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奈落の口

作者: 銅座 陽助


 引き取って欲しいものがある。


 骨董品屋を営む私にとって、そう云った依頼というべきか、取引を向こうから持ち込んでくる顧客というのは、そう珍しいことでは無かった。

 だがしかし、こういう「()()()()()」の代物というのは、そう滅多に取り扱うものでもないのも、また事実であった。


 持ち込んできたのは、店がある緋紗(あかさ)の町から幾つか市を挟んだ処に住んでいるという、酷く(やつ)れた様子の、間もなく還暦に差し掛かろうという年頃の男である。

 朝に店を開けようと暖簾(のれん)を上げた時には、もう随分待ちわびたと言わんばかりに軒下で待ち構えていたその男は、私の姿を目にするや否や、手にした黒く平べったい箱を私に押し付けて来た。

 そうしてそのまま、頼みます、頼みますと、後退りしながら立ち去ろうとするので、慌てて声を掛けて、半ば無理矢理に店の中へと連れ込んだ。


 酷く怯えた様子で、今にもこの場から逃げ出したいと言わんばかりに震える男が、都度あの箱の方をびくびくと覗きながら話すところに依ると、なんでも親が死んで遺品の整理をしていた時に、蔵の奥の方から出てきたものだという。

 見つけた時の詳細や、怯えている理由、箱の中身について尋ねても、涙ながらに口を震わせるばかりで、(よう)として明瞭な答えを得ない。だというのに、中身を検めるために蓋を取ろうとすれば、男はその痩せこけた身体の何処に隠していたのか分からぬほどの強い力を発揮して、こちらの手を跡が残りそうなくらいに強く抑え込んで、どうにも開けさせようとしないのである。

 埒が明かないので、この後鑑定するから、明日代金は取りに来るようにと伝えると、代金なぞ要らない、引き取ってもらえればそれで良いと言う。こちらも商売なのだからそういうわけにもいかないと伝えても、(がん)として譲ろうとしない。

 仕方なく売却手続きに必要な書類だけは書いてもらって、何かあれば連絡すると言って、その場は帰ってもらうことにした。


 そうこうしているうちに別の客がごめんくださいとやって来たので、そちらの応対をしているうちに、男は逃げるように出て行ってしまい、後にはがたついた文字で書かれた書類と、(くだん)の黒い箱だけが残されていた。


 ……

 …………


 一通りの接客を終えると、気が付けば太陽が中天を過ぎるくらいの時刻だった。

 少し暖簾を下ろして、休憩中の札を表に出す。

 昼食を摂ろうと奥の方に近寄って、例の箱を忘れていたことに気が付いた。


 案外腐れた飯でも入った弁当箱やもしれぬと、何の気なしに蓋を開いて。

 そうして思わず両手で顔を覆い、天を仰いだ。



 間違えた。



 そう叫びたい気持ちをぐっと喉奥に抑え込んで、私は目の前の箱に向き直った。


 一辺が十センチメートルばかりの正方形の(かたち)をした、浅い箱である。

 その見事な漆塗りの上蓋はつい数秒前に外れ、裏地の鮮血の如き赤色を机の上に露にしていた。

 他方、開けられた箱のほうの外側は、黒く光沢を放つまでに磨き上げられた、牛皮と思しき装丁で以て四方底面を覆われている。これも見事なものではあるものの、上蓋の滑らかな漆塗りとの組み合わせは、奇妙な食い合わせの悪さを見せていて、やけに気持ちが悪い様子だった。

 そうしてその内側は、箱の(ふち)(きわ)まで、蓋裏と同じ真紅のビロウドの張り付けがしてあって、やはり同じ組みのものとして作られたことを静かに物語っていた。


 恐る恐る、箱のほうの裏地の、その境目を指先でなぞると、吸い付くような柔らかな手触りが、肘の辺りまで伝わってくるように思える。

 しかし、どれほどその外観と、或いはその内側が、息を呑むほどに美しきを主張してきたとしても、私の抱いた恐怖と悔恨を、小指の先ほども裏返してはくれなかった。


 底知れぬ不気味さである。


 文字通りの意味で、この箱には底が無かった。

 傍らに放られていた安物のボールペンを恐る恐る中に落としてみれば、みるみるうちにその姿が小さくなるばかりで、毛羽立った底に当たって鈍い音を鳴らすことは終ぞ無い。

 箱の淵のあたりに指を置いて、真赤な手触りをどれほど下に繋げようとも、本来現れて然るべき筈の、くの字の突き当りは訪れなかった。(ただ)深く、深くへと、その最上の手触りと、次第に影を帯びる赤が連なり落ち込んでいくばかりである。

 そこにはあるはずの机の硬さも、その下に差し入れた私自身の脚すらも無く、ひたすらに赤黒い虚無が続いているばかりであった。

 それを見ていると、魂が吸い込まれるような、上質な布地のぬくもりに包み込まれたくなるような。冬の朝の抗い難き怠惰に似た、極上の堕落がこちらに手招きをしていて――――


 そこでふと、正気に戻った。

 気が付けば私の右腕は、その滑らかな壁面を指先で辿るうちに、肩のあたりまでを内側に入れ込んでしまっていたようだった。私は慌てて机に左腕を突いて、全身の力を使って一息に右腕を引き抜いた。

 閉め切ってなお冷たい冬の部屋の空気に触れながらも、右腕の上腕から指先に掛けて、柔らかな温もりがべったりと纏わりついているようだった。


 ぞわりとした悪寒が背中を走り、全身の毛が逆立つような感覚になる。十センチ四方の入り口であっても、あのままにしていれば、足先までを呑まれていたに違いなかった。

 理論理屈では到底考えられないことだが、己の直感がひっきりなしに警鐘を鳴らしている。

 そも、物理的な理解などという極めて()()()()()なものは、底の無い箱という矛盾物を観測した時点で破綻しているのだ。


 私は慎重に、横に転がっていた上蓋を手に取って。

 深々と(たた)えた、奈落の入り口を閉じようとした。


 するり、と蓋が堕ちる。


 遥か闇の底に、黒と赤を反射させながら、蓋が落下していく。よく見れば、先程よりほんの少しばかり、箱が大きくなっているように思えて。

 そうして今まさに目の前で、投げ与えられた新鮮な食い物を咀嚼しながら。

 黒革に覆われた箱そのものが、蠢き、育ち、じんわりと机の木目を覆い隠し始めている様子だった。



 開けるべきでは無かった、否、受け取るべきでは無かったのだと。

 端から間違っていたのだと気づいた時には、もう全てがあとの祭りであった。



 書類に殴り書きにされた電話番号は、当然のように嘘であった。


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