忘れないことと、記録することは、違う
エンとライカは、かつて記録庁・第九分局で同僚だった。
それも、ただの同僚じゃない。
“記録に疑問を持ち始めた者”同士として、静かな理解を交わす関係だった。
【数年前/記録庁・観測室】
「また変なログ拾ってきたの?あんたの趣味“人間観察”でしょ」
「バグはすぐ消えるけど、人間のログは、勝手に増殖するから」
「名言っぽいけど、病んでるなぁエンくん」
水無瀬ライカ。
職員コード及び絡繰核Id:KAG-88-YA。
観測官、解析専門。だが本質は“記録の死に様”を集めているような女だった。
彼女は、他の職員が見向きもしない“消えかけの記録”ばかりを解析していた。
彼女の扱うログは、どれも哀しい。
けれど、それがこの世界の“もう一つの地層”だと思う。真実ではないかもしれないけど、誰かにとっての“最後の証明”。
エンは、ライカに心を寄せていた。でもそれは恋愛とかじゃない。もっと不器用で、もっと面倒くさい感情。
『この人だけは、記録されずに消えるべきじゃない』っていう、憧れを超えた執着。
ライカのほうは、そんなエンの視線を知ってた。たぶん、最初から。
でも彼女は、自分が記録されることも、忘れられることも本当は恐れていた。
「ねえ、エンくん。あたしが消えたときさ、記録庁の中で、誰かひとりだけでも、忘れてくれなかったら…それって“証明”だと思う?」
「そういうのは、個人端末で言ってくれ。仕事のログに残すな」
「あはは、残さないようにちゃんと曖昧に喋ってるよ。優しいでしょ?」
ライカはその後、民間企業に出向して、零号作戦群に自ら志願する。理由は誰にも話さなかった。
エンは、その申請データを閲覧した。
「封印対象と同一化処理のため、記録同期に最適」
それだけが、彼女の行動理由として記されていた。
でもエンは知っていた。
彼女は、“記録されなかったモノ達のため”に行ったのだと。
そして、ライカの死後、エンは記録庁に残った。
記録庁という「すべてを保存する神殿」の中で、
彼だけが、“本当の死者”を思い出し続けていた。
西暦2218年3月31日
記録庁・第九分局 観測課
副次アーカイバルーム
※職員ログ記録:オフラインモード(非推奨)
槇村エンは、背中を壁につけたまま、何も言わず立っていた。
目の前には、職員出向データ消去リクエストの確認画面。
申請者:KAG-88-YA/水無瀬ライカ
出向先:オンミツ社
出向理由:記録不能区域における補完技術提供
記録処理申請内容:“出向記録・感情ログ・庁内交信履歴 全消去希望”
画面の“承認”ボタンが、静かに点滅している。
誰かが押さなければ、ライカは出向できない。
エンの指が、それにかかったまま、止まっていた。
「もう行くね」
背後から声がした。
振り返れば、ライカがそこにいた。
記録庁の制服ではない。
もう、出向先仕様のフィールドジャケットに着替えている。庁内でそんな格好してる職員は、基本的に“もう戻ってこない”人間だけだ。
「行くよ。ここにいたら、あたしのログ、消されるか閉じ込められるだけだもん」
「…向こうに行ったって、記録されない。下手すりゃ、誰のログにも残らないぞ。お前がいたこと自体、消えるかもしれない」
「うん。だからこそ、行くの」
ライカは小さく笑った。その目だけが、少しだけ濁っていた。
エンは言いたかった。「残れ」って。「記録される場所にいろ」って。「お前は、記録されるに足る人間だ」って。
でも、それを言うこと自体が、
彼女の“選択”を“記録者の理屈”で塗り潰す行為になることを、彼はよく知っていた。
だから何も言えなかった。
黙って、彼女のログを“自らの手で”消去リクエスト処理した。
ライカがドアに向かう。
その途中、彼女がふいに立ち止まって、背を向けたまま言った。
「ねえ、エンくん。あたしが戻ってこなかったらさ…たまには、思い出してくれる?」
「記録じゃなくてさ、“記憶”の方で。」
彼女は振り返らず、歩いていった。
ドアが閉まる音が、何かを断ち切るみたいに乾いていた。
2222年、某月某日現在時刻:PM18:39
観測課ログに、“ライカ”という名前の職員は、もはや存在しない。
エンのデスクには、古いホログラフの中にひとつだけファイルがある。
暗号化され、開くには感情強度ログによる鍵が必要なファイル。名前はこうだ。
「88-YA_last.view」
【ENY-7743/非公開音声メモ】
「…たまには、思い出すよ。でもそれは、観測じゃない。記録でもない。お前が生きてたって証明するためでもない。ただ…あのとき、お前が確かにここにいたって、俺だけが知ってる。それだけで十分だろ」
西暦2218年4月1日。
メガトキオ第七管理区・オンミツ社本部。
当時、影道イチロウは現場任務評価“E+”。
「ターゲットの追跡は得意だが、コミュニケーションに問題あり」というログ付き。
そんな彼が、朝の配属会議で呼び出される。
「影道、お前に今日から新人つくぞ」
「…は?」
「記録庁からの出向。現場観測研修って名目らしいが、まあ言ってしまえば、“我々の働きを見て心を折るための制度”だな」
「…じゃあ俺いらなくない?」
「いや、お前なら“記録庁に見られても別に痛くない存在”ってことで選ばれた。光栄に思え」
「光栄の概念バグってんだろこの会社…」
その日、会議室の奥で彼女は待っていた。
髪は後ろでまとめられ、フィールドジャケットは“庁”の人間特有の無駄のない仕上がり。
でも、なぜか、
「…あなたが、影道イチロウ?」
「記録庁の人間が、俺の名前知ってるって時点で怖いわ」
「ううん。“ログに残ってなかった”から逆に目立ったの。なんであなた、出勤記録の8割がバグってるの?」
「そっちのサーバーがショボいんじゃねぇの?」
「ふふ…でもそのせいで、あたしが“現場観測研修先”に推薦されたのよ。“最も記録できない男と組ませろ”って」
「…お前、絶対友達いねぇだろ」
「そう言うと思った。初対面ログ、保存完了。あなた、なかなか面白いわね」
【その日・同行任務】─路地裏の小規模追跡任務
対象は、違法改造ARメモリの取引現場。
イチロウが前線で追い、ライカは後方から記録を取る。
普通は、記録庁の人間ならちょっとでも足を踏み入れたくないような案件。でも彼女は、平然と足を運んだ。
泥水も、異臭も、グリッチした街灯のちらつきも、全部“観察対象”として静かに受け入れていた。
「なぁ」
「ん?」
「アンタ、なんでこんな現場、出向して来たんだよ。記録庁って、“中枢”だろ。泥に触らなくて済む側の人間じゃねぇの?」
「…そうね。でも“綺麗に残された記録”って、時々、嘘より薄っぺらく見えるのよ」
「…」
「それより、“記録されてない現場”にしかないものの方が、なんか…人間らしい気がして」
イチロウはその時、口を開きかけて、やめた。
言うべき言葉が、どのログにも残ってなかったから。
【その日の夜/非公開音声ログ】絡繰核・初号式R
《メモ音声記録開始》
「ライカってやつ、変わってる。記録庁の人間って、もっと機械みたいかと思ってたけど…なんか、記録されないもんの方ばっか見てる気がする」
「でもまあ、あいつが言ってたこと、ちょっとだけわかる。
残ってる記録より、思い出せる景色の方が…いや、なんでもねぇ」
《音声記録終了》
それが、影道イチロウと水無瀬ライカの、“最初の記録にならない出会い”だった。
言葉は少なく、距離はあって、でもどこか、お互いに“忘れられない”ような感覚だけが残っていた。