第32話 雨の日の帰り道
雨が降り続く月曜日の午後、教室の窓を叩く雨粒がリズムを刻んでいた。窓ガラスに映る外の景色はぼやけ、校庭の水たまりが反射する光が揺れている。廊下を歩く生徒たちの傘が、雨音の中で小さなカラフルな波を作っていた。
放課後の昇降口で傘を差しながら、俺は周囲を見回していた。傘を持たず、立ち尽くしている人がいるのではないかと思ったからだ。そして案の定、傘を持たずにポツンと立っている紗月を見つけた。
「紗月、傘持ってないのか?」
声をかけると、紗月は少し驚いた表情でこちらを振り向いた。
「あ、悠人……うん、忘れちゃったみたい。」
小さく苦笑する彼女を見て、俺は自分の傘を差し出した。
「これ、使って。俺は少しくらい濡れても平気だから。」
「でも、悠人はどうするの?」
彼女が眉を寄せて困ったように言う。
「一緒に使えばいいじゃん。どうせ帰る方向、一緒だし。」
俺が軽く笑って言うと、紗月は少し頬を赤らめながら「じゃあ……お言葉に甘えて」と小さな声で答えた。
雨の中、二人で相合傘をしながら帰り道を歩いた。狭い傘の下では、お互いの肩がかすかに触れ合い、いつもより彼女の息遣いが近く感じられる。
「雨の日ってさ、静かで好きなんだけど、こういう時は困るよね。」
紗月がポツリと言った。
「まあ、急な雨とか傘忘れた日には困るよな。でも、たまにはこういうのも悪くないかも。」
俺が答えると、彼女は少しだけ微笑んだ。
しばらく沈黙が続いたが、紗月がぽつりと口を開いた。
「最近ね、ちょっと考え事が多くて。」
「考え事?」
俺は歩調を緩め、彼女の横顔を伺った。水滴のついたまつげが、どこか儚げに見えた。
「学校のこととか、友達のこととか……なんか、うまくいかないことが多い気がして。」
紗月の声は沈んでいて、その言葉には普段の明るさは感じられなかった。
いつも周囲に囲まれ、笑顔を絶やさない紗月が、こんな風に悩みを口にするなんて珍しい。俺は無意識に歩みを止め、彼女の顔をじっと見つめた。
「無理しなくていいと思うよ。」
俺の言葉に、彼女が一瞬驚いたように目を見開く。
「紗月は、もっと周りを頼ってもいいんじゃないかな。俺だって、力になれるし。」
少し強めの言葉になったかもしれない。でも、それくらい伝えたかった。
「頼る……?」
紗月は小さく呟いて、俺の顔を見た。その目には迷いが浮かんでいた。
「うん。紗月って、何でも一人でやろうとするタイプだろ? それはすごいことだけど、時には周りを頼るのも必要だと思うんだよ。」
俺は傘を少し傾け、彼女が濡れないようにした。
「でも……私、頼るってあんまり得意じゃないんだよね。頼りすぎると、相手に迷惑をかけちゃう気がして。」
紗月は視線を落としながら答える。その言葉には、自分を責めるような響きがあった。
「迷惑だなんて、そんなことないだろ。少なくとも、俺は迷惑だなんて思わないよ。逆に、頼られると嬉しいけどな。」
自分の本音を伝えると、紗月は驚いたように目を瞬かせた。
「本当に……そう思う?」
半信半疑といった顔の紗月。その表情には、どこか希望の色が微かに差していた。
俺は一度呼吸を整え、紗月の顔をしっかりと見据える。
「本当にそう思うよ。だってさ、そうじゃないと紗月の隣に自信を持って立てないじゃん。」
その言葉を口にすると、紗月の顔がみるみる赤く染まっていく。彼女は一瞬目を見開き、驚いたような仕草を見せた。
「ちょ、ちょっと不意打ちなんですけど……。」
視線を逸らしながら、小さな声でそう呟く紗月。照れているのが明らかで、傘の柄を握る手が微かに震えている。
雨音だけが響く静寂の中で、俺も心臓が少し早くなるのを感じた。こういう場面は慣れていないけれど、なぜか自然と紗月の気持ちに応えたくなる。
紗月は一度深呼吸をして、息を整えると笑顔を浮かべた。
「悠人って、意外と頼りになるんだね。」
ふいにそう言ってきた。
「意外とってなんだよ。」
俺も苦笑しながら返すと、紗月は少し困ったように微笑む。
「いや、文化祭でもそうだったけど、こういう時も助けてくれるし、本当にありがとう。」
その言葉には素直な感謝が込められていて、俺の心にじんわりと響いた。
「別に、俺がやりたいからやってるだけだし。」
少し照れくさくなって、そんな風に言葉を濁した。すると、紗月がくすっと笑う。
「悠人って、時々すごくカッコいいこと言うよね。そういうの、もうちょっと自覚したほうがいいんじゃない?」
彼女の言葉に、俺も顔が熱くなるのを感じた。
「自覚するほど、そんなこと言ってないけどな。」
そう言って肩をすくめると、紗月は楽しそうに笑った。
雨が降り続く中、俺たちは少しだけ軽くなった空気の中で歩き続けた。紗月の笑顔を見ていると、この時間が永遠に続いてほしいとすら思えた。
次の日、クラスメイトたちから「杉村と橘さん、相合傘してたって?」とからかわれることになるが、それはまた別の話だ。
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