#1-2 捨てられないもの(後)
「すみません、本日は貸切となっておりまして」
ノアが言うに、ディルクはこの料理店で知人女性と食事の予約を入れているらしい。そして店の前まで来て、こうして場違いな女子高生を追い払おうとしているのが店主で、伴内と名乗っていた。
未良は思わず彼の顔を覗き込んでいた。
――確かに、そこそこ似てる。
「ちょうどディルクがお忍びで来日するって情報が入ってきてたのを思い出したよ。なにせ、会食する店の店主の顔が『コイツ』に似てるって話でな」
ノアは勝手に未良の財布から報酬を引き抜いたあの後、そう言って紙幣の肖像画を指さしたのだ。
未良からすれば疑っている余裕もなかったが、こうして実物を前にすると流石に驚かされる。
「あの、どうかされましたか?」
「あ、いえ!私、ディルクさんの予約で来た海野真夏って言うんですけど」
「う、海野様でしたか!大変失礼しました、予想していたよりもずっとお若くて、お早いご到着だったので!お待ちしておりました!」
この会食の予約はディルクが入れたもので、スケジュールの都合で食事相手が来るまでは30分もの時間差がある。この伴内と言う男は素直な性格で、学生時代から料理の研究にのめり込んできたため技術は一級品である反面、世間に疎い。そのため、平然とした態度で食事相手の名である「海野真夏」を騙りさえすれば、彼はたやすく信じ込む。
全てノアの見立てだが、ことごとく的中していた。
未良は声を発さず、ゆっくりと店内に足を踏み入れる。厨房のスペースで隠れていた奥のテーブル席を前傾姿勢で覗き込むと、「ABY」のPVに登場していた通りの男が椅子にもたれて佇んでいた。見えていない目を隠しているサングラスもそのままだ。
「君は、マナツではないようだね」
未良は思わず顔を引っ込めて身を隠す。「盲目になって以来、物事の本質を見抜く“眼”が養われた」。彼自身の言葉が思い出されて、息を呑んだ。
未良は一度深呼吸してから、改めて意を決する。今度はディルクの真正面にまで近寄って対峙した。
「はい。私は牙隈未良といいます。許可のない訪問でごめんなさい」
それらしく額の皺が動くのを見るに、おそらくサングラスの裏で眉が上がった。
「キバクマ、といったか?」
ディルクは興味深そうに身を乗り出した。
「はい。お察しの通り、4年前まで貴方の事務所でお世話になっていた牙隈岼果は、私の姉です」
「なんと、彼女の!覚えているよ、1人のアイドルファンとしても彼女のことは評価していたからね。もしかして、君も芸能界を志しているのかい?」
「はい。私は女優志望ですけど」
「振る舞いや声色から、君が若いのはわかる。まだ高校も卒業していないんだろう?その年齢なら先にアイドルでキャリアを積む子も多い。彼女にはいい思いをさせてもらっていたし、私のところで良ければ君のしたいことをサポートしてあげよう」
「それなら、ひとつお願いしたいことがありまして。今回も、それで来たんです」
「なんだい?」
未良はディルクが見えていないことも理解していたが、思いのままに深く頭を下げた。
「私のお姉ちゃんを、芸能界に復帰させてもらえませんか!」
「……何だと?」
未良は顔を上げる。
「復帰とは言うがね。君が彼女の妹だと言うのなら、彼女が引退した原因も知っているだろう?」
「はい。お姉ちゃんは事故で体のほとんどが動かせなくなりました。でも、4年経った今なら、海外で治療ができます。私たち家族だけでは経済的に厳しいけれど、ディルクさんの方で援助して貰えたら元のように女優業ができるんです!」
「なるほど……」
ディルクは肩を落とし、また椅子にもたれた。
「悪いが、それはできない」
ディルクの様子は分かりやすく変わった。顎が上がって、トーンの落ちた声で続けた。
「話はわかった。しかし、君の言い分を全て飲むとしたら、願い事は2つということになる」
「どういうことですか?」
「こんなことを言うのは忍びないが、私の事務所とユリカの契約関係は既に解消していて、他人同士になって4年が経過している。私自身ノブレス・オブリージュは心掛けているつもりだが、過去の関係まで取り上げて1人1人の治療費まで負担してやることはできない。やりだしたらキリがないからね」
「契約関係、ですか。それだけじゃありませんよね」
その言葉だけは、自然と口を衝いた。予想もしていた流れだったが、こうしてその通りになると、途端に汗の噴き出る感覚がした。
「今の私は、ディルクさんをあの事故の関係者として話しているんです。4年じゃ、時効には足りませんよ」
「――どういうことだい」
「お姉ちゃんだけじゃなくて、跳ねた車の運転手……吹田惟都もディルクグループの管理職だったってスキャンダル、知ってますよね?」
「ああ、当時は外野の噂話が喧しかったよ」
「最初は騒ぐだけ騒いでも、時間が経てばみんな昔のニュースの続きなんて忘れちゃう。でも、私だけは覚えてました。ずっと」
未良は手を目の前の机に叩きつける。
「吹田惟都さん――公には偽名を使って隠蔽してますが、懲役を終えたあと役員として出戻りしていますよね!ディルクグループ内部の人が漏らしました。確かなNFTを持っています!」
ディルクはそれを聞かされても眉ひとつ動かさなかったが、一度だけ小さく溜め息を吐いた。
「ほう……。よく突き止めたね」
「その吹田って人がどれだけ有能だったかは知りませんけど、私に蒸し返されて余計な損失を避けたいのなら、お姉ちゃんを助けてください。その後お姉ちゃんをまた使えるって意味でも、悪い話じゃないはずです!」
そこまで言ったところで、ディルクの口角が僅かに上がる。もたれた体を持ち上げると、今度は机に肘を突いて、困ったように手に額を当てた。
「なるほど、そうきたか。どうやら誤解があるようだ。君は、少し私を買い被っている」
「どういうことですか」
「私はそこまで損得重視でロマンのない人間ではない、ということだ。フキタを能力があって再び雇っただとか、得があるからユリカを復帰させるとか」
ディルクは少し俯いて、サングラスの縁に触れている。
「そもそも損得の話に限るなら、ユリカには今だに女優を続けさせていただろうね。でも実際には違っただろう、彼女のセカンドキャリアで得られる利益に私は目も向けず、ああして捨てることにしたんだからね」
淡々と語るディルクの話の意味を、未良は一度聞いただけでは理解できなかった。
「……捨てたって、何ですか?」
「簡潔に言うと、あの事故は彼の仕事だったということだ」
体が硬直した。
頭が回らない。混乱している。
思考回路の機能は低下していない。そのものが複雑に混線させられていた。
「それほど意外か?任侠映画じゃ良くあるだろう?まあ、君のような少女はあまり見ないか」
全て辻褄は合う。本来のところ邪推するだけなら何の意外性もないのは確かだ。しかし、だからこそ、その一致は偶然だと思った。理由は単純で、ディルクがそんなことをする動機や利点が何ひとつ存在しないからだ。事件と向き合い続けていたこの4年間、全く過らなかったわけではないが、その上で意図的に消去した可能性だった。
「どうして?どうしてそんなことを……?」
「アイドルとは有限性に美しさが宿るもの。引退してなお芸能界にしがみつくのは文化を貶める愚行だと考えているから、かな」
「は……?」
岼果はこの男の趣向によって全身不随に陥った。瞬時に込み上げてもいいはずの怒りや悲しみといった感情が、なぜか未良には沸き上がってこない。
全ては彼の語っている通りだ。今日が初対面ではあったが、それら全ての言葉が、彼の日頃の言動の延長線上にあるという納得感を覚えた。ただ単純に、「彼の純粋な心は社会規範や未良自身の理解とは齟齬のあるものだった」という事実を突きつけられてしまっては、感情のやり場がない。責任論や善悪といったものが彼の狂気で上書きされてしまった今、率直に感じられるのは常軌を逸した思想に対峙する恐怖だけだった。
「まあ、君が理解できないのも無理はない。嫌味に聞こえるかもしれないが、これは私のような人間が感じられる貴重な贅沢のひとつなんだ」
「何を、言ってるの?そんな勝手な理由で人の人生を奪っていい訳ないでしょ……?」
ディルクは未良の表情を見て笑みのようなものを湛えているらしかったが、目元をサングラスで隠したそれは、未良にとって最早特定の意味を為すものではなかった。
すると、ディルクがそのサングラスへ手をかける。
「多かれ少なかれ、ビジネスとは――世界とはそうやって奪い、奪われるものだ。世界は色に溢れていたが、欲しければなんでも手に入った。それではあまりに味気ないんだ。だから全てを奪い手に入れた後で吟味し、いらないものは都度捨てる必要がある」
サングラスを外して露わになったディルクの目。それが決して不幸を表したシンボルでなかったことは、すぐに理解できた。
両瞼には、明らかに刃物で故意に切りつけたような外傷の跡が残っていた。
「それこそが、『取捨選択』というものだ」
瞼が開くことはないが、サングラスが外れたことで彼の表情を読み取ることは簡単になる。
こうして「取捨選択」を語る彼は、幸福に満ち足りた最上の笑顔を浮かべていた。
「返してください!お姉ちゃんの人生を、私の人生を返して……!」
いつの間にか未良は後退りしていて、床に座り込んでそんな声を振り絞っていた。
「力にはなれないよ。治るのなら良かったじゃないか、手術費は自らで捻出して、私の目の届かぬところで平和に暮らすといい」
彼の狂気にも理解は追いついてきていたが、未良の率直な思いは、自身に対するものの方が尚大きい。岼果という目的の為、ようやくディルクに辿り着いたはずが、そこには想像を超えた隔たりが待っていた。
そんな複雑なフラストレーションの末に、未良はディルクを睨み付けていた。
「言葉にせずとも君の恨みは伝わる。しかし君に何かが出来るなら、私もああして赤裸々に語っていないよ」
仮に、今までのやり取りを録音していてもさほど意味がない。ディルクは敵も多い。声や映像も捏造する手段があるので、悪意のある偽のリークは世間に蔓延っている。つまり、未良のように信用のカーストが低い弱者はどんな理不尽を受けても発信が届くことはない。「メディア・ハザード」のもたらした弱肉強食の構図に、自分が屈服させられていることを実感していた。
「オーナー、聞こえるか!先ほど君が店に入れたのはマナツじゃないぞ!適当に追い出してくれないか!」
「――本当ですか!?すみません!」
伴内は慌てて顔を出し、未良の腕を掴んだ。未良は無理矢理入り口まで引き込まれる。
失意の中にあった未良は伴内の力のままに連れられて、店の扉が開かれるのを立ち尽くして眺めていた。
しかし、その先には意外な光景があった。
ノアだ。
片耳にイヤホンをしたノアがそこに居て、伴内と未良をも押しのけて忽ち店内へ闖入する。
「ちょっと!なんですか貴方は!」
「ああ、お邪魔してます」
「ねえ――」
未良が名前を呼ぼうとしたところで、ノアに片手で両頬を掴まれ、無理矢理声を抑えつけられた。
「実は私、海野真夏の代理でここに伺ったのですが。なんですこのじゃじゃ馬は?」
「代理、ですか?彼女は、どうやらその海野様のフリをして入り込んだようでして」
「そうですか、じゃあ私がつまみ出しときます」
今度は肩に持ったノアは、伴内よりもずっと遠慮のない力強さで、やはり店の外へと未良を連れ出した。
「痛いですってノアくん!大体、どうしてここに?」
ノアは扉の取手へ差し伸べていた手を一度止める。しかし、返答に当たってこちらの顔を見ることはしなかった。
「悪いが、ただの野暮用だ。手助けしに来たって言って欲しかったか?」
「あのねえ!そんなんで納得できるわけないでしょ!?ちゃんと説明してください!そういう無駄にツンツンした態度、ダサいだけだからやめた方がいいですよ!」
そういうと、やっとノアはこちらへ顔を向けた。中の人間に万一にも聞き取られないようにか、しっかりと振り返って、入口から少し離れて未良に近づいた。
「俺はディルクのことなんか何も知らないが、元々獲物の一人ではあった。偶然会ったお前はディルクと何か因縁を抱えているようだったから情報を渡し、お前らの会話を通してある程度の材料を得た。そこで満を辞して奴に直接会いにきた。これで満足か?」
「会話って、どうやって聞いたんですか?」
「盗聴したに決まってるだろ。お前の財布を拾ったタイミングで仕込んだ」
「え!?」
思わず鞄の方へ目をやる未良。もしそうなら、“情報屋”として信用を持つノアが、未良とディルクの会話データを入手したということになる。
「これ、ディルクとの交渉に使えますよ!ノアくん名義で拡散するぞって脅せば!」
「やだね」
「え……」
「手助けしに来たんじゃないって言ったろ。こいつは調べることを調べた後で、適当に失脚させる」
「失脚?『ABY』でも使ってリークするんですか?」
「そんな、本人次第で復活できるような生ぬるいやり方では都合が悪い。後始末は接触の痕跡そのものが残らないほど、徹底的にやる。それが、『サク』だ」
「それじゃあ、やっぱり!」
未良の気持ちは湧き立つが、直後、明らかな矛盾点が脳裏をよぎる。
今言ったことが本当なら、何故ノアは自らの正体を未良に教えたのか。未良の協力者ではないと言い張る彼がそうする理由を考えたら、それは「同じやり方を用いるから」、でしかないのではないか。
急に青ざめる未良を見て、ノアは少し驚いたようだったが、やがて悲しげな顔をして口を開いた。
「心配するな。お前を苦しめるつもりはない。詳しい説明は長くなるから省略したいんだが、まだ何か質問はあるか?」
――意外にさっきのダサいって言葉、気にしてるのかな。
内心そんなことを考えながら、未良は最後に、ひとつだけ訊くことがあった。
「どうして気づいたんですか?私とディルクの因縁のこと。私、ノアくんと話した時自分のことなんて何も話さなかったのに!」
「そんなことは簡単に分かる。お前が俺に要求したのはあいつの居場所だけ。ディルクに対して既に何らかの交渉材料を持っている、という推測はできた。無茶なことに変わりはないが、何も用意せず挑むほど短慮でもなさそうだったしな」
「それだけで?」
「もうひとつ、お前はその行動力と裏腹に一度も自分を売ろうとしなかった。自分を売らないのは他人を想っているから。動機である他人が自分の犠牲を喜ばないと知っているからだ。ただディルクへ自分を売り込みたいだけの奴ではない、と確信するには充分だろう」
呆気にとられる未良の返事を待たずにノアは店の扉を開ける。
最後、彼の瞳からは寂寥感のようなものが一層強く垣間見えた。しかし、それだけではない。未良はそれに混じって、瞳の深奥から全身を凍らせるかのような峻厳、あるいは全身を溶かすかのような慈愛を感じずにいられなかった。そのとき、未良は初めて彼が「サク」だということを実感し、彼を「サク」たらしめるたったひとつのものが、今の悲しい目に表れていることを確信した。
それはある意味恐ろしい一方、未良にノアへの興味を抱かせるには余りある、神秘的な奥行きだった。恐る恐る扉の隙間から、ノアの会話を盗み聞く。
「ディルクさん、お待たせしました」
「ミラ、だったかな。君もそこに隠れてないで入ってくるといい」
未良は息を呑む。ノアと話したことで忘れていた緊張感や畏怖が、瞬く間に体の内側を再燃させる。
「なぜ彼女を?」
「何を言ってるんだ君は。友人なら、帰るときは揃って帰りたいだろう」
この男は、扉の外で行われていたノアと未良の会話が聞こえていたのか。いや、いくら盲目で勘が鋭くなったといっても、それはあり得ない。彼自身の洞察力だ。
未良はゆっくりと再び店に入り、ノアの背後に付いた。
すると、ノアがディルクに気づかれないように、小声で未良へ囁く。
「今から俺の話すことは全て“嘘”だ。だが、矛盾に気づいても口に出すなよ」
真意を尋ねる以前にノアは近くで様子を伺っていた伴内を呼び、鬼気迫る表情で呼びかける。
「今から最重要機密の話をします。すみませんが、少しの間何も聞こえないところへ……」
「はあ、承知しました」
伴内がバックヤードへ引っ込んだのを見て、ノアはすぐにディルクの目の前にまで歩み寄った。
「どうも。それで、『友人』とはどういう意味ですか」
「何を言っているんだ。タイミングが良すぎる。マナツの代理だなんて、私に適当な嘘は通じないよ」
「誤解ですよ。確かに私はあそこのはただの知り合いですが、用事とは関係ありません。私は情報屋。今日は海野がここに来られないので、勝手ながらそれを伝える『代理』としてここへ来ました」
「マナツが来られない、だと?」
ディルクは眉を顰める。
「はい。電話しても繋がらないと思いますよ?」
するとディルクはスマートフォンを取り出し、相手と通話できないことを確認する。
「……ふむ」
ディルクは首を傾げる。
――これって、確か。
未良は、確かにそれを知っていた。それが嘘だということを。
「しかし、一介の“情報屋”がよく私の元へ辿り着けたものだね」
「私は後ろにいる牙隈未良を含め、ずっと貴方の周辺を調べ回っていたので。そして今日ここへ来た最大の理由は、貴方を助けるためです」
「助けるだって?私のすることを脅かす誰かがいるとでも?」
「そうじゃありませんよ。ただ、貴方はご自身の危機を、寸前にまで迫った今でも気づいていないようなので」
ディルクはますます怪訝そうな顔をする。ノアの方はあからさまに大きな抑揚でディルクに訴えかけているが、彼の目が見えないのをいいことに、その表情は意図的なまでに“無”を貫徹していた。
「そもそも、『調べて回っていた』とは何だ?自分の懐を探っていたような男を信用する訳もないだろう」
「私の依頼者は第三者です。全く別の目的を持ち、貴方からすれば取り留めもない質問を1、2個伺えればそれでいい。ただ、仰っていたように私は『一介の“情報屋”』ですから。これまでは貴方へ碌に接近できず、傍証を探ることしか出来ませんでした。なので、それさえ済めば私に残るのは良識だけです。調査過程で得た全てを貴方へ提供しようかと」
「分かった。ならば、その質問とやらをしてみなさい」
「ありがとうございます。では、まず前提としてお聞きしたいのですが、『ABY』に関係者はいらっしゃいますか?」
「もちろん仕事や付き合いで交流した社員や役員はいるが、競合他社でもある。親密ということはないな」
「分かりました。それでは、『シーカーズ』でしたらどうでしょうか?」
「『ABY』への敵対をポリシーとするあの組織と?確かに機能すれば我々も恩恵を受けられる可能性はあるが、今のところは興味すらないよ」
「なるほど」
ノアはそれ以上追及することもせず、俯いて一息ついてからまた口を開く。
「聞きたいことは聞けました。それでは、あまり理解できていないようなので順を追って説明しましょう。海野真夏の彼氏は、吹田惟都。牙隈岼果を轢いた男です。」
「偶然にしては出来すぎた話だ。そもそも、一度捕まった彼が私に反感を買うような行動に出ても、損をするだけだ。私と共倒れするつもり、とでも言うのか?」
「いいえ。彼は貴方を裏切っても良くなったから強気なんですよ。貴方が最早“何者でもない”と知っているから」
ノアは足音を立てずにゆったりとディルクへ近付いて、肩に手を置いた。
「一般に公開されている『ディルク・デ・ヘンゲル』の姿は、全て別人にすり替えられている」
そのとき、ディルクの肩が僅かに揺れるのが見えた。
「……どういう意味だ?」
「意味がわからなくて当然だ、貴方には見えないから。ディルクグループとは、言わば大きな国家。成熟した国家は、もう貴方による絶対王政を必要としていないんです」
「そんな話はしていない!私は自分の口で話し、その内容がPVになっているのもこの耳で聞いている!」
「声だけはね。しかし、PVに出てネット上で顔を売り、顧客からの信用を得るシンボルとしてのリーダーならば、影武者で充分」
「影武者だと!?」
「ええ。あくどい話ですがね、影武者は経営に対して権限を持ちませんし、扱いやすいんだと。貴方の身内を除き、世間の人々は『ディルク』と聞かれれば別人の顔を思い浮かべる」
「ありえない!まともな証拠もないだろう!」
言葉に反して、ディルクの声色には確かな動揺が混じっていた。それはありふれた感情――しかし彼からすれば新鮮であろう――未知と対峙する恐怖に違いなかった。
「証拠ねえ。では、こんなものはどうでしょう?」
ノアはスマホで何かの動画を再生した。そこに映っているのは、意外な顔だった。
「こんにちは、ディルク・デ・ヘンゲルです」
その名を騙るのは、先ほど未良も遭遇した明石という男のはずだった。しかし、その声はディルクと区別が付かない。
合成によるフェイクではない。これは“ものまね”だ。
「何だこれは」
「貴方の会話パターンを学習し、貴方の思考と声を再現したAIですよ。これが完成したことにより、実物の貴方の声を借りる必要はなくなったということ。そして、今回の計画は“彼”によって提案されました」
明石はまた別人へと声を変え、一人芝居を展開する。
「すみませんディルクさん、貴方のビジネスの才を見込んでご相談したいことがあって。ウチのトップは大して役にも立っていないのに口だけが大きいのですが、どうすればいいでしょう?」
「ビジネスとは取捨選択だよ。そんな人間は切り捨てればいい。ああ、お金は要るから資産だけは回収するんだよ」
ノアは動画の再生を止めた。
「こんなやり取りを掴んでしまいましてね。思考まで弾き出すAIを作るくらいですし、権限さえ平等ならこんな目に遭わなかったんでしょうね」
「馬鹿な!そんなAIは存在しない!私が不必要などと!」
「この動画だと、貴方とは明言していないようですが。AIに共感でもしましたか?まあ、どのみち貴方に時間はありません。言ってたでしょ?資産は回収するべきだと」
「資産だって?」
「貴方は捨てられているんです。一人でいる盲目の貴方が、今自分が思っている通りの場所に存在できている保証が、どこにあるんですか?」
ディルクの焦りの色は、確かに強くなっていた。床を撫で回すように足を動かし始める。
「貴方が連れられたここは、ただの空き家です!今日は約束自体が嘘。主犯格の吹田を中心に、海野もグループも、皆が総出で貴方を騙したんですよ!貴方自身を攫い、資産と存在を奪い去る為に!」
「あり得ない!」
「いや、その逆だ!貴方が無防備になるタイミングは、蚊帳の外にいる女との約束でしかあり得ない!牙隈未良がここへ来たのも、過去を清算できるのは今日が最初で最後のチャンスだと知ったからだ!一刻を争います、信じないと後悔しますよ!とにかくここから逃げ出しましょう!最初から言ってるじゃないですか、『助けに来た』って!」
ノアがそう言って数秒後、“変化”は起きた。
ディルクのいた席以外のテーブルや椅子、飾られた絵画まで、何もかもが跡形もなくその場から消滅する。背後から確認できたノアのスマートフォンの画面は停止された動画のままだったが、それと同時に何かを隠し撮りするアングルへと変わる。
――まさか、ディルクのAIと社員さんが話してる動画、ってこと?
未良も思考の整理がついていないとはいえ、“嘘が本当になった”ということだけは認識できた。
ノアは周囲を見渡すて状況を確認するが、無表情のまま嘆息し、それからふと後ろへ首を向けた。
「わかった、ひとまず信じる!しかし、私がここを飲食店だと錯覚した原因は“彼”だ!あれは一体――」
「はい、それが今回吹田の代わりに手を汚す人物です」
「そういう事ですね」
伴内がバックヤードから顔を出す。その手には包丁を握っていた。
「ディルクを騙す手前、乱入して来た貴方の演技に合わせる他はありませんでしたが、その必要も無くなりましたね。それにしても、勘の鋭い“情報屋”だ。出来れば穏便に済ませたいところなのですが……」
「ええ、自分も同意見ですよ。帰るぞ、牙隈」
「待て!」
身を翻したノアを呼び止めるのは、未良ではない。ディルクが大粒の汗を流して叫んでいた。
「助けに来たんだろう!?何とかしてくれ!」
「あー。残念ですけど、チンタラしてたんで時間切れですよ」
空き家を出ていくノアに続く未良だが、去り際に恐る恐る後ろへと耳を傾けた。
「さて、口座や電子契約書の類を出して貰いましょうか。いくら自傷癖のある貴方でも、命は惜しいでしょう?」
「ははは……。間違いなく人生最大の喪失だが、これは快感でも何でもないね。全く、癖になりそうだよ」
それ以上は踏み込む気にもなれず、未良はそっと店だった場所を後にする。
「で、何なんですか今の!」
未良はすぐさまノアに駆け寄って、顔を近づけた。
「見た通りだよ。嘘を本当にする。ハッタリを言ったり書いたりして相手を騙せれば、世界の方がそれに辻褄を合わせてくれる」
未良は開いた口が塞がらずにいた。
しかし、それは様々な不自然さを繋げる唯一のピースだった。今のことだけではない。「サク」としての数々の投稿。奥にしまい込んでいたはずの財布もだ。
「それじゃ。悪かったな、俺のせいで姉貴の復帰は遠のいたみたいだ」
そして、ノアは先ほどと同じ悲しい目を見せ、速い足取りで離れていく。会って間もない未良の目的も感情も見抜いて、理解した彼のその目がどうにも見逃せなくて、未良は無意識で彼の隣に追い付いた。
「私、協力しましょうか!」
「必要ない」
「そんなそんな!『サク』を特定したこの女、誰よりも助手に向いてると思いますよ!」
そう言うと、ノアは急に足を止める。
「いや、向いてないんだよ。“情報屋”ってのは情報の暴食を煽る、今の社会を形成する元凶のひとつだ。あのディルクともさほど相違ない人種なんだよ」
「でも、ノアくんは違うんでしょ?」
「いや、それは……」
「やっぱり!普段は嘘つくの下手ですもんね、ノアくん」
ノアは何も言わず舌打ちした後で、ゆっくりとした足取りで再び歩き出した。
「それで、その力を使って何をするんですか?ディルクみたいな悪者を今みたいにボコしていくんですか?」
「さっきのを『ボコす』というかはさておき、それは過程だ。俺の最終的な目的は『ABY』を潰すこと。そして、『メディア・ハザード』を終わらせる」
「え、えー!?『サク』が活動してるSNSなのに!嘘でしょ!?」
「嘘じゃない。俺の能力はオフにできない厄介なものだ。自分自身についての嘘は面倒なことになるから言えない」
「なるほど、それで――」
未良はふと、一番最初にノアと出会ったときのことを思い出した。
――「いや。初対面だ」――。
「あ、そういえば!私って、そんなに魅力ありませんか!?」
「何の話だ?」
ノアは目を丸くさせていた。
これが、未良と「サク」の出会いだった。
毎週土曜夜9時に投稿する気でいます。(努力目標)