#8 変革3
今回の「フレイム」も、確かに徐羅一判の辿って来た歴史を塗り替えた。記憶というその軌跡は必然的に脳から奪い去られたが、それは大局の直接的な変化を意味するものではない。違うことがあるとすれば、その影響で空間座標を移動し、自動的に脱走犯と化している点だろう。
「俺は見た。自分の過去を」
“予定調和”を知る術として、一判は架殻木ノアと同じ手段に行き着いていた。
たとえそこに実在する記憶が伴わなくても、信じるべきものがそれだと確信すれば、自身の感情すらも切り捨てることができる――だから、今後取るべき行動に影響はない。
一判が能力に触れた特異点であることにきっかけがあるとすれば、それはいかなる過去に応じても同じ思想に行き着く、超次元的な執念だ。
「だから分かったよ、ここに君が来ているということも」
『ディファイル』の過去改変によって仕組まれた邂逅。かつての教師ともうひとりの教え子が再び対峙した。その場所は8年前と同じ、当時の一判の拠点だ。
『勝つ為に満たさなければならない条件は2つ――まず、“予定調和”の破綻を防ぐこと。方法は勿論、この手にある『嘘』しかない」
数刻前、皆の集まった事務所でノアはその算段を語っている。この場に来られない未良も、通話でその場に参加していた。
「今の先生と、もう一度話したい。その為に嘘を使い、タイムリミットギリギリであの人と会いに行く。きっと最後の“予定調和”の破壊も、そのタイミングで行うに違いない」
「……1人で?」
その場には、囀きりかもいた。彼女は怪訝そうな顔をこちらへと向けてくる。
「ああ、頼む。お前は、今のあの人には会わない方が良い気がする」
ノアは目を逸らした。
これから目にするのがかつての担任の変貌であるという意味で、それは自分へ向けられた言葉でもあったから。
「それで、もうひとつの条件。
これは劉が自分の身を犠牲にして布石を打ったことによるもの――これ以降の現実世界において、時間改変能力の全てを葬り去ること。それは、先生を騙すことで成し遂げられる」
ノアは続ける。
「『ディファイル』は立体時間のy座標、つまり嘘で騙された対象の飛躍した認識へ“予定調和”と同調しているx軸がずれ込むという仕様だ。『フレイム』の改変によって能力の関与しない時間を生きている今の一判先生を基準に『ディファイル』を成功させれば、その時点で時間改変能力と接触した事実自体をかき消すことができる」
「でもそれが適用されたら、ノアくんは?」
口を挟んだのは未良。答えに対して察しが付いているのか、悲しそうな表情だった。
「嘘をついて来た昔の頃から一転してそれを抑えるようになったのは、ノアに能力が備わったから。つまり『サク』として生きてきたノアの人生は全て無かったことになる。あとは、二次的に関与した俺達の諸々もまとめて消える……ってところかな」
ノアの代わりに、乙丸が淡々と述べた。
この可能性は、紛れもない事実だ。
『サク』としての自分を嘘で否定した前回は、結果として能力の“移譲”が起き、その間の自身の記憶は無くなっていた。能力の存在がなくなれば、当然“移譲”も起こらない。だとすれば改変後、ノア自身の記憶はそれと永久に決別し、違う人生を生きることになると考えるのが妥当だろう。
最悪の事態を考えるならば、自身が人間への能力付与を目論む過去の特定の思念へと“移譲”される可能性もある。現在のノアとしての意識は『ディファイル』へと内包され、宿主の目的を成就させないという意思のもと、死ぬこともできず無意味な時間座標を彷徨い続けるという線だ。
「どのみち、それしか選択肢はない。劉も『フレイム』の詳細を指定する余裕はなかっただろうし、どう作用するかは記憶のない先生自身を含めて誰にも分からない」
「私、嫌です」
未良は躊躇無く告げた。
「全部無かったことになるなんて、能力が残っていた場合の後世の為にですか?ノアくんが1人、そんな責任まで払わないといけないなんて」
ノアには当然、それがこの場にいる皆の願いであることは理解できていた。
ただ、その決定権を持つ架殻木ノアにとって、相応しい答えはひとつしかなかった。
「それは『サク』に異を唱えるのか?1人の裁量で真実を定義してきた“預言者”を、今更身勝手だと非難するつもりか?」
「――そう、今までと何も変わることはない」
ノアは眼前に立つ一判に対して呟いた。
「俺にはもう覚悟ができている。積み上げて来たものを壊して過去を汚す覚悟を、全てな」
「そうだね。君はそんな人物だと、“俺”も評価していたよ」
一判は微笑む。
「狙いは分かっている。俺に何らかの嘘を信じさせたいんだろう?
でも、そんな事は不可能だ。ここに来る前に、この3日間での『サク』や『メフィスト』の動向を確認したから。今後“予定調和”の崩壊がなされるまでの数分間、俺は君の言葉を一切信じるつもりはないよ」
それらは全て見知った顔つきで、先日再会した際に感じられた、背筋を強張らせるような圧迫感が失われていた。目の前の彼は、「力に出会わなかった世界」を生きてきた徐羅一判。加えて記憶も失われている――弱さに折れかけていたこの彼こそが、皮肉にもノア達が親近感を抱く教師としての姿。ただ唯一、その目にだけは「“予定調和”の崩壊」という希望が灯っていた。
ノアは一判の宣言に対し、無表情のままで答える。
「なら、最初にひとつ言っておくが――俺にはもう、アンタを止める手段がないんだ」
「それは……」
一判は言葉の意味を理解したのか、こちらに対する目線が険しくなった。
「そう、分かるだろう?アンタはこの、自分を直接勝利へ導く言葉ですら信じることができない。それはこの俺に対する不要な注釈がお前の中に存在しているという証明――誤解の種は、確かにアンタへ植え付けられているんだ」
一判は僅かに沈黙した後、やれやれ、と笑って緊張感を解いた。
「……どのみち今の俺に何かを動かす力はないんだ。君の信じる“予定調和”の俺にそこまで拘りがあるのなら、話は聞いてあげるよ」
――なるほど。隙を与えないつもりか。
会話の調子をコントロールすることで、ノアが嘘を吐くことの出来る機会を限定している。かつての「徐羅一判」の差金か、警戒を掻い潜って事実誤認を忍ばせる「ディファイル」用の会話術に対する理解は十分なようだった。
それに対しノアは、一判への直視を維持して応じる。
「思うに今の先生は、能力に触れられなかった時間の軌跡を辿ってきた。つまりこれまで以上に正義に対する執着を払拭できないまま燻らせている、言わば怨念のようなものだ。
……それでも。俺はそんな先生を尊敬するよ」
これに対して、一判はやや不思議そうな顔を浮かべている。
「当然、今の状況では信じちゃくれないだろう。ただ、アンタが俺に課した“審判”……その答えとして生かされてきた俺の回答は、確かにアンタの生き様と同じものだ。その先の、もっと過酷な道を行っている先生に対しては、その感想しか抱いていない」
「くだらない。俺は“予定調和”を否定し、君がそれを擁護する――これが同じものだって?」
一判は鼻で笑って切り捨てる。これはイメージ通りの彼らしい行動ではなく、冷たさに徹し全ての言葉を拒絶するという態度の表れだろう。
「狙いは分かっているよ。
事態を把握したばかりの俺に対しては、意表を突く発言の効果が大きい。盲目のディルク・デ・ヘンゲルを嵌めたのと同じ、無知の領域につけ込む手口だ。
でも俺をいかに動揺させようとしたところで、この数分間、こちらの選択肢は否定しかない」
一判は手元に目線を移す。それに気付いたノアもスマートフォンを取り出した。
未良の誘拐が起こってからの72時間。そのタイムリミットが、間も無く訪れようとしていた。
「ほら、もう時間だ。前回は不完全だったため修正されはしたが、それも本来はこの一瞬のための布石だ。
予定調和の絡まり――つまり、思想的なイレギュラーを発見できた以上、もう次はない。君も時間改変能力を有する以上知っているだろうが、契機は時間座標における特定の一点を指す。
前回も、異常との遭遇は事後的だっただろう?今回も同じだよ。その一点が過去となった瞬間、“予定調和”は完全に終わる」
ノアは言葉を発さなかった。
この状況――結果は目に見えている。
「5、4」
こちらへと見せつけるように掲げられた一判の掌が、声と共に指の一本ずつ折られいく。
「3、2、1」
そして、その指全てが折り畳まれた“瞬間”。これをノアの研ぎ澄まされた感覚器は捉えることが出来た。
世界の、変革する振動。
一判にはこれを感知する素養が最早備わっていない。事態を把握するのは、その静寂をノアが破ってからだ。
「これでゼロ、だったか?」
この言葉と共に、一判の顔はみるみる曇っていく。
「もし先生の言った通りの俺なら、その瞬間が訪れた途端降伏してるんだろうな」
一判は動揺しているが、ノアは構わずに続けた。
「知ってたさ。俺がやるべきだったのは、今の一点の訪れを回避すること。
その計画には寸分の狂いもない――だからこそ、寸分でも狂わせることが出来れば失敗する。それが弱点だ。初めからそこに照準を当てて、相対的な過去改変を未来に対して仕込めばいい」
「相対的な過去改変……だって?」
「確証がなかったから、最初の手順は“実験”だった。外部の影響を受けない環境に未良を置き、時間が経った後に彼女を対象とした過去改変を行う――これにより彼女の認識座標へと“予定調和”側が移動する。この『ディファイル』の改変が、時間座標のy座標だけでなく、x座標をも対象とすることを確かめた」
「まさか……!?」
「ああ、そのまさかだ。
立体時間のz軸は観測者の違い。その根拠は『浅子理論』ではなく、時間の流れが相対的なものであるという、従来の物理学的常識に基づくものだ」
信用に値する情報とは、何よりも先に結果があるということだ――一判の表情に、つい先ほどまでの拒絶は見られない。
「特定の一瞬をズラすことさえ出来ればいい。そこで利用したのは、大切な仲間の力だ。
俺は柏葉陸朗の伝手を使い、彼の“血の繋がっていない兄”と交信を図った。先日地球を発った、宇宙飛行士の柏葉羊大に現状を説明する嘘をメールで吹き込み、偽りの現地時間と共に信じさせる。
“ウラシマ効果”――高速で移動する彼を対象として流れる時間は、地上よりも遅れて流れる。現実的なケースだとその差異は微々たるものだが、先生の目論見を打ち砕くには大きすぎる『世界の時間遡行』だ」
一判は力が抜け切ったようで、その場に崩れ落ちた。
「俺は……俺は、終わったのか?」
ノアは咄嗟に手を差し伸べようとしたが、途中でその動きを止めざるを得なかった。
衝撃。先ほどよりも大きな揺らぎがノアの体を襲う。
――もう時間はない。
「……ああ。先生が今の話を信じたことで、残りの可能性も潰えたみたいだ」
「……何……?」
一判は、驚いてノアの方を見上げてくる。
「起きた現象は同じ。しかし先生は、その過程をたった今誤認したんだ」
ノアはスマートフォンを取り出し、「ABY」の画面を見せる。
「頼んだのは、俺や未良の他に唯一『青蓮ミライパーク』跡地を訪れた者として、そこに存在していた『ABY』機密資料を回収することだ。これを交渉材料として、操作されている各ユーザーのタイムラインに直接情報を流した――『サクが直接、柏葉洋大と連絡を取った』とな。
陸朗を仲間だと言いながら、あいつを柏葉洋大の弟扱いはしないさ」
「俺は『サク』と『メフィスト』をマークしていた。それすら読んでいたってことなのか?」
「『フレイム』を喰らった後で、過去の出来事を追うのに必死だった今のアンタが相手なら通用すると確信していた手だ。常套手段への対策に比重が置かれて、今回限りのやり方には警戒が薄れたな」
目眩と激しい頭痛がして、ノアは頭を抑える。
これを見て、何が起きたのか気が付いたのだろう。地に伏していた体勢を変えて、座った形になった一判は、苦笑してこちらを眺めている。
「君は、中々卑劣だな」
「ここまで崩れた俺の、原因すら分からないこの感情を時間改変に埋もれさせず、解消させるための道すらも奪った。その上で、この世界に俺を置き去りにするのか?
過去の俺がやったことを考えれば当然だってことかい?さっきは尊敬すると言っていたが、やっぱり君は情報通りの大嘘吐きらしい」
よろめいて、ノアもその場に片膝をついた。
「いいや、俺は確かに嘘を吐けない呪いに陥った」
その言葉だけは、絶対に直視に徹すると決めていた。目の前の男に伝えたいたった一点のことは、やはりその結果から信じて貰うしかない。
「先生を尊敬すると言ったのも、その理由も全部本当のことだ。
そして、俺も先生も前提として『嘘吐き』なんかじゃない。俺達の最初の衝動は、自分に対する嘘のようで、それとは似て非なるものなんだ」
一判は目を見開かせる。
目の前の彼も、かつての一判が残した「架殻木ノア」への見解を知っている。だから目の前の一判もまた、その言葉だけでノアの意図を察することが出来たらしい。
「そうか、だから君は、自分の回答が俺と同じだと……」
「ああ。そして、それは“予定調和”を壊し、全てが実現可能になった世界では絶対に成立しないもの。
人は未来を思い描く上で常に自身の未来像を用意し、それを投影することで現在に働きかけるんだ」
そう言うと、一判は笑い出した。
8年前から考えても、その顔を見たことはない。体験した記憶で、浮かべていた覚えもない。
笑った原因として、拍子抜けという言葉が最もそれに近いだろう。しかし個人が生きる上での転換点とは、得てしてそういった契機に帰結するのかもしれない。
「言われてみれば、確かにそうだ。
俺も皆と同じで、ずっと『強がり』なだけだったんだね」
その晴れやかな顔つきに安堵を抱いたところで、「ノア」の五感は世界から遮断された。
渦巻いて沈んでいく意識と自我が、どこに行き着くか。
――それはもう、沈み切ってからでしか分からない。
明日、最終話と補足を更新して完結です!




