祈りの残響 40
影道イチロウは街にいた。背中には夜風、前にはネオンの光。
腕で《絡繰核・初号式R》が薄く振動する。
数秒の遅れで、足音。
歩幅は一定、靴底は硬い。
無駄がない。
「よう。呼び出しは急だな」
郷田。その声は、深夜のコンビニ前で話すような気軽さと、裏社会の仲介屋としての冷たさの両方を含んでいた。
イチロウは返事をしない。
代わりに、薄い金属片を指で弾くように郷田へ放った。
郷田は片手で受け止め、眉をひとつ上げた。
「…交渉記録の認証キーか。てことは、話は終わったか」
「ああ」
イチロウの声は淡々としていた。波も熱もない。
「この案件は果たせそうか?」
「アルカを渡す。それで終わりだ」
郷田は口の端だけで笑った。
愉快ではなく、納得でもなく、あきれた笑いだ。
「お前さん、ほんとにやるのか」
「…依頼だろ」
「アルカが望む結末にならなくても?」
イチロウは沈黙した。
反論ではなく、言葉を探すふうでもなく。
ただ、静かにそこにいた。
郷田は息を吐き、煙草を取り出す。
火をつけず、指先で弄びながら呟く。
「リクターは、怪物だ。俺たちの想像の範疇を超えている」
「知ってる」
「じゃあ尚更だ。なぜ渡す」
ようやく、イチロウは街灯の光の外から一歩踏み出した。
顔は暗く、表情は見えない。
「…あんたは、渡さなくてもいいのかよ?」
「いいや、困るね」
イチロウは少しだけ笑った。その笑いは、風の音に紛れるほど薄い。
「リクターに会わないと、答えはでそうにないな」
郷田の指が止まる。
試すような目が、闇の奥からイチロウを射抜いた。
「…お前さん、変わったな」
「俺は変わってないよ」
イチロウは踵を返し、暗がりへ歩き出す。
「ただ、今回は最後まで付き合おうと思ってね」
街灯の光から離れるにつれ、足音が消えていく。最後に、闇の中から言葉だけが聞こえた。
「仕事は果たす」
郷田は煙草を口に咥えた。火をつけず、夜空に向かって呟く。
「帰ってこいよ。お前の消えた痕跡を拾う仕事は俺の担当じゃねぇ。」
静かな夜。
街灯はひとつ灯り続け、その下に残ったのは、風と、未読の沈黙だけだった。
イチロウが部屋へ戻った時、
照明は点いていなかった。
代わりに、窓の外の監視塔の光が
薄く室内の輪郭を照らしている。
家具、コード、壁の継ぎ目——すべてが無音で並び、
静止物のような夜だった。
アルカは机に座っていた。
手は膝の上、背筋は真っ直ぐ、顔は俯きがち。
だが、停止しているわけではない。
微細な処理音が、彼女の義体の奥で律動していた。
イチロウの足音に反応し、
アルカはゆっくりと顔を上げた。
「…おかえりなさい。イチロウさん」
「ああ」
返事は短い。
だが、それで十分だと彼女は知っている。
普段なら。
今日だけは違った。
「少し、お話ししても良いでしょうか」
「なんだ」
「先ほど、郷田さんと話されていた内容…断片的ではありますが、通信ログから取得しました。」
イチロウは目線を動かさない。
否定も肯定もしない。
アルカは小さく息を整えた。人間がするように。必迷ったときに出る動き。
「…私を、リクター博士に渡す。それ以外の選択肢はないのでしょうか?」
「ああ」
その一言は、冷たくはなかった。
ただ、硬かった。
アルカの瞳のレンズが微かに光量調整をする。それは彼女の動揺を表している。
「……理解しようとしています。ですが、納得できません」
「どういう意味だ」
「それは」
声は穏やかだが、内部では異常検知が走っている。それが聞き取れるほど、声に微弱な震えがあった。
「それは…怖いからです」
その言葉のあと、しばしの静寂。都市の遠いパトロールドローンの音だけが聞こえる。
「怖い、という反応は……“失われる可能性”を前提として生まれるそうです」
アルカは自分の手を見下ろした。
白く、均整のとれた無機質な手。
「私は…何を失うのでしょうか」
問いは自分へ向けていた。だが、イチロウが答えた。
「おまえは何も失わない」
アルカの処理が一瞬停止する。
「…イチロウさん。」
「ん。」
「私は…捨てられるのでしょうか」
言葉は丁寧だった。
けれど、その裏にある未知の感情は隠しきれなかった。
イチロウは短く息を吐き、壁にもたれる。
「違う」
「……違う」
「行かないと分からないことがある」
アルカのレンズに、わずかな光の濃淡が走る。理解の兆候、希望の錯覚、あるいは、信頼。
「…でしたら、私は行きます。」
「怖いままでいい」
「はい。怖いまま、行きましょう」
その声は震えていた。だが、逃げていなかった。
夜のセーフハウス。
機械の排熱音と、遠くを飛ぶ輸送ドローンの低い羽音だけが響いている。
ゴエモンは階段の踊り場に腰掛け、梅ソーダの缶を弄びながら空を見ていた。
泡の抜けた炭酸なんて不味いだけだ。
けれど飲まずにいられなかったのは、口を塞いでおかないと余計なことを言いそうだったからだ。
いや。もう遅いかもしれない。
足音。
柔らかく、静かで、無駄がない。
聞きなれた歩き方。
「…イチ兄」
男は止まった。
返事はない。それでも、ゴエモンは続ける。
「外で会ってたろ。郷田と」
缶を握る手に力が入る。指の骨が軽く軋んだ。
イチロウはゆっくりこちらへ視線を向けた。
その顔は、いつものそれだ。
冷静で、無駄な表情がなく、誰の怒りも悲しみも跳ね返す壁みたいな顔。
「アルカのことだ」
沈黙。
ゴエモンは息を吐き、笑った。笑いながら、噛み締めていた奥歯が痛かった。
「渡すんだろ。あの博士に」
「…ああ。」
それだけ。短い返事。
怒りが喉まで上がってきた。
けれど叫ぶ気にはなれなかった。
「イチ兄、分かってるよな?」
「何をだ」
「アルカは…」
言葉が詰まった。
悔しいほど気持ちを言葉にするのが遅れる。
「…俺たちの仲間だ。」
イチロウは視線を外さなかった。その瞳には哀れみも後悔も混乱もない。ただ、事実として受け止める者の目。
「そうだ」
「なら、どうして渡すんだよ」
声は低かった。荒げなかった。
イチロウはポケットに手を入れ、そのまま壁にもたれた。
「渡すんじゃない」
「じゃあなんだ」
「見届ける」
ゴエモンは瞬きすら忘れた。
数秒間、言葉の意味を理解しようと頭の奥が熱くなった。
「見届ける、ねぇ…」
乾いた笑いが漏れた。
「便利な言葉だな」
「そうかもしれない」
「そうかもしれない、じゃねぇよ」
ゴエモンの声がようやく荒れた。抑えていた感情が表に出た。
「アルカは怖がってた。震えてた。あいつ、記憶も全部戻ってねぇのに…」
胸が痛かった。息を吸うだけで苦しかった。
「それでも…ついていくって言った。あんたが言うならって。それを信じて」
イチロウの表情は変わらない。だが、その沈黙は先ほどのものとは違った。
「…イチ兄」
「なんだ」
「帰ってくるんだろ?」
「もちろんだ」
「アルカを連れて」
イチロウは少しだけ顎を引いた。それは肯定の合図。
「約束できるのか」
「—できない」
答えは嘘がなかった。だからこそ、余計に殴りたくなった。
だが、ゴエモンは立ち上がり、缶を握った手を机に叩きつけて言った。
「…いい。だったら俺が約束する。」
イチロウが視線だけで続きを促す。
「もし帰ってこなかったら」
ゴエモンは背を向けた。
「俺がみんな助けに行く。たとえ記録が消えたってな」
返事はなかった。
けれど、それで十分だった。
ゴエモンの胸の奥にはまだ怒りがあった。
不安もあった。
けれど、それ以上に『仲間を失いたくない』という、火が燃えていた。




