祈りの残響 35
湿った気配が薄れ、空気が乾きはじめた。
帯電した針の先で頬を撫でられるような、微かなチリチリが皮膚に刺さる。
前方、通路が広間に開ける。
床面には古い配線が格子状に走り、壁際には棺のようなストレージ筐体が並んでいた。
冷却ファンは沈黙しているのに、どこかで脈打つような低い唸りだけが続いている。
「…“霊安室”だな」イチロウが囁く。
アルカが頷き、耳の後ろの端子に指を添えた。
「干渉値、上昇。…来ます」
広間中央の床に、黒い滲みが現れた。
墨を垂らしたような輪が広がり、その中心に白い仮面が浮かぶ。
同時に、背後の影から白布で顔を覆った細身の人影。端末を抱えたスクライブが、音もなく一歩前へ出る。
「ようこそ、第七層“データモルグ”へ」
仮面の声は、男とも女ともつかない中庸の響きで、骨の内側に直接届く。
ゴエモンが義手刀を起動した。
「顔、見せる気になったかよ。ヴォイドアイ」
「我々は顔ではない。“記録”だ」
仮面がわずかに傾く。
「短く済ませよう。アルカを渡せ。対価として、アルカの製造記録、初期設計、そして失われた断章の複製を渡す。ここから先も安全に通す」
アルカは視線を落とし、小さく息を吸った。
スクライブの端末から、細い光の糸が彼女へ伸びる。撫でるように周波数が走査する。
「…拒否します」
声は震えていなかった。
仮面の周りに黒い靄が花弁のように開く。
「ならば、別の提示をしよう。記憶の返還だ。君の頭から抜け落ちた日々。子どもたちの声、温度、歌。すべてを元通りにする」
スクライブの端末が一段明るく脈打つ。
空中に、砂粒から像が組みあがるように一つの映像が立ち上がった。
白い壁、ひび割れた床。
そして、小さな肩が振り返り、笑う。
アルカの瞳孔が、かすかに開いた
指先が震える。
「…それは」
「真実だ。代価は単純。アルカ、君自身だ」
仮面は淡々と言う。「拒めば、君は“記録の外”へ落ちる」
ゴエモンが一歩前へ出ようとした瞬間、イチロウが手で制した。
イチロウはアルカの肩を掴み、目を合わせる。
短い沈黙。低く、はっきりと告げる。
「大丈夫だ。おまえが忘れても、オレらが覚えている」
その言葉が落ちた瞬間、スクライブの指が止まった。仮面の縁に、細いノイズが走る。
アルカは瞬きを一度。呼気が整う。
「…私は、私を渡さない。それが子どもたちとの約束だから」
仮面は沈黙し、やがて低く笑った。
「感傷は、記録の劣化だ。だがいい。条件を改めよう」
黒い靄が天井へ伸び、棺室の周囲のシャッターがガコンと落ちる音が次々に響いた。
「ここで、君たちの選択を保存する。チャンスをやろう。中央配電の手動遮断レバーだ。引けば竜骨の冷却が落ち、データモルグは数十秒で停止。データの一部は解錠される。君たちはそれを持ち出せる」
「…罠の匂いしかしねぇな」ゴエモンが舌打ちする。
「当然だ。遮断すれば、記録庁への通報が上がり、特級照合師が来る。三分が、お前たちの余命だ」
仮面が滑らかに告げる。
「選べ。記録を取るか、生存を取るか。両方は、不可能だ」
イチロウは仮面から目を外し、棺室の壁面を素早く見渡す。
格子の裏に、赤い手動レバー。
レバーの根元には、鋳鉄の封印ボルトが二本。脇に冷却幹線。切れば熱が上がる。
「…条件をひとつ乗せる」イチロウが低く言う。
「遮断後、お前らの干渉も三分間止めろ。幻影も、記録改竄も、抜き取りもだ」
仮面は一秒、二秒、沈黙する。
「成立しない。だが、六十秒なら譲歩できる」
「九十」
「…七十五」
イチロウは目を細め、アルカとゴエモンを見た。
アルカがうなずく。ゴエモンは肩をすくめる。
「決まりだ」イチロウが仮面へ向き直る。「七十五秒。その間、そっちは見ているだけだ」
「合意」
仮面の縁に三叉紋様が浮かび、スクライブが端末で何かを確定した。
「記録する。カウントはレバーを引いた瞬間に開始」
靄が引き、仮面は床へ沈むように薄れていった。
スクライブだけが残り、白布の奥からこちらを見ている。
端末の画面には、無慈悲な数字のゼロが光っていた。
イチロウは息を吐き、短く号令を飛ばす。
「配置。アルカ、取り出すデータはARCA-00原初群と未記録ログ。優先順位は原初群。ゴエモン、封印ボルトを飛ばせ」
「合点」
ゴエモンが義手刀を構え、一気に踏み込む。
火花。鋳鉄が裂け、ボルトが転がる。
イチロウがレバーに手を掛け、アルカがモルグのインターフェースへ指を差し込む。
「行くぞ─今!」
レバーがガチャンと落ち、棺室全体が低く軋む。
同時に天井のランプが一段暗くなり、床下から熱が立ち上がった。
スクライブの端末が高音で鳴り、画面に75.00の数字が浮かぶ。
75.00 / 74.99 / 74.98…
アルカの声が早口に捲し立てる。
「原初群、封印解除。鍵層一致…解除。未記録ログ、抽出経路を変更ー干渉値、低下!」
ゴエモンは背後に回り、通路側の遮断シャッターへ楔を噛ませる。
「七十五秒は短ぇぞ! イチ兄、背中は任せろ」
「頼んだ」
イチロウは広間の入口へ半身を置き、来るはずの何かに備える。
仮面の約束は履行されている。今だけは。
数字は容赦なく減っていく。
58.12…43.90…
アルカの頬に汗が伝う。
「未記録ログー“児童関連”の束、捕捉。…抽出開始」
胸の奥で、イチロウの鼓動が一拍だけ強く跳ねた。
イチロウは振り向かない。振り向けば、時間を使う。
見据えるのは、暗い入口だけ。
19.20…14.99…
ゴエモンが短く息を吐く。
「来ねえな。…気味が悪ぃ」
「来るのは次だ」イチロウが言う。
「特級照合師に捕まれば終わりだ。間に合わす」
8.00…6.50…
アルカが最後のキーを押し込み、データポッドのランプが緑に跳ねた。
「完了ー原初群、未記録ログ、完全掌握!」
イチロウが振り返り、即座に叫ぶ。
「離脱!」
同時に、スクライブの端末が0.00を示し、白布の奥でわずかに首が傾いた。
仮面の輪郭が再構成され、黒い糸が床から伸び上がる。
「約束は果たした。次は、我々の番だ」
仮面の声が冷たく落ちる。
遠方。棺室の外の縦坑から、重い装甲靴の打音が響いた。
規則正しく、迷いなく、こちらへ近づいてくる。
特級照合師だ。
イチロウは口の端だけで笑い、絡繰刀を抜いた。
「来た道と別ルートで出る。ゴエモン、右壁の冷却幹線、切り替えろ。アルカ、敵の記録層にダミーの逃走ログを流し込め」
「合点!」「承知!」
熱が上がる。警報が唸る。
記録と記憶と現実が、同時に軋みを上げた。
彼らは動いた。
誰も、次の一秒を、無駄にする気はなかった。




