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祈りの残響 29


 セーフハウスの照明が、午前1時をまわった頃、ほんのわずかに明度を落とした。


 モニターベッドのそばで、アルカは書きかけの自己記録ログを見つめていた。


 ゼロは静かに“眠り”続けている。微かに点滅する接続ポートのランプは、まるで夢の呼吸のようだった。


 そのとき、端末の奥から、電子音が一つだけ鳴った。


「……?」


 アルカが顔を上げた瞬間、セーフハウスの主回線とは別の系統にアクセスが走る。


 防壁を破った形跡はない。招かれざる客、ではなかった。


 壁の旧型モニターが、独立して起動する。映像はノイズ混じり。照明も抑えられ、輪郭はぼやけていた。


 そして、そこに現れたのは、ひとつの顔。


 「…ドクター・リクター」


 アルカが名を口にするよりも先に、映像の中の男がゆっくりと語り出す。


「こんばんは、アルカ。…急なコンタクトを許してくれ。直接話すには、君が一人になることが必要だった」


 イチロウは隣にいなかった。ゴエモンも作業ブースで眠っている。


 芹沢のいる隅の部屋から、細い光だけが漏れていたが、誰も気づいていない。


 アルカは静かにモニターの前に立った。


「…どういうつもりですか?」


 リクターは答えない。映像の中で指を組み、やや姿勢を変える。


「…ゼロが“ただの兵器”だったと、まだ信じているのかね?」


「彼女は…ARCA-00。教育支援型の実験個体ではなく、戦闘運用型」


 それに対し、リクターは微笑を浮かべた。映像越しにも、どこか乾いた冷たさを纏っている。



 「違う。違うんだよ、アルカ。……“00”はもともと、子どもたちの保護と教育のために設計された、介助・看護モデルだった。」


 言葉が、アルカの中で何かを凍らせた。


「それは…記録にありません」


「削除されたよ。すべて。“あの事件”のあとに」


 リクターは目を伏せ、指先で空中に図形を描いた。モニターに切り替わる、古い設計図の断片。


 そこには、今のゼロとは似ても似つかない、柔らかなフォルムをしたアンドロイドの構造図があった。


 その肩にはこう記されていた。


 ARCA-00 / Early Domestic Unit(家庭教育支援試作体)


「子どもたちを守るために作られた。それが“00”の最初の任務だった。だから、最初期の記録には“戦闘モード”など存在しない。…あれは、あとから上書きされたプロトコルだ」


 アルカは何も言えなかった。


 映像の中で、設計図が切り替わる。笑う子どもたちと手をつなぐ、プロトタイプの“00”。その目には今のゼロにはない、“表情”があった。


「なぜ…それを、今になって?」


 リクターの顔から笑みが消えた。


「彼女が忘れていることに、気づきはじめたからだ。…君と出会って、彼女の記憶に揺らぎが生じている」


 


「…それを、あなたは“失敗”だと?」


「いや。むしろ“希望”だと感じている。…君が、あの子に“人間だった頃の記憶”を思い出させられるのかどうか、私は見てみたい」


 その言葉には、実験者としての感情しかなかった。だが、それでもアルカの中に微かな震えが走った。


「彼女は…“人間だった”わけではありません」


「そうかもしれない。だが、人間の“何か”に、確実に触れていた。子どもたちの手の温度や、歌の旋律、声の抑揚。…そして、別れの痛み」


 リクターの声が、一瞬だけ静かになる。


「君が思っている以上に、あの個体は“優しさ”を記録していたんだよ」


 その瞬間、ゼロのモニターベッドのセンサーが、わずかに反応を示した。


 点滅が一度、わずかに速まった気がした。


 アルカは視線を向ける。そして、呼吸を深く整えた。


「それを、“兵器”に変えたのは、あなたたちでしょう」


 リクターは何も否定しなかった。


 ただ、最後にこう言った。


「過去を見たからといって、君が肯定されるとは限らない。だが、向き合わなければ、どこにも辿り着けない」


 通信が切れる。


 音もなく、映像は闇に戻った。


 アルカはしばらく立ち尽くしていた。ゼロの機体が、静かに眠り続けている。


 しかし、彼女の中には、確かに何かが目を覚ましかけていた。


 そしてその目覚めは、優しさか、それとも怒りか。


 アルカには、まだ分からなかった。

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