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内なる光

 『駐屯都市』――軍の駐屯地を抱えるこの街には、多くの市民と軍人たちが暮らし、絶えず人が行き交っている。


 まず目を引くのは、よく整った街並みだった。

 通りには石畳が隙間なく敷きつめられ、多くの人々が絶え間なく行き交っている。


 その流れの先、街の中央近くにある噴水広場は、いつになく賑わっていた。


 東の泡沫の神が消えてから、この土地を避けていた人の流れが戻ってきたのだ。


 見慣れたこの土地の人々に混じって、肌や髪の色、身なりの異なる旅人や行商人の姿も、目についた。


 噴水広場には、色とりどりの布を張った露店が並んでいた。香ばしく焼けた菓子の甘い匂いと、香辛料の香りが風に混ざって漂っている。


 大道芸人が、観客の輪の中央で、火のついた棒を回し、集まった人々を驚かせ、楽しませていた。


 その向こうでは、講談師が、大仰な身振り手振りを交えながら昔話を語り、聞き手のあちこちから笑いが起こっていた。。


 木陰に座った吟遊詩人は、リュートをつまびきながら、美しい歌を高らかに歌っていた。その歌声に惹かれた観客たちが、次々にリュートのケースへ金を落としていた。


「兄さん、甘い瓜、ひと切れどうだい?」


 果物屋に呼び止められ、クロードは足を止めた。

「じゃあ、ひとつ」


 店主は、手のひらほどもある黄色く熟れた瓜を手際よく切り分けると、ひと切れの皮を落とし、串を刺してクロードに渡してきた。


 瓜はやわらかく、口の中でとろけた。噛むたびに、爽やかな甘みとみずみずしい香りが広がっていく。


「うまいな」


 クロードがそう言うと、店主は嬉しそうに笑った。


「そうだろう、そうだろう。南の地方の特産だからな」


 そのやり取りを見ていた道行く人々も、つられるように次々と瓜を買っていった。


 クロードは、食べ終えた串を店主に返し、再び歩き出した。


「そこの帽子の兄さーん」


 少し離れたところから声がした。

 クロードは足を止め、辺りを見回した。だが、帽子をかぶっているのは、自分しかいない。

 声のした方へ目を向けると、露店を出している若い店主が、こちらへ大きく手を振っていた。


「俺か?」

「そうそう。兄さんだよ」


 鮮やかな敷物を大きく広げた露店だった。

 この土地では、あまり見かけない布や、アクセサリー、雑貨がところ狭しと並んでいる。


 若い店主は、十七歳ほどだろうか。クロードより頭ひとつ以上は低い、小柄で細身の少年だった。


 肩より長い金髪にターバンを巻き、日に焼けた肌に白い歯をのぞかせて人懐こい笑みを浮かべている。身につけた服は鮮やかな色合いで、この土地の者より、ずっと華やかだ。敷物の上に並ぶ、布や飾りともよくなじみ、南の地方から来た商人だと、ひと目で知れた。


「なにか用か」

「用事も用事。兄さん、旅人だろ?」

「ああ」

「それなら、いいモンがある」


 若い商人は、一枚のハンカチを取り上げると、クロードの前でぱっと広げてみせた。


「ジャジャーン。これはちょっとした怪我なら、たちまち治しちまう、魔法のハンカチさ」


 クロードは、ただの客引きだったのかと苦笑し、見せられたハンカチを手に取った。

 ふちを彩る刺繍を、目でゆっくり追う。


「このハンカチ、術具だな」

「おっ、帽子の兄さん詳しいね。そいつは、俺の故郷に伝わる、癒しの術式なんだ。俺の家族の手作りなんだぜ。どうだい、ひとつ」


 若い商人が、手をもみながら、ずいっと顔を寄せてくる。

 こういう人懐こさは、嫌いじゃない。


 クロードは少し考えてから、わざと周囲にも聞こえるように声を張った。


「すごいな。ケガが治せるのか。ひとつ持っていれば、安心だな」


 ややわざとらしかったが、その声に、周囲の人々が反応した。

 近くにいた人たちが、興味を引かれたように次々と店へ寄ってくる。


「へぇ、ケガが治るなんて、いいじゃないか。アタシにも、ひとつおくれ」

「可愛い刺繍ね。私もいちまい買っちゃおうかな」

「かみさんが喜びそうだ。俺にもいちまいくれ」


「まいどっ!!」


 若い商人は、次々に品を渡しながら、愛想よく声を張った。

 ひと息ついたところで、いたずらっぽくクロードへウインクする。


「帽子の兄さん、サービスでお安くしとくぜ?」


 クロードは少し笑って、小銭袋を取り出した。


「じゃあ、ひとつ」




━━━━━ * * * * * ━━━━━




 クロードは噴水広場を後にし、街の西側にある図書館へ向かった。


 遺跡で見た、神世言かみよのことばと、あの花のような術式について、記された文献がないか調べるためだ。


 自分の胸に刻まれた神道痕しんどうこんは、今まで文献で見たどの文字とも、並びも形も違っていた。


 これは一体、何なのか。


 クロードは、図書館の棚から本を取り出した。

 静かな館内で、ページをめくりながら、記された文章を、ひとつずつ目で追っていった。




「そろそろ閉館です」


 司書に声をかけられ、クロードは窓の外を見た。いつの間にか空は夕暮れに染まっていた。


「すまん。ありがとう」


 クロードは、読んでいた本を棚へ戻し、出入り口のカウンターで銅貨を払い、図書館を後にした。




━━━━━ * * * * * ━━━━━




 どこかで夕食を食べてから宿へ戻ろう、と思い階段を下りている時だった。

 階下から、聞き覚えのある声が飛んでくる。


「よう、帽子の兄さん」


 目を向けると、あの若い商人が、人懐こい笑顔でこちらへ歩み寄ってきた。


「昼間はありがとな。兄さんのおかげで、あれからも売れ行きがよくてさ」

「良かったな」

「晩飯はもう食べた?」

「いや、これからだ」


 そう答えると、若い商人は目を輝かせ、ぽんとクロードの背中を叩いた。


「兄さんには恩義がある。俺が奢るから、一緒に食べようぜ」

「いいのか? せっかくの売り上げが減るぞ」

「ああ。俺の故郷じゃ、商人は恩人をうまいものでもてなせって教わるんだ。そうすりゃ、ますます商売繁盛するってな」


 白い歯を見せて笑う若い商人に、クロードは手を差し出した。


「クロードだ。旅をしている」

「俺はザック。南西地方から来た、売り出し中の商人さ」




━━━━━ * * * * * ━━━━━




 ザックに勧められた店へ入る。


 扉をくぐったとたん、外とは違う、香辛料の混じった暖かな空気が肌に触れた。

 店内は吹き抜けになっており、二階まで席がある。一階の隅には、南の地方で見られる、見慣れない形の葉をした木や草が飾られていた。


 席は四人がけの丸テーブルでそろえられ、灯りはやや落とされている。その薄暗さが、南方らしい植物や調度をいっそう引き立てている。

 駐屯都市にいながら、別の土地へ迷い込んだような気配を漂わせていた。


 店員に案内され、ふたりは入口から少し奥まった席へ、腰を下ろした。


「なんでも好きなもんを頼んでくれ」


 ザックが差し出したメニューを見て、クロードはわずかに眉を上げた。


「南方の料理は、食べたことがなくてな。名前だけ見ても、よく分からん。お前さんのおすすめでいい」


 そう言ってメニューを返す。


「そっかぁ。クロードって、北方の人っぽいもんな」


 ザックは店員を呼び、いくつかの料理を、手慣れた様子で注文した。


 間もなく給仕が、クロードには果実酒を、ザックには冷えた果汁を運んできた。


 ふたりは、それぞれグラスを持ち上げ、軽く打ち合わせる。澄んだ音が小さく鳴った。


「よき出会いを、神に感謝だな」

「ああ」


 ザックの笑顔に、クロードもわずかに口元をゆるめた。


「俺はさ、南西にある、商人の街の出身なんだ。わが家は代々、行商人をやってんだ」

「南西……。もしかして……」

「知ってるの? 砂漠に飲まれた街」

「うわさで聞いたことがある」

「そう。大きな砂津波があったんだ。ひと晩で街全体が、砂に埋まっちまった」


 ザックは、グラスの中の果汁をゆっくり揺らし、懐かしむように目を細めた。


「……大変だったな」

 クロードの言葉に、ザックはすぐに、いつもの明るい笑顔になった。


「ま、三日前に予報が出てたから、街の人間はみんな、家財道具を持って逃げ出せたんだ。不幸中の幸いだな」

「砂津波の予報?」

「そう。砂漠の地域には、砂の動きを見張る役所があるんだ」

「すごいな」

「海辺の街にだって、波の動きを観察する役所があるだろ? あれと同じだよ」

「なるほど」

 クロードは、果実酒に口をつけた。


 ちょうどその時、給仕がワゴンに料理を乗せて運んできた。


 料理が並べられると、テーブルの上に、香辛料と香草の豊かな香りが広がった。


 焼きたての骨付き肉は、こんがりと焼き色をつけられ、香ばしい匂いを放っている。

 やわらかく煮込まれた野菜は、とろりとしたスープをたっぷりまとい、白い湯気を立てていた。

 揚げた野菜やいもも鮮やかに盛りつけられ、皿の上を明るく彩っている。


「遠慮なく食べてくれ」

「じゃ、ありがたく」


 クロードは、手元の取り皿に、肉や揚げ野菜を取り分けた。

 ザックも、すぐに自分の皿へ料理をよそい、骨付き肉を持ち上げると、大きな口でかぶりつく。


「うん、うまい」

「ああ。初めて食べる味だ」


 クロードは、肉をフォークで押さえ、ナイフで切り分けて、口に運んだ。


「クロードはさ、どうして旅をしてるんだ?」

「俺か。……神道について調べている」

「えっ? 学者さん?」

「いや、個人的に調べているだけだ」

「ふうん」


 視線をわずかに外して話すクロードを見て、ザックは「なんのために?」という疑問を、肉と一緒に飲み込んだ。


「神道っていえば、東の泡沫の神が消えたってな」

「ああ、そのようだな」

「あれは、どこにわくか分からないのがやっかいだよな。俺みたいな行商人にとっちゃ、厄災だよ」


 そこへ、香ばしい炒め物と、豆の煮物が追加で運ばれてきて、手際よく空いた皿と差し替えられた。


 クロードは、追加でワインを頼み、スープを口に運んだ。


「ま、消えてくれたおかげで、この街にも行商に来れたんだけど」

「お前さんは、商売がうまいな」

「そりゃな。俺は将来、大商人になるんだ。砂に埋まった故郷を取り戻して、あそこを緑のオアシスにするのが夢なんだ」


 目を輝かせて語るザックを見て、クロードは眩しいものを見るように笑みを深くした。


 それからふたりは、互いの旅の話を交わしながら料理を食べ進めた。




「クロード、今日は楽しかったよ。まだしばらくは、この街の広場で露店を出してるから、見かけたら寄ってくれ」

「ああ」


 店から出ると、夜の街も、そろそろ眠りにつく頃だった。


「あ、そうだ。俺の店に来たら、帽子を脱いでくれ。あんた男前だから、店先にいてくれたら、ますます売り上げが上がりそうだ」


「はは、そうしよう」


 クロードは、ザックに小さく手を挙げて、別れた。




━━━━━ * * * * * ━━━━━




 それから、クロードが広場を通るたびに、ザックは軽く手を挙げて笑った。


 クロードも、ときおり店へ足を向けては、少し控えめに帽子を脱いでみせた。


「あんた、本当にいいやつだなぁ。おかげで今日もお姉さま方がたくさん買っていってくれたぜ」

「よせ」


 茶化すように言うザックに、クロードはうつむき、フラップキャップを被り直した。


 その時、手前に置かれていた二本のブレスレットが目に入った。


 二本とも、赤とオレンジの太い紐が編み込まれ、途中には、術具に使われる特別な石━━ぎょくが三つずつ組み込まれている。


 クロードは引っかかるものを覚え、それをそっと持ち上げた。


「おっ、お目が高い!! それは昨日仕入れた品だぜ」


 クロードは、腰のポーチからルーペを取り出し、玉をのぞき込んだ。

 きらめく砂を閉じ込めた美しい石の奥に、文字らしきものがかすかに見える。


「これは、術具か?」

「えっ? そんな話は聞いてないけど」

「誰から仕入れた?」

「あっちに店を出してる、青い髪の商人仲間からだけど……」


 クロードは振り返り、噴水広場の端にある、小さな露店の店主を見た。


 青い髪をした、まだ少年と呼べるほどの若い店主と、一瞬だけ目が合う。

 しかし、向こうはすぐに視線をそらした。


「これは売れたか?」

「いや、まだ売れてないけど……もしかして、まずいやつ?」

 ザックは笑みを消し、声をひそめて聞いてきた。

「いや、分からん。だが、お前さんは、これが術具だと知らずに仕入れたんだろ?」

「うん」

「説明できない品は売るな。術具なら、なおさらだ」


 クロードの警告に、ザックは素直にうなずいた。


「分かった。でも、なんの術具か気になるから、クロード、調べてくれないか?」

「協力しよう」

「単なるお守りの可能性もあるしな」


 そう言ってザックは、ためしにブレスレットをはめてみた。


「あっ」


 玉が一瞬だけ鋭く光り、ブレスレットは、手首に吸いつくように締まった。


「あーあ……」


 ザックは、「しまった」という顔で、ブレスレットがはまった手を振った。

 しかし、ブレスレットは、手首にぴったりと吸いついたまま、びくとも動かない。


「ザック、大丈夫か?」

「うん。特に変わったことはないけど」


 その言葉に、クロードは小さく息を吐いた。

 手の中に残った、もうひとつのブレスレットへ、視線を落とす。


 その時、三つの玉が、ぎょろりと目玉に見えた。


「……っ」


 クロードは、反射的にブレスレットを取り落とした。


「どうした? クロード」


 だが、もう一度見れば、そこにあるのは、ただの玉に戻ったブレスレットだった。


「……いや。詳しそうな知り合いを当たってみよう」




━━━━━ * * * * * ━━━━━




 街の南に広がる住宅街の一角に、小さな私設の医院がある。

 古びた白い二階建ての建物で、この街で、昔から診療を続けている医院だ。


 「医院長、いるか?」


 クロードは玄関ドアを開け、並べられたベッドの間を進んだ。

 奥の診察室へ入ると、消毒液の匂いが鼻をついた。


「なんじゃ。クロード」

「おや、クロードくん」


 衝立の向こうに、禿げた頭と丸く立派な腹をした白衣の医院長と、痩せた身体にぶかぶかの衣をまとった金髪の薬師がいた。

 机の上には酒瓶とグラスが置かれている。昼間から酒を飲んでいたらしい。


 薬師の姿を見て、クロードは警戒するように口を引き結んだ。

 それを見た薬師は、喉を鳴らして笑う。


「まーた、碌でもないことに首を突っ込んどるんじゃろ」


 医院長は鼻を鳴らし、グラスの酒をひと口飲んだ。

 クロードは外套のポケットから、ザックから預かったブレスレットを取り出した。


「これが、何の術具か分からないか?」


 医院長はそれをちらりと見たが、興味もなさそうにグラスへ口をつけた。


「ワシは術具の専門家じゃないからな。分からんわい」


 クロードは反対のポケットから、小ぶりのウイスキー瓶を取り出し、医院長の鼻先にちらつかせた。

 医院長はひとつ咳払いをして、それを受け取る。


「どれ、貸してみろ」


 医院長はブレスレットを手に取ると、窓から差し込む光にかざし、目を細めた。

 薬師は、医院長の後ろから両肩へ手を置き、覗き込むように玉を見つめる。


「砂金の混じった玉か」

「面白いねぇ、実に面白い」


 薬師は手を伸ばし、玉のひとつを指先でつまんだ。


「どうだ? 医院長」

「クロードくん、これは実に面白い物だよ。ヒヒヒ」


 薬師が甲高い声で笑う。

 医院長もようやくブレスレットから目を離し、クロードを振り返った。


「こいつは呪術の道具じゃな。砂金や砂銀の混じった玉は、だいたいそうじゃ」

「そうそう。銀じゃなく金が使われているから、結構値の張る呪術道具だね」

「……呪術」


 クロード脳裏に、ブレスレットがザックの手首に吸いついた光景がよみがえる。


「悪い物か?」

「呪術道具なんぞ、だいたい碌でもないもんじゃろ」

「どれ、僕によく見せて」


 薬師は医院長の手からブレスレットを取り上げ、目を近づけて見た。


「文字が書かれてるねぇ。これは神世言かみよのことばだね。ふむ、これは“魂”、これは“死”。あとひとつは……よく分からないなぁ」


 そう言いながら、薬師は左手の指先で、見た文字をテーブルになぞるように何度も書いた。


「薬師、神世言が読めるのか?」

「わずかにね。そう、よく見る文字のいくつかは読めるよ。ただ、神世言には規則性がない。だから、文字ひとつずつしか理解していないがね」


 そう言いながらも、薬師の左手は、まるで何かに動かされているかのように、素早く同じ文字を何度もテーブルへ書き続けていた。


 クロードは、薬師の左手の奇妙な動きから視線を外し、ブレスレットを見た。


「ねぇ君、魂、死と続けば、あとひとつの玉にどんな文字が刻まれていると思う?」

「魂……死……」

「僕はねぇ、これは蘇生を妨げる呪術道具だと思うんだよ。ヒヒヒ……だって、考えてもみたまえよ。魂、死、と来て、その次が生だなんて、そんな都合のいい話があると思うかい? あると思う? 僕は思わないねぇ、まるで思わない」


「……しかし、そんな呪術道具なんて、聞いたことがない」


 クロードの反論に、薬師はひときわ甲高い声で笑った。


「ヒヒヒ……聞いたことがない、だって? それは君が無知で純粋だからだねぇ。自分が知らない、見たことがない、触れたことがない――だから存在しない。そう考えるんだろう? おお、なんとまあ単純で、なんとまあ愛らしい思考だろうねぇ。浅い、浅いよ。あまりにも浅はかだ」


「言い過ぎじゃ」


 医院長は、クロードが持って来たウイスキーを、自分のグラスに注ぎながら、たしなめた。


 薬師は、その言葉で、今さら気づいたように目を丸くした。

 そして、クロードの目の前にブレスレットをつまんで差し出し、唇の端を吊り上げて笑う。


「おお、これは失敬、失敬。君があまりに愛らしいものでねぇ」

「…………」

「覚えておきたまえ。この世には、いや、あの世にも、君が想像もしない悪意が存在する。善は空の上だ。上るのは並大抵ではない。フヒヒ……しかし、悪は崖の下だ。落ちるだけでいい。そして人は、苦労して上ることより、楽に落ちることを選ぶ者が多い」


 クロードにブレスレットを手渡すと、薬師はなにやら納得したように何度かうなずき、診察室を後にした。

 その背中をクロードは睨んでいたが、医院長に「まぁ、座れ」と促されて、木の椅子へ腰を下ろした。


「あいつはな、蘇生のたびに性格がややこしくなっとるんじゃ」

「蘇生のたびに……?」

「まぁ、なんだ。あいつは薬の人体実験を自分の体でしとるからな。ここにも、しょっちゅう運ばれとる」


 クロードは複雑な顔になり、薬師の出ていった方へ目を向けた。


「それでの、お前さんが差し入れ付きで持ち込んだっちゅうことは、なにか困ったことが起きたんじゃろ?」

「……ああ。友人が、その呪術道具をはめたまま、取れなくなった」

「ほう。友人、か」

「……なにが言いたい」

「そんな怖い顔して照れるな。とりあえず、ワシのつてで外せんか探してみよう」

「頼む」


 クロードはフラップキャップのつばを引き下げ、目元を隠した。




━━━━━ * * * * * ━━━━━




 夕刻に医院を出たクロードは、広場の露店を見に行った。

 もう時間も遅く、店の数はだいぶまばらになっている。

 ザックの店でも、ちょうど品物を片付けているところだった。


「よ、クロード」

「あれから、変わりないか?」


 ザックは、ブレスレットが吸いついたままの手首をクロードへ見せた。


「なんともないぜ」

「そうか」

「おっ? もしかしてクロード、心配してくれてるのか?」

「当たり前だ」


 まっすぐな返答に、ザックは照れたように頭を掻いた。


「でもさ、ちょっと風邪でも引いたのか、だるいんだよね。明日は店を休むかも」

「無理はするな」


 クロードは、困った時はここへ連絡しろと書いたメモを渡し、ザックと別れた。




 広場を抜ける石階段の方へ進むと、あの青い髪の少年店主の小さな露店が、まだ店を開いていた。


 夕食時だからか、雑貨屋に足を止める客はいない。少年店主は道行く人々を、ぼんやりと眺めている。


 クロードは階段を上がり、少し離れたところからその露店を観察した。

 アクセサリー、食器、靴、服――さまざまな品が雑多に並んでいる。

 同じ雑貨屋でも、ザックの店とは違う。誰に売りたいのか、客層の読めない品ぞろえだった。


 クロードは、そこに小さな引っかかりを覚えた。


 薬師は、ブレスレットに使われている玉は、砂金の混じった高価なものだと言っていた。


 だが、青い髪の少年店主が並べている雑貨に、高値がつきそうな品は見当たらない。

 ザックは、この少年店主から仕入れたと言っていた。ならば、あのブレスレットは、少年店主がどこから手に入れた物なのか。


 クロードが見ていると、ひとりの女が露店の前に立ち止まった。

 青い髪の少年店主に話しかけ、いくつかのアクセサリーを手に取って見ている。


「ブレスレットはないかしら。明日お茶会があるから、おしゃれしていきたいのよね」


 ブレスレットと聞いた少年店主は、ほんのわずかに顔をこわばらせた。

 だが、女はそんなことには気づかず、差し出された品を楽しそうに選んでいる。


「これ、いいわね。これをもらうわ」


 女は気に入ったビーズ細工のブレスレットを買い、足取りも軽く去っていった。


 クロードも、そろそろ晩飯を食べて宿へ戻るかと、広場を後にした。





━━━━━ * * * * * ━━━━━




 その夜、クロードが風呂から戻ると、部屋のドアの下の隙間に、一枚の紙が差し込まれていた。


「……これは?」


 紙を開くと、そこには店の名と場所だけが書かれていた。


 クロードは廊下を見回したが、もう誰の姿もなかった。

 文字に見覚えはない。だが、医院長の知り合いがよこしたものかもしれない。


「行くか」


 外套とフラップキャップを身につける。

 用心のため、リュックからナイフを取り出し、革のナイフケースを腰に装着した。




 メモに記されていたのは、宿から北側にある軍の駐屯地のそばだった。

 大きな敷地を誇る駐屯地の近くには、いくつかの商店と住宅街がある。だが、夜も更けたこの時間には、ほとんど人の姿はなかった。


「ここか」


 家々に囲まれた公園のそばに、小さな店があった。

 色ガラスの向こうから、薄暗いオレンジ色の光が漏れている。

 クロードはそこへ歩み寄り、ドアノッカーを鳴らした。

 しばらくして、年寄りの女の声がした。


「お入り」

「じゃまをする」


 店内には、一人の老婆がいた。背中は曲がり、クロードの腰くらいしか背丈がない。白髪の長い髪は、頭から被った黒いレースのベールより長かった。

 そのベールの奥から、遠慮なく値踏みするような視線がクロードへ向けられる。


「客かい?」

「あんた、これを知らないか?」


 クロードはポケットからブレスレットを取り出して見せた。

 老婆は、左半分の顔が動かないのか、右目だけを大きく見開き、ブレスレットとクロードを交互に見た。


「これ、どうした?」


 低く唸るような老婆の声を聞き、クロードは確信した。


「知ってるんだな」

「逆に聞くがねぇ、兄さんは、これが何か分かってて持って来たのかい?」

「いや」

「そうだろうねぇ」

「友人が、これを手首につけたら、外れなくなった。外し方を知りたい」

「ほう」


 老婆は、動かない左の頬をさすりながら、右の唇をつり上げた。


「で、それを教えるアタシのメリットは、何だろうねえ?」

「このブレスレットは高価なものだと聞いた。これと、金でどうだ?」

「ふん。なら、金貨二枚で手を打ってやろう」

「……分かった」


 クロードは、腰のポーチから革のコインケースを取り出し、金貨二枚とブレスレットを老婆の前に差し出した。


「話してくれ」


 老婆は、金貨同士をぶつけて鳴らした。

 その澄んだ音に満足したのか、右の口元をつり上げて笑う。


「これはね、つけた人間の命を削る呪術道具さ。そして、それをつけているってことは――殺される目印だってことさ」

「なにっ」

「昔からある暗殺道具のひとつさね。裏の世界じゃ、それほど珍しいもんでもないよ」


 老婆は右手を差し出し、さらにクロードへ金を要求した。

 クロードは小銭袋から銀貨を一枚、二枚と置いていく。三枚目で、老婆はその銀貨を握りしめた。


「三日前、青い髪の男の子が来たよ。どこでここを知ったかは知らない。いなくなってほしい商売敵がいると言っていた。アイツのせいで自分の店がうまくいかない、アイツのせいだと、何度もね」


「まさか、そんなことで、こんな暗殺道具を?」


 老婆は、面白いものでも思い出したかのように小さく笑った。


「アタシは、金に見合った物を売るのが商売さ。あの子どもは、それだけの金を出したってことだよ」

「そんな……」


 クロードの頬を、汗が伝い落ちた。


「このブレスレットは、つけた者を弱らせる。そして、この街に潜む誰かが仕留める」


 老婆は、再び右手を差し出した。

 クロードはしばらく老婆を睨んでいたが、銀貨を五枚、その手のひらに乗せた。

 老婆は素早く銀貨を握り込む。


「こいつは、蘇生阻害の呪術道具でもある。一度吸いついたら、もう外れない」

「……っ」


 クロードの体がこわばった。


「可哀想だけど、アンタのお友達はもうすぐ死ぬ。そして、蘇生は起きない」


 立ち尽くすクロードに、老婆は背を向けた。


「話はここまでだ。帰りな」


 店の奥のカーテンを持ち上げ、老婆は一度だけ振り向く。


「もう、こんな所に来るんじゃないよ。アンタみたいな人間が関わる世界じゃない」


 そう言って、老婆はカーテンの向こうへ消えた。





━━━━━ * * * * * ━━━━━





  クロードは、宿に戻る前に医院へ寄った。


 古びた木の玄関ドアを、強く叩く。

 しばらくして、中から鍵を開ける音がし、ドアが開いた。


「こんな夜中になんじゃ」

「医院長……。あのブレスレット……」


 クロードのいつになく焦った声に、医院長は顎をしゃくって中へ入るように示した。


「さっき、影から話は聞いた」


 医院長の言葉に、クロードは両手を握りしめてうつむく。


「あの婆さん、まだ裏の世界におったんじゃな」

「知り合いか?」

「いや、あの婆さんは昔から、裏の世界の入り口をやっとる」

「……ザックが……」

「まぁ、そう焦るな。まだ手はあるかもしれん」

「……でも」


 医院長は診察室から、水の入ったグラスを持ってきた。

 クロードはそれを受け取り、一気に飲む。

 緊張で喉が渇いていたことに、今さら気づいた。


「お前さんに、影をつける」

「いや、俺よりザックに……」

「もう、つけとるわい」

「…………」


 医院長は思案するように目を閉じた。


「厄介なことになったの」

「どうすれば……」


 空になったグラスを見つめながら、クロードが呟く。


 その時、窓の外を黒い人影がよぎった。

 医院長はそれをひと目見るなり、クロードの手からグラスを取り上げた。


「クロード、急げ。広場の近くへザックが向かったらしい」

「なにっ」


 クロードは、外套をはためかせて駆け出した。





━━━━━ * * * * * ━━━━━




 夜更けの、ひとけのない広場に、ザックと青い髪の少年がいた。

 ザックは、少ない明かりの中でも分かるほど顔色が悪い。肩で息をし、立っているだけでもつらそうだった。


「なぁ、お前さ、なんでこんな物を俺に売ってきたんだ?」

「…………」


 ザックが手首のブレスレットを見せると、青髪の少年は、目線を外し、自分の足元を見た。


「これ、術具なんだろ? 知らなかったのか?」


 なおも押し黙る青い髪の少年に、ザックがふらつきながら一歩近づく。


「これをつけてから、おかしいんだ。まるで病気になっちまったみたいに、体が重い。こんな物を人様に売ってたら、大変なことになってた」


「……いい……気味だ」

「なに……?」


 青い髪の少年は、きつくつり上がった目でザックを睨んだ。


「いい気味だ!! なんだよ!! お前の店には、いつもいつも客があふれてて。俺の店には全然……。少しは困ればいいんだ!!」


「お前、なにを言って……」


 青い髪の少年は、歪んだ笑みを浮かべた。


「それを客に売って、お前が困ればいいと思ってた。まさか、お前が着けることになるなんて、思ってなかったけど」

「そんな……」


 身体に力が入らず、ザックは片膝をついた。


「情けねぇ……。商売仲間だと思ってた……のに」

「はっ。商売仲間!? そんな甘ちゃんだから、食い物にされるんだよ」


「ザック!!」


 石階段を下り、クロードが駆けてくる。

 青い髪の少年は、その場から逃げようと身を翻した。


「クロード……」


 ザックがクロードの声に顔を上げた、その時だった。


 木立の陰で、なにかが動く。

 ひゅっ、と空気を裂く音。


 ザックの体が仰け反った。

 背中に、矢が深々と突き刺さっている。


「くそ!!」


 クロードは腰のナイフを抜き、何者かが潜んでいた木の陰へ走り寄る。

 しかし、そこにはもう人影はなかった。


「クロー……ド」


 弱々しい声で呼びかけ、ザックはその場に倒れた。


「ザック!!」


 クロードは慌ててザックに駆け寄り、抱き起こす。

 ザックは、ひゅう、ひゅう、と浅い呼吸を繰り返していた。


「クロード……いやだ……俺……死にたく……ない……」

「ザック、しっかりしろ!!」

「……故郷……に」


 最後の息と共にこぼれた言葉は、もう形を成さなかった。


「ザック、ザーック!!」


 クロードは、動かなくなった身体を強く抱き寄せた。

 その背後で、乾いた笑いがした。


「は……はは……」


 青い髪の少年だった。

 ザックを抱きしめたまま、クロードは少年を睨みつける。


「気が済んだか」

「……え?」

「これで満足か!! ええ!?」


 クロードのあまりの気迫に、青髪の少年は「ひっ」と悲鳴を上げて走り去った。

 その足音が遠ざかるのを聞きながら、クロードは腕の中のザックの頬を叩く。


 しかし、もうザックは動かなかった。


「ザック、お前、故郷をオアシスにするんだろう? なあ?」


 その時、ザックの手首のブレスレットが脈打つように明滅を始めた。

 クロードはその手を取り、ブレスレットごと強く握りしめた。


「……っ!?」


 ザックの手首に吸い付いたままのブレスレットが、光る。


 その明かりに呼応するように、クロードの胸の奥で、どくん、と嫌な鼓動が跳ねた。


 次の瞬間、クロードの服の下に隠れていた神道痕が、内側から青く脈打つように、光を放った。


「――っ!?」


 クロードは息を呑み、反射的にザックの身体を地面へ横たえる。

 胸元から漏れた光は、夜の広場でもはっきりと見て取れるほど強く、布越しに五重の円を浮かび上がらせていた。


 神道痕を形作る神世言の円環は、それぞれが違う速さで回転している。

 ひとつはゆるやかに、ひとつは激しく、ひとつは逆巻くように。

 まるで、胸の内に閉じ込められていた何かが、ばらばらの意志を持って目覚めたかのようだった。


「う、あ……!!」


 その瞬間、焼けた鉄を押し込まれたような熱が、クロードの身の内を一気に駆け巡った。


 胸の中心が灼ける。

 肺が焼ける。

 骨の髄まで焼き尽くされるような熱に、クロードは歯を食いしばった。


 神道痕の中央から、細い光の筋が流れ出す。

 それはまるで生き物のようにうねりながら、ザックの手を握るクロードの腕へ走り、血管をなぞるように皮膚の下へ広がっていった。


「が、ああ……!!」


 耐えきれぬ苦痛に、クロードは目を見開く。

 その瞳の奥で、赤い光が燃え上がった。

 くすんだ灰色の瞳は真紅に染まり、暗がりの中で異様なほど鮮やかに輝いている。


 光はクロードの手からザックの手首へ流れ込み、食い込んだブレスレットを包み込んだ。

 玉の奥に閉じ込められていた文字が、怯えたように明滅する。


 次いで、乾いた破裂音が夜気を裂いた。


 ぱきり、と。


 ひとつ目の玉が割れる。

 続けざまに、ふたつ、みっつ。

 砂金の混じった玉は、内側から砕けるように亀裂を走らせ、紐も耐えきれずにぶつりとちぎれた。


 切れたブレスレットが、ザックの手首から石畳へ落ちる。


 ザックの指先が、ぴくりと震えた。


 クロードの荒い呼吸だけが響く中、ザックの閉じていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。


「……クロー、ド……?」


 かすれた声だった。


 焦点の定まらない目が、覆いかぶさるクロードを映す。

 皮膚の下を走る血管をなぞるように、クロードの身体はなおも青白く発光していた。

 胸元の神道痕は眩しく燃え、赤く光る瞳だけが、まるで人ならざるもののように、闇の中に浮かんでいる。


 ザックが見たのは、いつもの無愛想な旅人ではなかった。

 何か得体の知れない、神に近いものへ触れてしまったような、異様なクロードの姿だった。


「……クロード……」


 その呼び声も、クロードにはひどく遠く、濁って聞こえた。


 熱い。

 痛い。

 意識が、胸の光に引きずられていく。


 ぐらりと視界が揺れる。

 ザックの顔も、夜の広場も、石畳も、すべてが遠ざかっていった。


 次の瞬間、クロードの身体から力が抜け、その場に崩れ落ちた。





━━━━━ * * * * * ━━━━━




 目を開けると、そこには見慣れない白い天井があった。

 クロードは、しばらくそれをぼんやりと眺めていた。


「クロード」


 隣から声がした。

 視線を動かすのも億劫なほど、身体がだるい。

 声の主が、もう一度クロードを呼ぶ。


「なあ、クロード。大丈夫かよ」


 その声で、ぼやけていた意識が一気に浮かび上がった。

 クロードは、声のした方へ目を向ける。


「ザック……」

「よかった。おーい!! 飲んだくれの先生ー!! クロードが目ぇ覚ましたよ!!」


 ザックは、クロードの右隣のベッドで身を起こし、奥の診察室へ呼びかけた。


「そんな大声出さんでも聞こえとるわい」


 奥から出てきた医院長は、ザックの頭をぽんと叩き、クロードの方へ歩いてくる。


「医院長……。俺は……?」

「ふむ。ワシのことが分かるなら、頭はまだ大丈夫なようじゃ」


 なにを言われているのか、すぐには呑み込めず、クロードは困惑して眉を寄せた。


「ザック、大丈夫なのか?」

「おう。気がついたらクロードが倒れてて、あのブレスレットも取れてた」

「ブレスレット……!!」


 クロードは勢いよく身を起こしたが、ひどい頭痛と胸の奥の痛みに襲われ、そのままうずくまった。


「ばかもん。無理するな」

「そうだよ。あんた、丸一日目ぇ覚まさなかったんだぜ?」


 ザックの言葉に、クロードは再びベッドへ身を横たえた。


 聞きたいことがある。


 自分の身に何が起きたのか。

 どうやってブレスレットが外れたのか。

 なぜザックは蘇生したのか。

 そして、ザックはなにを見たのか。


 自分の胸の神道痕が起動したのか。


 しかしそれを知ることは、なにか恐ろしいものを知ってしまうような気がして、クロードは口をつぐんだ。




━━━━━ * * * * * ━━━━━




 翌朝、ザックはこの街を発つことになった。




 命を狙われた以上、いつまでもこの街に留まっているのは危ない。医院長の言葉は重かった。


 道中でまた狙われるのではないかとクロードが口にすると、医院長はあっさりと言った。


「ワシの知り合いの商人が、次の町まで同行する。心配するな」





 クロードは医院長とともに、街の門までザックを見送りに来ていた。


 ザックは旅装束に身を包み、大きなしょいこを背負って立っている。

 顔色はだいぶ戻っていたが、まだどこか本調子ではないようだった。

 それでも、いつものように白い歯を見せ、人懐こい笑みを浮かべている。


「せっかく友達になったのに、寂しいな」


 ザックは名残惜しそうに笑った。


「また旅先で会えるさ」


 クロードが静かに返すと、ザックは「そっか」と小さく頷いた。


 門の外では、医院長の知り合いの商人が、ザックと同じように大きなしょいこを担いで待っていた。

 人のよさそうな笑顔でクロードたちに会釈する。最後に医院長と目を合わせると、医院長は無言で軽く顎をしゃくった。商人は笑顔のまま、静かにうなずく。


 ただの同行者ではないことは、クロードにも分かった。


 少しの沈黙が落ちる。


 クロードは口を開きかけ、すぐに閉じた。

 それでも、胸の奥に引っかかったままの疑問を、どうしても飲み込めなかった。


「……ザック」


 ザックが顔を上げる。


「お前さん、目が覚めた時……何か見たか?」


 言いづらそうに、クロードはそう尋ねた。


 ザックは、わずかのあいだ目を伏せた。

 だが、すぐに顔を上げ、まっすぐクロードを見る。


「俺は、なにも見てないよ」


 その返事に、クロードはしばらく黙ってザックを見つめていた。


 ザックの顔には、いつもの明るい笑みがあった。けれど、その笑みの奥に、なにかを飲み込んだ気配があることも、クロードには分かった。


「……そうか」


 結局、それ以上は聞かなかった。


 ザックもなにも言わず、しょいこを背負い直した。


「んじゃ、行くよ」


 ザックはそう言って歩き出す。

 同行する商人も、無言のままその隣へつき、門の外へ足を向けた。


 数歩進んだところで、ザックが振り返る。


「クロード、またな!!」

「ああ。ザック、また」


 ザックは大きく手を振り、今度こそ前を向いた。


 朝の光を浴びながら、その背中は少しずつ遠ざかっていく。

 やがてその姿が見えなくなると、隣で見送っていた医院長が、ふんと鼻を鳴らした。


「クロード。お前さんにしては、ずいぶん情が移っとるじゃないか」


 からかうような声だった。


 クロードはしばらく無言のまま、医院長を睨みつけていた。

 だが、やがてフラップキャップのつばを引き下げ、目元を隠す。


「……友人、だからな」


 医院長は、それを聞いて小さく笑う。


 クロードは、つばの影に目元を隠したまま、ザックが去っていった方をいつまでも見ていた。


 朝の光はやわらかく、街道の先まで明るく照らしていた。

 空は、どこまでも青く晴れ渡っていた。


 その眩しさに、クロードはわずかに目を細める。


 胸の奥には、まだ鈍い痛みが残っていた。

 それでも、あの背中が無事に遠ざかっていったことだけは、確かな救いだった。


 クロードはそっと息を吐くと、帽子のつばを押さえたまま、静かに踵を返した。



━ 終 ━


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