祈りの残響 34
壁面を伝う水の音が、耳にまとわりつく。
十数メートルほど進んだとき、ゴエモンがぴたりと足を止めた。
「…おい、今、何か通ったか?」
視線の先で、曲がり角の向こうを、誰かが横切ったように見えた。
白い衣服。小柄な人影。だが足音はしない。
「生命反応は…」アルカがセンサーを走らせる。
だが、表示は真っ黒のままだ。
「なし、検知されません」
イチロウは眉をひそめ、刀の柄に指をかけた。
「幻影か…いや、あいつらの“記録改竄”だな」
特殊干渉。視覚と記録を同時に侵す擬似存在。
実体はなく、触れれば霧のように消える。だが、その場にいた者の脳にも、絡繰核の記録にも“確かに存在した”という痕跡を刻み込む。
それは、情報戦において最も厄介な事象の一つだ。
曲がり角をそっと覗き込む。
そこは広い空間に繋がっていた。
天井は崩れかけ、斜めから冷たい照明が差し込んでいる。
中央に立っていた。
先ほど見た、小柄な人影。
いや、今ははっきりと顔が見える。
ゴエモンの喉が詰まったような声が漏れた。
「…イゾウ?」
白衣の下から覗く顔は、かつての仲間のものだった。
照合師との交戦で命を落としたはずの、イゾウ。
「…ゴエモン」
幻影が、懐かしむように名を呼ぶ。声色も、表情も、生前と同じだ。
ゴエモンの義手がかすかに震える。
「気をつけろ」イチロウの声が低く響く。「そいつは…罠だ」
幻影のイゾウは、ゆっくりと片手を上げた。
その掌から、細い光の糸が伸び、空間に揺れる。
絡繰核の警告表示が黄から赤に変わった。
「…干渉開始。記録層が侵食されます!」アルカが叫ぶ。
瞬間、空気がざらつき、三人の周囲の景色がわずかに歪んだ。
壁も床も、錆びた配管も、別の場所の映像にすり替わっていく。
景色が一変した。
つい先ほどまでの湿った鉄の匂いは消え、代わりに乾いた砂埃と焦げたケーブルの匂いが鼻を突く。
足元はコンクリートではなく、ひび割れた白いタイル。
「…どこだ、ここ」イチロウが低く唸る。
アルカが周囲をスキャンするが、表示は乱れ、ノイズだらけだ。
「空間座標、特定不能。これは投影映像ではありません。神経及び計器類に干渉を伴う幻影です。外部との同期が切れました」
「つまり、向こうの土俵に引きずり込まれたってわけか」ゴエモンが義手刀を起動させる。
幻影の中の天井から、微かな足音が降ってきた。
見上げれば、そこには逆さまの廊下があり、人影が這うようにこちらを見下ろしていた。
その眼は光の反射で真っ白だ。
「来るぞ!」イチロウが叫び、腰を沈める。
次の瞬間、天井から三つの影が落下してきた。
衝撃と同時に、景色がまた揺らぐ。
床が水面のように波打ち、足元が不安定になる。
ゴエモンが落下してきた影の一体を斬り払う。だが、刀は抵抗なく空を裂き、影は煙のように散った。
「実体はねぇ…!」
「なら、元を断つしかねぇな」イチロウが言う。
「この幻影を維持してる発信源を壊せば消える」
アルカの眼が青く光り、乱れたデータの中から一瞬だけ一定のパターンを捕まえる。
「右前方、距離、約二十メートル!」
その方向を遮るように、壁がせり上がる。
壁の表面には無数の手が突き出し、ルートを阻もうと蠢いていた。
「行くぞ!」イチロウが先頭を駆ける。
手を躱し、斬り払い、障害物を取り除いていった。
後に続くゴエモンが義手刀で壁を切り裂き、アルカがその隙間に小型EMPを滑り込ませる。
爆ぜるような衝撃と共に、世界が白く弾ける。
幻影は消え、再び冷たい廃棄区画の光景が戻ってきた。
足元には、黒く焼け焦げた小型の装置が転がっている。
その側面には、ヴォイドアイの三叉紋様がうっすらと刻まれていた。
「…これが元か」イチロウが短く吐き捨てる。
アルカが慎重に装置を拾い上げた。
「ヴォイドアイの携行型干渉発生器。記録層と感覚を同時に侵せる…厄介です。しかも、絡繰核の記録には“幻影と会話した”ログが残っています」
ゴエモンは短く息を呑み、視線を落とした。
幻影が消え、現実の廃棄区画の冷気が肌にまとわりつく。
全員、しばし動かなかった。
イチロウは絡繰刀の刃先についた粉塵を払うと、ゆっくりと鞘に戻した。
「…速攻で抜けられたのは上出来だな」
アルカは膝をつき、焦げた装置の回路を指先でなぞる。
皮膚下のインターフェースが低く脈打ち、断片的なデータを拾い上げる。
「発信元は、私たちの進行方向と…ほぼ同じ場所に位置しています」
「待ってるってことか」イチロウの声は低く、しかし口元はわずかに笑っていた。
天井から、細かな水滴がぽつ、ぽつ、と落ちる音がする。
冷えた鉄骨の軋みが、時折、遠雷のように響く。
ゴエモンは義手刀を点検し、軽く刃を震わせて油膜を馴染ませる。
「…あの幻影、もう一回やられたら厄介だ」
アルカは首を横に振る。
「恐らく、さっきの機器は単体運用です。次は別の手段で来るでしょう」
短い沈黙。三人は無言で互いの目を見た。
その間に、互いの呼吸と鼓動がわずかに整っていく。
「進むぞ」
イチロウの声で、沈んでいた空気がわずかに動く。
三人は再び列を組み、慎重に足を運び始め




