#2 手を貸すもの
架殻木ノアは、その日も「サク」としての拠点でパソコンの画面と睨み合っていた。
ノアはテキストファイルに活動誌を付けることを日課としている。
“情報屋”界の天下を我が物にしている背景にあるのは、自らに宿った「嘘を本当にする力」。そのため、本当はこのように持ち運びもできないデスクトップのコンピュータを構える必要はない。そのようにする理由はどちらかというと、「サク」を演じる際の場所がこの場所に固定されている、という事実の方に重きが置かれていた。
「お邪魔しまーす!」
背後から玄関のドアが飛び跳ねる音と共に、拍子の抜ける声がする。
先日知り合った牙隈未良という女子高生。数々のデマを突破し、サクの本物へたどり着いた最初の人間だった。
「別にいいが、少しは気が遣えないのかお前は。俺が目立ちたくないことなんて、考えれば分かるだろ」
「はあ。でもノアくん、自分が『サク』だってことを隠す必要あるんですか?」
「バカ、だからドア閉めて話せって!」
「あ、ごめんなさい!」
今度はわざとらしくそっとドアを閉じる未良。初めて会った時はそれなりに強かな行動をとっていた覚えがあるが、ノア自身がそれに慣れたからか、ここ最近はやたらと脇の甘さが目に付く。
「隠すなんて当たり前だ。俺の正体がただの大学生だと知れたら、誰が俺の『報道』を正しいと思える?今までの蓄積がある分今なら通用こそするかも知れないが、情報の入手手段に対する疑問はより深まるだろう。謎に包まれた“預言者”扱いの方が、神秘性に紛れて都合がいい」
「なるほどー。それにしても不思議な力ですよね、その嘘を本当にする能力って。さっき、またあの『HENGE』になった明石って人に会ったんですけど、私のこと覚えてませんでしたよ。どうせ“般若街”にもまたいやらしいことしに来たんでしょうけど、私に対しては『スキャンダルになっちゃうから』って警戒して、人も変わってました。私は誘ったつもりなんて全くないし、自意識過剰でムカつくのには変わりありませんけど」
「……そんなことより、俺はお前の無警戒さにムカついて仕方ないんだが」
「ごめんなさいってば。理由に納得できたんで、今度から気をつけますよ!」
未良は言葉でそう言いつつも、表情からは無頓着な態度が透けて見える。ノアは呆れて項垂れた。
「そもそも、俺はお前をここへ出入り自由にした覚えはない」
「そんな!私、ノアくんの助手になるって言ったでしょ?拠点に出入りもできないんじゃ、立派にお仕事を全うできませんって!」
「そんなもの認めてない」
「じゃあ、なんでこの前は全部話してくれたんですか!ノアくんらしく、無愛想に背中で語ればよかったでしょ!」
「喧嘩売ってるだろ、お前……」
自ら言い放った軽口に対しては掘り下げる気もないらしく、未良は真っ直ぐにこちらを睨みつけている。
この未良という女ほど、ノアの性格や言動と噛み合わない人間は他にいなかった。彼女は他人に対して興味を持ち過ぎる。人がどうやって嘘や隠し事を用いてその場を収めようとしても、それを理解できる大人の思考回路が形成されている一方で、それを絶対に許さない大人気なさを有している。「サク」が公に偽った姿とある意味で近しく、虚構の物語を流布して世界のありのままを歪める架殻木ノアの実像とは、ある意味で対極の存在と言える。
そんな彼女が、真相を知っている今「サク」に対し好意など持っているはずがないのだが、だからこそ彼女はノアから離れようとしないのかもしれない。ディルク・デ・ヘンゲルとの遭遇から、共感には絶対的な隔たりがあるということを実感して間もないはずなのに、それでもノアを解き明かしたくて仕方がない。その中に“自分”が見えないという不安を解消したいのだろう。
「お前に一定の距離を許しているのは、俺自身のリスクを減らすためだ」
ノアは吐き捨てるように言う。
「リスク、ですか?」
「ああ。お前はあの明石が自分のことを覚えていないのが不思議、と言ったな。しかし、それは必然だ。あいつは俺によってタレントの『HENGE』としての人生をでっち上げられた。それは奴の過去が世界ごと塗り替えられた、ということだ」
「世界ごと?」
「ああ、言わばSF小説に出てくるパラレルワールドだ。この能力では、真実を知っている俺やお前だけが、嘘に辻褄を合わせた並行世界へ移動したとも言える」
「パラレルワールドって……。そんな物凄いことが起きてたんですか」
「ああ。ちなみにその仕様上、現時点で科学的に不可能なものは実現できないがな」
ノアは椅子についたまま床を蹴って、未良へ作業中だったパソコンの画面を見せる。
「今俺が書いているテキストファイルも、その仕様があるから日々付けている活動誌だ。並行世界を移動するならば、当然考慮しなければいけないのがバタフライ効果。これがそれを確認する指標になる」
「あの、バタフライ効果って?」
「世界が俺のついた嘘に合わせて改変される際に、想定外の余波をもたらす可能性があるということだ。それは俺自身の過去も例外ではない。だから日々の活動の記録を付けていれば、その変化はここに反映されるという寸法だ。俺の『サク』としての行動も基本はこの拠点内に留めるというルールを設けていて、俺の挙動が俺自身を妨害する可能性は極力減らしている」
「そういえばこの前も、自分自身に対する嘘がつけないって言ってましたもんね」
「ああ。それで最も危険なのが、俺が『サク』であることを否定する嘘。それがどういう結果をもたらすのかは俺にも分からない。だから、俺は決して赤の他人へ正体を悟られてはいけない」
「じゃあ私は?」
「同じだ。赤の他人に知られたのなら、それを赤の他人でなくするしかない。変に言いふらされるくらいなら、明け透けにして秘密として共有した方がマシだからな」
「……なるほど」
未良はそこまで聞くと、壁にもたれてこちらから目を逸らす。
「じゃあ完全に邪魔者ってことですね、私」
――どうやらここまでで、十分納得してくれたようだ。
ノアは再び活動誌の続きに取り掛かるが、先程の活気がみるみると萎んでいくのを背後に感じて、ノアは一言付け加えた。
「味方として扱うってことだ。お前がどう名乗ろうと助手なんて大層な働きができるとは思っちゃいない。俺のために、余計な言動だけ控えろと言ったんだ」
直後、言葉の中身を脳で咀嚼した間も感じられないほどの瞬発力で、未良はデスクへと飛んできてこちらを覗き込んでくる。
「なんだ、そうだったんだんですね!助手でダメならどうしよう、秘書?メイド?ボランティア?いや、まさか奴隷とか?」
「そういうくだらない話をけしかけてくるところが余計なんだって」
「あー、そうでした、ごめんなさい!それで、今日は何かするんですか?『サク』として!」
「『ABY』に対する臨戦態勢を公にする。ちょうど、ここからが『サク』としての活動の本番、といったところだ」
「『ABY』と……!」
頭の横で鼻息を荒くしている未良を振り払う。どうせ今日のうちに改変してしまうことも考えて、円滑に進む気配のない日誌の方は終わりにした。ノアは椅子を回して彼女の方へ振り向く。
「『ABY』を潰す、要するに会社ごと消滅させることがノアくんの目標なんでしたよね。でも、それは嘘でどうにかならないものなんですか?」
「ああ、難儀なことにな。『サク』としてではなく、個人的な付き合いでそれらしいことを吹聴してみたが、その基盤までは揺らがなかった。それに、一度起こした改変では会社そのものを無かったことにしてみたが、消せたのは『ABY』の“前身”だけ。今の『ABY』がその代わりとして、新たな世界で君臨していただけだった」
「他にもそういうことってあるんですか?」
「いや、経験上他にはない。もしかしたらバタフライ効果の逆で、大規模で社会に対する影響力が絶大な分、いかなる可能性へと世界を歪めたところで同じ現在へ収束してしまうのかもしれない。これはSFでありがちな話に例えれば、だがな」
「そしたら、一体どうやって?」
「過去を変えるのがダメなら、直接追い詰めるだけだ。今日の投稿は、その準備に必要なピースのひとつでもある――」
それは舞台を別にして、数刻後のこと。
「ABY」取材部に、緊急の招集があった。「ABY」取材部とは、「ABY」が「メディア・ハザード」時代の終焉をその手で成し遂げるために立ち上がった部署で、現時点において社外にその存在は秘匿されている。その役目を「ポスト・メディア」と称し、「ABY」に集まる世界中の投稿をデータベースとして利用することで、確固たる報道機関を「ABY」上に誕生させることが最終目標に当たる。特徴的なのは、各地の“情報屋”と多額で契約を結び、その情報網を利用しつつ競合する相手を取り込んでいることだ。
その場にいた一人の社員はまだ入社したばかりで「ABY」の内部には詳しくない。その上、志望していたのはシステム部門だった。そんな人間が急遽通常業務を中止させられ会議室に集められたので、やる気も出ず、その社員はパソコンの画面をなんとなしに眺めていた。
「我々は先日、『サク』にDMで『ABY』取材部との契約を申し出ましたが、拒絶されました。『ポスト・メディア』の座を我々と争うつもりだという意思表示をしたのです。しかし、奴に野心があるならばそれも当然の判断だとも言えます」
「『サク』はあくまで『ABY』上の存在。『ポスト・メディア』としての立ち位置を恣にする力を我々が既に持っているのなら、邪魔な『サク』はアカウントを凍結してしまえば済む話だ。つまり今度の打診は、我々が『サク』に遅れを取っていることを認めた、ということになる。我々が『ポスト・メディア』へ君臨するため、必要なのは何より『サク』の情報収集術だということを、奴に見抜かれたのだ」
「はい。そして今日、奴は我々が次の一手を講じる前に、このような投稿を公開し先手を打ちました」
会議室のモニターに、つい数時間前に投稿されたばかりの『サク』の声明が表示される。
『ABY運営諸君へ 私に君達と協力するつもりはなく、情報の入手方法を教える気もない。そうなると君達は自ら定めた規約を破って私の個人情報を探ろうとするのだろうが、それは推奨できない。私にはセキュリティ面に関して、心強い協力者がいる。もしハッキング等の手段を用いてこちらの個人情報を不当に得ようとした場合、自動でそれを検知し、その旨を全世界へ訴える手筈になっている。かつてのマスコミのように社会からの信用を失いたくないのなら、利口な作戦を練ることだ』
「この投稿が意図するのは、第一に字面通り、我々に対する牽制でしょう。“情報屋”の皆様を今回この会議にお呼びしたのは、奴と同業者である皆様の意見を聞き、その真意と今後の方針についてより良い判断を下すためです。是非力をお貸しいただきたい」
会議にはその場にいる「ABY」取材部に属する社員に加え、総勢30人の“情報屋”がリモートで立ち会っていた。
「私はこの『協力者がいる』という言葉に違和感を持ちます。『サク』はなぜ、わざわざこのようなことを書いたのでしょうか?」
「私も同じところに引っかかりました。『サク』が『協力者』に言及したのはこれが初めて。何か意図的なものを感じてなりません」
「人心掌握術のひとつじゃないか?これは世界中に向けた発信でもある。ただでさえ『ABY』との対立構図を明確にするものだ、自己開示を通して、支持者を確保する動きにシフトしたと考えられる」
「何事も考えすぎということはありませんよ。私には、これが協力者の存在を調べさせるための罠に見えます。『ABY』が次に取る動きを予想しているのも、それを誘った挑発かと」
「はいはい、ちょっと良いっすかー」
「ABY」社員と“情報屋”達による協議を、一人の“情報屋”が堰き止める。
「俺、コイツほどの奴がそこまで『ABY』を舐めてるとは思えないっすわ。『協力者』だの罠だの言ってっけど、もし奴が書かなくたってあんたらはそこに着目できたと思いますよ。確かに、“情報屋”の種類によってはサイバー攻撃が有用な場合もある。でもコイツの主戦場は企業スキャンダルじゃないからな。専門外と思って差し支えはない。そんで、『サク』もそのくらい考える頭はあるでしょ」
「では、君は気にするべきではない、と?」
「いや、違和感があるのは確かにその通りっすよ。『ABY』に向けてアピールする必要がないならこんなこと、わざわざ書く必要もないんだから」
「なら、なんだと言うんだ」
「いやね、このメッセージはそもそも俺たちに向けたものじゃなくて、“預言”の一種だと思えば自然に見えるなー、ってね。コイツ、普段からこんな感じで根拠を提示してるから」
「これが預言だと?一体どういう――」
「あー、そんなとこはまだまだ!ただそう思っただけなんで!そういう意味では人心掌握術ってことなんすかね?普段から預言者キャラやってて、もう口癖になってるのかも」
その社員は、その“情報屋”が何かの仮説を持っていることを確信した。この場では適当にはぐらかしているし、ここにはリモートの“情報屋”だけでなく、幾人もの社員が一堂に会している。実際にカメラを通した表情は、その気になって着目しなければ読み取れない状況だ。しかし現にそれをしていたこの社員には、彼が間抜けな態度とは裏腹に、目に底知れない力を宿していることが、画面越しでもはっきりと視認できた。
強烈な興味に惹かれて、その社員はその男の名前を確認する。
渥美駆真。それがその“情報屋”の名前だった。
それと時を同じくして、ノアはスマートフォンへいつの間にか連絡先が登録されていた「協力者」との接触を図っていた。チャットで指定された場所へ向かうためアジトの外へ出て、未良を車に乗せて“般若街”を後にする。
「経緯はわかりましたけど、本当に『協力者』なんて人を増やしてよかったんですか?そういうのはリスクになるって、ノアくんも言ってたでしょ?」
「そうしなきゃ『ABY』を敵に回せないから仕方ない。向こうはただの牽制と受け取ったかもしれないが、個人情報を逆探知されるのはこっちにとって死活問題だったんだよ。最悪なのは俺自身の過去を弄ることだ。できないことはできると言い張るより、他人に任せる方がリスクは少ない。その点、本当ならもっと詳細に特徴や出会いまで記述したかったところだが、流石に不自然すぎるから存在だけに留めたんだ」
「ふーん。でも、そもそも敵対する必要あったんですか?誘いに乗っておけば、『ABY』へ近づくチャンスだった気もしますけど」
「ああ、確かに『ABY』へ近づくプロセスは必要だが、今じゃない。それに、世間も対抗馬がない限り今の『ABY』を見限ることなんてあり得ないからな。それまで巷では『サク』が『ABY』のマスコットなんじゃないかって見方もあったし、それを覆すことも必要だった」
車を指定されたアパートの駐車場に駐め、二人は外へ出る。
「まあ、『サク』が明かすほどの有能な味方なんだ。本当に役立つ可能性も大いにあるんじゃないか」
「あ!絶対当てつけですよね、今の!」
“般若街”からは車で30分ほどの距離で、郊外に位置する三階建てのアパート。雨垂れとカビによる外観全体の黒ずみは、ノアの拠点より顕著に映る。
「『サク』にしてもこの人にしても、どうして皆こんなところに……」
「こいつの正体はまだわからないが、目立たないようにするには生活の経済規模を落とすことが一番だからな」
指定された部屋のインターホンを押す。「越智」。確か、新たに登録されていた連絡先の名前は「小関悠一」なので、それが偽名ということになるのだろう。
「はいはい。お疲れさま、ノア」
ノアからすれば、入口から顔を出したのは意外な顔だった。
越智乙丸。高校時代の同級生で大学入学後は疎遠だったが、少なくとも高校時代、彼が情報系のシステムに強い様子はなかった。
「なんだよ、そんな驚いた顔して」
「ああ、いや。悪い。なんとなく、久しぶりに会った気がして」
「そうだっけ?連絡は割と取ってるから自覚ないな」
仮に乙丸へ敵の調査の手が及んだとして、高校時代の友人ということならノアの関与が疑われる可能性は低いかもしれない。信頼が置けるという意味でも人選として悪くないが、予想以上に距離が近く、気に留めておく必要はある。
「それで、そこの女の子は?」
振り返ると、未良は大袈裟に背筋を張っていた。まだ彼女は、ノアと乙丸が旧知の中であることを知らない。嫌な予感はしたが、彼女の口が回るのは止められなかった。
「あ、牙隈未良って言います!今、ノアくんの、えーっと――小間使い、やってます!」
「え?小間使い?」
「こいつ、よそ行きに限って変なチョイスしやがって……」
ひとまず、玄関先でできる話はない。乙丸との関係を未良に説明しつつ、三人で部屋に上がった。部屋の中は精々貧乏学生のワンルームという他にないせせこましさと乱雑さだったが、ノアは床にスペースを見つけて適当に座り込む。
「乙丸さんって、普段何してるんですか?」
「高卒でフリーターだよ。最近は彼のおかげで、仕事も金もそこそこだけどね」
未良が遠慮なしに乙丸のベッドに腰掛けようとしたのを見て、ノアは彼女を呼び止めた。
「おい、お前小間使いなら近くのコンビニで差し入れ買ってこいよ。代金は後で俺が立て替えるから」
「う。そうやって人のアドリブを良いように利用しちゃって!」
「そんな、道も知らないのにわざわざ悪いよ。俺が行こうか?」
「乙丸さん、優しい!まさに魔性の男!」
乙丸が立ち上がろうとするので、ノアはそれを手で制止する。
“チャンス”は意外に多くない。今はとにかく、未良を引き離さなければならなかった。
「一人で行ってきてくれ。これからは二人で話さなきゃいけないことがあるんだ」
その言葉を聞いた未良が乙丸を、純粋にノアと馴染みのある友人として認識したか、改変後の世界で発生した「サク」に協力者と認識したかはわからない。ただ、それを聞いた未良は悲しそうな顔をして、大人しく部屋を出ていく。そのことは、言ったノア自身にも予想できたことだった。
悪いことをした、と思った。
――でも、それもこれが最後だ。
「あんな風に言っていいの?あの子、随分君に懐いてるみたいだけど」
「問題ない。ああ言えば、良い加減諦めるはずだ」
「でも、『サク』の君が人を連れてくるなんてね。どうやって知り合ったんだ、あの子」
ノアは、わずかに視線を落として淡々と、それでいてはっきりとした抑揚で語り始める。
「違う。そもそも関係が『サク』としてじゃないから、これ以上は巻き込めないってことだ。以前男に絡まれてたのを助けて以降、つけ回して来てたんだ。確か姉が俳優らしいんだけど、名前は直接聞かされてない。お前、そういうの詳しかったっけ?」
「いや、さっぱり」
「だよな。数年前その姉が交通事故に遭いそうだったのを未然に助けたのが自分だってやたら吹いてたから。『ABY』で牙隈って調べればそれなりに有名人の名前が出てくるかもしれないな」
牙隈岼果の事故がなくなり、二人の出会いに動機も因縁もなくなれば、彼女から否応なしに感じ取れる苦しみや呪縛といったものも消えるだろう。あの言い草も、意味もなく追いかけていた男に浴びせられたものなら、戻ってくる気も失せるはずだ。
――これで、ようやく先日の一件にも決着がついた。
脱力感が体を襲う。短い付き合いだったが、未良は「サク」として最も印象的な人物になっていた。結局姉を復帰させたいという願いを叶えたわけでもなかったのに、あれだけ直接笑顔を向けられることは、今後の活動の中でも二度目は無いだろうという確信があった。
「おい、ちょっと」
やがて耳に入る乙丸の声は、思いのほか意識から外れていた。視線を戻した先の乙丸はスマートフォンで何かを見ているようだったが、なぜか怪訝そうな顔をしていた。
「何かあったか?」
「いやいや。言ってることと違うじゃん」
ノアは画面を覗き込む。表示されていたのは、「ABY」で牙隈を調べた結果だ。
確かに、それはノアが“言ったこと”と違っていた。過去が改変されたのを確認するためにあのような言い方をしたはずだが、表示されたのは彼女が交通事故の被害に遭い、重傷を負ったという情報のNFT。当時その事実を確定させたソースそのものだった。
「お前、俺が言ったことを信じなかったのか?」
「そんなことない――というか!まさかノア、俺に嘘ついたのか!?」
「ああ、悪い……」
この様子を見るに、乙丸には疑う発想もなかったらしい。
では、なぜ?
「――コンビニ、割と近くにありましたね!」
玄関のドアが飛び跳ねる音。拍子の抜ける声。
先日知り合った牙隈未良という女子高生。別名義を用意し多方面にばら撒いた「サク」に関するデマを力尽くの調査で突破し、本物にたどり着いた最初の人間。
そして、「ABY」と同じく、どういう訳かノアの“嘘”が通じない存在だった。






