#11 扉を開くもの
【前回までのあらすじ】
ノアは嘘によって渥美駆真の部下・宮尾麗音を味方に引き入れ、駆真の内情を探りつつ“離隔”とその被害者の真相へと迫る。ノアは話が進む中、「メディア・ハザード」の中心にいるSNS「ABY」と、それを敵対視していたはずの団体「アビー・シーカーズ」が裏で結託していると主張した。
※注釈(広辞苑より引用)
【噂】: ①ある人の身の上や物事についてかげで話すこと。また、その話。「何かと―される人」「お―はうかがっております」 ②世間で根拠もなく言いふらす話。風説。世評。「―が立つ」「―に聞く釣名人」「人の―も七十五日」
【噂話】: 噂に類するよもやまの話。世間話。
「ちょっと、待ってくださいよ!」
未良はノアの話に珍しく納得がいかない様子だった。
「『ABY』と『アビー・シーカーズ』がグルって?真逆の主張をしてる人達同士なのに、どういう意味ですか!?」
「そのままの意味だ。お互い末端には知らされていない話だろうがな」
「待ってください、話が矛盾してますよ!ノアくんは、この事実が“離隔”の被害者から公安の人が誰かを特定できるってことでしたよね?」
「ああ」
「だったら、きりかさんから涼霜壮さんやシーカーズの関連も聞かされていないうちに、どうしてクラプロのことが推理できたって言うんですか!?」
「シーカーズの大元が『ABY』なんて話、俺はとっくに予想が付いてたし、『ABY』の闇が国家規模に根を張っているという前提があった。実際にシーカーズと言葉を交わしたことで、俺の中でその恐れは強くなったんだ」
「私がオーディションを受けてたのと同じときにやってた、アレですか?」
「ああ。『ABY』の明確な商売敵であるディルクグループとの関連を否定したことや胡乱な大義は目に余った。表向きの活動家集団とは別に中枢が存在し、かといって活動の本質は反体制の系列の中に居て利益を得る、組織名に敵の名を冠する“寄生虫”のやり口だ。実際、『ABY』とつながっていることを確信に近づけたあの話し合いの後、俺は乙丸に『サク』の個人情報が流出しないよう警戒しろと頼んでいる」
「でも、今回の件だとシーカーズの話は唐突に出て来ましたよね……?」
「この前提から推測されるのは、宮尾の言った通り半ば陰謀論的な監視社会体制だ。シーカーズの後ろ盾が政党であるなら、『ABY』が既に日本政治を実質的に掌握していることは自明の理だ。まず、『ABY』とその情報操作によって市場を制圧する癒着企業が形成する“『メディア・ハザード』経済圏”の恩恵を受けているのは保守的な政府も同じ。表向きにどう綺麗事を言おうと、情報不足は統治を強固にするだけだからな。そしてそれだけではない。野党の名を担保にしたシーカーズが賛同する各企業を統括する、言わば反体制の“裏経済圏”をも奴らは手にしていることになる。こと日本において、政府と『ABY』はこれら全てをコントロールできることになる。そして皮肉にも、ここまで“秩序”のある支配が成り立っていたとして、警察組織がこのシステムから除外されているはずがない」
「つまり手口や犯人など詳細は分からなくとも、公安の捜査官がいた、という話を駆真から聞いた時点で、シーカーズとの接触を経ていたノアにはその見方が穿ったものに変わっていたということだね」
「ああ。『ABY』とクラプロに繋がりがあるなら、公安がいる理由はそれを脅かす可能性を持った存在だ。今考えると、それに該当するのは、公安がその人物を発見できた理由も含めて、一人しかいない」
「きりかさん、ですか……!?」
「そう。きりかが『ABY』に縋り腐敗したクラプロを正すために、シーカーズを近づけて牽制を図ったことは、シーカーズ経由で公安まで漏れたんだ」
「だとしたら――分かった!詳しい時系列こそ聞けてませんけど、きりかさんの行動がきっかけで公安が“来た”んだとしたら、可能なのはあの人だけですよね!?」
「ああ。お前の考え方は正しい」
ノアは渋面ながら、未良の言葉に頷く。
「長ったらしい話ももうすぐ終わる。俺は今すぐにでも場所を変えて涼霜壮に会うつもりだから、残りは移動した後で話すのでいいか」
「えー!?もう結構遅い時間ですよ?仕掛けはどうせいつもの能力なんだから、また日を改めてで良くありませんか?」
「仕掛けならさっきお前らが話している間に済んだ。それに場所を変えるのは、お前たちにだけじゃなく、囀きりかも呼ぶからだ。きりかにしろ壮にしろ、俺の正体に近付くこの拠点では不都合がある」
「きりかさん、と……」
僅かに顔を強張らせた未良は一瞬の間視線を落とすが、やがてこちらへと更なる眼力を向けて一歩身を乗り出した。
「行きます。言っておかなきゃいけないこともありますから」
「――ああ。すぐに出発する、目的地は“表アジト”だ」
ノアがこれまで一人で行ってきた「サク」の活動だが、仲間を得て対外的な活動も増えた今、“情報屋”・架殻木ノアとして名目上の拠点を持つ必要性も感じていた。
バーの店主・桃木へ話に行く口実は、「拠点を移すことの報告」。乙丸にしても未良にしても“般若街”ではなく郊外に自宅があるので、招集が便利な新しい拠点を「サク」としての活動と切り離して利用する方針に変更した。架殻木ノアの“情報屋”業も曖昧なままでは足が着きやすくなるだろうし、こちらの拠点はノアの通う大学と近い。これを機にブランディングをよりローカル向けのものへ変更する思惑もある。
そして、桃木についた嘘はもうひとつあった。
「――壮の連絡先を入手したんだ。既にチャットでこの場所に呼び出している。お前もそう。話すべきだと思って、牙隈に連絡してもらったんだ」
「……うん」
囀きりかは以前ほど警戒する様子は見られないが、緊張感はこちらにも伝わってくる。やはり、涼霜壮に会うと聞いたからだろう。
「あの、きりかさん」
「未良ちゃん……」
駆真とノアによって“ゴースト・アクター”の件が暴かれて以来、二人が顔を合わせたのは初めてになる。
まだ手付かずの“表アジト”だが、広さだけは“般若街”の方よりも確保されている。ノアは麗音を連れて少し離れた壁に寄りかかって、二人の様子を眺めていた。
「一瞬声優もありかな、なんて思ってましたけど、やっぱり止めておきます。クラプロでも貴重な体験はできたけど、近いうちに事務所も抜けることにします」
「……うん。ごめんね、裏切るような真似しちゃって」
唇を結ぶようにして頷くきりかを見た途端、未良は少し慌てたようにきりかの懐に潜り込んだ。
「あ、ごめんなさい!そういうことじゃないんです!怒ってる訳じゃなくて!」
「え、そうなの……?」
「はい。ちょっとショックでしたけど、ノアくんを通してきりかさんも苦労してきたって分かったし。……それで私、きりかさんのこと凄いなって思ったんです」
未良は自らの片腕を手で掴む。きりかに向かっていた視線も、そこでわずかに落としたらしかった。
「私もちょっと前はお姉ちゃんのことで思い詰めて、逸って無茶なこともしました。でも私のはただ、他の方法を考える余裕がなかっただけ。自分が無くてバカだったから、リスクが高い方を楽な方法だと思い込んで勝手に引き寄せられただけなんです。でもきりかさんは、退所する選択肢もあったはずなのに、クラプロを元の姿に戻すって難しい解決策をあえて選んだじゃないですか。それって凄い決断力だなって思いました」
それに対して否定しようときりかが手を差し伸べようとした途端、未良は顔を持ち上げて、前傾姿勢になる。
「でも、というか、だからこそ!私はクラプロにいられないなって思ったんです!」
きりかが怯むのも厭わず、未良は彼女の顔に声をぶつけるように声を張り上げた。
「私もきりかさんに言われて、どういう自分を表現すれば一人前の役者になれるか、考えました。考えてみれば、私っていつも他人のことばっかり。お姉ちゃんのため、ノアくんのため、って。でも、一人前になる為にはそれじゃダメだって気付いたんです。2人前、3人前って考えていたら、いつまで経っても一人前にすらなれないんだなって」
未良は言葉を続ける。そこまでは未良らしい間の抜けた立ち振る舞いではあったが、ここに来て若干背筋が伸びて、全身の据わる印象があった。
「でも、私はきりかさんみたいに、自分ひとりの力を信じて挑戦する強さはないから。だから、私は私でやってみようって思いました。まずは、他人の為に頑張る自分を認めることかなって。役者としてもそう、見てくれる人の感情を動かしたり、元気づけたりできる役者であろうって思いました。そしたら、何度も動画を見返したお姉ちゃんの演技の意味が、ちょっとだけ理解できるようになったんです。だから、ここからもう一度、舞台や映像でやり直してみたいって気持ちになりました」
そこまで言うと、未良はきりかへ深く頭を下げる。
「全部、きりかさんのアドバイスのおかげです!ありがとうございました!」
きりかはひたすらに面食らって未良の後頭部を目の当たりにしていたが、少しするとその奥にいたノアの方を一瞥してから、力無く微笑んだ。
「こちらこそ。貴女は、やっぱり私が見込んだ通り――いや、見込んだ以上に凄い子だったみたいね。ちょっと悔しいと思うくらい」
「悔しい、ですか?」
「うん。未良ちゃんに評価してもらえたのは嬉しいけど、私も変わらなきゃなって思った」
「よく、分からないですけど……。じゃあ両成敗ってことなんですかね?」
「はは、何それ?」
2人の間に安穏の空気を感じたところで、ノアはひっそりと嘆息し、壁から離れる。
「さて、仲直りは済んだか?」
ノアが手を叩きながら2人に近づくと、未良はすぐに体ごと笑顔をこちらへ向けてくる。
「はい!ノアくんも、ありがとうございました!」
「何の覚えもないが」
「そんなこと!……多分今夜のことなんて、私がいてもどうせ役に立たないのに。この為に、連れてきてくれたんですよね」
「そんな訳あるか」
寄ってくる未良を躱してノアはアジトの中央に立つが、視線の先にはきりかもいる。
「私からもお礼させて。ありがとうね、ノアくん」
きりかの優しい笑顔を目の当たりにしたノアはどうにも居心地が悪くて、視線を外して俯く。
――やはり、未良と会わせるだけでも別の日にしておくべきだったか。
きりかはこの場に居合わせる責任や権利があったが、未良を置いたのは、彼女の面目を慮ってのことだ。「上げてから落とす」。これはきりかにとって、事態をより酷薄に伝えることを意味していた。
ノアは苦衷を押し殺して、普段通りに話し始める。
「きりか、変な緊張が無くなったのはいいが、本題はそんなに生温くない。特にお前にとってはな」
「特に、私……?」
「まず、今回の件について公安がどういった役割を果たしていたか、それをはっきりさせておく」
「きりかさんを監視していたんですよね?」
「ああ、『ABY』と『アビー・シーカーズ』は中枢部が繋がっていると言うが、その認識を組織全体が共有しているはずがない。ということは企業や団体ごとで、互いに不可侵を約束している領域があるはずだ。きりかはその均衡を崩す危険因子だったということになる」
「それはそうだけど、この場合、公安は現場の諜報員にも関わらずそれを知っていた。事実がそうだと言うなら仕方ないが、私は違和感を覚えるね」
ノアのすぐ後から追うようにして近づいていた麗音が、腕を組んでノアの背中へ声をかける。
「そう、宮尾の言う通り奴の行動は妙だ。まずはスマホの記録の矛盾がある。駆真の言及がなかった以上、記録そのものはきりかが標的であることを示す痕跡ではなかったと考えていい。つまりスマホを落とした事、あれ自体が偽装で、作為的なもの。スマホが無くなった当時は、まだ誰を疑っていいのか分からない状態だからな。一方で、あれは警察組織が事務所に紛れている、という事実を知らしめるための脅迫だった。そうなんだよな、きりか?」
「うん。実はそのスマホの電話番号から、私のスマホにショートメールが送られてるの。そこには、私のことを危険分子の工作員だと疑ってるって捜査資料の概略が添付されていた」
「工作員……。なるほど、シーカーズを差し向けたことで、シーカーズがクラプロを乗っ取ろうとしている、という意味だね」
「それは名目上の目的。もうひとつの問題点は、結果的に、諜報していたはずのクラプロから“離隔”を装ってわざわざ引き上げたということ。つまるところ、これらはいずれも警察の意思ではないだろう」
「そうか、“離隔”に紛れたと偽装したかったのは、自らが所属する警察組織を誤魔化す為。仮にその捜査官が周囲の公安警察に対して情報の優位性があったとすれば、“離隔”は警察を欺く手段たり得た」
「でもですよ?自分のいる公安じゃないってことは、その意思であるどの勢力の為でもない。当然、クラプロの為でもない。だとしたら一体誰の為に――あ」
未良は自分で残された“1人”に気付き、声を漏らす。
「“離隔”の犯人ってことになるね。そしてそれが見立て通りあの男のことを指しているなら、単独犯。なるほど、他の組織を出し抜きたい思惑もそれなりにあるんだろうね」
「さて。それで、そんな“離隔”の犯人と協力する公安の捜査官が誰なのかという話だが……」
「きりかさんが所属して、シーカーズに接触した後で入社するチャンスが唯一ある社員……」
「中途入社だった八鍬大紀、か」
「え……!?」
麗音の口にした名を聞いて、きりかは狼狽する。
「ま、待って下さい!八鍬さんが公安で、犯人とグル!?そんな訳がありません!」
「どうして?もしかして、君がシーカーズに近付くより前に入社していたかな」
「いや、それは、後でしたけど……。そうじゃなくて、あの人は最初に“離隔”に遭ってるんです!『ABY』とクラプロの癒着を見過ごしてクラプロを去らないと、この事件は続くだろうって。あの涼霜さんが言ったのが最初で、それ以降あの人は顔を見せなくなって……」
「笠井さん、最早順序は関係ないと思うよ。その捜査官にとっての“離隔”は犯人と口裏を合わせていて、それによって記憶も失われていない完全な紛い物だ。類例が確認されずとも再現が可能な立場だ」
「そ、そうなの、ノアくん?本当に八鍬さんが……?」
縋るような目でこちらを見つめてくるきりか。
しかしノアは返答しないままに身を翻して、場の三人から背を向けて口を開く。
「2人の言っていることは、理に適っている。論理的に正しい」
「そんな……」
「でもな、きりか。悲しむのはまだ早いんだ」
ノアが隠したかったのは、生唾を飲み込んで喉仏が動くことだった。目を閉じて、あくまで淡々と言葉を続ける。
「俺の口から言うのは、基本的に“疑わしい点”だけ。その補足は牙隈と宮尾、二人でその都度してやってくれ。――“離隔”と呼んでいる例の現象だが、俺達は人智を超えた力、個人の過去を変える力だと結論付けた。その力の被害者は、各々の送っていた人生を全く別のものに変えられる。記憶を失っているのは別の可能性世界から連れてこられた反動、かもしれない」
「被害者が当然のように新しい環境や職業で人生を再開させるだろう?あれは、経験していないはずの過去を体が覚えているからなんじゃないかってね」
「あの、ノアくん……。真面目に話してるんだよね?私、流石に納得できないんだけど」
「その辺りの考えは一旦取り払ってもらえると助かる。“この個人の過去を変える”力だが、最も恐ろしいのは記憶を失っている『個人』ではない」
「え?」
そんな声を漏らしたのは未良だが、彼女とてその仕様自体には気付いているだろう。ここではただ、ノアの話が想定している軌道を逸れていることに違和感を覚えたのだ。
「恐ろしいのは、変えられた個人を取り巻く環境に対する効果。能力の対象者が別の時間を再現する上で、この世界からしたらその行動は異物そのものだ。しかしこの能力では、少なくとも対象者の世界で関わるはずだった人々の認識が、そちらの世界に適応している。簡単に言うと、“対象者の近くでは‘離隔’がおかしいと思われていない”ということだ」
「それが、どうしたと言うんだ?」
「分からないのか?“離隔”の被害者が身近に飛び込んできたとしたら、ここにいる人間もその例外ではないと言っているんだ」
「は、はい……!?」
未良と麗音は、開いた口が塞がらないといった様子。きりかに関しては、ただ怪訝そうな表情を浮かべているだけだった。
この事件を論理的・科学的に考えれば、八鍬の名前を導き出すことに妥当性もあるということはノアも言葉の通り認めるところだ。
しかし、既にそれは既知の科学に当てはめた消去法が適用できる問題ではなくなっているのだ。
「ここで、“奴”の怪しい点を2つ挙げる。第一に、現在の職業。『案内業者』というのは、言うまでもなく店舗のプロモーションありきで商売が成り立っている。当然広告費を多く用意できる経済地盤のある方が有利になるため、信用ができるかをあくまで消費者側が吟味するにはそれで十分だが、内部がコネの世界であることに変わりはない。“離隔”を装って記憶を維持したまま転職するのだとしたら、協力者である犯人の名にしろ親の名にしろ、手段によっては最も容易に就職できるはずだ。それこそ“離隔”さながらのスピード感でな」
「の、ノアくん……!?」
ようやく理解できる内容になったところで、きりかはノアの主張を先読みしたのだろう。息遣いからも、彼女の動揺がさらに強まっているのが分かる。
「そして第二に、奴自身の発言」
「発言って、あのリモートでの証言のことか!?私もその場にいたけど、あの人にそんな様子は……」
「たったひとつの言い回しだ。俺はあの時、声優に明るかった乙丸に対し“離隔”前の特徴について聞かされていて、奴にもその話題を振った。『友人に聞いている』と。奴はこれを『噂話』と表現したんだ。変には思わないか?ゴシップならまだしも、芸能人の表に出ている情報を他人同士で確認しあっていたことを『噂話』と言うことに」
「そうじゃないとしたら、どうして……」
「“真偽定かでない風説のこと”を指さない『噂』。となればこの言葉には内輪でする会話、陰口とも似たような語義が想定される。奴が記憶を持っていたとして、架殻木ノアと自分のことを話したと聞けば、真っ先に誰のことを連想すると思う?」
「まさか、自分と仲の良かった囀きりかから聞いたと勘違いしたのか……!?」
「そうだよ――」
仲の良かった、という麗音の言葉に反応して、きりかは切り出した。
「仲が良かったんだよ?そんな人が私を監視するための公安で、私を脅すのに協力しただなんて……!」
ノアは少しだけ顔を後ろへ向けて、きりかの方へ目を合わせる。
「きりか、疑問に思わないのか?自分のしてきた行動を」
「どういうこと……?」
「シーカーズを引き寄せて『ABY』とクラプロへ嗾けるという大胆で、狷介とも言える行動。そんなに仲が良かったのなら、どうして奴に相談しようと思わなかった?」
きりかは言葉を詰まらせた。
「相談しなかった?違う。そいつは当時、本当はお前の側にいなかったんじゃないか?犯人に協力しているなら、その捜査官が事務所に潜入するにあたり、お前が『シーカーズと接触した後に現れた』と認識している必要はない。“離隔”は潜入手段として使うんだ。それならば奴だって社内にも、業界やファンにも、『初めからクラプロに所属していた』という事実を疑われることなく潜り込むことが可能になる」
アジトのドアが僅かにそこで開く。
――想定以上に時間が押していたようだ。
「……と、この通りだ。それもこれも、全てはお前の仕業なんだろ?久しぶりだな、涼霜壮――」
ノアは入り口の方を向いて、全員の視線もそこへ集まる。
「お邪魔します」
「……え?」
完全に開いたドアからおずおずとアジトの中へ入る人物。
それは、一同の想像とは大きく異なっていた。
「先輩……?」
きりかが呟いた。
目の前にいるのは、たった今話題の中心にいた人物。公安警察の捜査官でありながら“離隔”の犯人と協力していた人物ではあったが、それすらも今の「アイダホ・タチが公安の正体であった世界」においては異なっている。
吉木沙李奈。誰も彼女がそこに現れた理由を説明できなかった。
――まさか。
ノアにはたったひとつだけ、思い当たる節があった。あの取り調べの際、確かにノアはこの吉木が元捜査官であるという推理に行き着いていた。そして、そこに“誰か”の面影を見たのだ。
涼霜壮の連絡先を得て、チャットでここにくるよう伝えた。
つまり、ここにいるのは「涼霜壮」。
その瞬間、ノアは思い出した。当然、あの後写真で見せられている「涼霜壮」と彼女の顔は一致していない。
しかし、もう一人「涼霜壮」はいたはずだ。
「8年前だ……!俺が嘘で不意に生み出した、あの男……!」
吉木は微笑んで、ゆっくりとこちらへと歩み寄る。
「架殻木君、こうして本当の名で会うのは久しぶりだね……。この前リモートで再会したときも驚いたんだけど、今日はそれ以上だな。まさか私の正体を特定するなんて」
ノアは情報の整理に必死で、まともに反応することもせずその言葉を分析する。
アイダホ・タチを公安だとしたことによる過去改変の余波だ。吉木沙李奈は自分がかつて生み出したことのある「涼霜壮」だったが、自分に敵意を向けるものではないということ。
しかしこの「涼霜壮」とて、きりかと絶縁するのと同様で、関わった過去を消しさったはずだ。
それなのに、ここまで親しげに話してくるのは一体――と考えが過ったところで、一閃、顔の横から背後の壁まで何かが通過する。
それが何か、理解するのはそう難しくなかった。身を打つような破裂音に、吉木の背後で漂う硝煙。
「少し黙っていろ。お前が出しゃばっても、誰一人幸福にはならない」
夜中の外景でドアの向こうは闇が覆っている。外に漏れる部屋の光は、拳銃の銃口がなおもこちらを向いていることを先に気づかせて、その男には後から出現を許した。
それは、今度こそ見せられていた写真の通りの男だった。
「涼霜、壮!」
「いや、違う。今の世界の『涼霜壮』はこの“男”だよ。俺の力によって生い立ち、職業、性別の全てを弄り、その上で身分さえも偽りを騙らせた成れの果てといったところだ。今のお前に人を憐れむ余裕があるのなら、そうしてもらっても構わない」
名を否定しても、その不遜に胸を張った振る舞いは、それが誰であるのかを饒舌に物語っていた。
「今の俺の名前は、涼霜『劉』だ」




