表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

妹が家門印を持っていきました。ですが、当主代理の署名がなければ、その印章はただの飾りです

作者: Sophia Rose
掲載日:2026/05/26

妹のミレーヌが、家門印を持っていった。

 朝の執務室で、私が領地から届いた冬麦の納税報告書に目を通していると、背後で戸棚の鍵が鳴った。

 振り返ると、薄桃色の朝着をまとった妹が、銀の鍵束を指に引っかけて立っていた。

「お姉様、これ、今日使うから」

 彼女の手には、黒檀の箱があった。

 侯爵家の家門印を納めた箱である。

 箱の蓋には、我がローデン侯爵家の紋章――月桂樹をくわえた鷹が彫られている。先祖代々、当主の執務机の奥に保管されてきたものだ。

 私は羽根ペンを置いた。

「ミレーヌ。その箱は、当主または当主代理の許可なく持ち出せません」

「まあ、堅苦しい」

 妹は笑った。

 鏡の前で何度も練習したのだろう、柔らかく首を傾ける笑みだった。

「今日は私の婚約式なのよ? 家門印くらい、私が持っていて当然でしょう。だって、私が今日の主役なのだから」

「婚約式の主役であることと、家門の代表であることは別です」

「また書類の話?」

 ミレーヌは退屈そうにため息をついた。

「お姉様って、本当にそればかり。契約書、納税書、承認状、登記簿。そんな紙束に囲まれているから、顔色まで灰色になるのよ」

 灰色。

 母もよくそう言った。

 父が病で倒れてから三年。私は侯爵家の長女として、当主代理登録を受け、家門の契約、納税、領地書類、使用人の雇用、商会保証、そして婚姻承認まで処理してきた。

 父の寝室に薬湯が運ばれる時刻も、領民に配る種麦の数も、王都の登記局に提出する報告期限も、すべて私が覚えていた。

 けれど家族にとって、私はただの「書類ばかりの地味な姉」だった。

 ミレーヌは違う。

 彼女は美しい。夜会で笑えば人が集まり、舞踏会では花のようだと褒められる。母は彼女を着飾らせ、父は病床からでも彼女の話を聞きたがった。

 私はそのことに、もう怒ってはいなかった。

 ただ、事実として理解しているだけだ。

「ミレーヌ。家門印は、印章そのものだけでは効力を持ちません。正式登録された当主代理の署名と、王都登記局の照合が必要です」

「知っているわよ、そのくらい」

「本当に?」

「お姉様があとで署名すればいいでしょう?」

 私は妹を見た。

 彼女は、それが当然だという顔をしていた。

「私は、本日の婚約式に家門代表として招かれていません」

「だって、お姉様が前に出ると場が固くなるもの」

 背後から母の声がした。

 いつの間にか扉の前に立っていた母は、真珠色の扇で口元を隠しながら、困ったように眉を下げていた。

「エレノア。今日くらい、ミレーヌに譲ってあげなさい。あの子はランベルト伯爵家に嫁ぐのよ。王太子殿下の派閥にも連なるお家ですもの。華やかに見せることが大切なの」

「見せることと、権限を移すことは別です」

「またそんな冷たい言い方を」

 母の隣で、兄代わりの従兄アルヴィンが鼻で笑った。

「印章くらい持たせてやればいいだろう。式場で格好がつく。どうせ実務はおまえがあとで片付けるんだから」

「その『あとで』に必要な手続きがあると申し上げています」

「エレノア。おまえは本当に空気が読めないな」

 私は机の上の書類をそろえた。

 今日、ミレーヌの婚約式で予定されているのは、単なる披露ではない。

 ランベルト伯爵家との婚姻契約。

 持参金の移転承認。

 領地南部の葡萄園を担保にした融資契約。

 王都商会への保証書。

 それらを一括で整えることで、ミレーヌの婚姻を「華やか」に見せるつもりなのだろう。

 だが、そのすべてには当主代理の署名が必要だった。

 印章は、最後に押すものに過ぎない。

 署名がなければ、印影はただ紙を汚す赤い模様でしかない。

 私は静かに立ち上がった。

「では、当主代理権限の確認をお願いいたします」

「何を言っているの?」

 母が眉をひそめた。

「家門印を当主代理の管理下から外すのであれば、当主代理権限の扱いを確認する必要があります。王都登記局に照会を出します」

「そんな大げさなことをしなくても」

「大げさではありません。家門代表権限に関わることです」

 ミレーヌは唇を尖らせた。

「もういいわ。お姉様の許可なんていらない。お父様だって、私が持っていくなら許してくださるもの」

 父は、今朝も熱が下がらなかった。

 署名どころか、長い話を聞くことも難しい。

 父の名前を都合のいい飾りにする妹を見て、胸の奥が少しだけ冷えた。

 けれど私は怒鳴らなかった。

 怒鳴っても、権限は移らない。

 怒鳴っても、登記簿は書き換わらない。

「承知しました」

 私は机の引き出しから、青い封蝋を取り出した。

「エレノア?」

「登記局に、家門印持ち出しの届出と、当主代理権限照合の依頼を送ります」

「そんなことをしたら、式に間に合わないじゃない!」

「照合が必要な契約を、本日結ぶのでしょう?」

 ミレーヌが黒檀の箱を胸に抱きしめた。

「お姉様って、本当に意地悪ね」

 私は答えなかった。

 意地悪ではない。

 手続きである。

 王都のランベルト伯爵邸は、白薔薇で飾られていた。

 庭園には薄絹の天幕が張られ、楽師たちが軽やかな曲を奏でている。貴族たちは午餐前の葡萄酒を手に、ミレーヌの美しさを褒めそやしていた。

 私は招待客ではなかった。

 正確には、ローデン侯爵家の一員として末席に名前だけがあった。だが、家門代表の席に私の名はない。挨拶の順にも、契約立会人の名簿にも、私の名はなかった。

 ミレーヌの隣には、婚約者のジェラルド・ランベルト伯爵令息が立っていた。

 金髪に青い瞳の、いかにも社交界で好まれる青年である。彼は妹の腰に手を添え、周囲に微笑みを振りまいていた。

「本日は、ローデン侯爵家とランベルト伯爵家の結びつきを祝う佳き日です」

 司式役の子爵が声を張った。

「ローデン侯爵家を代表して、ミレーヌ嬢よりご挨拶を」

 拍手が起こった。

 ミレーヌは誇らしげに前へ出た。

 母は目を潤ませ、従兄アルヴィンは満足げに頷いている。

 私は庭園の端、白い柱の陰に立っていた。

 そこは、契約卓から少し離れている。けれど、書類の表題くらいは見えた。

 婚姻契約書。

 持参金移転承認書。

 南部葡萄園担保設定書。

 王都商会保証契約書。

 四通。

 やはり、すべて出すつもりだったらしい。

「私、ミレーヌ・ローデンは、ローデン侯爵家の誇りを胸に、ランベルト伯爵家との未来をお約束いたします」

 ミレーヌの声は美しかった。

 人々はうっとりと聞き入っている。

「本日、我が家門の印をもって、この結びつきを確かなものといたします」

 黒檀の箱が開かれた。

 家門印が取り出される。

 銀の台座に、月桂樹をくわえた鷹。

 それを見た瞬間、何人かの貴族が小さくざわめいた。ローデン侯爵家の正式な家門印であることは、誰の目にも明らかだった。

 ミレーヌは誇らしげに印を持ち上げた。

 その時、契約卓の横に立っていた若い法務官が、一歩前に出た。

「お待ちください」

 庭園に、静けさが落ちた。

 法務官は濃紺の制服を着ていた。王都登記局の者が身につける、銀線入りの礼装である。

 名前は、リュシアン・ヴァルト。

 私は彼を知っていた。

 この三年、王都登記局の窓口で、何度も書類を受け取ってくれた法務官だ。彼はいつも余計な世辞を言わず、ただ正確に書類を確認した。

 私の署名の癖も、封蝋の色も、補記の位置も知っている人だった。

 リュシアンは契約書を手に取り、淡々と言った。

「こちらの書類には、ローデン侯爵家当主代理の署名がありません」

 ミレーヌの笑顔が固まった。

「印章がありますわ」

「印章のみでは効力を持ちません」

「ですが、これは正式な家門印です」

「はい。印章そのものは真正である可能性が高いと認めます。しかし、ローデン侯爵家は三年前、当主病臥に伴い、長女エレノア・ローデン嬢を正式な当主代理として王都登記局に登録しています」

 人々の視線が動いた。

 庭園の端にいる私へ。

 私は姿勢を正した。

 リュシアンは続けた。

「同家に関する婚姻承認、持参金移転、領地担保設定、商会保証には、当主または登録済み当主代理の自署が必要です。署名と印影が照合されて初めて、家門意思として認定されます」

「そんな細かいこと、あとで」

 ジェラルドが苛立ったように言った。

「本日は婚約式だ。形式は後日整えればいい」

「後日整えるのであれば、本日付での契約成立は認められません」

「だから、印はあると言っている!」

「印は、権限ではありません」

 リュシアンの声は穏やかだった。

 だが、その一言は庭園の空気を変えた。

 ミレーヌが助けを求めるように母を見た。

 母は慌てて私を探し、扇を握りしめたまま近づいてきた。

「エレノア。こちらへ来なさい」

 私はその場を動かなかった。

「エレノア!」

「何でしょうか、お母様」

「署名をしなさい。皆さまをお待たせしているのよ」

「どの立場で、でしょうか」

 母は言葉に詰まった。

「どの立場って……ローデン侯爵家の娘としてに決まっているでしょう」

「娘の署名では、家門契約は成立しません」

「なら、当主代理として署名しなさい」

「私は本日、家門代表として招かれておりません」

 周囲が息をのむ気配がした。

 私は母を見た。

 母の頬が赤くなっていく。

「そんな屁理屈を」

「屁理屈ではありません。契約立会人名簿にも、家門代表席にも、挨拶順にも、私の名はありませんでした。ローデン侯爵家代表は、ミレーヌとされています」

「それは、見栄えの問題で」

「家門代表は、見栄えで選ぶものではありません」

 母は震えた。

 ミレーヌが黒檀の箱を抱えたまま、私の方へ駆け寄ってきた。

「お姉様、お願い。今だけ署名して。ね? あとで好きなだけ書類を任せるから」

「今だけ、とは?」

「だって、もう皆さまの前で発表してしまったのよ。私が家門を代表するって。ここで止まったら、私が恥をかくわ」

「その代表としての責任を、理解していますか」

「責任?」

「持参金の移転は、侯爵家の財産を動かします。領地担保契約は、南部葡萄園の収穫権に影響します。商会保証は、ランベルト伯爵家が返済不能になった場合、ローデン侯爵家が債務を負います」

 ミレーヌは瞬きをした。

 まるで、初めて聞いた言葉のように。

「でも、それはお姉様が管理するのでしょう?」

「代表者として押印するなら、あなたが説明できなければなりません」

「そんなの、私の役目じゃないわ」

「では、なぜ家門代表として立ったのですか」

 ミレーヌの唇が震えた。

 その顔に浮かんでいたのは、怒りではなく、混乱だった。

 彼女は本当に知らなかったのだ。

 家門印を持ち、前に立ち、拍手を受けることが、家を動かすことだと思っていた。

 その後ろにある納税期限も、担保評価も、保証債務も、領民の暮らしも、何ひとつ見ていなかった。

「エレノア嬢」

 ジェラルドが声を低くした。

「これは両家の名誉に関わる。署名を拒めば、あなたにも不利益があるぞ」

「どのような不利益でしょうか」

「ローデン侯爵家は王太子派とのつながりを失う」

「契約書を確認した上で申し上げます。商会保証の限度額が空欄です。領地担保の評価額も、昨年度の収穫減が反映されていません。この状態で署名すれば、ローデン侯爵家は不確定債務を負う可能性があります」

 ジェラルドの顔色が変わった。

「細かい女だな」

「法務官の前で、契約書の不備を細かいとおっしゃいますか」

 リュシアンが一枚の書類を確認した。

「エレノア嬢の指摘は正当です。保証限度額の記載がありません。担保評価書も添付されていない。登記局としては、このまま受理できません」

 ランベルト伯爵家側の親族たちがざわめき始めた。

「聞いていないぞ」

「保証が通らなければ、王都商会からの融資も下りない」

「南部葡萄園の担保が目当てだったのではないか」

 ジェラルドの父であるランベルト伯爵が、厳しい顔で息子を見た。

「ジェラルド。説明しろ」

「父上、これは……ローデン家側が急に」

「急ではありません」

 私は静かに言った。

「家門印は、署名と照合して初めて効力を持つ。その規定は、王都貴族登記令の基本です」

 リュシアンが頷いた。

「その通りです」

 母が私の腕を掴もうとした。

 私は半歩下がった。

「エレノア、家を辱めるつもりなの?」

「家を辱める契約を止めております」

「あなたはいつもそう。自分だけ正しいような顔をして」

「正しい顔をしているつもりはありません。ただ、署名できない書類には署名しません」

「お父様なら許したわ」

「では、お父様のご署名をいただいてください」

 母は黙った。

 父が今、署名できる状態ではないことを、母も知っている。

 ミレーヌが小さく泣き出した。

「ひどい……お姉様は、私が幸せになるのが嫌なのね」

「いいえ」

「だったら、署名してよ」

「あなたの幸せのために、領地と商会保証を無条件で差し出すことはできません」

「私は妹なのよ」

「ええ」

「少しくらい譲ってくれてもいいでしょう?」

「私は三年間、譲れるものは譲ってきました」

 衣装も、席順も、母の関心も、父のわずかな笑顔も。

 けれど、家門代表の責任だけは譲れない。

 それを譲るということは、領地で暮らす人々の冬の備蓄まで、妹の飾りにするということだから。

「ですが、権限と責任は、飾りではありません」

 ミレーヌは顔を覆った。

 庭園の華やかな白薔薇が、急に紙細工のように見えた。

 婚約式は、中断された。

 ランベルト伯爵家は、契約不成立を理由にその場で協議延期を申し出た。だが、実質的には撤退だった。

 ジェラルドは最後まで不満げだったが、伯爵に強く叱責されると黙った。彼にとって必要だったのは、ミレーヌの美しさだけではない。ローデン侯爵家の持参金、領地担保、商会保証。そのすべてが揃って初めて、婚約に価値があったのだろう。

 ミレーヌは泣いていた。

 けれど、誰も彼女を大声で責めなかった。

 ただ、人々の目から、彼女が「家門を動かせる令嬢」ではないことだけが静かに消えていった。

 それは過激な断罪ではなかった。

 契約が成立しなかった。

 ただ、それだけだった。

 けれど貴族社会において、その「ただそれだけ」は十分に重かった。

 翌日、ローデン侯爵家では親族会議が開かれた。

 父は寝椅子に横たえられ、医師が傍らに控えていた。顔色は悪いが、意識ははっきりしている。

 母、ミレーヌ、従兄アルヴィン、叔父たち、家令、そして王都登記局から派遣されたリュシアン法務官が同席していた。

 私は、執務室の中央に立った。

 机の上には、過去三年分の当主代理署名記録が積まれている。

 納税完了証。

 領地水路改修契約。

 小作料減免申請。

 冬麦の備蓄報告。

 商会取引保証の取消通知。

 父の治療費に関する支出承認。

 すべて、私の署名がある。

 リュシアンが淡々と読み上げた。

「王都登記局の記録により、ローデン侯爵家当主代理はエレノア・ローデン嬢であると確認します。過去三年間、同代理による署名および押印は、いずれも規定に則り受理されています」

 叔父のひとりが咳払いをした。

「つまり、実務上はエレノアが当主の役目を果たしていたということか」

「実務上ではなく、登記上もです」

 リュシアンは答えた。

 父がゆっくりと私を見た。

「エレノア」

「はい、お父様」

「私は……知らなかった。ここまで、おまえが背負っていたとは」

 私は父の顔を見つめた。

 知らなかったのだろう。

 正確には、知ろうとしなかったのだ。

 病で倒れた父に多くを望むつもりはない。けれど、私が処理した書類には、毎月報告書を添えていた。枕元に置き、家令を通じて説明もしていた。

 それでも父の記憶に残ったのは、ミレーヌの舞踏会の話だった。

「おまえには、苦労をかけた」

「はい」

 私は否定しなかった。

 父がわずかに目を見開いた。

 たぶん、私が「そんなことはありません」と言うと思っていたのだろう。

 母が涙ぐんだ。

「エレノア、私たちが悪かったわ。あなたがそこまでしてくれていたなんて」

「報告はしておりました」

「でも、あなたは何も言わなかったじゃない」

「言いました。契約の期限も、納税の不足も、保証債務の危険も。けれど、お母様はミレーヌのドレス合わせがあるからと席を立たれました」

 母は口を閉じた。

 ミレーヌは俯いている。

 昨日まで輝いていた金の髪が、今日は少し乱れていた。

「お姉様」

 小さな声だった。

「私、知らなかったの。家門印が……ただ押せばいいものじゃないなんて」

「ええ」

「でも、誰も教えてくれなかったわ」

「学ぶ機会はありました」

 ミレーヌは顔を上げた。

 泣き腫らした目で、私を見た。

「お姉様は、私を嫌いなの?」

 少し考えた。

 嫌い。

 その言葉は、簡単で、便利だ。

 けれど私の感情は、そこまで単純ではなかった。

「私は、あなたが家門印を飾りだと思っていたことに失望しました」

 ミレーヌの肩が震えた。

「あなたが美しいことも、社交的であることも、価値のあることです。けれど、それは家門代表の責任を理解しなくてよい理由にはなりません」

「……はい」

「今後、家門に関わる場で発言したいなら、まず規定を学んでください」

 ミレーヌは泣きながら頷いた。

 過度に責めるつもりはなかった。

 彼女がしたことは軽率だった。だが、彼女をそう育てた家にも責任がある。

 そして私は、その家をこのまま支え続けるつもりはなかった。

「お父様。私は、当主代理権限の再確認を受けます。ただし、条件があります」

 父が頷いた。

「言いなさい」

「第一に、家門印の保管権限は、登記局登録に従い、当主代理である私に戻すこと」

「認める」

「第二に、家門に関する契約、婚姻承認、担保設定、保証契約について、私の審査を経ないものは一切提出しないこと」

「認める」

「第三に、ミレーヌの再婚約交渉について、家門財産を過度に持参金化しないこと」

 母が何か言いかけたが、父が手で制した。

「認める」

「第四に」

 私は一度、息を吸った。

「一年以内に、当主代理職を正式な家宰職へ移行し、私個人の俸給と退任権を明文化してください」

 部屋が静まり返った。

 母が青ざめた。

「退任権?」

「はい」

「エレノア、あなた、家を出るつもりなの?」

「必要であれば」

「そんな……私たちは家族でしょう」

「家族であることと、無償で責任を負い続けることは別です」

 リュシアンが静かにこちらを見ていた。

 その視線には、驚きではなく、理解があった。

 父は長く目を閉じた。

 そして、かすれた声で言った。

「認める。書面にしよう」

「ありがとうございます」

 私は頭を下げた。

 母は泣いていた。

 ミレーヌも泣いていた。

 けれど私は、もうその涙で署名することはなかった。

 親族会議が終わった後、私は王都登記局へ向かった。

 リュシアンが提出書類を受け取るため、馬車を用意してくれたのだ。

 馬車の中は静かだった。

 窓の外では、王都の石畳が夕暮れの色を帯びている。商人たちが店じまいを始め、遠くの鐘楼から六つの鐘が鳴った。

「本日は、お疲れさまでした」

 向かいに座るリュシアンが言った。

「ヴァルト法務官こそ、面倒な立会いをありがとうございました」

「面倒ではありません。登記局の職務です」

 その答えに、私は少し笑った。

「私と同じことをおっしゃるのですね」

「光栄です」

 彼は真面目な顔で言った。

 お世辞には聞こえなかった。

 沈黙が落ちる。

 けれど、不快ではなかった。

 リュシアンは、私を慰めようとはしなかった。家族を責める言葉も、私を過剰に称える言葉もなかった。

 ただ、書類鞄の留め具が外れかけているのに気づき、自然に直してくれた。

「エレノア嬢」

「はい」

「私は、三年前からあなたの署名を見ています」

 私は彼を見た。

「最初は、少し震えていました。お父上の病臥直後の、納税猶予申請書です。二度目は水路改修契約。三度目は、領民の疫病対策費の支出承認でした」

 覚えていた。

 あの頃の私は、夜明けまで書類を書き、朝になると登記局へ走っていた。間違いがあれば家が傾くと思って、指先が冷たくなるほど緊張していた。

「その後、署名は変わりました。迷いがなくなった。補記は正確で、添付書類も過不足がない。ローデン侯爵家の書類は、登記局内でも処理が早いことで知られています」

「それは……地味な評判ですね」

「ええ」

 リュシアンはわずかに笑った。

「ですが、国を支える評判です」

 胸の奥が、静かに温かくなった。

 華やかな賛辞ではない。

 美しいとも、可憐だとも、社交界の花だとも言われていない。

 けれど、私が積み重ねてきたものを、彼は見ていた。

 書類ばかりの灰色の日々を、誰かが仕事として認めていた。

「私は、あなたの署名が好きです」

「署名が、ですか」

「はい」

 彼は少しだけ耳を赤くした。

「正確で、責任を逃げない字です」

「変わった褒め方をなさるのですね」

「人を褒めるのは、あまり得意ではありません」

「そのようです」

 私がそう言うと、彼は困ったように笑った。

 馬車が登記局の前で止まった。

 石造りの建物には、夕日が斜めに差し込んでいる。私は書類鞄を抱えて降りようとした。

 その時、リュシアンが言った。

「エレノア嬢」

 振り返る。

 彼は馬車の中で、まっすぐに私を見ていた。

「あなたの署名が、この国でどれほど重いか、私は知っています」

 風が、登記局前の街路樹を揺らした。

 私は少しだけ目を伏せた。

 泣きたくなったわけではない。

 ただ、長い間、胸の奥で固まっていたものが、静かにほどけていくようだった。

「ありがとうございます」

 私はそう答えた。

 それ以上の言葉は、まだ早い気がした。

 けれど、彼もそれを急がなかった。

 数か月後、ローデン侯爵家の家門印は、再び私の執務室の奥に納められた。

 ただし、以前とは違う。

 保管簿が整えられ、使用時には家令と副署人の確認が必要になった。ミレーヌは王都登記令の初級講義に通い始めた。母はまだ時折、私に甘えた頼み方をしようとするが、そのたびに私は書面での申請を求めている。

 父は、私の俸給と退任権を正式に認める書類に署名した。

 その署名は震えていたが、確かに父自身のものだった。

 ランベルト伯爵家との縁談は消えた。

 ミレーヌはしばらく社交界で噂されたが、破滅したわけではない。彼女は今、以前より少し控えめなドレスを着て、相手の家名ではなく契約内容を確認することを覚えつつある。

 私は、ローデン侯爵家の当主代理であり、正式な家宰となった。

 そして週に一度、王都登記局へ通う。

 提出する書類は以前より少し減った。代わりに、帰り道にリュシアンと茶を飲む時間が増えた。

 派手な求婚はない。

 夜会で薔薇を贈られたわけでもない。

 けれど、彼は私の署名欄を空けた書類を差し出す時、いつも丁寧に言う。

「エレノア嬢、ご確認を」

 私はその言葉が好きだった。

 確認を求められること。

 判断を預けられること。

 責任ある者として扱われること。

 ある春の日、登記局の中庭で、リュシアンは小さな箱を差し出した。

 中には、銀のペン軸が入っていた。

「婚約の申し込みとしては、華やかさに欠けるかもしれません」

「かなり実務的ですね」

「あなたには、花より役に立つものを贈りたかった」

 私は銀のペン軸を手に取った。

 軽く、よく手に馴染む。

「お返事には、署名が必要ですか」

 私が尋ねると、リュシアンは真面目に頷いた。

「できれば。ですが、急ぎません。あなたがご自身の意思で署名してくださるまで待ちます」

 私は笑った。

 今度は、はっきりと。

「では、内容を確認します」

「はい」

「保証限度額は?」

「生涯。ただし、あなたの自由を損なわない範囲で」

「担保は?」

「私の信用と、登記局法務官としての俸給。それから、毎朝の紅茶を淹れる努力を」

「なかなか堅実ですね」

「派手な資産はありません」

「構いません。私も、派手なものは得意ではありませんから」

 春の光が、書類の白に似た柔らかさで降っていた。

 私は銀のペン軸を箱に戻さず、そのまま持った。

「リュシアン様」

「はい」

「その契約、前向きに審査いたします」

 彼は、初めて見るほど嬉しそうに笑った。

 その日、私はまだ署名をしなかった。

 大切な契約ほど、急いではならない。

 けれど、心はもう決まっていた。

 家門印は飾りではない。

 署名は、誰かに命じられて差し出すものではない。

 責任を知り、内容を読み、自分の意思で名を書くものだ。

 私はずっと、その重さを守ってきた。

 そしてこれからは、私自身の未来にも、私の署名を使う。

 静かな春風の中で、銀のペン軸が淡く光った。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


エレノアが守ってきたものは、家門印そのものではなく、その印に伴う責任と、署名に込められる意思でした。

静かな選択の先に、彼女自身の未来が開けていく結末を楽しんでいただけましたら幸いです。


面白かった、また別の物語も読んでみたいと思っていただけましたら、下の評価欄から応援していただけると大変励みになります。

ブックマーク、感想もお待ちしております。


現在、別作品として婚約式を題材にした異世界恋愛の連載も投稿中です。


そちらでは、婚約者に何度も後回しにされてきた令嬢が、婚約式をきっかけに自分の人生を取り戻していくお話になっています。

本作の雰囲気がお好きでしたら、ぜひそちらも覗いていただけますと嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ