妖忌妃~Act.3 妖忌妃/2
「―――雨堂河童には会えたのかしら?」
帰り道、山頂の祠でトモミと再会した。祠の入り口の天井に腰掛けて、足をぶらぶらとさせている彼女はすっかり落ち着きを取り戻したようで、最初に会ったときと変わらない穏やかな雰囲気をかもし出していた。
「ええ。おかげさまで会いたい人に会えました」
「それはよかったわ。―――で、一体どうして雨堂河童に?」
雨堂河童は水を司る妖怪を祭る神子の一派よ。人間がそう簡単に会いに行くものでも、会えるものでもないわ。トモミの言うことはもっともだ。しかし、御伽はちゃんとした理由があってのことです、とトモミに言う。
「―――昔、夏休みで祖母の家に遊びに行った時、雨堂河童の移動湖を見つけたんです。そして、そこで一人の女の子と出会いました。千歳という女の子です。―――同い年で、小さくてかわいい女の子でした。私はその夏の間、千歳と一緒に遊びました。そして、私が帰る日、千歳は私に秘密を教えてくれたんです」
トモミはおもむろに扇子を取り出して、それを開いて、閉じる。
「自分が妖であること―――ね」
「そうです。彼女はずっと帽子をかぶっていましたから、私は気づきませんでした。彼女の頭には、河童の皿があったんです。そして、こうも言いました。―――人にこれを見せたら、河童は湖を追放されると。彼女はそうまでして、私と一緒にいることを選んだんです」
今思えば、彼女なりの告白だったのでしょうね。御伽は目を閉じて、自分自身をあざ笑う。
「でも、私はそれを拒絶した。化け物、あっちに行け。そう言いました。そして、私は逃げるようにその場を去り、そのまま帰りました」
トモミは御伽を見つめた。先ほどまであれだけ人間離れした雰囲気を出したあの御伽が、ここまで人間らしくなれるとは、と正直に驚く。
「次の年、千歳に謝ろうと、移動湖に行きました。でも、移動湖は一年でどこか別の場所に移動する。どんなに探しても、あの場所は見つかりませんでした。それ以来、私はいつかあの移動湖に行って、千歳に謝ろうと。それだけを考えて生きてきました。妖怪のことを研究し始めたのも、同じ妖怪ならば移動湖の場所も分かるのかもしれないと思ったからです」
それで、この山の大妖怪に訊ねようとした。恋は盲目とでも言えばいいのだろうか。トモミはバカね、と笑っている。
「で、これからどうするのです? もう、目的は果たしたのでしょう? なら、もう妖の研究をする必要もないのでは?」
「そうですね。―――せっかくですし、いっそ別のことでもはじめましょうかね」
本当に魚の研究家にでもなりましょうか? と御伽が言うと、トモミはあなたの好きにしなさいな、と返事した。
「これはあなたの物語よ。―――選択はあなた次第。物語が終わってしまったのなら、あなたは自らの手でどちらかを選ばなくてはいけないの。―――幕を引くか、新しい物語を始めるか」
「そう、ですね。―――なら、私はこの物語の続きを始めましょうか」
いきなりな答えにトモミは目を丸くした。
「どうにも私はこの職業を天職じゃないかと思い始めてましてね。いまさら、別の仕事なんて考えられません。目的は果たせましたが、これからも妖怪の研究を続けてみようかと思います。今度は、生の妖怪に出会って見ようかなと」
扇子を開き、バカと呟く。
「あなたみたいな脆弱な人間が、妖に会ったら殺されてしまうに決まっているわよ。―――あの大妖怪の力を借りなさい。それなら、妖もあなたを殺すことなんて出来やしないわ」
「妖忌妃、ですか?」
「あら、妖忌妃なんて名前、知っていたの?」
「ええ、つい昨日聞いたばかりで」
トモミはくすくすと笑う。そして、祠の天井から飛び降りると、ついてきなさい、と祠の中に入っていく。
「大妖怪は、とても人好きな方よ。協力を要請しても、恐らくは快諾してくれるでしょう。少なくとも、取って喰われることはないわ」
「それは安心しました」
最深部の封印までやってくる。トモミは封印を見つめ、御伽にそれを崩すように言う。自分でやらないところを見ると、本当に彼女は妖なのだろうと今更思う。
「では、行きますよ」
御伽は要石を石碑の上から外し、封印を解く。その刹那、まばゆい光に包まれる。そして、その光が収まると、何事もなかったかのように、しんと静まり返った。
「なにも、起こりませんでしたね」
御伽が呟くと、トモミはええ、そうね、と返事する。
「トモミさん、妖忌妃はどこに行ったのですか?」
「あら、彼女なら、もう姿を現しているわよ」
「どこにです?」
「あなたの目の前よ。あらゆる生命を―――妖すら寄せ付けない山の中に入り込めるのは、霊感のない愚かな人間か、或いはそこに縛られた者のみ―――なら、答えは最初から決まっているのではなくて?」
つまり、この目の前にいる女性―――トモミこそ、妖忌妃であるということだ。彼女はにやりと妖しく笑い、薄暗い祠の中で、髪を紫色に鈍く光らせている。
「さあ、何をぼさっとしているのかしら? 早く協力を求めなさい?」
そう言って、妖忌妃―――智魅は怪しく微笑んだ。
御伽は最初から、トモミの手の上で踊っていたのかもしれない。だが、今更引き返すなど不可能だった。第一、引き返す気など毛頭なかった。御伽はワクワクしていた。これから始まるであろう、妖研究の日々を。妖術王と呼ばれ、妖忌妃と呼ばれた、この女性と共に、それが出来ることを。
「―――妖の研究を、手伝ってもらえませんか?」
それはトモミも同じことだった。妖を恐れないこの男と共に、再び自らの理想を成すために、行動できるということを。御伽と一緒ならば、もしかすれば、本当に出来るかもしれない。人と妖の共存が。
「ええ。喜んで協力いたしましょう」
二人は固く、握手を交わし、共に自らの目的を果たすために協力し合うことを誓った。そして、それと同時に、動き出したのだ。ひとつの物語が。