毒の記録
普段は使われていない旧データキャッシュ室で、篁ユウトはホコリをかぶった端末の前にしゃがみ込んでいた。
「この構造、旧式のデータ蓄積層か」
端末の中には、数年前に消去されたはずの教育補助ログ群が残されていた。
ほとんどが破損していて、読む意味もない。
はずだった。
その中に、妙に整った記録がひとつだけあった。
【No-title】
【記録評価:無効/検出不可構文】
【再生時注意:感情再構成を伴います】
ユウトは目を細めた。
「……これは、誰かが意図的に埋めたログだ」
記録庁に提出された痕跡もない。外部公開もされていない。ただ、なぜかその記録だけが、“明確な意志”を持って生きているように感じられた。
彼は端末を閉じ、ポケットに小型記録媒体を滑り込ませた。向かう先は、イチロウの元。
隠密社・備品倉庫前。
相変わらず、物資チェックを押しつけられていたイチロウは、チェック表片手にダンボールのラベルと格闘していた。
「おーい影道先輩」
「また何かややこしいモン拾ってきたんじゃねえだろうな、ユウト」
「言い方」
「いや、もう顔に書いてある。“俺は変なものを見つけました”って」
ユウトはため息をついて、小型端末を取り出した。
慎重に、それでもどこか確信めいた仕草で。
「これは…ある個体のログです。存在しない個体の。記録評価が破棄されてて、通常じゃアクセスもされない。でも“通されてる”」
イチロウはその言葉に、目を細めた。
「通された…?」
「意志を感じました。記録ってのは“誰かに見せたかった”って気配が残るじゃないですか。これは…それが、妙に強い。まるで“噛みついてでも残してやる”ってくらい」
しばしの沈黙。
やがてイチロウが、手に持っていた炭酸水を一口だけ飲み、
ぼそっと言った。
「…毒みたいな記録だな、それ」
「そう思います」
そして、イチロウはゆっくり立ち上がる。
真顔で、しかしどこか迷いを吹っ切ったように。
「わかった。見るよ。そのログ」
「いいんですか? 」
「見なかったら、“誰にも届かない”ままなんだろ?」
そう言って、イチロウはログを受け取る。
その表情は、少しだけ苦い。
絡繰核・初号式Rに小型記録媒体を同期させる。そして、毒の記録が再生された。
はじめて“世界の音”を聞いた日、少年は泣いた。
だが、誰もそれに気づかなかった。
感情認識ログは即時にエラーを返し、「ノイズ値過多のため、感情ラベリング不可」と記録された。
彼の識別コードは、μ-SNK。
名前はなかった。親も記録上にはいたが、誰一人として彼に“声”をかけた記録が存在しなかった。
生後1年半、彼は“記録生成特異個体”として研究施設に預けられた。
この子は「異常」だった。
頭部神経系が常時、数千以上の刺激ログを生成。指が動くだけで脳波が反応し、記録が重複・過剰に発生する。目を閉じると、「視覚未確認記録」が空間ログとして記録に干渉する。
「これは資源だ」「大量記録生成としての個体だ」
そうして彼は、人ではなく、観察対象物として育てられた。
彼の部屋は、四方をモニターで囲まれていた。すべての表情、脈拍、言語未満の音がリアルタイムで表示される。それはまるで、「自分が“自分を見ている”」牢獄のようだった。
7歳になった頃。
彼を見守っていたはずの“記録モニタリングチーム”が解散された。理由は「記録に変動がなく、社会適応の可能性も低い」と判断されたため。
そのとき彼は、初めて“誰にも見られない部屋”で、一晩過ごした。
μ-SNKの世界は、最初から“うるさすぎた”。
他人の声が、物理的な痛みとして耳を叩いた。
白い光は皮膚の奥を焼くような刺激だった。
他人の視線を横から受けるだけで、心拍数が140を超えた。
彼は、感情というより「過熱反応」で動いていた。怒りではなく拒絶。好奇心ではなく逃避。
「彼にとって“世界”とは、拷問のような外圧でした」
そう書かれた記録が、研究者のログに残っている。
9歳の冬。
μ-SNKの体に、感覚制御用ナノマシンの試験モデルが投与された。
目的は明確だった。
「この個体を研究対象として扱えるようにすること」
ナノマシンは、彼の神経伝達物質の放出タイミングを間引き、外部刺激への反応速度を抑制した。
最初の三日間、彼は昏睡に近い状態で過ごした。
四日目に目覚めたとき、彼は自分の指が“動かせる”ことに気づいた。
「…痛く、ない」
彼はそのとき、はじめて自分の手のひらで、自分の顔を触るという行為をした。
その瞬間、モニタリングしていた医師の一人は泣いたという。でも子どもは、その記録を後に“塗りつぶして”いる。
ナノマシンは常に再調整された。彼の感覚フィルタは、月単位で最適化され、13歳の時点で、彼は一般の感覚刺激に「一応」対応できるようになっていた。
会話は5分以内なら応答可。光刺激については中程度の環境で生活可能。接触は信頼対象者限定で短時間耐性あり。
学校には通っていない。だが、会話をする訓練は受けた。都市インフラにも適応した。ログに“友達ができる可能性”があると記録された。
だが、本人の言葉は違った。
これは“治った”んじゃない。痛みが“遅れて”来るようになっただけだ。その分、怒りは“沈殿していく”。
記録庁は、ナノマシン適応後の彼のを「社会統合候補」と判断した。模擬人格との対話記録では、彼は“礼儀正しく、構文に従い、非攻撃的”だった。
彼の部屋に、あるメモ書きが見つかっている。
手書き。記録されない場所に残された、彼の言葉。
「痛みを抑える方法をくれてありがとう。でも“世界が優しくなった”と勘違いするほど、俺は馬鹿じゃない」
社会に適応した。言葉も覚えた。スコアも人並みに乗った。それでも、彼は都市を少しも信用していなかった。
「歩いた道に残るログが、俺を“安全”と分類したところで、まだ誰も“俺の最初の声”は聞いてない」
「だから俺は、壊す。世界が“通さなかった声”を、聞いてもらえるようにするために」
西暦2209年、記録庁第七管理帯。記録庁にとってはただの1件、「事故死者の記録削除処理」が実行されようとしていた。
死んだのは、ある仮設校舎の臨時教員。教師というより“補助者”扱いで、名前もログも薄い。
だが、その人間は、唯一、μ-SNKという少年に“話しかけたことのある”人物だった。
それは、ほんの一言、二言だった。
「君、寒くない? 空調、きついよね」
その言葉が、μ-SNKにとっては唯一“人間として受け取った言葉”だった。
だが、その人物の死に対し、都市はあっさりと対応した。
「記録評価値が低いため、感情ログの保存対象外」「事故ログの改変防止処理完了」
つまり、何も残さない、という判断だった。
μ-SNKは、その夜、端末を開いた。
都市の最深部に近い暗号化ログ網へ接続し、教師の感情ログをサルベージした。
手紙の下書き。誰にも出されなかった助けのメッセージ。校内AIとの会話ログ。
そして、自分の名前を、コードではなく、「君」と呼んだ記録。
それらを見て、彼は言った。
「…記録にされないくらいなら、俺が通す」
そして翌日、事件が起きた。
庁内ログ網に存在しないはずの人物の“記録”が、突如トップフレームに浮上した。
しかも、過去に実際にはなかった「授業の映像記録」、生徒たちとの“感情共鳴値グラフ”、μ-SNKとの“会話記録”の再構成。
すべてが、まるで“本当に存在している人間”ように仕上げられていた。
都市が、その時だけ“その人を忘れられなくなった”のだ。
庁内のAIが異常ログを検出。再生と同時にログは自己崩壊する構造だったが、そのログの下部に、ひとつの署名が添えられていた。
【この記録を噛みついて通したのは、毒蛇だ】
瞬時に、μ-SNKは“匿名ハッカー”として庁内に記録された。
しかし彼のIDは既に“抹消済み個体”として書き換えられていたため、ログ上の彼は「存在しない」とされたまま。
結果として、“マムシ”という名だけが、都市に刻まれた。
それ以降、μ-SNKは“マムシ”と呼ばれるようになった。都市の記録に牙を立てる、存在しない咬み跡。そして、彼の“記録との戦い”は、ここから始まった。




