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VGOO(ボーゴ)〜嘘の導く並行世界渡航〜  作者: 喫痄
プロローグ/クライス・プロダクション編
13/59

#12 流転

「まずはお前を讃えよう、()(がら)()ノア」


 時刻にして、午後10時50分。

 涼霜(すずしも)(りゅう)は、片手の拳銃を標的の全員に向けて振り回したまま、(よし)()を押し退けて前へ出る。今の世界において、“離隔”被害者に紛れていた公安捜査員の正体はアイダホ・タチだと改変されているはずだが、吉木の劉に対する遠慮の具合は他人同士のそれではない。


「良くぞ俺を体現した。お前は俺の自ら語るまでもなく、その思想を、大義を受け継ぎ世に知らしめた。よもや、この俺に嘘を吐かせるとはな」


 戦慄する一方で、多くが腑に落ちる発言だった。この男は、ノアが「サク」であることを見抜いている。恐らくは、ノアの嘘による影響を感知できる。ノアと同様に、()()()()()()宿()()()()()ということだ。協力関係が無くなっているはずの吉木の居所を掴んでこの場に赴こうと考えたのも、劉が彼の変化をすぐに察知できたため。


「嘘、だと……?」


「ああ、たったひとつだけ。(さえずり)きりかに告げた、俺の名だよ」


 笑顔はない。彼は8年前の印象のまま、ただ悠然さだけをこちらへ圧迫感として与えてくる。名前が変わっても、この男の何ひとつ外連味を感じさせない一挙手一投足に関しては、まるで変化していなかった。


「『涼霜劉』、良い名前だろう?気づけば変わっていたので、通常の改名と違い自ら命名できなかったのは残念だがな。名を“自覚する”という体験は中々貴重だ。そういった意味で気に入っている」


「よく喋るようになったな、“(そう)”。それにしても、吉木沙李奈(さりな)である涼霜壮が存在しているうちに、なぜかお前がここにいられる?それはあるべき並行世界と矛盾している……!」


「心外だな。考えてもみろ、こんな奴と俺とが、等しい存在だとでもいうつもりか?」


「答えになっていない!」


「とにかく、水を差すのはよせ。再会の喜びなら、俺は既に味わっているが……。お前はまだだったろう?今日の今日まで続いていた悔恨が遂に解消されたんだ、話くらい焦らずに聞くといい」


 ノアは歯を食いしばる。ある意味で、的を射た指摘ではある。「サク」が生まれた最たる理由は、ノアの涼霜壮に対する負い目であった。彼が生存し、成長した姿でこうして対面している現実の前で、そのように十字架を背負う必要はないのかもしれない。

 しかし、ノアの心中はそれを否定していた。

 そして、彼は「既に」と口にした。


「シーカーズ、か。やはりあの時、画面の向こうにはお前がいた……」


 ノアはぶつぶつと口に出した後で、劉の目元を見据える。

 

「お前の目的は何なんだ?きりかに不正確な名前を(かた)って近付いたのは何故だ?」


「そうだな――架殻木ノア、お前に配慮すると少し話しづらい状況ではあるが……」


 ノアの名を口にしつつ、劉は目線をきりかの方へとずらす。きりかが不思議そうにしているところですぐに目を切った彼は、その場を歩き回りながら話し始めた。


「それにしても『何故』とは、意味のない質問をするんだな。俺の中に原因らしきものをどこまで探ったところで、それとて気分が時と相応に移ろった結果に他ならない。最初からそうだ――無自覚のうちに存在が消された次の(せつ)()、再び世界に意識を取り戻したとき。性質のまるで変わった別世界を前にして、その差異をひとつひとつ確認した。その時点で、俺の動機はひとつだけだった」


 吉木が、わずかに気弱な声を漏らす。劉が拳銃を、すぐ前方にいた彼の後頭部へ押し当てたことに対する反応だった。


「許せなかったんだ、俺でない人間が、俺の名を持って代わりにのこのこ生きていることを。子供だった俺にとってそれはここまで手軽ではなかったが、この引き金を引くのと同様の結果をこの男にもたらした。それが俺の能力、『フレイム』が覚醒するきっかけだった」


 劉は腕から力を抜いて、吉木には目もくれずこちらへ再び歩み寄る。


「存在不安の解消、至極自然的な殺意だ。しかし、俺を待っていたのはそれ以上の規律だった。お前なら、分かるだろう?いかなる殺意を以ってしても、俺は誰一人殺せなくなったんだ。その痕跡だけが残され、対象の肉体は損傷しない。殺せたものがあるとすれば、対象者の歴史だけ」


「そんな身勝手な悪意だけで、これほどの事件を……?」


 その言葉は、(みや)()()(おん)によるもの。無表情を維持していた劉だったが、そこで眼光は鋭くなる。

 

「取り巻き風情が、結論を急ぐな。俺からすれば、むしろこれ以上の幸福はなかった。名を失わせ、背景を、宿命を失わせる――俺だけが俺を語れる、唯一の力だ」


「そんな奴が、今更俺になんの用があったんだ……!?どうしてクラプロに近づき、俺に近づいた!」


「俺が最も自らの能力を行使したい対象は、俺自身だった。名を、背景を、宿命を失う――そこまでして、遂に俺は俺であることが出来る。しかし、この場合は記憶障害を伴う。お前の口から()()()()()()()()――それこそが俺の目的だった」


 刹那、目の前にいた吉木の、先ほどまでの態度が蘇る。彼がたった今持っている過去の意味を、ノアはすぐに理解した。


「俺が、こいつの過去を自分の知っている『涼霜壮』のものに仕立て上げたと言うのか……!?(きば)(くま)へ説明した、あのタイミングで……!?」


「お前の知る『涼霜()』の過去、それはこの俺を特定する文言だった。しかし、俺は『涼霜()』であって、その名は今、この吉木沙李奈のものだ。すなわち語られた過去は、事象だけは本当で登場人物が異なった嘘、ということになる。それを再現した改変はあくまで最短距離を行ったということ――お前の言葉は、俺の過去とこいつの過去とを入れ替えた」


 未良へ対する涼霜壮の説明は、確かに断定の口調でなされていた。しかし、そこにノアの油断があったわけではない。想定外だったのは、吉木沙李奈として生きる涼霜壮が現存していて、自分の言葉によって照準が定まるということ自体だった。この涼霜劉がきりかや自分に接近している時点で、彼が8年前の記憶を宿している予感もあった。それを説明することは劉に関する事実を語っているだけだと考えていた。


「入れ替わる前、つまり前回の過去改変で(たち)平仁(ひらひと)を公安の捜査官とした過去へ変えられた後のことだ。この『壮』には俺が虚無に等しい過去を与えていた。両親に友人、所属すらも何ひとつない、世界から忘れ去られた“理想の過去”だ。8年前以前の俺の過去、そして現在に至るまでの生温く、紛い物の時間――これらを『壮』に押しつけることで、俺は本当の意味で望んでいた無機質な過去を貰い受けることができた。お前には感謝したいと思っている」


「馬鹿げてますよ……」


「おい、牙隈」


 呟いた未良(みら)は、僅かに俯いていた。劉を刺激させたくなかったノアはそれを(いさ)めようとするが、彼女の目には焦点が合わないらしかった。


「お前が牙隈未良、か。こんな女を味方に引き入れたのが成り行きだとは。憎らしいほどの天運だな、架殻木」


「――涼霜、劉さん?そうまでして全てを失う必要があるんですか?シーカーズって言うならディルクのことも知ってると思いますけど、それじゃ、あいつ以上のマゾですよ」


「お前の慕うそこの男と変わりない。架殻木ノアが背負い込んだ“影”と同様に、この力を利用してやれることをやっている。ただ俺は、そいつと違って嘘が嫌いなんだ。逃げているような気がしてな。真に必要なのはネット上の虚構ではなく、より確からしい神格だ。例えば英語では、唯一の神へ冠詞を充てがうことをしない。個を修飾する何もかもが必要ないんだ。俺もそれに則っているだけだ。何かと常識の枠で量りたがる万民へ神の器量を示すなら、まずは俗世との隔絶を示す必要がある」


「なんなんですか?貴方がなりたがってるその神様っていうのは!」


「単純な話だ。この国を皮切りに、世界を余すことなく掌握する存在。“預言者”などという半端者ではなく、誰もがその存在を確信し、絶対的な統治を実現する神が務まるのは、俺を置いて他にない」


 劉はあくまで真剣そのものといった顔で意気揚々と、自信ありげに語ってくるのが分かる。その口ぶりが、ノアの目には先日一方的に世界だの平和だのと説いてきたシーカーズの首脳と再び被って映る。


「なるほど。それでシーカーズに警察、か……」


「ああ。先程までのお前の推理には間違いがある。公安警察に所属していたのは俺だ。壮に身を置かせたのはシーカーズの方。こいつを踏み台にしつつ、シーカーズでのポジションは自力で獲得した。俺が自分の手で公安の方針を操作し、笠井へ渡す捜査資料と、スマホから復元可能な正式な捜査資料を別で用意した。この男を逃がした“案内業者”のコネというのはシーカーズの協賛企業を利用したものだ」


「つまり、『クライス・プロダクション』と『ABY(アビー)』が繋がっていて、そこにきりかが所属していたという情報の出所は公安だったってことか」


「そう。それを知って、俺はクラプロにお前を近づけるプランを思い付いた。秘密裏に捜査させることを望み“離隔”と呼ばれている例の事件を能力で起こし、笠井側からお前へのSOSを誘った。担当マネージャーを消した後は、わざわざ友人・吉木沙李奈の存在を捏造(ねつぞう)させてまで気長に追い込んできたつもりが、先日より(あつ)()(かる)()という邪魔が入った。奴の協力する『ABY』取材部は下っ端も多く関与し、未だ俺の根回しが行き届いていない。本人に直接能力を使うのも躊躇(ためら)われた」


「それで研修生を……。あれは情報としての鮮烈さを重視し、嫌でも『サク』の耳へ入るようにした強行策か……」

 

 劉自身も気が付いているかもしれないが、ここまでがノアの嘘によって生まれた、一連の“劉が生存していた8年間の歴史”ということになる。ノアが自分の狙いをもって用いた嘘だったが、抹消されていたはずの存在に出し抜かれたことは、否定しようのない事実だった。


「今日顔を合わせた最大の理由はこの通り、お前の呼び出したこの壮の勝手な動きを抑えることだ。しかし、もうひとつだけ、提案があってここへ来た」


 劉はそこで初めて拳銃を懐へしまって、今度はこちらへ手を差し出す。


「俺の駒にならないか?先日シーカーズが伝えたことと俺の意思に、ほぼ相違はない。先に言ったが、“預言者”とは“神”ありきの存在だ。俺の遺志を継いできたと言うなら、俺の為すことの正当性が分かるはずだ」


「ノアくん、断って!この人、敵対するとノアくんが邪魔になるからって――」


「黙ってろ」


 未良の言葉を(さえぎ)って、ノアはまっすぐに劉を見据える。

「涼霜壮」の影を追うことはノアにとって(しょく)(ざい)であった一方で、今に至るまでのノアからすれば、救いでもあった。こうして同じ目線で劉と目を合わせているのも、彼の支えなくしては考えられなかった。

 しかし、ノアは劉の手を払い除ける。


「分からないよ」


 ノアは一言吐き捨てた。


「お前の虚像を(まと)って8年間、どうにか生きてきた。でもそんな理屈、ちっとも分かりはしないんだよ。自分の過去がこの手にない、この目のどこにも映っていない――俺の8年間にあったのは、その痛みだけだ。それを感じられないどころか、あえて選択したお前を同志と認めることはできない」


 劉は表情から一切の反応を見せない。叩かれた手をゆっくりと自らの腰の横へ戻し、一度首を捻った。


「いくつか言いたいことはあるが……。俺がお前に、共感を求めていると思うのか?」

 

 劉はそこで、さらに一歩近づいた。視界が互いの顔面で埋め尽くされる近距離で、一際目を見開いて口を開く。


「思い上がるな。これは薫陶(くんとう)だ。横の牙隈未良にでも(かい)(じゅう)されたんだろうが……。自らの後援たる者として賞賛することがあっても、他者と傷の舐め合いをするお前を同列に扱う覚えはない」


「こちらとて同じだ、涼霜()。結果がどうであろうと、お前は既に人殺しだ。悪人の片棒は『サク』だって担がないだろ」


 劉は嘆息した後、黙って(きびす)を返す。


「協力の気がないのなら別にいい。だが分かっているんだろう?『サク』の行き着く先は俺だ。つまり、お前の役目は終わりだ。もう何もしなくていい。それが出来ないのなら、次は容赦無く引き金を引く。お前の殺しの価値観に、一度は付き合ってやる」


 拳銃を手にしこちらへ見せた後で、劉は吉木の喉へそれを突きつけた。


「お前はこっちだ。着いて来い」


「は、はい――」


「待て!」


 ドアを開けたところをノアが呼び止めて、二人は足を止める。

 そして、直前の一瞬の間で、ノアは現在の時刻を確認していた。時刻は、午後10時58分を指していた。

 ――あと、たったの2分。


「お前、やたら神がどうだと主張していたが……。お前はそんな(おお)(ぎょう)な力が何の意味もなく、偶然で授けられたと思っているのか?」


「どういう意味だ」


「――お前が自由に今生きている現在の状況を変えられるとして、それは過去を変えることを通して実現されている。ならば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。その作用が“能力”という現状の科学で説明できない裏技に置き換わっているだけで、俺たちはその手足に過ぎないんだと」


 劉は一度こちらから目線を外して何か考えたようだったが、特に動じる様子はない。


「流石の口八丁だな。お前自身、そんなことを気にして生きてきたのか?俺とて、その発想に至らなかった訳ではない。だが、この権能を行使するのはあくまで俺だ。能力とはただの道具。それ以上に興味はない」


「口八丁って!あの、全然分かってないんですね!」


 すかさず大きな声で吐き捨てたのは未良だった。

 

「ノアくんって、普段はすっごく隠し事が下手なんですよ!言葉の嘘は私も散々なくらい受けてきたけど、裏でこそこそ悪巧みしていた貴方なんかよりずっと純粋で、等身大の人なんです!ノアくんは貴方みたいになりません!」

 

 それを聞いたところで劉からの返答は止まって、一拍だけ会話の間に空白が生まれる。


「架殻木、どういうつもりだ」


「……何がだ?」


「とぼけるな。さっきは遮った牙隈未良の挑発を今になって見過ごした。意味がないはずもない」


 ノアは何も言わず、スマートフォンを取り出した。時刻は、午後11時。

 そこで、ノアは劉へ時刻の表示されたその待ち受け画面を見せつける。


「今にわかるよ」


 それから数秒した後のところだった。

 世界が歪む。その変化を感じ取れたのは、恐らくノアと劉だけだった。

 午後11時で設定していた「サク」による予約投稿の内容は――「クラプロ続報。集団辞退騒動の黒幕が声優・囀きりかへ接近したことを、前回と同様の“情報屋”が突き止める。事件性を認めた現地警察を引き連れ10分程前に潜伏場所へ突入した模様」。


 次の瞬間には、二人の周囲を数人の警官、そして渥美駆真が取り囲んでいる。


「なるほど――」


 劉はそこで、初めてわずかに顔を(しか)めた。


「吉木沙李奈さんさあ。大人しく罪を認めた方がいいよ」


「あの、えっと……」


 吉木は怯えて劉の様子を伺っているようだったが、劉がそれに構う様子はない。警官や駆真も彼に対しては主犯格としての認識を持っていない。お互いに興味の外らしく、劉の方はひたすらにノアの方の言葉を待っているらしかった。ノアはそれで特に呆れた気分になって、溜息を吐いた後でその要求に応える。


「『サク』の最新の投稿には、『集団辞退騒動の黒幕』と表記されている。わかるだろ?これは価値観の問題じゃない。『お前が人殺しである』というのは、この世界が認めた事実だ」


“離隔”では、被害者の持っている過去から加害者が消失する。その一方で“離隔”後の環境外にいた場合、こうして改変を皆が知覚出来ていることと、そして本人が自ら語ったように、世界へと犯行の痕跡は残されることを物語っている。この世界を基準として考えたとき、正常なのは明らかに痕跡の方。一般に「レッスン生の辞退」と解釈されている事件だとしても、その原因となった人物が涼霜劉(を指す人物)である歴史は塗り替えられていないということになる。


 しかし。

 劉は返答に興味がないらしく、ドアを塞いでいた警官の方へ再び振り返った。

 力では劉を上回っていそうな風貌の彼等へ興味すら示さないで、スマートフォンを取り出し、各勢力の見つめる中、電話で何らかの人物と言葉を交わし始めた。


「――やはり、それなりにやり手だ。少し『サク』へは警戒を高めた方が良いだろうな。――いや、問題はない。頼むぞ“(ねい)”」


 寧、と言った。劉の協力者とすれば彼が影響を与えている「アビー・シーカーズ」が思い浮かぶが、シーカーズで寧と言えば、女性活動家の(やお)()寧が真っ先に思い浮かぶ。


「寧、だと……!?」


 声を漏らしたのはノアではない。このことに誰よりも大きな反応を見せたのは、渥美駆真。


「お前、そいつと何の関係がある!?」


「ああ……。そういえば、姉弟だったな。別に、特別語るべき点もない。お前に予想できる通りの関係だよ」


「ナメてんのか?俺は探偵であり“情報屋”だ。証言ははっきり、正式にしてもらう」


 駆真は周りに目配せして一歩下がるとほぼ同時に、警官が劉へ飛びかかる。


「つーか、今じゃなくてもいい。留置所ではちゃんと聞かせてもらうよ」


 まもなく吉木と劉は取り押さえられて、部屋の外は引き摺り出された。

 ノアは未良や麗音、きりかと共にゆっくりとそれを追って外に出る。この場で最も場の目まぐるしい変化に惑わされていたのはノア本人でもあったが、ひとまず思惑通りに劉を捕えられた安堵の割合が大きかった。未良ときりかの和解がどうなったかだけは気掛かりだが、きりかが余程鈍くなければ、改変前までの劉との会話からノアの正体について勘付いていたに違いない。二人の和解が無かったことにされていてもこれから再現可能だろうし、きりかを「サク」から遠ざけることができたなら、それ以上はない副産物だ。

 他の誰よりも、このきりかにだけは「サク」としての自分を見せたくない。それは涼霜壮改め涼霜劉が生きていると知れた今、尚更感じられる思いだった。

 しかし。


「――こんなものか?」


 背を向けていた劉のぽつりと呟いた言葉は、やけに明瞭に耳へ届いた。


「う――うあああああ……!」


 吉木が突然呻き声を上げて、その場に倒れ込む。

 ――まずい。

 すぐに劉のしたことを理解した。恐らくどのタイミングでか、吉木は毒を盛っていた。これで彼が死に至れば、その時点で吉木個人と改変後の周囲に変化をもたらす事ができる。それに乗じて逃走する気に違いない。


「一体何が……」


 両脇の警官達が彼に手を伸ばそうとするのを見て、すかさずノアは叫んで呼びかけた。


「慌てるな、気が動転しているだけだ!安静にして連行すればすぐに回復する!」


「いいや、俺が毒を仕込んだ。そいつは間もなく死ぬ」


「そんな――」


「そいつはお前達を混乱させようとしているだけだ!耳を貸すな!」


 警官達は困ったような顔をしている。

「サク」としての鉄則として実感してきた通り。人はリスクを避けるためよりネガティブな方の事実を信じようとする。ノアもこの場面での分の悪さを自分で理解できていた。


「ひとまず、救急車を……」


 ――それでは遅い。

 ノアは劉という男の周到さを既に理解している。少なくとも“世界線”でも変わらない限り、彼には犯行が必ず成功するという確信がある。決行された時点で、吉木が一命を取り留める可能性に賭ける価値はない。

 悔しさを抱えながら、ノアは直後に訪れた景色の歪みを目の当たりにしていた。

 


「引き上げるぞ」


 “吉木沙李奈”は、その場から姿を消した。代わりにその場に立っていたのは、警察の制服に身を包んだ、同じ顔立ちの男。劉から聞くまでもなく、それが今度の“涼霜壮”の姿だった。


「は!?どういうことだよオイ!事件性があるってここに来たんじゃないのか!?」


「……そうでしたか?すみません、少し記憶が混濁していて。私たちはどういう用件でここへ?」


「えっと、それは……」


 駆真は壮の変化から外部にはいたものの、直近の接点だけは“離隔”――「フレイム」と呼称した劉の改変によって不都合な記憶をかき消す補完がされたらしい。劉の拘束すらも改変の間に無かったことにされていて、警察官が壮の一声で撤収するのに乗じて、劉も悠々とその場から立ち去ろうとこちらから背を向けた。


「残念だったな、架殻木ノア。俺のような存在を生み出すことになり『裏目に出た』と、そう思っているんだろう」


 表情はこちらから伺えなかったが、劉はそれまでのどの言葉とも異なる声の調子で、低く、小さく言い放つ。


「だが、気に病むことはない。お前は必要なことをしたんだ。俺たちが何か別の、時間的な上位存在の意思で踊らされているのだとしても、俺たちや、そんな奴らの知る“真実の流れ”には、俺の手腕が求められていただけだ。そんなに俺を否定したいのなら、次は“殺し合い”だ」

次回は1章最終回です。

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