内なる光
『駐屯都市』――軍の駐屯地を抱えるこの街には、多くの市民と軍人たちが暮らし、絶えず人が行き交っている。
まず目を引くのは、よく整った街並みだった。
通りには石畳が隙間なく敷きつめられ、多くの人々が絶え間なく行き交っている。
その流れの先、街の中央近くにある噴水広場は、いつになく賑わっていた。
東の泡沫の神が消えてから、この土地を避けていた人の流れが戻ってきたのだ。
見慣れたこの土地の人々に混じって、肌や髪の色、身なりの異なる旅人や行商人の姿も、目についた。
噴水広場には、色とりどりの布を張った露店が並んでいた。香ばしく焼けた菓子の甘い匂いと、香辛料の香りが風に混ざって漂っている。
大道芸人が、観客の輪の中央で、火のついた棒を回し、集まった人々を驚かせ、楽しませていた。
その向こうでは、講談師が、大仰な身振り手振りを交えながら昔話を語り、聞き手のあちこちから笑いが起こっていた。。
木陰に座った吟遊詩人は、リュートをつまびきながら、美しい歌を高らかに歌っていた。その歌声に惹かれた観客たちが、次々にリュートのケースへ金を落としていた。
「兄さん、甘い瓜、ひと切れどうだい?」
果物屋に呼び止められ、クロードは足を止めた。
「じゃあ、ひとつ」
店主は、手のひらほどもある黄色く熟れた瓜を手際よく切り分けると、ひと切れの皮を落とし、串を刺してクロードに渡してきた。
瓜はやわらかく、口の中でとろけた。噛むたびに、爽やかな甘みとみずみずしい香りが広がっていく。
「うまいな」
クロードがそう言うと、店主は嬉しそうに笑った。
「そうだろう、そうだろう。南の地方の特産だからな」
そのやり取りを見ていた道行く人々も、つられるように次々と瓜を買っていった。
クロードは、食べ終えた串を店主に返し、再び歩き出した。
「そこの帽子の兄さーん」
少し離れたところから声がした。
クロードは足を止め、辺りを見回した。だが、帽子をかぶっているのは、自分しかいない。
声のした方へ目を向けると、露店を出している若い店主が、こちらへ大きく手を振っていた。
「俺か?」
「そうそう。兄さんだよ」
鮮やかな敷物を大きく広げた露店だった。
この土地では、あまり見かけない布や、アクセサリー、雑貨がところ狭しと並んでいる。
若い店主は、十七歳ほどだろうか。クロードより頭ひとつ以上は低い、小柄で細身の少年だった。
肩より長い金髪にターバンを巻き、日に焼けた肌に白い歯をのぞかせて人懐こい笑みを浮かべている。身につけた服は鮮やかな色合いで、この土地の者より、ずっと華やかだ。敷物の上に並ぶ、布や飾りともよくなじみ、南の地方から来た商人だと、ひと目で知れた。
「なにか用か」
「用事も用事。兄さん、旅人だろ?」
「ああ」
「それなら、いいモンがある」
若い商人は、一枚のハンカチを取り上げると、クロードの前でぱっと広げてみせた。
「ジャジャーン。これはちょっとした怪我なら、たちまち治しちまう、魔法のハンカチさ」
クロードは、ただの客引きだったのかと苦笑し、見せられたハンカチを手に取った。
ふちを彩る刺繍を、目でゆっくり追う。
「このハンカチ、術具だな」
「おっ、帽子の兄さん詳しいね。そいつは、俺の故郷に伝わる、癒しの術式なんだ。俺の家族の手作りなんだぜ。どうだい、ひとつ」
若い商人が、手をもみながら、ずいっと顔を寄せてくる。
こういう人懐こさは、嫌いじゃない。
クロードは少し考えてから、わざと周囲にも聞こえるように声を張った。
「すごいな。ケガが治せるのか。ひとつ持っていれば、安心だな」
ややわざとらしかったが、その声に、周囲の人々が反応した。
近くにいた人たちが、興味を引かれたように次々と店へ寄ってくる。
「へぇ、ケガが治るなんて、いいじゃないか。アタシにも、ひとつおくれ」
「可愛い刺繍ね。私もいちまい買っちゃおうかな」
「かみさんが喜びそうだ。俺にもいちまいくれ」
「まいどっ!!」
若い商人は、次々に品を渡しながら、愛想よく声を張った。
ひと息ついたところで、いたずらっぽくクロードへウインクする。
「帽子の兄さん、サービスでお安くしとくぜ?」
クロードは少し笑って、小銭袋を取り出した。
「じゃあ、ひとつ」
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クロードは噴水広場を後にし、街の西側にある図書館へ向かった。
遺跡で見た、神世言と、あの花のような術式について、記された文献がないか調べるためだ。
自分の胸に刻まれた神道痕は、今まで文献で見たどの文字とも、並びも形も違っていた。
これは一体、何なのか。
クロードは、図書館の棚から本を取り出した。
静かな館内で、ページをめくりながら、記された文章を、ひとつずつ目で追っていった。
「そろそろ閉館です」
司書に声をかけられ、クロードは窓の外を見た。いつの間にか空は夕暮れに染まっていた。
「すまん。ありがとう」
クロードは、読んでいた本を棚へ戻し、出入り口のカウンターで銅貨を払い、図書館を後にした。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
どこかで夕食を食べてから宿へ戻ろう、と思い階段を下りている時だった。
階下から、聞き覚えのある声が飛んでくる。
「よう、帽子の兄さん」
目を向けると、あの若い商人が、人懐こい笑顔でこちらへ歩み寄ってきた。
「昼間はありがとな。兄さんのおかげで、あれからも売れ行きがよくてさ」
「良かったな」
「晩飯はもう食べた?」
「いや、これからだ」
そう答えると、若い商人は目を輝かせ、ぽんとクロードの背中を叩いた。
「兄さんには恩義がある。俺が奢るから、一緒に食べようぜ」
「いいのか? せっかくの売り上げが減るぞ」
「ああ。俺の故郷じゃ、商人は恩人をうまいものでもてなせって教わるんだ。そうすりゃ、ますます商売繁盛するってな」
白い歯を見せて笑う若い商人に、クロードは手を差し出した。
「クロードだ。旅をしている」
「俺はザック。南西地方から来た、売り出し中の商人さ」
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ザックに勧められた店へ入る。
扉をくぐったとたん、外とは違う、香辛料の混じった暖かな空気が肌に触れた。
店内は吹き抜けになっており、二階まで席がある。一階の隅には、南の地方で見られる、見慣れない形の葉をした木や草が飾られていた。
席は四人がけの丸テーブルでそろえられ、灯りはやや落とされている。その薄暗さが、南方らしい植物や調度をいっそう引き立てている。
駐屯都市にいながら、別の土地へ迷い込んだような気配を漂わせていた。
店員に案内され、ふたりは入口から少し奥まった席へ、腰を下ろした。
「なんでも好きなもんを頼んでくれ」
ザックが差し出したメニューを見て、クロードはわずかに眉を上げた。
「南方の料理は、食べたことがなくてな。名前だけ見ても、よく分からん。お前さんのおすすめでいい」
そう言ってメニューを返す。
「そっかぁ。クロードって、北方の人っぽいもんな」
ザックは店員を呼び、いくつかの料理を、手慣れた様子で注文した。
間もなく給仕が、クロードには果実酒を、ザックには冷えた果汁を運んできた。
ふたりは、それぞれグラスを持ち上げ、軽く打ち合わせる。澄んだ音が小さく鳴った。
「よき出会いを、神に感謝だな」
「ああ」
ザックの笑顔に、クロードもわずかに口元をゆるめた。
「俺はさ、南西にある、商人の街の出身なんだ。わが家は代々、行商人をやってんだ」
「南西……。もしかして……」
「知ってるの? 砂漠に飲まれた街」
「うわさで聞いたことがある」
「そう。大きな砂津波があったんだ。ひと晩で街全体が、砂に埋まっちまった」
ザックは、グラスの中の果汁をゆっくり揺らし、懐かしむように目を細めた。
「……大変だったな」
クロードの言葉に、ザックはすぐに、いつもの明るい笑顔になった。
「ま、三日前に予報が出てたから、街の人間はみんな、家財道具を持って逃げ出せたんだ。不幸中の幸いだな」
「砂津波の予報?」
「そう。砂漠の地域には、砂の動きを見張る役所があるんだ」
「すごいな」
「海辺の街にだって、波の動きを観察する役所があるだろ? あれと同じだよ」
「なるほど」
クロードは、果実酒に口をつけた。
ちょうどその時、給仕がワゴンに料理を乗せて運んできた。
料理が並べられると、テーブルの上に、香辛料と香草の豊かな香りが広がった。
焼きたての骨付き肉は、こんがりと焼き色をつけられ、香ばしい匂いを放っている。
やわらかく煮込まれた野菜は、とろりとしたスープをたっぷりまとい、白い湯気を立てていた。
揚げた野菜やいもも鮮やかに盛りつけられ、皿の上を明るく彩っている。
「遠慮なく食べてくれ」
「じゃ、ありがたく」
クロードは、手元の取り皿に、肉や揚げ野菜を取り分けた。
ザックも、すぐに自分の皿へ料理をよそい、骨付き肉を持ち上げると、大きな口でかぶりつく。
「うん、うまい」
「ああ。初めて食べる味だ」
クロードは、肉をフォークで押さえ、ナイフで切り分けて、口に運んだ。
「クロードはさ、どうして旅をしてるんだ?」
「俺か。……神道について調べている」
「えっ? 学者さん?」
「いや、個人的に調べているだけだ」
「ふうん」
視線をわずかに外して話すクロードを見て、ザックは「なんのために?」という疑問を、肉と一緒に飲み込んだ。
「神道っていえば、東の泡沫の神が消えたってな」
「ああ、そのようだな」
「あれは、どこにわくか分からないのがやっかいだよな。俺みたいな行商人にとっちゃ、厄災だよ」
そこへ、香ばしい炒め物と、豆の煮物が追加で運ばれてきて、手際よく空いた皿と差し替えられた。
クロードは、追加でワインを頼み、スープを口に運んだ。
「ま、消えてくれたおかげで、この街にも行商に来れたんだけど」
「お前さんは、商売がうまいな」
「そりゃな。俺は将来、大商人になるんだ。砂に埋まった故郷を取り戻して、あそこを緑のオアシスにするのが夢なんだ」
目を輝かせて語るザックを見て、クロードは眩しいものを見るように笑みを深くした。
それからふたりは、互いの旅の話を交わしながら料理を食べ進めた。
「クロード、今日は楽しかったよ。まだしばらくは、この街の広場で露店を出してるから、見かけたら寄ってくれ」
「ああ」
店から出ると、夜の街も、そろそろ眠りにつく頃だった。
「あ、そうだ。俺の店に来たら、帽子を脱いでくれ。あんた男前だから、店先にいてくれたら、ますます売り上げが上がりそうだ」
「はは、そうしよう」
クロードは、ザックに小さく手を挙げて、別れた。
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それから、クロードが広場を通るたびに、ザックは軽く手を挙げて笑った。
クロードも、ときおり店へ足を向けては、少し控えめに帽子を脱いでみせた。
「あんた、本当にいいやつだなぁ。おかげで今日もお姉さま方がたくさん買っていってくれたぜ」
「よせ」
茶化すように言うザックに、クロードはうつむき、フラップキャップを被り直した。
その時、手前に置かれていた二本のブレスレットが目に入った。
二本とも、赤とオレンジの太い紐が編み込まれ、途中には、術具に使われる特別な石━━玉が三つずつ組み込まれている。
クロードは引っかかるものを覚え、それをそっと持ち上げた。
「おっ、お目が高い!! それは昨日仕入れた品だぜ」
クロードは、腰のポーチからルーペを取り出し、玉をのぞき込んだ。
きらめく砂を閉じ込めた美しい石の奥に、文字らしきものがかすかに見える。
「これは、術具か?」
「えっ? そんな話は聞いてないけど」
「誰から仕入れた?」
「あっちに店を出してる、青い髪の商人仲間からだけど……」
クロードは振り返り、噴水広場の端にある、小さな露店の店主を見た。
青い髪をした、まだ少年と呼べるほどの若い店主と、一瞬だけ目が合う。
しかし、向こうはすぐに視線をそらした。
「これは売れたか?」
「いや、まだ売れてないけど……もしかして、まずいやつ?」
ザックは笑みを消し、声をひそめて聞いてきた。
「いや、分からん。だが、お前さんは、これが術具だと知らずに仕入れたんだろ?」
「うん」
「説明できない品は売るな。術具なら、なおさらだ」
クロードの警告に、ザックは素直にうなずいた。
「分かった。でも、なんの術具か気になるから、クロード、調べてくれないか?」
「協力しよう」
「単なるお守りの可能性もあるしな」
そう言ってザックは、ためしにブレスレットをはめてみた。
「あっ」
玉が一瞬だけ鋭く光り、ブレスレットは、手首に吸いつくように締まった。
「あーあ……」
ザックは、「しまった」という顔で、ブレスレットがはまった手を振った。
しかし、ブレスレットは、手首にぴったりと吸いついたまま、びくとも動かない。
「ザック、大丈夫か?」
「うん。特に変わったことはないけど」
その言葉に、クロードは小さく息を吐いた。
手の中に残った、もうひとつのブレスレットへ、視線を落とす。
その時、三つの玉が、ぎょろりと目玉に見えた。
「……っ」
クロードは、反射的にブレスレットを取り落とした。
「どうした? クロード」
だが、もう一度見れば、そこにあるのは、ただの玉に戻ったブレスレットだった。
「……いや。詳しそうな知り合いを当たってみよう」
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街の南に広がる住宅街の一角に、小さな私設の医院がある。
古びた白い二階建ての建物で、この街で、昔から診療を続けている医院だ。
「医院長、いるか?」
クロードは玄関ドアを開け、並べられたベッドの間を進んだ。
奥の診察室へ入ると、消毒液の匂いが鼻をついた。
「なんじゃ。クロード」
「おや、クロードくん」
衝立の向こうに、禿げた頭と丸く立派な腹をした白衣の医院長と、痩せた身体にぶかぶかの衣をまとった金髪の薬師がいた。
机の上には酒瓶とグラスが置かれている。昼間から酒を飲んでいたらしい。
薬師の姿を見て、クロードは警戒するように口を引き結んだ。
それを見た薬師は、喉を鳴らして笑う。
「まーた、碌でもないことに首を突っ込んどるんじゃろ」
医院長は鼻を鳴らし、グラスの酒をひと口飲んだ。
クロードは外套のポケットから、ザックから預かったブレスレットを取り出した。
「これが、何の術具か分からないか?」
医院長はそれをちらりと見たが、興味もなさそうにグラスへ口をつけた。
「ワシは術具の専門家じゃないからな。分からんわい」
クロードは反対のポケットから、小ぶりのウイスキー瓶を取り出し、医院長の鼻先にちらつかせた。
医院長はひとつ咳払いをして、それを受け取る。
「どれ、貸してみろ」
医院長はブレスレットを手に取ると、窓から差し込む光にかざし、目を細めた。
薬師は、医院長の後ろから両肩へ手を置き、覗き込むように玉を見つめる。
「砂金の混じった玉か」
「面白いねぇ、実に面白い」
薬師は手を伸ばし、玉のひとつを指先でつまんだ。
「どうだ? 医院長」
「クロードくん、これは実に面白い物だよ。ヒヒヒ」
薬師が甲高い声で笑う。
医院長もようやくブレスレットから目を離し、クロードを振り返った。
「こいつは呪術の道具じゃな。砂金や砂銀の混じった玉は、だいたいそうじゃ」
「そうそう。銀じゃなく金が使われているから、結構値の張る呪術道具だね」
「……呪術」
クロード脳裏に、ブレスレットがザックの手首に吸いついた光景がよみがえる。
「悪い物か?」
「呪術道具なんぞ、だいたい碌でもないもんじゃろ」
「どれ、僕によく見せて」
薬師は医院長の手からブレスレットを取り上げ、目を近づけて見た。
「文字が書かれてるねぇ。これは神世言だね。ふむ、これは“魂”、これは“死”。あとひとつは……よく分からないなぁ」
そう言いながら、薬師は左手の指先で、見た文字をテーブルになぞるように何度も書いた。
「薬師、神世言が読めるのか?」
「わずかにね。そう、よく見る文字のいくつかは読めるよ。ただ、神世言には規則性がない。だから、文字ひとつずつしか理解していないがね」
そう言いながらも、薬師の左手は、まるで何かに動かされているかのように、素早く同じ文字を何度もテーブルへ書き続けていた。
クロードは、薬師の左手の奇妙な動きから視線を外し、ブレスレットを見た。
「ねぇ君、魂、死と続けば、あとひとつの玉にどんな文字が刻まれていると思う?」
「魂……死……」
「僕はねぇ、これは蘇生を妨げる呪術道具だと思うんだよ。ヒヒヒ……だって、考えてもみたまえよ。魂、死、と来て、その次が生だなんて、そんな都合のいい話があると思うかい? あると思う? 僕は思わないねぇ、まるで思わない」
「……しかし、そんな呪術道具なんて、聞いたことがない」
クロードの反論に、薬師はひときわ甲高い声で笑った。
「ヒヒヒ……聞いたことがない、だって? それは君が無知で純粋だからだねぇ。自分が知らない、見たことがない、触れたことがない――だから存在しない。そう考えるんだろう? おお、なんとまあ単純で、なんとまあ愛らしい思考だろうねぇ。浅い、浅いよ。あまりにも浅はかだ」
「言い過ぎじゃ」
医院長は、クロードが持って来たウイスキーを、自分のグラスに注ぎながら、たしなめた。
薬師は、その言葉で、今さら気づいたように目を丸くした。
そして、クロードの目の前にブレスレットをつまんで差し出し、唇の端を吊り上げて笑う。
「おお、これは失敬、失敬。君があまりに愛らしいものでねぇ」
「…………」
「覚えておきたまえ。この世には、いや、あの世にも、君が想像もしない悪意が存在する。善は空の上だ。上るのは並大抵ではない。フヒヒ……しかし、悪は崖の下だ。落ちるだけでいい。そして人は、苦労して上ることより、楽に落ちることを選ぶ者が多い」
クロードにブレスレットを手渡すと、薬師はなにやら納得したように何度かうなずき、診察室を後にした。
その背中をクロードは睨んでいたが、医院長に「まぁ、座れ」と促されて、木の椅子へ腰を下ろした。
「あいつはな、蘇生のたびに性格がややこしくなっとるんじゃ」
「蘇生のたびに……?」
「まぁ、なんだ。あいつは薬の人体実験を自分の体でしとるからな。ここにも、しょっちゅう運ばれとる」
クロードは複雑な顔になり、薬師の出ていった方へ目を向けた。
「それでの、お前さんが差し入れ付きで持ち込んだっちゅうことは、なにか困ったことが起きたんじゃろ?」
「……ああ。友人が、その呪術道具をはめたまま、取れなくなった」
「ほう。友人、か」
「……なにが言いたい」
「そんな怖い顔して照れるな。とりあえず、ワシのつてで外せんか探してみよう」
「頼む」
クロードはフラップキャップのつばを引き下げ、目元を隠した。
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夕刻に医院を出たクロードは、広場の露店を見に行った。
もう時間も遅く、店の数はだいぶまばらになっている。
ザックの店でも、ちょうど品物を片付けているところだった。
「よ、クロード」
「あれから、変わりないか?」
ザックは、ブレスレットが吸いついたままの手首をクロードへ見せた。
「なんともないぜ」
「そうか」
「おっ? もしかしてクロード、心配してくれてるのか?」
「当たり前だ」
まっすぐな返答に、ザックは照れたように頭を掻いた。
「でもさ、ちょっと風邪でも引いたのか、だるいんだよね。明日は店を休むかも」
「無理はするな」
クロードは、困った時はここへ連絡しろと書いたメモを渡し、ザックと別れた。
広場を抜ける石階段の方へ進むと、あの青い髪の少年店主の小さな露店が、まだ店を開いていた。
夕食時だからか、雑貨屋に足を止める客はいない。少年店主は道行く人々を、ぼんやりと眺めている。
クロードは階段を上がり、少し離れたところからその露店を観察した。
アクセサリー、食器、靴、服――さまざまな品が雑多に並んでいる。
同じ雑貨屋でも、ザックの店とは違う。誰に売りたいのか、客層の読めない品ぞろえだった。
クロードは、そこに小さな引っかかりを覚えた。
薬師は、ブレスレットに使われている玉は、砂金の混じった高価なものだと言っていた。
だが、青い髪の少年店主が並べている雑貨に、高値がつきそうな品は見当たらない。
ザックは、この少年店主から仕入れたと言っていた。ならば、あのブレスレットは、少年店主がどこから手に入れた物なのか。
クロードが見ていると、ひとりの女が露店の前に立ち止まった。
青い髪の少年店主に話しかけ、いくつかのアクセサリーを手に取って見ている。
「ブレスレットはないかしら。明日お茶会があるから、おしゃれしていきたいのよね」
ブレスレットと聞いた少年店主は、ほんのわずかに顔をこわばらせた。
だが、女はそんなことには気づかず、差し出された品を楽しそうに選んでいる。
「これ、いいわね。これをもらうわ」
女は気に入ったビーズ細工のブレスレットを買い、足取りも軽く去っていった。
クロードも、そろそろ晩飯を食べて宿へ戻るかと、広場を後にした。
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その夜、クロードが風呂から戻ると、部屋のドアの下の隙間に、一枚の紙が差し込まれていた。
「……これは?」
紙を開くと、そこには店の名と場所だけが書かれていた。
クロードは廊下を見回したが、もう誰の姿もなかった。
文字に見覚えはない。だが、医院長の知り合いがよこしたものかもしれない。
「行くか」
外套とフラップキャップを身につける。
用心のため、リュックからナイフを取り出し、革のナイフケースを腰に装着した。
メモに記されていたのは、宿から北側にある軍の駐屯地のそばだった。
大きな敷地を誇る駐屯地の近くには、いくつかの商店と住宅街がある。だが、夜も更けたこの時間には、ほとんど人の姿はなかった。
「ここか」
家々に囲まれた公園のそばに、小さな店があった。
色ガラスの向こうから、薄暗いオレンジ色の光が漏れている。
クロードはそこへ歩み寄り、ドアノッカーを鳴らした。
しばらくして、年寄りの女の声がした。
「お入り」
「じゃまをする」
店内には、一人の老婆がいた。背中は曲がり、クロードの腰くらいしか背丈がない。白髪の長い髪は、頭から被った黒いレースのベールより長かった。
そのベールの奥から、遠慮なく値踏みするような視線がクロードへ向けられる。
「客かい?」
「あんた、これを知らないか?」
クロードはポケットからブレスレットを取り出して見せた。
老婆は、左半分の顔が動かないのか、右目だけを大きく見開き、ブレスレットとクロードを交互に見た。
「これ、どうした?」
低く唸るような老婆の声を聞き、クロードは確信した。
「知ってるんだな」
「逆に聞くがねぇ、兄さんは、これが何か分かってて持って来たのかい?」
「いや」
「そうだろうねぇ」
「友人が、これを手首につけたら、外れなくなった。外し方を知りたい」
「ほう」
老婆は、動かない左の頬をさすりながら、右の唇をつり上げた。
「で、それを教えるアタシのメリットは、何だろうねえ?」
「このブレスレットは高価なものだと聞いた。これと、金でどうだ?」
「ふん。なら、金貨二枚で手を打ってやろう」
「……分かった」
クロードは、腰のポーチから革のコインケースを取り出し、金貨二枚とブレスレットを老婆の前に差し出した。
「話してくれ」
老婆は、金貨同士をぶつけて鳴らした。
その澄んだ音に満足したのか、右の口元をつり上げて笑う。
「これはね、つけた人間の命を削る呪術道具さ。そして、それをつけているってことは――殺される目印だってことさ」
「なにっ」
「昔からある暗殺道具のひとつさね。裏の世界じゃ、それほど珍しいもんでもないよ」
老婆は右手を差し出し、さらにクロードへ金を要求した。
クロードは小銭袋から銀貨を一枚、二枚と置いていく。三枚目で、老婆はその銀貨を握りしめた。
「三日前、青い髪の男の子が来たよ。どこでここを知ったかは知らない。いなくなってほしい商売敵がいると言っていた。アイツのせいで自分の店がうまくいかない、アイツのせいだと、何度もね」
「まさか、そんなことで、こんな暗殺道具を?」
老婆は、面白いものでも思い出したかのように小さく笑った。
「アタシは、金に見合った物を売るのが商売さ。あの子どもは、それだけの金を出したってことだよ」
「そんな……」
クロードの頬を、汗が伝い落ちた。
「このブレスレットは、つけた者を弱らせる。そして、この街に潜む誰かが仕留める」
老婆は、再び右手を差し出した。
クロードはしばらく老婆を睨んでいたが、銀貨を五枚、その手のひらに乗せた。
老婆は素早く銀貨を握り込む。
「こいつは、蘇生阻害の呪術道具でもある。一度吸いついたら、もう外れない」
「……っ」
クロードの体がこわばった。
「可哀想だけど、アンタのお友達はもうすぐ死ぬ。そして、蘇生は起きない」
立ち尽くすクロードに、老婆は背を向けた。
「話はここまでだ。帰りな」
店の奥のカーテンを持ち上げ、老婆は一度だけ振り向く。
「もう、こんな所に来るんじゃないよ。アンタみたいな人間が関わる世界じゃない」
そう言って、老婆はカーテンの向こうへ消えた。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
クロードは、宿に戻る前に医院へ寄った。
古びた木の玄関ドアを、強く叩く。
しばらくして、中から鍵を開ける音がし、ドアが開いた。
「こんな夜中になんじゃ」
「医院長……。あのブレスレット……」
クロードのいつになく焦った声に、医院長は顎をしゃくって中へ入るように示した。
「さっき、影から話は聞いた」
医院長の言葉に、クロードは両手を握りしめてうつむく。
「あの婆さん、まだ裏の世界におったんじゃな」
「知り合いか?」
「いや、あの婆さんは昔から、裏の世界の入り口をやっとる」
「……ザックが……」
「まぁ、そう焦るな。まだ手はあるかもしれん」
「……でも」
医院長は診察室から、水の入ったグラスを持ってきた。
クロードはそれを受け取り、一気に飲む。
緊張で喉が渇いていたことに、今さら気づいた。
「お前さんに、影をつける」
「いや、俺よりザックに……」
「もう、つけとるわい」
「…………」
医院長は思案するように目を閉じた。
「厄介なことになったの」
「どうすれば……」
空になったグラスを見つめながら、クロードが呟く。
その時、窓の外を黒い人影がよぎった。
医院長はそれをひと目見るなり、クロードの手からグラスを取り上げた。
「クロード、急げ。広場の近くへザックが向かったらしい」
「なにっ」
クロードは、外套をはためかせて駆け出した。
━━━━━ * * * * * ━━━━━
夜更けの、ひとけのない広場に、ザックと青い髪の少年がいた。
ザックは、少ない明かりの中でも分かるほど顔色が悪い。肩で息をし、立っているだけでもつらそうだった。
「なぁ、お前さ、なんでこんな物を俺に売ってきたんだ?」
「…………」
ザックが手首のブレスレットを見せると、青髪の少年は、目線を外し、自分の足元を見た。
「これ、術具なんだろ? 知らなかったのか?」
なおも押し黙る青い髪の少年に、ザックがふらつきながら一歩近づく。
「これをつけてから、おかしいんだ。まるで病気になっちまったみたいに、体が重い。こんな物を人様に売ってたら、大変なことになってた」
「……いい……気味だ」
「なに……?」
青い髪の少年は、きつくつり上がった目でザックを睨んだ。
「いい気味だ!! なんだよ!! お前の店には、いつもいつも客があふれてて。俺の店には全然……。少しは困ればいいんだ!!」
「お前、なにを言って……」
青い髪の少年は、歪んだ笑みを浮かべた。
「それを客に売って、お前が困ればいいと思ってた。まさか、お前が着けることになるなんて、思ってなかったけど」
「そんな……」
身体に力が入らず、ザックは片膝をついた。
「情けねぇ……。商売仲間だと思ってた……のに」
「はっ。商売仲間!? そんな甘ちゃんだから、食い物にされるんだよ」
「ザック!!」
石階段を下り、クロードが駆けてくる。
青い髪の少年は、その場から逃げようと身を翻した。
「クロード……」
ザックがクロードの声に顔を上げた、その時だった。
木立の陰で、なにかが動く。
ひゅっ、と空気を裂く音。
ザックの体が仰け反った。
背中に、矢が深々と突き刺さっている。
「くそ!!」
クロードは腰のナイフを抜き、何者かが潜んでいた木の陰へ走り寄る。
しかし、そこにはもう人影はなかった。
「クロー……ド」
弱々しい声で呼びかけ、ザックはその場に倒れた。
「ザック!!」
クロードは慌ててザックに駆け寄り、抱き起こす。
ザックは、ひゅう、ひゅう、と浅い呼吸を繰り返していた。
「クロード……いやだ……俺……死にたく……ない……」
「ザック、しっかりしろ!!」
「……故郷……に」
最後の息と共にこぼれた言葉は、もう形を成さなかった。
「ザック、ザーック!!」
クロードは、動かなくなった身体を強く抱き寄せた。
その背後で、乾いた笑いがした。
「は……はは……」
青い髪の少年だった。
ザックを抱きしめたまま、クロードは少年を睨みつける。
「気が済んだか」
「……え?」
「これで満足か!! ええ!?」
クロードのあまりの気迫に、青髪の少年は「ひっ」と悲鳴を上げて走り去った。
その足音が遠ざかるのを聞きながら、クロードは腕の中のザックの頬を叩く。
しかし、もうザックは動かなかった。
「ザック、お前、故郷をオアシスにするんだろう? なあ?」
その時、ザックの手首のブレスレットが脈打つように明滅を始めた。
クロードはその手を取り、ブレスレットごと強く握りしめた。
「……っ!?」
ザックの手首に吸い付いたままのブレスレットが、光る。
その明かりに呼応するように、クロードの胸の奥で、どくん、と嫌な鼓動が跳ねた。
次の瞬間、クロードの服の下に隠れていた神道痕が、内側から青く脈打つように、光を放った。
「――っ!?」
クロードは息を呑み、反射的にザックの身体を地面へ横たえる。
胸元から漏れた光は、夜の広場でもはっきりと見て取れるほど強く、布越しに五重の円を浮かび上がらせていた。
神道痕を形作る神世言の円環は、それぞれが違う速さで回転している。
ひとつはゆるやかに、ひとつは激しく、ひとつは逆巻くように。
まるで、胸の内に閉じ込められていた何かが、ばらばらの意志を持って目覚めたかのようだった。
「う、あ……!!」
その瞬間、焼けた鉄を押し込まれたような熱が、クロードの身の内を一気に駆け巡った。
胸の中心が灼ける。
肺が焼ける。
骨の髄まで焼き尽くされるような熱に、クロードは歯を食いしばった。
神道痕の中央から、細い光の筋が流れ出す。
それはまるで生き物のようにうねりながら、ザックの手を握るクロードの腕へ走り、血管をなぞるように皮膚の下へ広がっていった。
「が、ああ……!!」
耐えきれぬ苦痛に、クロードは目を見開く。
その瞳の奥で、赤い光が燃え上がった。
くすんだ灰色の瞳は真紅に染まり、暗がりの中で異様なほど鮮やかに輝いている。
光はクロードの手からザックの手首へ流れ込み、食い込んだブレスレットを包み込んだ。
玉の奥に閉じ込められていた文字が、怯えたように明滅する。
次いで、乾いた破裂音が夜気を裂いた。
ぱきり、と。
ひとつ目の玉が割れる。
続けざまに、ふたつ、みっつ。
砂金の混じった玉は、内側から砕けるように亀裂を走らせ、紐も耐えきれずにぶつりとちぎれた。
切れたブレスレットが、ザックの手首から石畳へ落ちる。
ザックの指先が、ぴくりと震えた。
クロードの荒い呼吸だけが響く中、ザックの閉じていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
「……クロー、ド……?」
かすれた声だった。
焦点の定まらない目が、覆いかぶさるクロードを映す。
皮膚の下を走る血管をなぞるように、クロードの身体はなおも青白く発光していた。
胸元の神道痕は眩しく燃え、赤く光る瞳だけが、まるで人ならざるもののように、闇の中に浮かんでいる。
ザックが見たのは、いつもの無愛想な旅人ではなかった。
何か得体の知れない、神に近いものへ触れてしまったような、異様なクロードの姿だった。
「……クロード……」
その呼び声も、クロードにはひどく遠く、濁って聞こえた。
熱い。
痛い。
意識が、胸の光に引きずられていく。
ぐらりと視界が揺れる。
ザックの顔も、夜の広場も、石畳も、すべてが遠ざかっていった。
次の瞬間、クロードの身体から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
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目を開けると、そこには見慣れない白い天井があった。
クロードは、しばらくそれをぼんやりと眺めていた。
「クロード」
隣から声がした。
視線を動かすのも億劫なほど、身体がだるい。
声の主が、もう一度クロードを呼ぶ。
「なあ、クロード。大丈夫かよ」
その声で、ぼやけていた意識が一気に浮かび上がった。
クロードは、声のした方へ目を向ける。
「ザック……」
「よかった。おーい!! 飲んだくれの先生ー!! クロードが目ぇ覚ましたよ!!」
ザックは、クロードの右隣のベッドで身を起こし、奥の診察室へ呼びかけた。
「そんな大声出さんでも聞こえとるわい」
奥から出てきた医院長は、ザックの頭をぽんと叩き、クロードの方へ歩いてくる。
「医院長……。俺は……?」
「ふむ。ワシのことが分かるなら、頭はまだ大丈夫なようじゃ」
なにを言われているのか、すぐには呑み込めず、クロードは困惑して眉を寄せた。
「ザック、大丈夫なのか?」
「おう。気がついたらクロードが倒れてて、あのブレスレットも取れてた」
「ブレスレット……!!」
クロードは勢いよく身を起こしたが、ひどい頭痛と胸の奥の痛みに襲われ、そのままうずくまった。
「ばかもん。無理するな」
「そうだよ。あんた、丸一日目ぇ覚まさなかったんだぜ?」
ザックの言葉に、クロードは再びベッドへ身を横たえた。
聞きたいことがある。
自分の身に何が起きたのか。
どうやってブレスレットが外れたのか。
なぜザックは蘇生したのか。
そして、ザックはなにを見たのか。
自分の胸の神道痕が起動したのか。
しかしそれを知ることは、なにか恐ろしいものを知ってしまうような気がして、クロードは口をつぐんだ。
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翌朝、ザックはこの街を発つことになった。
命を狙われた以上、いつまでもこの街に留まっているのは危ない。医院長の言葉は重かった。
道中でまた狙われるのではないかとクロードが口にすると、医院長はあっさりと言った。
「ワシの知り合いの商人が、次の町まで同行する。心配するな」
クロードは医院長とともに、街の門までザックを見送りに来ていた。
ザックは旅装束に身を包み、大きなしょいこを背負って立っている。
顔色はだいぶ戻っていたが、まだどこか本調子ではないようだった。
それでも、いつものように白い歯を見せ、人懐こい笑みを浮かべている。
「せっかく友達になったのに、寂しいな」
ザックは名残惜しそうに笑った。
「また旅先で会えるさ」
クロードが静かに返すと、ザックは「そっか」と小さく頷いた。
門の外では、医院長の知り合いの商人が、ザックと同じように大きなしょいこを担いで待っていた。
人のよさそうな笑顔でクロードたちに会釈する。最後に医院長と目を合わせると、医院長は無言で軽く顎をしゃくった。商人は笑顔のまま、静かにうなずく。
ただの同行者ではないことは、クロードにも分かった。
少しの沈黙が落ちる。
クロードは口を開きかけ、すぐに閉じた。
それでも、胸の奥に引っかかったままの疑問を、どうしても飲み込めなかった。
「……ザック」
ザックが顔を上げる。
「お前さん、目が覚めた時……何か見たか?」
言いづらそうに、クロードはそう尋ねた。
ザックは、わずかのあいだ目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げ、まっすぐクロードを見る。
「俺は、なにも見てないよ」
その返事に、クロードはしばらく黙ってザックを見つめていた。
ザックの顔には、いつもの明るい笑みがあった。けれど、その笑みの奥に、なにかを飲み込んだ気配があることも、クロードには分かった。
「……そうか」
結局、それ以上は聞かなかった。
ザックもなにも言わず、しょいこを背負い直した。
「んじゃ、行くよ」
ザックはそう言って歩き出す。
同行する商人も、無言のままその隣へつき、門の外へ足を向けた。
数歩進んだところで、ザックが振り返る。
「クロード、またな!!」
「ああ。ザック、また」
ザックは大きく手を振り、今度こそ前を向いた。
朝の光を浴びながら、その背中は少しずつ遠ざかっていく。
やがてその姿が見えなくなると、隣で見送っていた医院長が、ふんと鼻を鳴らした。
「クロード。お前さんにしては、ずいぶん情が移っとるじゃないか」
からかうような声だった。
クロードはしばらく無言のまま、医院長を睨みつけていた。
だが、やがてフラップキャップのつばを引き下げ、目元を隠す。
「……友人、だからな」
医院長は、それを聞いて小さく笑う。
クロードは、つばの影に目元を隠したまま、ザックが去っていった方をいつまでも見ていた。
朝の光はやわらかく、街道の先まで明るく照らしていた。
空は、どこまでも青く晴れ渡っていた。
その眩しさに、クロードはわずかに目を細める。
胸の奥には、まだ鈍い痛みが残っていた。
それでも、あの背中が無事に遠ざかっていったことだけは、確かな救いだった。
クロードはそっと息を吐くと、帽子のつばを押さえたまま、静かに踵を返した。
━ 終 ━




