第9章
現世に戻って、ファミレスの仕事を真面目に勤めた。妻が身籠った男の子も順調に育っていて、あと3カ月ばかりで出産の予定である。
僕は生まれてくる息子に転生することや、妻の過去に転生することも出来たのだけれども、さすがにそれは恐いと思ってやめた。
現世での生活が、いわゆる「リア充」になると、転生願望はそれほどなくなってきた。やっぱり現生の生活に不満があるから転生という世界にのめり込むんだろう。
しかし僕は、転生というよりタイムトラベラーとして、もう少し楽しんでみようと思った。なにせ、現世では転生している時間はあっという間なのだから。
僕は、来年行われる大学入学共通テストの入試作問委員をイメージして呪文を唱えた。親戚の子が来年大学受験なので、何か役に立つかもしれない。
こんなテストを作っている人がどんな人かは全然知らないし、どんな作業をやっているのかも想像つかなかったが、呪文を唱えると、僕は東京の駒場にある大学入試センターの一番奥の、厳重に鍵のかかる部屋にいた。どうやら僕は、東大の准教授のようだった。
入試問題の試し刷りが皆に配られていた。教科は数学だった。親戚の子どもは数学が一番の苦手だと言っていたから、ラッキーだと思った。
「この太郎君とか花子さんとか言う物語風設問はいかがなものかと思いますが」
「確かに文章が長すぎて、これが数学の試験って言えるの?」
「でも、これがスタート時からのスタイルで、文科省としては、暗記とか情報処理スピードを競う今までの入試ではなく、思考力や表現力を重視する入試に変えようと考えていますので」
大学入試センターの担当者が皆に説明する。
「確かにこの問題を作ったのは私ですが、太郎君と花子さんではなく、はなお君とまるこちゃんが良いのではないかと思うんですが」
東大准教授の僕が発言する。
「だったらのびたとしずかちゃんでも良いんじゃない?」
京大の教授が発言する。
「確かに」
参加者の全員が腕組みする。
その雰囲気を見て、大学入試センターの担当者が口を開く。
「まあ色々ご意見はあると思いますが、スタート時から太郎君と花子さんということですので、それでお願いします」
全国の受験生が受ける大学共通テストの作問現場って、こういうもだったのか。
配られた試し刷りは回収され、僕らは解放された。
家族にも作問委員になったことは言えず、試験が終わった後も、秘守義務のため、作問過程の話はできない。でも花子太郎か、はなお君まるこちゃんか、のびたしずかちゃん論争があったことは、その議事録が残っているならば、いつか公開されるのかと思った。
本郷のキャンパスの研究室に戻ると、教授が尋ねてきた.
「入試センターではどうだった?」
この教授のせいで厄介な仕事を引き受けなければならなくなったわけで、僕はむっとした表情で、「太郎と花子はないでしょう」と呟いた。
「えっ? 太郎と花子がベストじゃない!」
確か共通テスト第1回の作問を担当したうちの一人は、この教授だった。
僕は何回か入試センターでの検討会に出席し、ようやく翌年の数学の試験が完成し、呪文を唱えて現世に戻った。
しかし元々数学何て超苦手だった僕が、問題など覚えているはずもない。せいぜい太郎と花子が問題文に出てくることぐらいは分かったが、親戚の子どもの役には立てないとあきらめた。