第8話 決意とノートの力
橘紗月が家に駆け込んだ後、俺――杉村悠人は立ち尽くしていた。橘さんの母親と、柄の悪い三人組の男たちが家の前で言い争う姿が頭に焼き付いている。
(これ……どうする?)
心臓が激しく鼓動を刻む。逃げるという選択肢もあった。だが、ここで橘さんを見捨てるなんてできない。彼女の不安そうな顔が、何度も脳裏に浮かんでくる。
(こんな状況で、俺ができることって何だ……。)
深呼吸をして、心を落ち着けようとする。それでも足が震え、言葉を出すのにためらう。
だが、逃げることは選べなかった。
「すみません。」
絞り出した声で、男たちに話しかける。彼らが一斉にこちらを振り向き、その冷たい視線が突き刺さる。
「誰だ、お前?」
「……これ以上、彼女たちを困らせるのはやめてもらえませんか。」
自分でも無茶なことを言っているのはわかっている。それでも、ここで黙っているわけにはいかなかった。
男たちは一瞬、呆れたように笑う。そしてリーダー格らしい男が俺を見下ろした。
「坊主、何のつもりだ?」
「話を聞きたいだけです。ここでは人目につきますし、場所を移しませんか?」
男たちは顔を見合わせた後、肩をすくめた。
「まあいい。話してやるよ。」
俺は彼らを橘家から少し離れた場所へ誘導した。橘さんの母親が不安そうに見送る視線を背中で感じながら、足を前に進める。
街灯の明かりが薄暗く照らす場所に立ち、リーダー格の男が俺を睨む。
「で、坊主。何が聞きたいんだ?」
「橘さんのお母さん……何があったんですか?」
「ああ? あの女の旦那がよ、2000万借りてどっか行っちまったんだよ。こっちはちゃんと返してもらわねえと困るんだ。」
2000万――その金額を耳にして、思わず息を呑む。高校生には途方もない額だ。
「それで……返済期限は?」
「とっくに切れてんだよ。さっさと払ってもらわねえと、家でも売るしかねえだろうな。」
冷たい言葉が俺の背筋を凍らせる。だが、ここで諦めるわけにはいかなかった。
「明日の午前中まで待ってもらえますか? 駅前の銀行で、2000万円を用意します。」
男たちは一瞬言葉を失ったように俺を見つめた。
「高校生が2000万だと? バカ言ってんじゃねえぞ。」
「本当です。もし嘘だったら、そのときは好きにしてください。」
男たちはしばらく俺を睨んでいたが、やがてリーダー格の男がニヤリと笑った。
「面白いじゃねえか。いいだろう、明日の午前中まで待ってやる。」
「ありがとうございます。」
頭を下げる俺を嘲笑するような声が背後から聞こえたが、気にしている余裕はなかった。これで少なくとも、橘さんの家族に一時的な猶予を作れたのだから。
橘家に戻ると、橘さんの母親が戸口で不安げな表情を浮かべて待っていた。彼女の横には橘さんがいて、心配そうにこちらを見ている。
「杉村君、大丈夫だったの?」
「ええ、とりあえず明日の午前中まで時間をもらいました。」
俺の答えに、橘さんの母親は目を見開き、すぐに深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございます。でも、無理しないでください。」
「無理じゃありません。少しでも助けになれたらと思っただけですから。」
母親の目に涙が浮かんでいるのが見えた。そして橘さんが一歩前に出て、小さな声で言った。
「ありがとう……杉村君。でも、本当に大丈夫なの?」
彼女の瞳に宿る不安が胸に刺さる。俺は微笑みを浮かべ、彼女の目を見て答えた。
「困ってる人を見て、何もしないでいられる性格じゃないんだよ。」
彼女は少し驚いた顔をした後、微かに微笑んだ。その笑顔を見て、俺は少しだけ安心した。
自宅に帰り、机の前に座る。目の前には「ドリームノート」が静かに横たわっている。
(これしか方法はない……。)
ペンを取り、ページを開く。手が震えるのを感じながらも、文字を書き込む。
『明日午前中、橘家の借金2000万円を杉村悠人の口座から安全に返済し、トラブルが完全に解決する。』
書き終えると、ノートが淡い光を放った。その光が胸のざわつきを少しだけ和らげる。
(これで、橘さんの家族を救えるんだよな……。)
深い息を吐き、手にしたペンを机に置いた。視線はノートの表紙に向けられたままだ。
(この力がどれほどの代償を伴うのか、まだ何もわからない。それでも、今はこれしか選べない。)
思考が静かにまとまる中で、窓の外に浮かぶ月の光が部屋を優しく照らしていた。
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