表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/35

第1話 バスの隣席

 教室の隅、窓際の席。俺――杉村悠人すぎむら ゆうとは、ノートにペンを走らせていた。周囲のクラスメイトたちの楽しげな談笑が耳に届く。

 その声は、俺には関係のない遠い世界のものだ。だから意識しないように、心の中で壁を作る。


 ここに座っている限り、誰にも話しかけられない。誰とも交わらない。自分だけの静かな世界に籠れる――それで十分だった。いや、それでいいと思っていた。

 俺の目立たない性格は、小学校からずっと変わらない。誰の記憶にも残らないし、誰からも気にされない。そうやって過ごすのが楽だった。

 変化なんて、必要ない。そう思い込んでいた。


 そんな俺の日常が、今日までは何の変化もなく続いていた。――学校帰りのバスに乗るまでは。


 夕焼けが広がる街並みを見下ろす高台。俺がいつも利用する路線バスは、丘陵地帯を抜けるルートを通るせいで、車内には普段から乗客が少ない。

 その日も変わらずガラガラだった。俺は一番奥の隅の席に座り、小説を取り出す。

 読んでいたのは、最近気に入っている「異世界転生記」。折れた表紙の角を指でなぞりながら、ページを開く。


 夕焼けの光が窓に反射し、ぼんやりと自分の姿が映り込む。無意識に視線を下げてしまう。

 目立たない黒髪、地味な制服姿。こうして一人で過ごしていると、誰かと交わることなんて考えもしない。

 俺の時間は、こうして静かに流れていくはずだった――。


「すみません、ここいいですか?」


 不意にかけられた声に、反射的に顔を上げた。驚きに目を見開く俺の前には、長い黒髪がさらりと揺れる女子――橘紗月たちばな さつきが立っていた。


 彼女の瞳は、大きくて澄んでいて、まるで吸い込まれそうなほど真っ直ぐ俺を見つめていた。


――え? なぜ、俺の隣?


 車内はガラガラだ。空いている席はいくらでもある。それなのに、どうしてわざわざ俺の隣を選んだんだろう。

 言葉が詰まる。こんな状況、想像すらしていなかった。


「あ、えっと……どうぞ。」


 俺はぎこちなく答えた。彼女はにっこり微笑み、隣に座る。

 その瞬間、ふわりと甘い香りが鼻先をくすぐった。鼓動が急激に速くなるのが自分でも分かる。


 目の前で揺れる黒髪。柔らかそうな制服の生地。視線の置き場を失い、小説に目を落とす。


 なぜだ。どうして俺の隣なんだ?


 いや、もしかして――。

 

 あり得ない考えが脳裏をかすめる。けれど、そんなわけないだろう。俺はただの地味な男子高校生だ。そんな俺に、何か特別なことが起こるはずがない。


「ありがとうございます! バスって落ち着きますよね。なんか、自分だけの時間みたいで。」


 彼女が無邪気に話し始める。その柔らかな声に、俺の混乱はさらに深まった。

いや、落ち着くどころか、心臓が暴れ出しそうだ。


「あ、あの……ちょっと聞いてもいいですか?」


「ん? なに?」


 彼女は首をかしげる。その仕草が妙に自然で、俺の緊張を逆に煽る。


「……他の席も空いてますけど、どうしてここに?」


 恐る恐る尋ねると、彼女は少し目を丸くしてから、くすっと笑った。


「あ、それね。なんとなく、だけど……ちょっと話してみたくなっちゃった。」


 彼女の答えに、ますます混乱する。なんとなく? そんな理由で隣に座るものなのか?

俺は誰の記憶にも残らない存在のはずだ。それなのに――。


「それにね……なんだか、気になったの。」


「俺のこと?」


 思わず声が裏返る。彼女は軽く頷いて微笑む。


「うん、なんとなくだけどね。ほら、気になることってあるでしょ?」


 そんなことって、普通あるのか? いや、俺には分からない。俺みたいな地味な人間が、彼女のような目立つ存在の目に留まる理由が分からない。


「本、読んでたよね。何読んでるの?」


「あ、えっと……ライトノベルとか。」


「へぇ~、どんなの?」


「『異世界転生記』とか……。」


 作品名を挙げると、彼女の表情がぱっと明るくなった。


「えっ、それ私も読んでる! まさか、杉村君と趣味が合うなんて!」


「本当に?」


「うん! でもね、途中で寝ちゃうから結末知らないんだけどね。」


「それ、読んでるって言えないんじゃない?」


 思わず突っ込むと、彼女は照れくさそうに笑った。


「だって、読んでるとリラックスしちゃうんだもん。」


 彼女の無邪気な笑顔に、不意に笑いがこみ上げた。


 次のバス停が近づく。紗月がふと立ち上がり、降車ボタンに手を伸ばした。その瞬間、彼女の体が妙に近づいてきた。 

 黒髪が揺れ、甘い香りが濃くなる。息遣いを感じるほどの距離感に、鼓動が一気に跳ね上がる。


 こんなに女性と近づいたのは、生まれて初めてだ。どうしたらいいのか分からない。体が硬直し、彼女の動きをただ見つめていた。


「また、どこかでお話ししましょうね! 私、杉村君ともっと話してみたいから。」


 振り返りながら笑顔でそう言うと、彼女は軽やかにバスを降りていく。その後ろ姿を見送りながら、俺は一人、呆然としていた。


 残されたのは、速すぎる鼓動と、彼女の残り香。


 そして――カバンに入れたままの『ドリームノート』。ただのノートのはずなのに、どこか重く、存在を主張しているような気がして、俺は思わずカバンに手を伸ばした。


筆者の励みになりますので、よろしければブックマークや★の評価をお願いいたします。温かい応援、よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ