスのドアの前で、香織が小声で訊いてきた。あの梅田のダイニングバーの前で訊かれたのと、全く同じ質問。
「うん。でも、怖くはないよ」
ドアをノックし、中に入る。今日の藤沢は、スーツではなく、仕立ての良い黒いシャツの袖を少し捲り上げた、極めてリラックスした、しかし隙のない姿だった。
「まず、お二人に深く謝罪させてください」
藤沢は、深く頭を下げた。
「僕は、自分のエゴで、お二人の純粋な気持ちを弄んでいました。誰も傷つけないという綺麗事を隠れ蓑にして、自分が傷つくこと、そしてどちらか一人を選んで関係を変えてしまうことから、逃げていただけだったんです」
香織が、静かにグラスに手を伸ばし、一口飲んでから言った。
「藤沢さん、頭を上げてください。……私、猛烈に怒ってたんですよ、しばらく。でも、山下の件で警察に付き合ってくれたって聞いて。カッコいい藤沢さんより、不格好な藤沢さんの方が、なんだか信用できるなって思っちゃいました」
香織は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「僕は、今回のインテリアプロジェクトが終了した翌月——つまり、来月の末を以て、このフロンティア・デザインをクローズし、フランスのパリにある建築事務所へ移籍することに決めました。逃げだと言われれば、その通りかもしれません。それでも、僕は自分のこの弱さと、もう一度、一人で向き合ってみたいんです」
オフィスの空気が、一瞬にして張り詰めた。美咲も、香織も、藤沢の口から出た言葉に言葉を失って彼を見つめた。
「香織さん。あなたの真っ直ぐな好意は、僕の凍りついていた心を何度も溶かしてくれました。奥村さん。あなたとの仕事は、僕のデザイナーとしての人生で、最も幸福な時間でした」
藤沢は、三つのグラスを愛おしそうに見つめた。
「僕は、お二人のことが、本当に大好きです。だからこそ、今の僕の半端な気持ちで、どちらか一人を選んで、もう一人を傷つけるような真似はしたくない。……だから、僕は日本を離れます」
香織の目から、大粒の涙がポロポロとガラスの天板にこぼれ落ちた。
「……藤沢さん、それ、まじでずるいよ。最後までカッコつけすぎじゃん……」
「藤沢さん」
美咲は、立ち上がり、藤沢に向かって手を差し出した。
「今回のホテルのコンペ、絶対に勝ちましょうね。逃げるにしても、胸を張って行ってください」
藤沢は一瞬、驚いたように目を見張ったが、すぐに眼鏡をかけ直し、いつもの完璧なプロフェッショナルな笑顔に戻って、美咲の手を強く握り返した。
「ちょっと、私も混ぜてよ!」
香織が涙を拭きながら立ち上がり、二人の手の上に自分の手を重ねた。三人の手が、テーブルの上で一つに重なった。
恋は破れた。三角形は、それぞれの角が離れていくように、形を失っていく。けれど、そこには最初から完璧だった聖人への憧れではなく、弱さを見せ合った人間同士の、確かな敬意が残っていた。
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第七章:週末のエスケープ
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コンペ前の三週間、美咲の日常は目まぐるしいほどの「戦場」へと変わった。デスクの上には、国内外から取り寄せたファブリックのサンプル、大理石のカラーチップ、照明器具の仕様書が山のように積み上げられていた。
藤沢が描き出す設計図には、美咲の色彩感覚とファブリックへのこだわりが、完璧な形で落とし込まれていった。同じ頃、香織もまた、自分の戦場で猛烈に戦っていた。アパレルブランドのプレスとしてのネットワークをフルに活用し、コンペを勝ち抜いた前提での、メディア戦略の骨子を組み立てていたのだ。
「聞いてよ美咲! 今回の『アジュール大阪』のレセプション、もしコンペに通ったら、東京の主要なファッション誌の編集長クラスを、三人同時に大阪に引っ張ってこれるルート開拓したから!」
土曜日の夜、美咲のマンションのリビングに、香織の賑やかな笑い声が戻っていた。
「『パリへ移籍する天才建築家・藤沢智明が、日本で遺した最後の最高傑作』――このキャッチコピー、プレスの人間なら絶対に使いたくなるテーマなんだよね」
香織の言葉には、プロとしての確かな戦略と、藤沢への彼女なりの「愛の形」が込められていた。彼女は、藤沢に選ばれなかったことを恨む代わりに、彼の才能を世界へ押し出すための最高のブースターになろうとしていたのだ。
「藤沢さん、本当に来月の末には行っちゃうんだね」
香織の言葉に、リビングの空気が少しだけ切なさを帯びた。
2
コンペ当日、中之島にある高級ホテルの国際会議場。厳かな空気のなか、ホテルの役員や、海外からの総支配人を含む十数人の審査員が、ずらりと並んで座っている。
空間のコンセプトは『夜明けの境界線』。伝統とモダン、昼と夜、そして、人と人が交錯する瞬間の最も美しいグラデーション。藤沢の論理的でスマートなプレゼンテーションと、美咲が語る繊細なファブリックのストーリーは、審査員たちの心を完全に掌握していった。
三十分のプレゼンが終わり、会場が深い静寂に包まれたあと、次の瞬間、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「美咲!!」
ホールの出口で、香織が待っていた。彼女は、二人の表情を見ただけで、すべてを察したように、両手を広げて駆け寄ってきた。三人は笑顔で固く手を結び合った。藤沢も、その瞬間だけは、大人の仮面を完全に脱ぎ去って、少年のように爽やかに笑っていた。
3
発表までの一週間、藤沢は美咲にも香織にも、事務的な連絡以外を送ってこなかった。それは、コンペ後の熱を帯びた感情を、いったん平熱へ戻すための、彼なりの距離だった。
「この一週間、まじで生殺しだね」
香織が、美咲の肩に頭をこてんと預けてきた。
「でも、今回はちゃんと分かる。あの人、逃げてるだけじゃなくて、自分なりに向き合おうとしてるんだって」
発表の日、コンペは最優秀賞に選ばれた。その夜、藤沢が用意した中之島の川沿いのフレンチレストランで、三人は最高級のシャンパンで祝杯をあげた。
「お二人とも、本当におめでとう。そして、ありがとうございました」
会話は、審査員たちの反応や、これからの施工に向けたスケジュールの話で盛り上がった。藤沢の「最後の仕事」という言葉に、テーブルの空気が、一瞬だけ切なさを帯びたが、今夜の二人は、もう泣かなかった。
「藤沢さんがいなくなったら、私たち、また前みたいに二人で、なんでもない話をして笑えるのかな」
その夜遅く、香織が美咲にそっと囁いた。
「笑えるよ。だって、私たちは高校の時からずっと一緒だったんだもん」
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第八章:夕暮れのシーソー
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『アジュール大阪』のコンペを勝ち取ったという報せは、美咲の勤める商社に、かつてないほどの歓喜をもたらしていた。しかし、その幸福の絶頂にあっても、美咲の胸の奥には、常に一枚の冷たいガラスが差し込まれているような感覚があった。大きな仕事が形になっていくことは、藤沢がフランスへ旅立つ日が確実に近づいていることを意味していた。
「もう一度だけ、あの三人でドライブに行きたいな」
水曜日の深夜、香織から届いたメッセージ。美咲が藤沢に連絡を入れると、彼は少しの躊躇もなく応じてくれた。
土曜日の午前九時、梅田のロータリー。藤沢は上質な白のリネンシャツに、ダークネイビーのハーフパンツという、まるでこれから長い旅に出る旅人のような、自由な空気を纏っていた。
目的地は、淡路島を縦断し、四国へと続く大鳴門橋の手前。藤沢が「世界で一番美しい境界線が見える場所」と称した、鳴門の海だった。
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明石海峡大橋を渡ると、窓の外には言葉を失うほどのコバルトブルーの海が広がった。
「藤沢さん、まじで最高のドライブルート!」
「そう言っていただけると嬉しいです。フランスへ渡ると、しばらくはこういう日本の、湿気を含んだグラデーションのある海は見られなくなりますからね」
昼過ぎ、車は淡路島を南下し、鳴門の展望台へと到着した。車を降りると、激しい潮風が美咲の髪を大きく揺らした。目の前に広がっていたのは、太平洋と瀬戸内海が激しくぶつかり合い、無数の渦潮を描き出す、ダイナミックな海の境界線だった。
「奥村さん、あなたの創り出す色彩には、この鳴門の海のような、二つの感情がぶつかり合う境界線の美しさがあるんです。激しい情熱と、冷徹なまでの静寂。それが絶妙なバランスで同居している」
藤沢のその言葉は、美咲にとって、どんな愛の告白よりも深く、魂を揺さぶるものだった。彼は、一人の女性として自分を選びはしなかった。けれど、自分の表現者としての本質を、世界の誰よりも深く理解し、愛してくれていた。
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日が沈みかける頃、漆黒のセダンは再び明石海峡大橋を渡り、大阪への帰路についていた。行きにあれほど賑やかだった車内は、次第に静寂に包まれていった。
車が梅田のビル群へと近づくにつれて、光の粒が無数に窓の外に広がり始めた。
「……藤沢さん」
助手席の香織が、不意に、低く、けれどはっきりとした声で藤沢の名前を呼んだ。彼女は、窓の外を向いたまま、動かない。
「藤沢さん。……私、藤沢さんのことが、本当に大好きだったよ」
香織の言葉が、静まり返った車内に、ストレートに響き渡った。それは、あの守口のマンションで流した悔し涙でも、洗面所の前で縋り付いた時の独占欲でもない。自分の恋の終わりを完璧に受け入れ、去りゆく人への最大級の愛おしさと感謝を込めた、二十八歳の香織の、本当の「最後の告白」だった。
藤沢は、一瞬だけハンドルを握る手に力を込めたように見えた。けれど、彼は車を動かす速度を一切変えず、ただ前を向いたまま、眼鏡の奥の目を優しく細めた。
「ありがとうございます、香織さん。……僕も、あなたのその真っ直ぐな強さに、何度も救われました」
「美咲もね」
香織が、バックミラー越しに後部座席の美咲を見た。
「美咲も、藤沢さんのこと、まじで本気で好きだったんだからね」
美咲は、胸の奥から熱いものが一気にあふれ出して、視界が完全に滲んだ。
「分かっています」
藤沢が、静かに言った。彼は、車を梅田のロータリーの、あの最初に出会った場所へとゆっくりと滑り込ませ、ハザードランプを点滅させた。エンジンが切られ、車内に完全な静寂が戻る。
「奥村さん。香織さん。お二人のその覚悟と、僕に向けてくれた熱量を、僕はパリへ持って行きます。……逃げていく人間が言うのも、おかしな話ですが」
その最後の一言に、二人は思わず、涙の中で笑ってしまった。完璧すぎない、少し情けない本音。それが、彼が最後に見せてくれた、一番人間らしい顔だった。
「お二人に出会えて、僕は本当に幸せでした。……ありがとうございました」
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車のドアが開き、美咲と香織は梅田の夜風の中に降り立った。
「では、お元気で」
漆黒のセダンはゆっくりと発進し、梅田のネオンの光の海の中へと消えていった。テールランプの赤い光が、雑踏の中に溶けて見えなくなるまで、二人はその場所から動かなかった。
「……行っちゃったね」
「うん。行っちゃったね」
美咲は、香織の手をそっと握りしめた。香織の手は、温かかった。男は去った。恋は終わった。けれど、二人の手元には、何一つ失われていない、むしろ以前よりもずっと深く、強固になった十四年間の絆が、確かに残されていた。
「美咲、お腹空かない? 久しぶりに、いつもの京橋の店行こ」
七月十五日、パリ行きの便が飛び立つ日。美咲は空港へは行かず、いつもの京橋の居酒屋で香織と落ち合った。
「空港、行かなくて良かったよね」
「うん。私たちが並んで立ってたら、あの人、最後まで完璧なスマートさで見送ろうとして、気疲れしただろうしね」
時計の針が、午後七時を指した。二人は同時に、箸を止め、店の小さな窓の向こうにある、京橋の暮れなずむ空を見上げた。
「飛んだね」
「うん。行っちゃったね、藤沢さん」
香織は、お猪口を両手で持ち、窓の外の空に向かって、そっと掲げた。
「パリでも、世界一カッコいい建築、創ってよね。ずるい男」
「私、あの人が完璧だから好きになったんだと思ってた。でも本当は、山下の一件で不格好に警察を回ってた姿とか、車の中で『情けない話ですが』って笑ってた顔の方が、ずっと好きだったのかもしれない」
美咲が言うと、香織も頷いた。
「うん。完璧な人じゃなくて、ちゃんと迷って、逃げて、それでも向き合おうとしてる人だったんだよね、あの人」
二人は、お互いの醜さも弱さも晒し合った、この夏のすべてを思い返しながら、静かに杯を重ねた。
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第九章:私たちは、新しい形になる
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十二月。御堂筋の公孫樹は、すっかりその鮮やかな黄色をアスファルトに落としきり、冬の澄んだ風に鋭い枝先を晒していた。美咲は、守口市駅から京阪電車の準急に乗り、中之島へと向かう毎日を繰り返していた。夏の日差しの中で、陽炎の向こうに揺れていたあの『アジュール大阪』の建設現場は、今や、大阪のウォーターフロントに厳然とそびえ立つ、ガラスとコンクリートの美しいモニュメントへと変貌を遂げていた。
藤沢が日本を発ってから、彼は一度もプライベートな連絡をしてこなかった。美咲の元へ届くのは、フロンティア・デザインの残務を引き継いだスタッフを経由した、極めて事務的な図面の承認メールだけだった。
十二月十日、ついにグランドオープンの日を迎えた。
『アジュール大阪』のメインロビーに一歩足を踏み入れた瞬間、美咲は、全身の肌が心地よく粟立つような感覚を覚えた。天井高五メートルの大開口に仕込まれた西陣織のリネンカーテンが、冬の夜の深い闇を背景にして、温かみのある間接照明の光を優しく孕んでいる。
「奥村さん、素晴らしい。本当に、素晴らしい空間だ」
ホテルの総支配人が、シャンパングラスを片手に、美咲の元へ歩み寄ってきた。
「美咲!!」
華やかな歓声とジャズの生演奏が流れる人混みを割って、目の覚めるような真っ赤なベルベットのドレスを纏った香織が駆け寄ってきた。
「東京の主要なファッション誌だけじゃなくて、建築専門誌の編集長も全員来てる。私の勝ち! 有言実行でしょ?」
香織は約束を守ったのだ。藤沢が日本を去るという事実を、最高のキャッチコピーに変えて、このホテルをカルチャーとしてのトレンドへと押し上げた。
「香織、本当にありがとう。あんたが最高のプレスでいてくれたから、この空間が本当の完成を迎えたんだよ」
「何言ってるの、今さら。私、あの日、鳴門の海で藤沢さんに言われたんだから。『香織さんの行動力は、僕の設計を世界へ届けるための翼だ』ってさ」
二人は、完成したロビーラウンジの、最も美しい光が差し込む特等席に並んで座り、シャンパンを飲み干した。
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レセプションが終わり、グランドオープンから二週間が経った、十二月の末。美咲の元に、パリの藤沢から一通の国際郵便が届いた。差出人の欄を見た瞬間、美咲は、息をすることすら忘れてその場に立ち尽くした。
中から出てきたのは、上質な凹凸のある水彩紙に描かれた、丁寧な手書きの便箋だった。美咲は、ハーブティーの湯気の向こうで、彼の几帳面なフォントのような文字を、一字一字、噛み締めるように読み始めた。
『奥村美咲様
パリは今、すっかり冬の装いに包まれています。セーヌ川から吹き付ける風は驚くほど冷たく、こちらの事務所での仕事は、想像以上に厳しいものです。正直に言えば、まだ自分の居場所を探しているような心許なさが、毎日のようにあります。日本を発つとき、僕は「けじめ」だと自分に言い聞かせましたが、実際には、慣れない土地で毎晩、自分の選択が正しかったのか分からなくなる夜もあります。
それでも、『アジュール大阪』の完成写真を見た瞬間だけは、迷いなく誇らしい気持ちになれました。僕が遺していったモノトーンの骨組みに、あなたが命を吹き込んだ生成りのリネン。その織り目が、光を含んで夜の闇に浮かび上がる姿は、僕がフランスへ発つ前に夢見ていた、どの設計図よりも美しかった。
あなたが僕の設計を、あなたの色で完成させてくれたことに、一人のクリエイターとして、心からのリスペクトと感謝を捧げます。
奥村さん。あの日、西天満のオフィスで、僕はお二人の気持ちを知りながら逃げようとしました。誰も傷つけないという綺麗事で、三角形を維持しようとした僕の未熟さを、あなたが本音で打ち破ってくれたから、僕は今、こうしてパリの空の下で、迷いだらけの一人の男として、新しい建築に向き合うことができています。格好悪いところばかりお見せしてしまいましたが、それでも、あなたが僕のその不完全さごと受け止めてくれたことが、今の僕には何よりの支えです。
いつか、あなたが大人の階段をさらに登り、パリの街を訪れる日が来たら、その時は、まだ迷いの残る一人の男の話を、笑って聞いてやってください。
心からの感謝を込めて。
藤沢智明』
美咲の目から、一滴の涙がポロポロと便箋の上にこぼれ落ちた。けれど、その涙は、寂しさや悔しさのものではなかった。あるのは、これほどまでに不完全なまま、それでも誠実であろうとした一人の男性に対する、深い、深い愛おしさだった。
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翌日の金曜日、美咲は京橋のあの居酒屋で香織と落ち合った。香織の手にも、フランスからの国際郵便があった。しかし、その内容は美咲へのものとは、少し違っていた。
「私宛の手紙にはさ、私の仕事のこと、めちゃくちゃ具体的に褒めてくれてたよ。『香織さんのプレス戦略がなければ、僕のパリでの評判もここまで届かなかったはずです』って。あと、パリの事務所のボスに日本のカルチャー誌を見せられて驚いてる話とか、割と面白おかしく書いてあった」
香織は手紙を愛おしそうに胸に抱きしめながら、ケラケラと笑った。
「あんたの手紙とは、内容ぜんぜん違うんだね」
「当たり前じゃん。私たちは別々の人間なんだから」
美咲が答えると、香織は「確かに!」と声を立てて笑った。
「でもね、私、手紙を読んで、本当にスッキリした。藤沢さん、迷いながらパリでやってるんだって分かって、なんだかホッとしちゃった。完璧なまま消えられてたら、私、一生この恋を美化して引きずってたかもしれない」
「私もそう思う。あの人、最後まで格好つけたままだったら、多分、私たちはずっと『完璧な男に振られた自分たち』のままだった」
大将がキンキンに冷えた生ビールのジョッキを二つ、テーブルに置いた。
「お二人さん、今日も本当にお疲れ様! ホテルのニュース、テレビでも観たで!」
「大将、ありがとう! 今日は、私たちが世界一正直な大人の女になった記念日だから、一番高い特上のお造り、持ってきて!」
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美咲と香織は、それぞれのジョッキを持ち上げ、お互いの目を見つめ合った。
十四年前、高校の教室で隣の席になって以来、何でも話せる仲で、楽しい時も悲しい時も一緒に過ごしてきた。男に振られて朝まで飲み明かした夜も、旅行に行って朝まで語り明かした夜も、すべてが、今の二人の強固な「背骨」を創り上げるための、大切なプロセスだったのだ。
「じゃあ……私たちの、新しい形に」
美咲がグラスを掲げる。
「うん。私たちは一生モノ! 乾杯!」
チリン、と鈍い音が響き、冷たい琥珀色の液体が二人の身体を満たしていく。
窓の外からは、京橋の雑多で、ぬるくて、けれどどこか愛おしい冬の夜の喧騒が聞こえていた。恋は終わった。三角形の輪郭は、それぞれの未来へと、美しく解けていった。完璧な誰かに憧れることから始まった恋は、不完全な人間同士が互いを認め合うことで、静かに幕を閉じた。
夜明けの途中にいた彼女たちの前に、今、どこまでも透明な、けれど決して聖人君子の物語ではない、生身の朝の光が差し込んでいた。
二十八歳、私たちが選んだのは、一番美しい終わり方ではなく、一番正直な終わり方だった。




