第1話 バスの隣席
教室の隅、窓際の席。俺――杉村悠人は、ノートにペンを走らせていた。周囲のクラスメイトたちの楽しげな談笑が耳に届く。
その声は、俺には関係のない遠い世界のものだ。だから意識しないように、心の中で壁を作る。
ここに座っている限り、誰にも話しかけられない。誰とも交わらない。自分だけの静かな世界に籠れる――それで十分だった。いや、それでいいと思っていた。
俺の目立たない性格は、小学校からずっと変わらない。誰の記憶にも残らないし、誰からも気にされない。そうやって過ごすのが楽だった。
変化なんて、必要ない。そう思い込んでいた。
そんな俺の日常が、今日までは何の変化もなく続いていた。――学校帰りのバスに乗るまでは。
夕焼けが広がる街並みを見下ろす高台。俺がいつも利用する路線バスは、丘陵地帯を抜けるルートを通るせいで、車内には普段から乗客が少ない。
その日も変わらずガラガラだった。俺は一番奥の隅の席に座り、小説を取り出す。
読んでいたのは、最近気に入っている「異世界転生記」。折れた表紙の角を指でなぞりながら、ページを開く。
夕焼けの光が窓に反射し、ぼんやりと自分の姿が映り込む。無意識に視線を下げてしまう。
目立たない黒髪、地味な制服姿。こうして一人で過ごしていると、誰かと交わることなんて考えもしない。
俺の時間は、こうして静かに流れていくはずだった――。
「すみません、ここいいですか?」
不意にかけられた声に、反射的に顔を上げた。驚きに目を見開く俺の前には、長い黒髪がさらりと揺れる女子――橘紗月が立っていた。
彼女の瞳は、大きくて澄んでいて、まるで吸い込まれそうなほど真っ直ぐ俺を見つめていた。
――え? なぜ、俺の隣?
車内はガラガラだ。空いている席はいくらでもある。それなのに、どうしてわざわざ俺の隣を選んだんだろう。
言葉が詰まる。こんな状況、想像すらしていなかった。
「あ、えっと……どうぞ。」
俺はぎこちなく答えた。彼女はにっこり微笑み、隣に座る。
その瞬間、ふわりと甘い香りが鼻先をくすぐった。鼓動が急激に速くなるのが自分でも分かる。
目の前で揺れる黒髪。柔らかそうな制服の生地。視線の置き場を失い、小説に目を落とす。
なぜだ。どうして俺の隣なんだ?
いや、もしかして――。
あり得ない考えが脳裏をかすめる。けれど、そんなわけないだろう。俺はただの地味な男子高校生だ。そんな俺に、何か特別なことが起こるはずがない。
「ありがとうございます! バスって落ち着きますよね。なんか、自分だけの時間みたいで。」
彼女が無邪気に話し始める。その柔らかな声に、俺の混乱はさらに深まった。
いや、落ち着くどころか、心臓が暴れ出しそうだ。
「あ、あの……ちょっと聞いてもいいですか?」
「ん? なに?」
彼女は首をかしげる。その仕草が妙に自然で、俺の緊張を逆に煽る。
「……他の席も空いてますけど、どうしてここに?」
恐る恐る尋ねると、彼女は少し目を丸くしてから、くすっと笑った。
「あ、それね。なんとなく、だけど……ちょっと話してみたくなっちゃった。」
彼女の答えに、ますます混乱する。なんとなく? そんな理由で隣に座るものなのか?
俺は誰の記憶にも残らない存在のはずだ。それなのに――。
「それにね……なんだか、気になったの。」
「俺のこと?」
思わず声が裏返る。彼女は軽く頷いて微笑む。
「うん、なんとなくだけどね。ほら、気になることってあるでしょ?」
そんなことって、普通あるのか? いや、俺には分からない。俺みたいな地味な人間が、彼女のような目立つ存在の目に留まる理由が分からない。
「本、読んでたよね。何読んでるの?」
「あ、えっと……ライトノベルとか。」
「へぇ~、どんなの?」
「『異世界転生記』とか……。」
作品名を挙げると、彼女の表情がぱっと明るくなった。
「えっ、それ私も読んでる! まさか、杉村君と趣味が合うなんて!」
「本当に?」
「うん! でもね、途中で寝ちゃうから結末知らないんだけどね。」
「それ、読んでるって言えないんじゃない?」
思わず突っ込むと、彼女は照れくさそうに笑った。
「だって、読んでるとリラックスしちゃうんだもん。」
彼女の無邪気な笑顔に、不意に笑いがこみ上げた。
次のバス停が近づく。紗月がふと立ち上がり、降車ボタンに手を伸ばした。その瞬間、彼女の体が妙に近づいてきた。
黒髪が揺れ、甘い香りが濃くなる。息遣いを感じるほどの距離感に、鼓動が一気に跳ね上がる。
こんなに女性と近づいたのは、生まれて初めてだ。どうしたらいいのか分からない。体が硬直し、彼女の動きをただ見つめていた。
「また、どこかでお話ししましょうね! 私、杉村君ともっと話してみたいから。」
振り返りながら笑顔でそう言うと、彼女は軽やかにバスを降りていく。その後ろ姿を見送りながら、俺は一人、呆然としていた。
残されたのは、速すぎる鼓動と、彼女の残り香。
そして――カバンに入れたままの『ドリームノート』。ただのノートのはずなのに、どこか重く、存在を主張しているような気がして、俺は思わずカバンに手を伸ばした。
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