第四十六話 乾杯
嫌な気分を飲み干すようにビールを開けて飲む。美味しさなど一切感じず、ただただ苦い味が口の中に広がる。ビールが苦いのか、今の状況が苦いのか、判断に困るところではある。
酔いたいというのにまるで酔えない。空になった空き缶をテーブルへと置いた。よく見れば持ってきた酒を飲み干していたようだ。
「酒を取ってくる」
「フォリ様のも頼むぜぃ」
気分良さげなマッドサイエンティストを尻目に冷蔵庫の中を物色する。冷蔵庫の中身は殆ど酒だ。
その中から度数が高めのチューハイをマッドサイエンティストに渡してから自分用にミネラルウォーターとビール取った。
「ひひ、初めて飲むがこれは美味いな。これさえあれば苦痛にすら耐え切れるだろうなぁ」
「そうか」
ストロングなチューハイを飲んでご機嫌な様子を眺めながら、ミネラルウォーターを飲む。喉を通って冷たい水が胃へと流れていく。苛立ちや怒りで、少しだけ上がった体温が下がるのが分かった。
火照った体が冷えて、思考もまた正常に巡る。怒るな。苛立つな。
───冷静になれ。
自己暗示をかけるように心中で呟く。感情的になるほど大事な事を見失う。自身の感情にブレーキをかける事で、ようやく妹と交わした会話を思い出した。
『あーしの協力者に話を聞けば分かるよ。けど、相手は怪物だからね。相手のペースに飲まれないようにね、あ・に・き!』
───そうだな。すっかり頭の中から消えていた。
「話を戻すぜぃ。助手君の会社を倒産させたのはフォリ様だ。その方が助手君を悪の組織に引き込みやすいと考えたからな」
「俺が悪の組織に加入したのは偶然ではなかった⋯⋯と」
「必然だ。フォリ様は助手君を一目見て気に入った。最高の素体だと歓喜したぜ」
今もマッドサイエンティストが楽しそうに語っているが、その話が本当かどうかすら今の俺には判断ができない。短絡的に事を起こすべきではない。
妹がマッドサイエンティストと協力関係にあるのは確かだ。出来れば嘘であって欲しいが、俺を愛しているというのも本当だろう。だが、そこから先の話はどこまで本当かが分からない。
この話をしている相手が信頼出来る人間なら鵜呑みにする事もできるが、生憎と話している相手はこの世で最も信用ならない女だ。それを忘れていた。
妹が言うようにマッドサイエンティストのペースに飲み込まれていた? あまりに愚かな自分に目眩がしそうだ。
「助手君の目の届きやすい所に求人を貼った。精神的にも追い詰めていたから、まともな思考が出来ない助手君なら乗ると判断した。フォリ様の考えは当たっていたな。ひひ。まぁ、乗らなかったら無理やりにでも連れてきたがな」
「面白くない話だな」
「むしろ感謝して欲しいぜ。フォリ様が助手君を悪の組織に引き込み、怪人へ変異させなければフィクサーの思うがままだ。ただの凡人の助手君に抗う術はない。フォリ様は助手君に抗う力を与えた恩人と言える」
ふざけた理論で自分の行いを正当化しようとしている。当然だが、こんな事を口にする奴を信頼できる筈がない。
───ボスや俺を操ろうとしたように、妹もまたマッドサイエンティストに操られている可能性すらあるが、あの女が化け物と評するのだから逆もまた有り得るか。
正確な情報を得るのであればマッドサイエンティストの言葉だけを鵜呑みにするべきではない。面倒ではあるが妹にも話を聞く必要がある。
殺すのは一旦なしか⋯⋯。
「感謝しろと?」
「ひひ、少しは心を許せと言っているのさ」
「普段の言動を考えろ」
妹もマッドサイエンティストも、互いに自分にとって都合のいい情報だけを話すと考えていい。その上で信頼出来る相手に話し、一緒に判断を下すべきか。
───信頼出来る相手?
最初に候補に浮かんだのがウルフである事に自分でも驚いた。
自分の中でウルフという存在が気付かぬうちに大きくなっていた⋯⋯?
昔であればその候補の中に家族や親友がいた筈だ。だが、今の俺にはいない。全て俺が切り捨てた。その分だけウルフの存在が上に上がってきただけだ。
「まぁいい。既に過ぎたことだ。今更、悪の組織を抜けようとも考えてはいない」
「それは良かったぜ」
「ただ、一つ俺と約束しろ」
「約束?」
予想外の言葉にマッドサイエンティストが怪訝な顔をしている。そんな表情もするんだなこの女。少し意外だった。
「俺はお前が真実を話しているとは思っていない。嘘も隠し事も平気でするような女だと認識している」
「酷い言い様だなぁ」
口ではそう言っているが、否定はしない。ただ、事実として受け止めている。
「悪の組織の為であるならば、俺を利用するのも構わない。お前がボスを神輿として担ぐのなら俺も担いでやろう。お前の策謀にも協力してやる。だから」
───俺を裏切るような真似だけはするな。
裏切れば殺すと、殺気と共に吐き捨てればマッドサイエンティストは満面の笑みを浮かべた。
「最高だぜ!助手君!!いいぜ!約束してやるよ!助手君を裏切るような真似だけはしないとな!!」
嘘で塗り固められた言葉だ。
何時もの笑みに隠された邪悪な感情。それが僅かだが、垣間見えた。マッドサイエンティストの瞳の奥に見える狂気、それは決して心を許してはいけない危ない光を宿していた。
俺もマッドサイエンティストの言葉を心から信用などしていない。交わした約束は、口実のため。
「改めて、よろしく頼むぜ助手君」
「そうだな、よろしく頼む、フォリ」
───互いに嘘で塗り固めた笑みを浮かべ、手に持つ酒で乾杯した。




