第9話 借金返済と紗月の想い
翌朝、俺は制服をリュックに詰め込み、私服姿で家を出た。学校には「通院のため」と連絡を入れ、午前中だけ休む許可を得た。向かう先は駅前の銀行。昨日の男たちとの約束を果たすためだ。
(これが本当に正しい選択なのかは分からない。それでも、今の俺にできることをやるしかない。)
ノートの力を使って手に入れた現金。その重さを何度も確認しながら、心を落ち着けるよう深呼吸を繰り返す。銀行の前にたどり着くと、昨日の男たちが車のそばで待っていた。一人がこちらに気づき、歩み寄ってくる。
「おい、坊主。金は持ってきたんだろうな?」
彼の問いかけに、俺はリュックから札束を取り出し、無言で差し出した。男は念入りに数を確認し、満足そうにうなずく。
「……確かに受け取った。これで文句はねぇな。」
「約束通り、橘さんの家には二度と近づかないでください。」
俺の静かな言葉に、男はしばらく俺を見つめ、それからふっと笑みを浮かべた。
「大したもんだな、高校生のくせに。」
そう言い残し、男たちは車に乗り込み、去っていった。遠ざかるエンジン音が消えた瞬間、俺はその場にしゃがみ込んだ。緊張の糸が切れ、全身から力が抜ける。
(これで終わった……本当にこれで良かったんだよな?)
心の中には達成感と微かな不安が入り混じっていた。
昼過ぎ、俺は制服に着替え直し、学校に向かう前に橘さんの家を訪れた。玄関先では、橘さんとお母さんが待っていた。俺の姿を見つけるなり、二人は駆け寄ってくる。
「杉村君、本当にありがとうございました……!」
お母さんは深々と頭を下げ、目には涙が浮かんでいる。その隣で、橘さんも目を伏せながら小さな声で言った。
「杉村君……ありがとう。お母さんと私、ずっとどうすればいいか分からなくて……。本当に助かったよ。」
「大したことじゃないです。ただ、これで少しでも安心してもらえたなら良かったです。」
そう答えながら、橘さんの隣に立つお母さんの疲れ切った表情が少し和らぐのを見た。彼女は何度も頭を下げながら感謝の言葉を繰り返していた。
「何かあったら、またすぐに相談してください。」
そう言うと、橘さんは目を伏せたまま小さく頷き、静かに笑みを浮かべた。その笑顔を見た瞬間、胸の中に暖かい何かが広がる。
▼橘紗月の視点
その夜、橘紗月はベッドに横たわりながら、天井をじっと見つめていた。窓から差し込む月明かりが、彼女の不安定な心をほんのりと照らしている。
(お母さんがあんな姿を見せたの、初めてだった……。)
昼間の光景が頭から離れない。玄関先で、男たちに囲まれて泣きそうな顔をしていた母。あの堂々とした母が、あんなに追い詰められていたなんて――。
(そんなに家が大変だったなんて……私、全然気づかなかった。)
目を伏せ、ぎゅっと布団を握りしめる。母があれほどまでに辛い状況だったのに、自分には何も相談してくれなかった。子どもだから、巻き込みたくなかったのかもしれない。けれど、それが余計に悲しかった。
(もっと早く気づいていれば……私、何かできたかもしれないのに。)
目尻にじんわりと涙が浮かぶ。だけど、そんな気持ちを一瞬で上書きする存在がいる。
(杉村君……。)
彼の姿を思い出す。震える手を隠しきれないのに、それでも果敢に男たちに立ち向かっていった彼。正直、彼がここまでしてくれるとは思っていなかった。自分のために、あんな危険な状況に飛び込んでいくなんて――。
(なんで……そんなこと、できるんだろう。)
彼の顔が思い浮かぶ。普段はどこか控えめで、目立たない彼。それが、あのときは別人みたいに見えた。怖いはずなのに、自分を守るために動いてくれた。
(私なら……怖くて、そんなことできない。なのに杉村君は……。)
あの姿を見て、自然と胸が高鳴るのを感じた。そして同時に、少しだけ情けなくなった。
(今日、あんな嫌な場面を杉村君に見られた……。)
友達だって見られたくない場面だ。自分の家が抱える問題なんて、誰にも知られたくなかった。それなのに――。
(本当は、私だって見たくなかったよ。)
だけど彼は見てしまった。それでも、彼は自分を責めたり引いたりしなかった。むしろ、自分以上に家族のために動いてくれた。
(……好き。これって、友達として? それとも、それ以上の……?)
胸がきゅっと締め付けられる。友達として彼を好きな気持ちもある。でも、それ以上の感情が心の中で膨らんでいることに気づいてしまう。
(もっと話したい。もっと知りたい。……でも、これ以上近づいたら、私の気持ちが溢れちゃいそうで怖い。)
心臓がドキドキと鳴る音が、自分でもわかるほど響く。こんな気持ち、今まで感じたことがなかった。
(……今度、結衣に相談してみようかな。)
結衣なら、何かアドバイスをくれるかもしれない。だけど――。
(杉村君のことばかり考えちゃう……。)
彼ともっと話したいのに、連絡先すら知らない自分がもどかしい。もし次に会ったとき、この心臓が爆発しそうな状態で、前みたいに自然に話せるのだろうか。そんな不安ばかりが頭を巡る。
(杉村君……覚悟してね。これからは私から、もっと距離を縮めるんだから!)
小さな笑みを浮かべ、布団をぎゅっと抱きしめる。その顔はどこか決意に満ちていた。
▼悠人視点
一方、俺は自室でノートを前に黙り込んでいた。今日、橘さんの家族を救うためにノートを使った。その結果、全てが解決した。……はずだった。
(これで本当に良かったのだろうか……?)
ノートに頼った自分に、どこか違和感を抱いている。確かに彼女の家族を救えたが、それが「俺の力」ではないことが、心に影を落としていた。
ノートの表紙を撫でながら、小さく呟く。
「次は……自分の力でやらないとな。」
橘さんの笑顔を思い出すたびに、胸が締め付けられる。このノートの力を超える何かを、自分の中に見つけたいと、初めて思ったのだった。
(ノートに頼らずに生きる未来。それがいつか訪れるのだろうか……。)
窓の外を見つめる。夜の静寂が、俺の心に答えのない問いを投げかけている気がした。
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