祈りの残響 31
午前4時過ぎ。
イチロウは、セーフハウスのメインルームに戻ってきた。
仮眠から目覚めたというより、“起こされた”ような感覚だった。
胸の奥が、妙にざわついていた。
アルカは端末前で静かに何かを考えていた。
その後ろで、ゼロが眠っている。ゴエモンは不在。足音もなければ、通信ログにも応答はない。
イチロウは周囲を一瞥してから、コア端末の警告ランプに目を留めた。
干渉ログ検出。
「来たか」
呟くと同時に、彼は冷却ボックスから水を取り出して口を潤し、椅子に腰を下ろした。
すぐに、壁面の旧型モニターが勝手に起動する。
光が揺れ、ノイズが走る。だが、そこに映ったのは、“演出された顔”だった。
仮面。女の声。
そして、あらかじめ整えられた背景、機械的で、記録媒体が陳列された空間の映像。
「はじめまして。影道イチロウさん」
相手は、こちらを知っている口ぶりだった。
イチロウは無言のまま、視線だけでアルカと端末を確認する。
アルカは動かない。おそらく先ほどからこの接続を検知していたのだろう。
「私たちは“ヴォイドアイ”と呼ばれている。非公式な存在だが、あなた方の領域には何度か干渉している」
「知ってる。で?」
イチロウは淡々と答える。声に怒りも驚きもない。この手のやりとりに、感情はノイズになると分かっていた。
「本日は“交渉”のために通信させてもらった」
「お前らに、交渉の余地があるとはな」
「ある。合理性と観測に基づいた“合意形成”だ」
モニターの向こうの女は、口元だけ笑ったような気配を見せた。だが、それが人間的なものかは定かでない。
「我々が求めているのは、ARCA-00ではない」
その一言に、室内の空気が変わった。アルカが、わずかに眉を動かす。
「我々が求めているのは、君の隣にいる、アルカだ」
イチロウは、すぐに反応しなかった。近くの椅子に座り、背もたれに体を預けた。
「理由を聞こうか」
「君たちが知っている通り、アルカは本来“記録を残す存在”だ。だが、我々の観測では、彼女は“記録していない”記憶を、いくつも保有している」
「それは、意図的な記録していないってことか?」
「その通り。彼女は、自らの判断で“記録しない”という選択をしてきた。プロトコルを越えて。命令でもなく、欠損でもない」
「それが、どうした」
「その逸脱こそが、我々にとって貴重なのだ。“機械でありながら、記録に選別を加える”という行動。それは我々、つまり記録に支配されるこの世界にとって、“未知”だ」
「お前たちにとって、未知とは脅威か?」
「希望だ。だから交渉している」
イチロウは目を細めた。この女、いや“この存在”は、論理で武装しているが、どこか“人間に似せようとしている”ようにも見える。
それは、人間を模倣することで何かを得ようとしている。そんな本能的な違和感。
「我々は、アルカを直接引き渡せとは言わない。まずは、我々の施設にアクセスしてほしい。そこには、彼女の未記録ログと関連する初期設計データが存在する」
「場所は?」
「記録庁・第七廃棄区画・第五層。だが、正面から入るのは不可能だ。“盲腸ルート”を使うしかない」
その名に、イチロウの眉がぴくりと動いた。あのルートはこいつらに監視されていたのか。
「それを見せて、どうするつもりだ?」
「彼女が自ら選ぶなら、それでいい。君たちを力で排除する意図はない。だが、我々が再構成しようとしている“未来の記録”には、彼女のような存在が必要だ」
「それ、選択って言わねえよ」
イチロウははっきり言った。冷静な口調のまま、淡々と。
「相手に選ばせる気がないくせに、選べって言うのはな、強制って言うんだよ」
通信の向こうで、女がしばし沈黙した。やがて、仮面越しに再び声が返る。
「彼女の選択に任せる」
その言葉を最後に、接続は切れた。仮面の映像が闇に吸い込まれるように消え、モニターが静止する。
数秒の沈黙。そのあとで、イチロウはアルカに目を向けた。
「どうするかは、お前が決めろ。俺たちは、そのあとで動く」
アルカは、小さくうなずいた。その視線は、ゼロへと向けられていた。




