第四十四話 フィクサー
こんな気分で酒を飲むのは久しぶりだな。
実験室の隅に置かれた冷蔵庫から缶ビールを幾つか取り出してテーブルに並べる。その中の一つを手に取って一息に飲み干す。胃の中に冷たいビールが流れ込む感覚はあるが、不思議と美味しいとは思わなかった。
その様子を面白そうに見ながらマッドサイエンティストはワインを開けてマグカップに入れて飲んでいる。グラスがあった気がするが⋯⋯まぁ好きにしろ。
自然と手が伸びた二本目の缶ビールを口にしながら思考を巡らせる。考えている事は妹をどうするかだ。
癪な話ではあるが、妹は役に立つ。ヒーロー側のスパイとしては最高の結果と協力を悪の組織に齎している。一幹部として評価するなら、拍手でもしてやりたい気分だ。
それに俺が大きく関わっていなければ⋯⋯。
『パパを殺して、今どんな気分?』
脳裏に浮かぶあの時の言葉の意味が、聞く前と後では感じ方が大きく違う。聞く前は親父を殺した事を責めているようで、聞いた後は俺を気遣うようで⋯⋯それを認識すると、より気持ち悪い。
「妹についてはどれくらい知っている?」
「協力者としてそれなりに親しい関係を築いている自覚はあるぜぃ。フォリ様たちが世界を支配した先を見据えて、あっち側から擦り寄ってきているのもあるがな」
「そうか。なら聞きたい。妹は、親父をどう思っていた?」
俺の記憶の限りでは妹は親父の事を慕っていた。パパ!と呼んで仲良く買い物をしたり食事をする姿を見た事もある。これといった思春期もなく、仲の良い親子関係を築いていた。そう思っていた。
「嫌っていたなー。何とかしてワールドを殺して欲しいと何度も要請していた。フィクサーにとって夢の実現の最も大きな障害は助手君の父親であるワールドだからな」
「俺たちにとっての最大の障害だからか。最強のヒーローを倒さなければ世界は支配できない⋯⋯」
「それもあるが、ワールドに止められたのが大きいとフォリ様は思っているぜ」
親父に止められた?
「どういう事だ?」
「一度だけ機嫌が悪い時があってな。その時に親身になって寄り添う事で情報を抜き取ろうと考えた」
マッドサイエンティストがマグカップに入ったワインを口にしながら、笑みを浮かべるが⋯⋯気のせいでなければ口元が引き攣っているようにも思えた。
珍しい光景を見たとビールを口にする。お互いに一息に飲み干して俺は新しい缶へ、マッドサイエンティストはマグカップにワインを注ぎお酒の準備を終えてから会話を再開した。
俺だけでなくマッドサイエンティストもお酒を飲んでいた方がいいと判断したか。
「荒れてはいたが、協力者の前では弱みを見せない事を徹底していた。フォリ様の思う通りにはいかなかったが⋯⋯少しでも分かればとジャブのつもりで助手君の話題を出した」
「そうか」
「それがまさかのクリーンヒットさ!我慢の限界だったフィクサーは怒りの感情を押し殺しながら静かにキレていた。ワールドに助手君への想いを気付かれた。そしてそれは禁忌だからと釘を刺された」
「⋯⋯まさか、殺した後で親父に感謝を言いたいと思う日がくるとは思わなかった」
現在結婚しているお袋の妹にして元恋人である聖女と、姿が見えないとはいえ俺たち家族と一緒に暮らすというイカれた環境で生活していた男は、超えてはいけないラインは知っていたらしい。皮肉だ。
「フィクサーの想いを理解した上で、ワールドは優しく説得したつもりになっていたが⋯⋯それが逆にフィクサーの逆鱗に触れた」
「役に立たない男だな」
父親としての責務を果たしてイカれた性癖を矯正しておいて欲しかった。
「何としてでもワールドを排除してやるって気概がその日以降、手に取るように分かったからな。毎日のようにワールドのスケジュールを共有して、ボスを向かわせろと要請してきた。最初は罠か何かかと警戒したもんだぜ」
「罠にしては露骨すぎる。だが裏があると感じるのは真っ当な感性だ」
「何度目かの要請で罠でない事には気付いたが、フォリ様はボスではワールドを倒せないと判断した。強さの問題じゃない、トラウマを抱えて勝てる相手じゃないからな」
異世界の親父がどれだけ強かったかは知らないが、この世界では大幅に弱体化しているとマッドサイエンティストが話していた。だが、その弱体化を踏まえてもボスでは親父に勝てない。
心が臆してしまっている。本来の力で戦えば勝てる相手であるにも関わらず尻込みしてしまう。
それだけ強烈なトラウマを与えた親父を褒めるべきか、ボスの心の弱さを嘆くべきか。幹部としては悩むところだ。
大きなため息を吐いてビールを口にする。マッドサイエンティストも同様にワインを飲んでいた。幼い見た目でお酒を飲む光景は知っていなければ、未成年の飲酒行為にしか見えない。
真っ当な価値観なら止めにいくだろうな。俺の場合はマッドサイエンティストの実年齢を知っているので違和感を覚えても止めようとは思わない。ちなみに年は54と、親父より上だ。
「ボスの事は既に終わった事だ。立ち直る事を祈るが今はどうでもいい。一つ聞きたい。親父のスケジュールが分かるという事は妹はかなり近い距離にいたようだな」
「そうだぜ。フィクサーは14歳の時に『悪の組織』と『ヴレイヴ』の存在に気付いた」
今から丁度10年前か。
「ワールドが配偶者と話している所を盗み聞きしたのがきっかけと言っていたな」
「⋯⋯両親のせいか」
聞いている感じだと家での会話だな。思慮の足りない愚かな両親に苛立ちを感じる。
「さっきも言ったがフィクサーは世界の変革を望んでいる。悪の組織の存在を知らなければ既成事実を作った上で日本以外の国に移住するつもりだったらしいぜ」
「聞きたくなかった話だな」
世界が変わろうが変わるまいが思い描く未来は同じ。
嫌な気持ちを飲み干すようにビールを口にするが、あまりの苦さに顔を顰めているのが自分でも分かる。先程から飲んでいるビールと味は同じ筈なのに⋯⋯話を聞けば聞くほど酒が不味くなっているようだ。
「聞いて驚くなよ。フィクサーは悪の組織の存在に気付いて間もなく、自分の理想の世界の為に動いた」
「驚く気も既に失せているが⋯⋯まぁいい、続きを話せ」
正直に言って酒も不味くなってきたし、これ以上知りたくもない話は聞きたくない。マッドサイエンティストがワインを飲みながら、意地悪な笑みを浮かべて俺の言葉通りに続きを話す。
「フィクサーはな、唯一フォリ様の潜伏先に気付いた。『ヴレイヴ』という組織の前身がどれだけ時と人員をかけても見つけ出せなかった潜伏先をだ。本気を出したフォリ様を見つける事は不可能」
「その筈だった」
今度は逆にマッドサイエンティストが苦い顔をしている。空になったマグカップにワインを注ぎながら妹が異常なだけだと弁明している。
事実として妹以外には潜伏先は見つかっていないからな。
「この大天才であるフォリ様を持ってしても『化け物』と評価せざるを得ない存在。それが助手君の妹であるフィクサーさ」




