#1 現実を覗き込むもの
「はっ――」
見慣れないデスク。架殻木ノアが自らの意識を取り戻したのは新設した表アジトだった。
咄嗟に周囲を見渡す。
未良が毛ほどの緊張感も見せずにソファでくつろいでいるのが目に留まったが、すぐに問題がこの周囲などではないことに思い至る。
ノアは急いで席を離れた。
向かったのは洗面台。
鏡に映った自分の姿は、架殻木ノアそのもの。何ひとつ問題がない――それ故に納得がいかなかった。
ノアは衝動のまま、鏡に向かって頭を打ちつけた。
「――うわ!?」
ガシャンと大きな音がして、横で未良の驚く声がする。
鏡は割れていない。そうしたのはただ、もっと間近で自分の顔を確認したかったからだ。
しかし、ぶつけるほど間近で自分の顔を見つめた経験は意外にない。実際に接近すると、わずかな目の動きや肌の質など、確かに自分自身が生気を帯びている事実を実感できる。
しかし新鮮であるが故か、鮮明に客観視した自分は一層他人に見えてきて仕方がなくなる。
「くそっ」
ノアは小さく呟いて鏡から離れた。
「8年前徐羅一判に何があったのか」、ノアはほぼ全てを記憶できていた。
事態そのものは受け入れる以外にない。元々きりかに対して嘘を吐いた自分の失敗だ、とノアも受け入れられている。
割り切れないことがあるとすれば、それは自分自身のことだ。今までは8年前の6月頃に飛んでいたということだが、こうして戻ってきたのが自分自身ならばまだ納得できる。タイムスリップという定義に収まるからだ。しかし実際に時を移動したのはノアの能力。自分の記憶と共にそれが徐羅一判へ一時授けられたと考えていいだろうが、タイムスリップという概念を前提にして考えた際、その主体となったのが何であるか。架殻木ノアという人間の根幹が何処に存在しているのか。ノアの抱える形容し難い不安感の正体はそこにあった。
「あの、大丈夫ですか?」
部屋に戻ると、未良が心配そうに声をかけてくる。
――とにかく、状況だけでも整理しなければ。
真っ先にノアの意識が向けられたのは、直近に当たる記憶。自分自身の記憶にも僅かに残っている、一判が宣言した「メディア・ハザード」という嘘。それを終わらせることが行動目的であるノアからすれば、その事実だけでも堪えるものはある。ただ、自分自身の知る過去と一致していることから、先ほどまでは確定した歴史を別視点で目撃していたのだ、とひとまず割り切ることにした。
恐らくこれらの変化の中心にいたのはきりかの父・笠井皆幸だ。まず、ノアが能力を宿すきっかけは夏休み、皆幸のタイムカプセルを探したことにある。一判が奔走した過去はノアによる過去改変によってもたらされたらしいが、現在時点でノアがきりかに対し「サク」であることを否定した影響で、タイムカプセルの件がそのまま否定されたのだろう。それを成立させるために「夏休みを迎える前に皆幸が殺害される」歴史が生まれた、とすれば辻褄は合う。
そして「メディア・ハザード」が再び皆幸の死を回避させた直後、意識はこうしてノア自身のものへと戻ってきている。恐らくは嘘の能力も同様だろう。状況的に見れば、嘘能力自体が能力者であるノアの存在を正常に維持するため、時を渡って代行者を使い歴史上の障害を取り除いた、ということになる。
ネックになるのは、一判の道標となった“手紙”だろう。あのような手口は、能力の時間移動だけで説明できるはずがない。“預言者”を名乗ってはいたが、当然今のノアにはその記憶がない。そもそもあの手紙自体も悪意の含まれたものだから、あらゆる意味で信用には足りない。
しかし言えることがあるとすれば、ノアの嘘であの状況を実現させることは可能だということだ。送る内容の文面を正確に指定して「過去にあった手紙のやり取りだ」と誰かに嘘を信じさせることで、当時のあらゆる意思に関係なく過去へメッセージを送ることはできる。
――だとすれば、あれはいずれ俺が必要に感じて過去の徐羅先生へ送ることになるものだということか?
「ちょっと、ノアくん!?大丈夫なんですか!?」
改めて耳元で叫ばれて、ノアはようやく鼓膜の揺れを実感する。
「な、何だ?何かあったのか?」
「いやいや、ナニカしかないでしょ。今の……」
――何もかも、未良に話せる段階ではない。
ノアは大きくため息をして見せて、すぐに自分のデスクに戻る。
「なんでもない。眠気覚ましだ」
未良は案外ノアの機微に聡いということで、口を開く前に彼女から早々と背を向けた。
「え、もしかしてウトウトしてたんですか!?惜しい、気付いていれば寝顔を激写して弱みも握れたのに……!」
発言がいちいち挑発染みているのはさておき、未良の声の調子は半信半疑といった様子。実際に眠気が襲ってこないのもその証拠だろう。
そんな状況というのもあるし、今2人がいるのは表アジト。“般若街”に置かれた従来のものではなく、手元にはノアが「サク」であるという痕跡はない。今すぐ活動誌を確認して並行世界の状況を把握することはできないということだ。
しかし、すぐ目に留まったのは、パソコンに表示されていた日付だ。ノアに残された最後の記憶ではまだ4月の下旬であったところが、いつの間にか5月にまで時が飛んでいる。
試しに一判の行動を振り返ってみると、彼の記憶はちょうど1週間に渡るもの。そうやらその分だけノアの記憶も飛んでしまっているらしい。
「未良、きりかがどうしてるか知ってるか?」
「え?知りませんけど……。眠気を覚まして作業に取り掛かるかと思いきや、早々に女性の心配って。なかなか気が抜けてますねノアくん……」
「そういうのじゃないっての」
改めて確認すれば済むことだが、きりかとの距離が近づいたという訳ではなさそうだ、とノアは分析する。
というのも、ノアの正体が「サク」であることを否定して一判に能力が委譲して、今は戻ってきているこの状況のことだ。だとすれば今のノアはきりかへ「サク」であると認めた場合の世界にいるのかとも考えられるが、今のところそうでもないと思われる。
なお、世界の分岐を当時ノアの脳内にあった選択肢の数に限るならば、自分の正体を認めつつきりかのことは味方として囲い込まない、という中間的な態度を取った可能性はあり得ない。それは「都合が良すぎる」として存在していなかった。
「『そういうの』、なんですけど!?」
椅子の背に軽く衝撃を感じる。回転させて振り返ると、困った顔をして未良がこちらを見下ろしていた。
「あれから1週間経ちますけど、少し気抜けすぎですよ、ノアくん」
「こんなところで屯してる女子高生に言われたくないね」
「そ、そんなことはいいんですよ!ノアくん、一体いつになったら動き出すんですか!?」
「どういう意味だ?」
「私、こう見えてこの前のことはちょっと悔しいんですよ!ノアくんも私も頑張って『ABY』の闇を暴こうと頑張ってたのに、ほぼ逆効果だったじゃないですか!涼霜劉さんが復活したのも、とんでもない能力を持ってたのも予想できないし仕方ないとこはありますけど、こうもやられっぱなしだなんて……」
「こちらが駒を動かせば、相手の駒も動く。それだけのことだろ」
ノアは退屈そうによそ見して応じる。
1週間の時が経っているとはいえ、未良から見て大きな異変が起きたようには見えていないらしい。活動誌こそこの場では確認していないが、この1週間でノア自身が何をしていたであろうか、予定を元に想像することは難しくない。それが元から大きな動きを伴うものでなかった事も考えれば、今の言葉で確信に至ったと言ってもいい。
「別に、この期間だって何もしてこなかった訳じゃない。――なあ、暇人」
「別に暇って訳じゃ!いや、まあ相対的にはアレですけど――」
「ちょっと未良ちゃん、俺に向けた暴言で勝手に言い負かされないでよ」
思った通り、アジトではどこからかこの場にいない人間の声が聞こえて来る。
「よう、問題なさそうだな乙丸」
「全く、酷い呼び出し方だねノア」
「え、乙丸さんですか!?今どこに!?」
未良は必死に越智乙丸の声がする方向を探っているが、特定することができない様子だった。しかし無理もない、予定通りに準備が進んだならば、カメラ・マイク・スピーカーをアジトの至る所に忍ばせてあるはずだ。
「久しぶり、未良ちゃん。ちょっとノアに頼まれて、データを俺のノートPCと直接送受信できるようにしたんだ。基本的に常時ね」
「ええ……?これ、天の声ってやつじゃないですか?ノアくん、ここで番組収録でもするつもりですか……?」
「まさか。まあ、ここが嘘に塗れた場になるという意味では間違ってないかもな」
「ブラックジョークで誤魔化さないでくださいよ!」
ノアはとりあえず戻れ、と未良を手で追い払う。未良は怪訝そうな顔をしてソファに腰を下ろした。
「お前は俺がやられっぱなしだと言うが、俺はそう思っていない。劉にしても厄介な能力が敵についたとは思うが、それ故に敵勢力が奴1人に集約したことはこちらが想定した以上の成果だ」
「集約、ですか?」
「『ABY』は日本国内において『アビー・シーカーズ』という対抗組織を作り出し、『ABY』の有する経済圏の競争相手をも取り込んで国を完全に掌握している現状があり、政治もこの枠組みの下に堕ちている。これらの繋がりだけを明らかにしたところで、集団が力をもった巨悪を倒すのは簡単じゃない。ひとりひとり相手にしていてもトカゲの尻尾切りになるのが関の山だからな」
「涼霜劉はこの前、2人の前で自分の野望について語っていたんでしょ?それが上手くいったとして、彼が組織や国家、世界の中枢に向かうほど、退けることによって社会へ与えられる一撃の影響力は大きくなる。『メディア・ハザード』終焉への道は、ノアの想定よりむしろ大きく早まったんだ」
「その、想定っていいますけど。ここからの具体的な作戦みたいなものはあるんですか?」
「ああ。それに関してもとっくの昔に布石は打った。転機は未良、お前が俺の前に現れたことだ」
「私が?」
そこまで言うと、未良はすかさず口元を緩ませ、ノアの方へ身を乗り出して来る。
「私のお陰で?」
「……と言うより、お前を通してディルク・デ・ヘンゲルとの接点が生まれたことだな」
ノアは鼻白んで、明後日の方を向きながら言う。
「未良、俺はあの日会ったばかりのディルクへ、『前々から貴方を密かに調査していた』と嘘を吐いたはずだ。その理由として奴に話したことが何だったか、覚えてるか?」
「いや……。あの時はそんなこと聞いてる余裕もなかったし」
「俺はあのとき、ディルクの身の上とは関係のない情報について調査する“情報屋”を騙ったんだ。お前とは別の依頼人の存在を仄めかしてな」
「そうでしたっけ……。ってことは、その嘘は今、本当のことになっていると?」
「そうだ。そして実際に奴へ問いかけた2つの質問は、その依頼人の存在と関連付けて投げかけた。その質問とは、『ABY』と『アビー・シーカーズ』、これら2つの組織とディルクグループとの関係をそれぞれ確認したものだ。あの質問はシーカーズの全貌がどんなものか検証する意図もあったが、最大の理由はディルク級の大物へその質問をすること、それ自体だった」
「うそ……!じゃあ、それで現れた依頼人っていうのは――」
「ディルクグループと『ABY』、シーカーズの内情を知らない一方で、“情報屋”を使うほどにはそれを探る必要があった人物……条件を考えれば、敵でも中立でもなさそうな立場の人間を出現させられるね」
「俺はずっと前に活動誌でその詳細を確認しているが、それはアメリカを拠点とする人物だった。これは、考えうる限りで最良の結果だろうな」
「アメリカだと、どうして良いんですか?」
「『ABY』の本社があるからだよ。日本ではどのみちシーカーズが敵対勢力を囲い込んでいる以上、打開する難易度は高い。『ABY』を失脚させるなら奴らの外部で『ポスト・メディア』を樹立することが目標になるだろうが、日本だとシーカーズの傘下が群がって、作られた二項対立に巻き込まれる。アメリカはそんな背景がなくとも、新たな媒体を立ち上げる体質というものがある。“情報屋”ビジネス発祥の地ともされているからな」
「アメリカは広いから、元は地方の新聞社などのメディアが情報産業を支えてた。ただ、SNSが普及したことでそれらがどんどん潰れていって、ローカル情報の供給が不足傾向に陥ったんだ。それを補おうと元マスコミ社員の有力記者らがパパラッチ等を経由して個人で始めたのが、現代版“情報屋”の始まりなんだよ」
「へえ。日本の“情報屋”でもそういう人はいるって聞いたことありますけど、『サク』みたく有名にはならないですよね。アメリカの“情報屋”の方が全体的にスケールが大きいってことですね」
「ああ。渥美駆真が属し『サク』のことを狙っている『ABY』取材部ってのがあるだろう?アメリカで『サク』の存在を定着させてあれのような記者クラブ的ネットワークを新しく形成できれば、十分『ABY』の本社を直接脅かすことはできる」
「……なるほど」
未良は釈然としない、と言わんばかりに腕を組んで首を捻っている。
「まさか、私の知らない間にそんな動きがあったなんて……」
「なんだ、不満そうだな」
「当たり前でしょうが!話してくれてたっていいのに!」
不満ももっともだろうが、ノアとしても特別な理由があったわけではなかった。話す機会のあった頃は、まだノアが未良を切り離そうとしていた頃。それ以降は乙丸を引き入れ、クラプロの件に力を入れたことで伝え損ねていた。
ノアはその不憫な事実が伝わらないように、引き攣った顔を彼女から逸らして隠す。
「普通に忘れてたっぽいよ?カメラの1台からそんな顔が映ってるのが見える」
「あ!本当ですか!?」
「……厄介な物を取り付けたかもしれないな」
決まりの悪くなったノアは仕方なく体勢を戻す。
「全く!もういいですけどね!これからはちゃんと私にも参加させてくださいよ?まずはそのノアくん名義で依頼してる人!また会うことがあったら、今度きっちり紹介してください!」
「紹介?」
「はい、だって味方の人なんでしょ?乙丸さんと同じで、私が会っちゃいけないってことないですよね?」
「……まあ、別に構わないけど」
未良が息巻いているのは伝わってくるし、その理由も察しはつくが、それはノアからすればどうにも微妙な気分になる態度だ。
「なんなら今、ビデオ通話でもするか?」
「え、今?そんな軽々しく米国の大物を呼び出しちゃっていいんですか……?」
自分との温度差を、未良もその一言二言で感じ取ったらしい。
「まあ、向こうもせいぜいさっき日付の変わった頃だ。まだ起きてるだろ」
慌てる未良は放っておいて、ノアは自身のスマートフォンで早速発信する。
こちらから連絡するのが珍しいからだろうか――電話は思った以上にすぐさま繋がった。
「おう、どうしたノア?何か用か?」
通話が開始されると、スマートフォンには日本人の中年男性が画面に表示される。
「ああ、“情報屋”の方のことでな。父さんと話したいって言う奴がいたから」
「……と、とと?」
言葉の意味をまるで飲み込めていない未良だったが、その呆けた顔をノアは容赦無くスマートフォンのカメラで映して、通話相手に見せつける。
「女の子ってことは、君が牙隈未良さんだね?どうも、ノアの父の架殻木嶺二です。息子がお世話になってます……って、大丈夫か?この子、放心してるけど」
「全く、意地悪だよねノアも」
「あれ、乙丸くんもいる?久しぶりだね」
「ああ、どうも」
未良は高校時代に面識のある2人の会話でさらに混乱したらしい。ノアは一度彼女の肩を強く揺する。
「おい未良、ちゃんと説明するから大人しく受け入れろ。この人は俺の父親。昔は普通に日本で働いてたんだが数年前に辞めて渡米し、旧メディアコングロマリットのの諸企業に協力している。つまり本人が渦中にいる訳ではないし、グループ自体はとっくに解体されてるが、アンチ『ABY』の思想を持った人間とのコネは大量にある」
「は、はあ。でもそうですよね、『サク』名義ならともかく“中”のノアくんへ依頼を出すなんて変ですし、嘘で変わるとしたらノアくんの身内になるのも自然なのかも――って、あ!ごめんなさい!今のナシ!」
「もう遅いだろ、混乱しすぎだ……。というか大丈夫だよ、この人へはもう俺の方で『サク』や嘘能力のことを話してある」
「あ、そうなんだ……」
「悪いな父さん、今日はこれだけだ。もう切っていいぞ」
「いや、待てノア」
ノアが未良の方へ差し出していたスマートフォンを自分の正面へ戻そうとしたところだったが、嶺二の声で手を止める。
「その子、どうせろくに説明せずに振り回してるんだろう?直近で何をするだとか、ちゃんと話してあるのか?」
「おお!流石お父さん!本当にこの人、詳しいこと何も話さないんですもん!ちょっと口を開いたかと思えば嘘ばっかだし!」
「ごめんね、昔から捻くれて育った子なもんで」
「分かった分かった、言えばいいんだろ?」
今度は有無を言わさずスマートフォンを手元に戻したノアは、嶺二を睥睨した後で大きく首を捻って見みせた。
「これこそ本来は正しい順序で説明するべきだと思うんだが……」
ノアは未良の頓狂な反応が予想できていたので、今一度嘆息してから続けた。
「まあ、そんなに知りたいなら手短に教えるよ。
当面の目標は俺の通っている京浜大学で行動する。大学で新しくサークルを立ち上げるから、お前もそれに入ってもらう」
「……はい?」




