祈りの残響 10
都市の外れ・廃墟ビルの一室
黒田ハヤトは、血の混じった唾を床に吐き捨てた。
「チッ…」
左肩にはまだ鉄コンテナの衝撃が残っていた。人工筋繊維補助義手がじりじりと悲鳴を上げている。
だがあの瞬間、逃げたことは正解だった。
あのまま、盗賊と忍者とアンドロイドとやり続けていたら、怪我じゃ済まなかったはずだ。
「…やられたな」
黒田は卑屈に笑った。
本来なら相手はただの賞金首とその仲間。だがゴエモンとイチロウは並じゃなかった。
ゴエモンの変則的な戦闘スタイルとイチロウの冷静な間合い管理と的確な援護、そして“あのアンドロイドの異様な分析支援」
「クソッ…普通じゃねぇ」
黒田はゆっくりと背中のプラズマトンファーを外し、卓上のメンテナンス台に置く。無意識に指がガントレットの傷に触れる。
「…痛ぇけど、生き残っただけマシか」
だが敗北の屈辱は、骨の髄まで黒田を苛んだ。
「あの野郎」
大した仕事じゃないと思っていた。
軽く圧をかけて揺さぶり、賞金首を仕留めるだけのはずだった。
だが結果は、自分が狩られかけた。
“狩る側”から“狩られる側”へ。この屈辱は忘れない。
黒田の瞳が静かに血の色を帯びた。
「…次は絶対に負けん。ネズミ(ブラッドラット)はな、しぶとく噛みついて最後は喉笛を食いちぎるんだよ」
黒田は再び義手の調整を始めた。
「俺は止めねぇ。お前らがどこへ逃げようが、どれだけ“安全地帯”に潜ろうが、最後には絶対に捕まえてみせる」
黒田ハヤトの口元がゆっくりと不敵な笑みに歪んだ。痛みと怒りが混じったその顔は、まさに“猛獣”だった。
市外・工業廃区画 路地裏。
薄汚れたビルの隙間。
吹き溜まりの風が粉じんと破れた広告の切れ端を運ぶ。
黒田ハヤトは背中の傷をかばいながら歩いていた。ブラッドラットの本部まであとわずか。
異変は突然現れた。
足元をかすめるように、低周波のノイズ。直後、視界の隅に“何か”が立っていた。
黒いフードと長衣。顔はマスクで隠され、見えるのは縦長の瞳に×印の刺繍パッチだけ。
そして尋常ではない存在感の薄さ。
本能が警鐘を鳴らす。
「…気配がない」
黒田ですら今の今まで気づかなかった。
「黒田ハヤト」
機械的に潰れた、男とも女ともつかぬ声が空気を震わせた。
黒田は咄嗟にプラズマトンファーの柄に手をかけた。
「誰だ」
「我々は観察者。ヴォイドアイ。お前の“狩り”の記録に興味がある」
黒田の眉がピクリと動く。
「なんだと? あの二人の仲間か? 邪魔するならおんしも片付けるばい」
フードの人物は微動だにせず応えた。
「否。我々は介入はしない。ただ…研究材料としての対象には協力を惜しまぬ。条件付きで情報提供と援助を行う」
黒田の瞳がわずかに細くなる。
「条件は?」
「お前が“石川ゴエモン”と“影道イチロウ”を仕留めた時、そのデータ。戦闘ログ、行動アルゴリズム、生体サンプル。
そして…“あのアンドロイド”の本体」
黒田は鼻で笑った。
「おれぁ賞金稼ぎたい。データなんかより、首ん方がよっぽどカネになるっちゃけん」
「知っている。だから我々は取引を提案する。お前の“狩り”には干渉しない。代わりに、必要ならば追跡情報や攪乱工作を提供する。もう一度言うが、対価は“データ”と“アンドロイド”」
黒田はしばし沈黙した。冷静に思考を巡らせる。
簡単に信用できない。だが確かにブラッドラットの連中と懸賞金を分け合うよりいい話だった。
目的が違う以上、短期的には悪くない。むしろこの連中の情報網は魅力だった。
やがて黒田は不敵に口角を上げた。
「…おもしれぇの。あん連中を追うのに都合がええっちゃなら、幽霊だろうが悪魔だろうが、利用しちゃるけん」
フードの人物がゆっくりと頭を傾けた。
「契約成立。では“良い狩りを”我々は常に“この目”で見ている」
次の瞬間、黒田の前からその影は音もなく消えていた。
まるで最初から存在していなかったかのように。
黒田はふっと息を吐き、義手の関節を軽く鳴らした。
「……チッ。勝手に見とけや」
夜の都市の闇に黒田は再び歩き出した。
【市外廃工業地帯・臨時連絡ポイント】
薄ら寒い夜風が、吹きさらしの鉄骨の隙間を鳴らしていた。
黒田ハヤトは煙草をくわえながら、コンテナの影に腰を下ろしていた。
「…来んのか、来らんのか。はっきりせぇや、オバケ共が」
そうぼやいた瞬間、周囲の空気がふっと変わった。
風が止み、ノイズが掻き消える。
そして気配もなく、それは現れた。
黒いフード、顔は見えない。胸元には例の縦長の瞳に“×”印の刺繍。
ヴォイドアイの使いだが、前とは違う。声もまた、どこか機械じみた無機質感。
「黒田ハヤト。要求されていた支援物資と情報を持参した」
黒田は煙を吐きながら立ち上がる。
「へぇ、仕事早ぇな。…まさか、もう居場所が割れとったとや?」
フードの人物は答えず、足元に無言でケースを置く。
黒田が開けると、中には、ゴエモンらの推定移動ルートと行動記録。
廃工場周辺の通信干渉データ。違法仕様のEMP弾。黒田の義手に適合する補助モジュール(非正規品)。
「こんなもん、どこからパクってきたとや」
「ある場所から、お前の“狩り”を完遂させるために」
黒田は義手用モジュールを手に取り、接続確認を始める。なじむ感覚に、思わずニヤリとする。
「悪かねぇな…礼は言わんばってん、仕事はしとるな。けどよ、オレは“首”を狙っとるんであって、あんたらみてぇなデータ屋の使いっ走りやなかとよ?」
フードの人物が言葉を重ねる。
「構わない。我々は“観察”と“記録”を行う。お前の行動そのものが価値あるログとなる。ゴエモン。イチロウ。そして……“あのアンドロイド”。“記録されざる存在”。」
黒田は鼻で笑った。
「へっ…またか。気持ち悪かことばっか言いやがって。そげん機械の女がよかとや?“見たい”なら勝手に見とけや。ばってん、トドメ刺すとはオレやけん、そこは譲らんばい」
「それでいい。お前の“狩り”が終わったあと、記録を受け取る」
黒田は最後の煙草を靴で踏み消し、フードの人物に背を向ける。
「まぁせいぜい見とけ。オレがヤツらの動き止めた時、その瞬間、一番の“記録”っちゃろうが」
フードの人物はそれに何も返さず、霧のように姿を消した。
黒田はケースを閉じ、義手をぶんと振り回す。
「よか。次は…仕留めるばい」
ヴォイドアイ・中枢記録ノード
光も、音も、熱もない。
虚空の中心、冷たいデータの海に、ただひとつの存在が沈んでいた。
フードをかぶった影。漆黒のマスク。
その仮面の中央には、縦に引き伸ばされた瞳の意匠。そして、交差する“×”印。
それこそが、ヴォイドアイの記録中枢を預かる幹部である。
彼の背後には、複数のホログラム・スクリーンが滲むように浮かんでいた。
ブラッドラットの通信傍受ログ。
イチロウとゴエモンの行動パターン。
廃工場周辺の音声振動解析データ。
だが、《スクライブ》の視線が注がれていたのは、ただ一つの映像だった。
アルカ。
白銀の髪。
静かに青白く揺れる瞳。
優しさの形をなぞるように造られた旧式教育アンドロイド。
かつて記録庁の手で“抹消”されたはずの個体。
なのに、いまなお、未記録のまま存在している。
“記録されざる存在”それは、《スクライブ》にとって“至上の標本”を意味した。
彼はゆっくりと指先を動かした。
その所作は祈りにも似て、けれど冷たく、無機質だった。
映像群が高速でスクロールする。
音声アルゴリズムが淡々と読み上げる。
「識別:異常個体」
「抹消対象。記録から消去済み。だが、存在を確認」
「行動パターンー逸脱」
「人格進化、感情模倣、記憶連結能力ー特異」
「結論:危険。かつ、極めて希少」
仮面の下で、《スクライブ》の口元がわずかに歪んだ。それは人間が持つ笑みとは別種の、美学に基づく“高揚”だった。
「…美しい」
彼にとって、知識とは唯一絶対の価値であり、記録こそが存在の証であり、そして記録できないものこそ、最も魅力的な“空白”だった。
アルカ。彼女は今、“観測不可”から“観測中”へと転じた。
《スクライブ》の瞳は、標本を見る学者のそれに変わっていた。
「アンドロイド“アルカ”。君の全記録は、必ず私のアーカイブに編纂される。逃げても、抵抗しても構わない。しかし、君は私のものだ」
背後のスクリーンが、赤く点滅する。
【対象追跡:優先度 S+】
【対象名:アルカ】
彼は無音のまま、データノードに命令を下した。
「監視継続。接触は時期尚早。データ収集率が80%を超えた時点で、確保フェーズを移行。Phase Oneー観察。」
そして、その影は静かに、音もなく虚空へと溶けていった。
まるで記録の中に生まれ、記録の中にしか存在しないもののように。




