ある母娘の話
メガトキオ第十三管理区、境界番号Z-14。
公式には「地帯なし」とされている場所に、ひとつの茶屋が存在する。
木造。低い暖簾。看板には毛筆で「茶屋」とある。
しかし、そこに入ってくる客の八割は、茶を飲みに来ているわけではない。
郷田シンジ、五十一歳。記録不在者。通称《ログ屋の郷田》。
スーツと羽織を重ね着した異様な風体。髪は後ろに撫でつけられ、口髭は軍人のように整えられている。
その立ち居振る舞いは、まるで茶道家か禅僧のように静謐で、そしてどこか哀しげだった。
だが、裏社会では誰もが知っている。
記録を消すなら忍者、記録を“残す”ならログ屋
郷田は、記録庁や企業が目を逸らしたがる“歪んだログ”を拾い、それを“価値ある断片”として残すことを生業としてきた。
「俺の仕事はな、価値の無い記録に価値をつけることだ」
かつて誰かにそう語ったらしい。
ただ“記録そのものの在り方”に執着する。
彼のような存在は、メガトキオの裏では数少ない。
影道イチロウが彼の店に足を踏み入れたのは、雨が降り始める夕刻だった。
木戸を開けると、抹茶の匂いと一緒に、静かな時間が流れ込んでくる。
「来たか、イチロウ」
郷田は席を立たない。湯を注ぎながら、淡々と告げる。
「少し重い仕事だ。向いてねぇかもしれんが…お前にしか、頼めねぇ内容でもある」
イチロウは椅子に腰を下ろし、濡れたフードを脱ぐ。
「いつも重い仕事しか持ってこねぇくせに、何を今さら」
郷田が茶を一服点てる。動作は穏やかで美しい。
その指先には、かすかに古傷が見えた。
かつて照合師(注1)に刺されたときの痕跡だ。
(注1)『照合師とは記録庁に所属する“対人戦闘も可能な記録検証官”人間の言動・行動・存在が「公式な記録」と一致しているかどうかを“直接照合し、必要なら処理する”専門職。』
ログの争いに身を投じた者だけが持つ傷。
「ひとつ、訊いておこう」
郷田は視線を上げる。
彼の目には、いつもどこか「それでも信じたい」という温度がある。
「お前は、“消されるべきじゃない記録”を見たことがあるか?」
イチロウは、ふと黙る。
そして、かすかに頷いた。
「…まあ。最近、ちょっとだけな」
「なら話は早い」
郷田は、懐からひとつのインターフェースを取り出した。真鍮色の旧式データキー。
その表面には、手彫りでこう記されていた。
《依頼記録:N-479 勿忘草》
「ログの中に、“誰にも知られずに死んだ者”がひとりいる」
「それを、お前に拾ってほしい」
データキーの表面に刻まれた銘《N-479勿忘草》は、郷田にしては珍しく、詩的な命名だった。
「雨乃カレン、三十八歳。旧記録庁第七分局の清掃員だったが、それは表の顔だ」
郷田は茶を啜りながら、淡々と続ける。
「この女、自分の作業中にアクセス可能な破棄ログを抜き出して、整理・再演出していた」
「再演出?」
「“誰にも記録されなかった人間”を、ログとして再構築してたのさ」
イチロウは眉をひそめる。
それは“記録庁の倫理法第八条”に違反する行為。
存在しない人間を演出してはならない。まして、それに魂(意識)を与えてはならない。
「犯罪者か?」
「その判定と対処が、今回の依頼の目的だ」
郷田が差し出したデータキーを受け取り、イチロウは目を細めた。
データが表示される。日記形式の、幼い少女のログ。
“スズ”と名乗るその少女は、母に手紙を書き、夢を語り、日々を生きていた。
だがその少女は、現実には存在していない。
ログの“出自”は、カレン自身の切除された記録だ。
十七のときに中絶され、記録から抹消された胎児。
カレンはその“未来に生きていたはずの存在”を、演出し続けていたのだ。
「…どうすりゃいい」
イチロウが問う。
「殺す必要はない。ただ“選ばせてくれ”ってさ」
郷田の声は、静かだった。
「記録を残すか。消すか。依頼者の願いは、最後に“女に選ばせること”だった」
雨乃カレンは今、ログ庁の照合網から身を隠しながら、メガトキオ西端、工業用廃区のバラックに潜んでいるという。
イチロウはデータキーをしまい、席を立った。
「報酬は?」
「いつも通り、悪くない」
郷田は笑う。
茶屋を出ると、雨が降っていた。
イチロウはフードを深く被り、ひとり歩き出した。
記録に残らない者の、記録を拾いに。
ーー
廃区と呼ばれる場所には、音がなかった。
いや、音はあるのだ。ただすべてが“記録されない音”として沈んでいる。
錆びた鉄骨の軋み、遠くの電車の低音、雨の滴りがアスファルトを叩く音。
すべてが、誰のログにも残らないまま、時間の底に沈んでいく。
イチロウは、その中心にある古い工場の二階にいた。
そこにいたのが、雨乃カレンだった。
毛布をかぶり、足を投げ出し、小さなポータブル端末を前にしている。
義体でもなければ、戦闘の備えもない。ただの女だった。
だが、目が違っていた。
人に“見られないこと”に慣れた者の目だ。
イチロウは無言で部屋に入った。
カレンはふと顔を上げ、そして言った。
「来たのね」
その声には驚きも緊張もなかった。ただ、誰かが来ると知っていた者の声だった。
「この子のログ、見たでしょ」
イチロウは頷いた。
カレンは端末を抱きかかえるようにして、ぼそりと呟く。
「スズっていうの。私がつけた。生まれてたら、そう呼びたかったから。この子の人生を、七歳まで演出したの。誕生日も、学校も、風邪ひいた日も、ぜんぶ」
「なんのために?」
イチロウは問う。
カレンは言った。
「忘れたくなかったからよ。あの子が“いなかったこと”になるのが、どうしても耐えられなかった」
彼女の声に、虚飾はなかった。
ただ、記録されなかったものを、どうにかログの形にして残そうとした、一人の人間の執着があった。
イチロウはポケットから、郷田から受け取ったデータキーを取り出した。
そこに保存されているのは、演出されたログ。
日記形式の“スズ”の生活記録。
その中には、ある作文風の記録があった。
「きょうは おかあさんと いっしょに おかいものに いきました。
いつもより てをつないでるじかんが ながかったです。
おかあさんの ては つめたかったけど、ぎゅっとにぎってると、すこしずつ あたたかくなって、それが うれしかったです。
かえりみち、おかあさんが つかれてるのに ごはんのことを かんがえているのをみて、「なにか てつだおうか?」って いったら、「だいじょうぶよ」って いつものこえでわらってくれました。
そのとき、まえをあるく おかあさんの せなかをみてたら、わたしが うまれるまえから たくさん がんばってきたせなかなんだって おもいました。
おおきくて、ちょっと つかれてるように みえました。
おかあさんが いなかったら、わたしは きっと やさしくなれなかったと おもいます。
だから おふろのあと、せなかを あらってあげました。
わたしの ちいさいてで ぜんぶは あらいきれなかったけど、おかあさんは 「きもちいいね」って いいました。
そのとき なんだか なみだが でそうになったけど、
おかあさんの せなかに かくれて ないしょにしました」
イチロウは、ログを閉じた。
「…茶番もいいところだな」
女は言った。
「茶番でも、おかげで私はここまで生きてこれた」
「殺してくれていいの。でもこの子のログだけは、どこかに残して。誰かの中に、ほんの少しでも残ってほしいの」
イチロウは、しばし黙った。
そして、端末をひとつ取り出す。
それは自身の絡繰核、初号式R。
その中に、鈴のログの断片をコピーする。
「全部は無理だ。証拠になる」
「…いいわ。たった一言でいい。スズが、いたってことだけ」
ログの最後に、イチロウは手動で一文を加えた。
「鈴、という子がいた。母の想いが生んだ、記録に残らない命だ」
それは、公式な記録にはならない。
だが、イチロウがそれを読む限り、スズは“いた”ことになる。
その夜、イチロウは雨乃カレンを殺さなかった。
ただ、ログの削除が完了したと、依頼者に報告した。
カレンはもう一度都市へ潜った。
大丈夫、彼女にはスズとの思い出がある。
きっと立ち直れるだろう。
雨はまだ降っていた。
ーー
メガトキオ第十三管理区、境界番号Z-14。
電子地図上では「非実在地帯」とされているその一角に、ひときわ低く灯る明かりがある。
その古びた茶屋は、今日も変わらず“記録されない話”を受け入れていた。
影道イチロウは、濡れたコートを脱ぎ、黙って席についた。
郷田は何も言わず、茶を点てている。
その所作は変わらず静かで、慎ましい。
音のない時間が、二人の間に流れる。
やがて、茶碗が置かれる。
「終わったか」
「…ああ。終わった」
イチロウはデータキーをそっと机に置いた。
それを見て、郷田は目を細める。
「お前さんが“ログを残す”なんてな。それだけで、世の中少しは揺らぐかもしれん」
イチロウは、茶を一口すする。
苦味が喉に残る。スズという名の少女の、記録されなかった笑顔が、脳裏をかすめた。
「ガキの記録なんざ、何の役にも立たねぇよ」
イチロウは呟く。
「それでも、忘れるのは、惜しいと思った」
郷田はふっと微笑む。
「忘れたくないってのはな、記録なんかよりずっと強ぇ衝動だ。記録ってのは、ただの形式に過ぎねぇ。だが、“誰かを覚えていたい”って気持ちは…記録を超える」
イチロウは茶碗を置いた。
「…なあ、郷田」
「ん?」
「今度の依頼も、そんな“忘れたくねえ”やつの話か?」
郷田は答えなかった。
代わりに、懐から一枚の紙を出す。手書きのように見える、旧式のログID。
その下に、ひとつの名前が添えられていた。
月岡セナ
元・記録庁演出技官。現在、行方不明。追跡ログは存在せず。
「これは?」
「“消えたはずの人間”を、もう一度生きさせる仕事だ」
「記録亡命か」
郷田は頷いた。
「それも、“本気のやつ”だ。書き換えじゃない。偏向でもない。生まれ直すための記録だ」
イチロウは黙った。
スズの記録が、脳裏に浮かぶ。
母に宛てた、あの幼い日記の一節。
「…その女、何を遺した?」
郷田は言った。
「まだ、何も。だから、お前さんに訊くんだ」
「遺させる価値があるか、どうか」
外の雨音が、少しだけ強くなった。
イチロウは答えなかった。
だが、その夜、郷田の茶を最後まで飲み干したのは初めてだった。




