祈りの残響 32
ヴォイドアイの接触をきっかけに、イチロウとアルカが情報を整理していた頃。
ゴエモンは単独偵察に向かった。
目指すのは、かつて自分が出入りしていた、旧市街地下の“抜け道”。
今や記録庁の監視も届かぬ領域。
かつては廃棄物搬出路として使われていたが、今は地図にも記されていない。
以前使った、あの盲腸ルート。
ゴエモンは防護マスクを着け、足裏の感圧を一定に保ちながら、旧搬出路の奥へと進んでいた。
夜のメガトキオ。そのさらに“下”にあたる区域。
この場所は、かつてゴミ処理と物流の交差点として稼働していたが、いまは記録庁の“死角”となったエリアである。
懐の絡繰核に記録された地図を確認する。電波は通じない。GPSもジャミングされている。
「まったく…気味悪ぃったらねえな」
呟きは空気に吸われ、反響すら返ってこない。
この辺りは“音”すら記録されにくい。
センサーや録音機器が、なぜか正しく動作しない。それが“盲腸”と呼ばれる所以でもある。
しばらく進んだところで、ゴエモンは歩みを止めた。
壁面に微かな亀裂。足元に古びたローラー痕。
昔、搬出コンテナが押し出されていた痕跡だ。
「…ここだな」
壁に手を当てる。金属面の温度がやけに冷たい。
ふと、背後に空気の揺れを感じた。
反射的に身を低くし、壁際へ退く。
誰もいない。だが─確かにいた。
この感じは昔、仲間が裏切りに遭った時とよく似ている。
目には映らない。音もない。だが、“感覚が反応する”。
「…いるのか?」
問いは宙に溶ける。応答はない。
彼は絡繰核のポケットから、旧式の反応煙幕弾を取り出し、カチリと起動スイッチを入れた。
しゅうう…っと、白煙が広がる。
その中に─誰かの影が、一瞬だけ立っていた。
それは、かつての仲間─イゾウに、よく似ていた。
だが、あり得ない。
イゾウは五年前、記録と現実を突き合わせ、矛盾を“削除”する照合師との交戦で死んだ。
死体は“ログ不十分”ということで記録の保存はされなかった。
つまり、“この世界”でイゾウは存在していなかったことになった。
「お前…」
影は何も言わない。ただ、ゆっくりと首を振った。それは、警告とも、否定とも取れる。
その仕草も、イゾウにそっくりだった。
ゴエモンは拳を握りしめる。
記録と記憶のズレ。それはずっと、彼を苦しめてきた。
「俺は…お前を、“忘れなかった”ぞ」
そう告げた瞬間、影は霧のように消えた。
その場に残ったのは、冷たい空気と、胸を締め付ける空白だけ。
深く息を吐き、感情を無理やり奥へ押し込む。今は、進む時だ。
煙が薄れていく。何もいない。
代わりに、壁に微かなマークが残されていた。
それは、ヴォイドアイのシンボル。目の中心に虚無を抱えた、あの“記録の反転符号”。
「…ふん、お見通しってか」
吐き捨てるように呟いて、ゴエモンはルートの終端へと足を進める。
そこには、封鎖された搬入口。
旧型のロックがかけられているが、すでに誰かが一度開けた痕跡があった。
「先客か…」
それでも、ゴエモンは立ち止まらない。
誰がいたとしても、どれほど危険でも、彼は戻らなければならない。
“今の”仲間のもとへ。
ゴエモンが戻ってきたのは、午前5時をまわった頃だった。
セーフハウス内は薄明かりに包まれていた。
端末の照度は落とされ、誰も言葉を発さず、ただ早朝の空気が漂っていた。
イチロウは椅子にもたれて座っていた。
手にしていたマグカップの底には、もう冷めきったコーヒーが少しだけ残っている。
アルカはゼロのそばに立ち、目を閉じたまま何かを“記録して”いた。
それが観察か、あるいは内的処理かは分からない。
ゴエモンは無言で入り口を閉め、防護マスクを脱ぎながら歩み寄った。
足音で、イチロウは顔を上げる。
「…で、どうだった?」
問いに、ゴエモンはしばらく何も言わなかった。
喉の奥が乾いている。だが、今は水よりも先に伝えるべきことがあった。
「ルートは使える。…けど、待ち伏せされているな」
イチロウが目を細める。
「先客がいるってことか」
「間違いねえ。痕跡もあった。…“あいつら”だ。ヴォイドアイの印があった」
アルカが静かに振り返る。
「奇襲の可能性が高いということですね」
「ああ─」
イチロウは立ち上がり、ゆっくりと空気を吸い込む。思考を深く沈めるように、目を閉じた。
「つまり、俺たちが潜ろうとしてる場所は、あいつらの庭みたいなもんってことか」
「かもな。けど、動いてるのは確かだ。…放っときゃ、全部持ってかれる」
「“全部”って?」
ゴエモンはアルカの方を見た。
言葉にしなかったが、伝わった。
沈黙が落ちる。時間の流れが重かった。
だが、その中でアルカが、はっきりと告げる。
「行きます。私が決めました」
ふっと、イチロウが笑う。
嘲るでもなく、納得するでもなく。
ただ、覚悟を受け入れた者の笑みだった。
「了解。じゃあ、行くか」
彼はコップを置くと、操作端末を起動した。
「作戦はシンプルだ。“盲腸ルート”から第七廃棄区画・第五層に潜入。目的は二つ─ヴォイドアイとの決着と、ARCA-00に関する原初データの探索」
「厄介なのは?」
「ヴォイドアイの奇襲と、記録庁の関係組織が介入すること」
ゴエモンの目が鋭くなる。
「どんなもんかね、あの連中」
イチロウは頷く。
「今回は、こっちにも良いカードが揃っている。お前の腕も、アルカの援護も。ゼロの存在も…」
イチロウは一瞬、ゼロの方を見やった。
ハンガーからモニターベッドに移された彼女は、まだ眠り続けていた。
だが、うっすらと閉じた瞼の下で、眼球の揺れのような微かな動きがあった。
まるで、夢を見ているように。
「三時間後に出る。物と心の準備をしておけ」
そう言い残し、イチロウは端末に向かい、地図を拡張表示した。
セキュリティの配置から割り出された突入ルートは気休め程度かもしれない。
罠と策謀が張り巡らされた魔物の巣。
その裂け目に、彼らは向かおうとしている。




