#1-1 捨てられないもの(前)
自分で分けといてなんですが、前後編一気読み想定です。合わせて22000字あるので、しんどい人はnoteの方をどうぞ。(https://note.com/assic1010/n/n6ac4d39d03c5)大筋は変わらず2話分合わせて10000字ほどに短縮されてます。
割れた酒瓶、煙草の吸い殻、吐瀉物の跡。
夜中はネオンライトで注意を逸らすことができても、白昼の下では現実が浮き彫りになる。我々の知る“今”から漸進的に進歩を続けた彼らの社会においても、繁華街特有の倒錯した明暗に変わりはなかった。
「今度もデマじゃないでしょうね……」
眼前の光景に気圧されて、未良は立ち止まり、ぽつりと弱音を呟いた。
“般若街”。この街はある筋でそのように称されている。煩悩の波の中から真理を見通す智慧を指した“般若”が名に当てられているのは、「知識としての知恵が集中する」というその特性にもあるが、昨今の時代背景に通じているのも大きな要因で、その秀逸さを感じさせるところだ。
未良はスマートフォンを取り出して、「ABY」を起動する。当時代を象徴する世界最大のSNSだが、彼女が開いて睨み付けているのはタイムラインではなく、アカウントごとの個別のページ。世界を先導する最も有能な“情報屋”、「サク」のものだ。
その名を示す梵字のアイコンとプロフィール欄の「私は全てを見抜いている」の文言は、一見すると不審そのものだが、彼の発信にはそんな印象を軽く跳ね返す早さと正確性があった。
かつての報道を担っていたマスメディアは、ある事件を機に信用が地に落ち、現在はほぼ全てが失脚している。それ以降社会には劣悪な情報が入り乱れ、所謂「メディア・ハザード」時代の幕が上がった。そうした状況において、「サク」の発信する情報がどれだけの価値を持つかは言うまでもない。
情報は細かくNFTとして小単位から評価されるようになり、個人の信用を担保として情報を売買する“情報屋”という新たなビジネスが登場した。SNSを主戦場とする「サク」の場合は最早“預言者”として崇拝される域に達し、「ABY」内に設置された有料のファンクラブから莫大な収益を得ている。
そして未良の目論見の中で、「サク」に会うことはその第一歩に当たる。素性が非公開なので彼の居場所は眉唾物だが、その中のひとつがこの“般若街”だった。
意を決した未良は、スーツに身を纏った小柄の男が通りがかるのに目を付ける。
「あのお、ちょっと良いですか?」
猫撫で声で近付く未良。男の向けてくる目線が頭から足先までを滑る。幸か不幸か、強く食い付いたのをすぐに察知した。
「私、この街にあの『サク』さんがいるって聞いて来たんですけど、何か知ってたりしないかなあって……」
男は相槌こそ打っているが、未良と目線を合わせようとはしない。そのうち、一歩踏みよって未良の手首を指で摘み上げた。
「いいね」
「は?」
未良は思わず後退りするが、思いの外しっかりと手首を抑えられている。穏便な態度を崩さないように、強い抵抗は差し控えざるを得なかった。
「『サク』、か。答えても構わないけど、どんな情報にも対価は伴う。“般若街”に限らず、当たり前のことだよ」
「じゃあ、お金を払えばいいんですか?」
「いや、それはよしておくよ。だって君、今いくつ?」
「17ですけど」
「やっぱり。そんな若い子からお小遣いを巻き上げるわけにはいかないよ。そうだな――」
今度は手首を持ち替えて握ってきた男は、親指を未良の掌に、下から上へゆっくりとなぞり上げる。先ほどとは反対に顔も近付けて、こちらをまっすぐと見つめ始めた。
「捧げられるものでもあるなら、考えるけどね」
未良は握り拳を作って男の親指から逃れつつ、正面で目を血走らせていたその顔面からも体ごと離れる。それでも態度だけは変えずに、あくまで取り入るための返答を続けた。
「いや、私としては軽くというか、トイレの場所尋ねるくらいの感覚でお話ししたつもりだったんですけど」
「へえ、トイレがいいの?俺はホテルにしようと思ったんだけど」
「おいおい、会話できないタイプかコイツ……」
そんな声が思わず漏れたことを誤魔化そうと、未良は首を後方へと逸らす。するとその視線の先、こちらに向かって同年代の金髪の青年が通りがかるのを見つけた。
「あ!」
今度こそ無理矢理に男の手を引き剥がした未良は、そのまま青年の片腕を捕まえて、その横手に回った。青年は大きな反応こそ無かったが、引き攣った顔からは感じているであろう困惑を十分に読み取ることができた。
「申し訳ないんですけど、私こちらのカレに、実はモロモロ捧げちゃってまして?」
青年の方は、話さずとも見るからに無愛想な顔つきをしているが、存外に豊かな表情の動きをするので、流石に軟派男の方も訝しんでいる様子だった。
「ふうん。君、この子の恋人なの?」
青年は概ねのことを理解したようで、下卑た人間達に巻き込まれうんざりしていると言わんばかりの軽蔑の目線を二人へ向けた。未良は今一度腕を強く掴んで無言の圧力をかけるが、今度は全く動じる様子がない。
「いや。初対面だ」
「ああ、やっぱり」
あまりに平然とした態度で突き放す青年。先ほどの人間らしい反応から一転して冷淡ぶった反応をするので、未良は失望以上の苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「ちょっと!?」
小声で呼びかける未良には一切目もくれずに、青年は彼女の手を振り解く。
そして2人の間を歩き出したので、そのまま元の進行方向へ立ち去るのかと思われたが、途中――軟派男の至近距離で足を止める。青年は抑揚のない口調のまま、ゆったりと問いかけた。
「お前、名前は?」
「明石稔、だけど」
「そうか」
それだけ尋ねると、明石というらしい軟派男の肩を躱して、今度は本当に立ち去ろうとその場から離れていく。
「ま、待って!待ってください!」
青年は未良が大声で引き止めるのを耳にし、今度はゆっくりと歩速を落として立ち止まる。彼はこちらを振り返ったが、目線は未良でなく、明石の方へ向けられていた。
「あんたさ。わざわざこんなとこ来てるんだから、プロに相手してもらった方がいいぞ。そいつ、見たところ素人だし未成年だろ?ハイリスクローリターンじゃないか」
「それはこれから決まることだよ。交渉なしじゃリスクもリターンも無い」
「トラブってるようにしか見えないけどな。交渉なんて立派な物言いをしたいなら、見てくれだけでも街の治安に配慮してほしいね」
「治安?俺から言わせればこんな街、そんなもの悪くて当然だよ。どの店も“副業”で、安かろう悪かろうのサービスしか提供できない。“本業の仕入れ”のついでに小銭を稼いでるくらいにしか思っていないからな」
「ただの消費者が、わかった様な口を利くな。この街に来たのはあんたの方だろ」
「お前も同じだろう?貧乏学生風情が、どの立場で――」
「どの立場も何も、この街を拠点とする“情報屋”の一人だが」
“情報屋”。未良からしたら聞き逃せない言葉で、改めて青年の容姿を凝視させた。明石の言う通り、年齢はおそらく20歳前後の大学生に映る。高身長でかなりの痩せ型だが、よく見ると色白の肌、そして直毛の金髪はいずれも天然のものに思われる。顔立ちの濃さを見ても、彼が白人の血を有していることは間違いなさそうだ。
「お前が“情報屋”、だと……?」
「ああ。俺が正義感で言ってると思ったか?むしろその逆だ。自分の利益になるなら、俺はなんだってやるつもりだよ。なにせ、名前は控えさせてもらってるからな」
この青年がどれほどの信用を得ている“情報屋”なのかは定かではないが、彼の主張の恐ろしさについて、明石はもちろん、未良にも理解できていた。
“情報屋”の仕事は従来の報道機関よりずっと能動的で、攻撃的だ。彼らの信用の担保は、多くの場合流通させてきた真実そのもので、NFTとして商品化された情報と、そこへ記録されたソースが共に広められることで名を挙げる。
その上で、彼らは仕入れから販売まで個人やそれに準ずる少人数で行い、顧客も個人・団体を問わない。簡単に言えば、明石のような一般人が未良に対し買春行為を行った事実を“情報屋”が掴めば、それを出汁に明石本人、あるいは彼の勤めている企業へ口止め料を要求しにいくケースが考えられる。かつての社会ならば、せいぜいそれが通用するのは芸能界くらいで、個人がリークする情報の価値には限度があった。しかし、「メディア・ハザード」の今――根も葉もない劣悪な情報ならば以前よりずっと大量に転がっている一方で――情報は“情報屋”がひとつひとつ売り捌き、正確なものの流通量は非常に少ない。社会に透明性が失われた影響で、時代を追って洗練されてきたはずの企業倫理が形骸化し始めているという背景もあり、決定的なリークの標的になって“悪目立ち”することだけは避けたいというのが、この時代の人々の考え方なのだ。
明石の方が黙り込んでしまったので、二人は互いを睨み合う状況になっていた。そして痺れを切らしたのか、明石は踵を返して未良から離れていく。
「わかったわかった。そこまで上玉でもないし、お前に譲るよ」
街の中へと消えていく直前、青年に近づいたところでそんな言葉を吐き捨てたのは、未良の立っていた位置からもはっきりと聞こえていた。
――あのスケベ男、どこまでも人を虚仮にして!
未良は今すぐ苛立ちを発散したい気分だったが、青年の方もそのままどこかへ消えていきそうだったので、急いで彼の側へと駆け寄って声を掛ける。
「あの!助けてくださってありがとうございました!」
「お前みたいなガキが遊ぶ場所じゃない。今ので懲りたらさっさと帰ることだ」
またしても青年はそそくさと離れようとするので、未良はその手を掴んで引き留めた。
「ちょっといいですか!さっき、自分のこと情報屋だって言ってましたよね?」
「ああ」
「私、ここで調べなきゃいけないことがあって!お金なら払うんで、お話聞いてもらえませんか?」
青年はわずかに考えた素振りこそ見せたが、やはりこちらから背を向けて、一言呟いて街の中へと歩き出す。
「まず、道端で聞くのがルール違反だ」
「あ!待ってください!」
追いかける未良には見向きもせず、早歩きで繁華街のより深くへと入り込んでいく青年。
「私の立場で考えてみてくださいよ!女子高生が入るには躊躇するような怪しい店ばかりで、いざ“情報屋”へって言っても、流石にハードルが高いでしょ!?そんな中、偶然歳の近い野良“情報屋”さんのあなたを見つけたんですから!私、何があっても見逃す気ありませんよ!」
「誰が野良だ……」
未良の目的は「サク」だが、「サク」に会うのもまた、ある情報を得るためだ。他の“情報屋”でそれが手に入るのなら構わないし、それが叶わずとも「サク」がいると噂の“般若街”で活動する“情報屋”からなら「サク」に近づくことができるかもしれない。
また、この男が「サク」本人であると言う可能性も否定はできない。しかし、未良の印象としてはその奇跡を期待する部分は少なかった。これまでに複数箇所の当てを外していることによる諦めも起因しているのだろうが、何より「ABY」上の「サク」と彼とでは、若干人物像が異なるという点があった。
報道の内容や主張から読み取るに、「サク」は極端なまでに勧善懲悪を是とする気がある。現実の抑圧された自我をインターネット上で解放する人もいることは未良も知っているが、その場合でも倫理観までが変わるわけではない。彼が「サク」なら、未良に助けを求められた時点で「恋人だ」と口裏を合わせるはずだ。
とはいえ、あとで脅迫して利益を得ることをせず結果的に明石の買春を阻止したのだから、彼も100%の利己主義ではない。「サク」の方も、より多くの支持者を得て利益を得るために勧善懲悪の世界観で人々を煽動している側面はある。ただ、支持者の会員費が収入である「サク」の場合、それがビジネスになったのは発信を始めてからしばらく後のことだ。それを成し遂げるに足る熱意や執着といったものが、彼の言動からは今のところ感じられていない。
「おい」
未良は青年の後ろ姿を凝視していたあまり、呼びかけられて気づくのに少しの時間を要した。
「はい!って、あれ?」
2人はすでに繁華街の中心を離れていた。青年が足を止めたのは、アーケードの裏に位置する古びたビルだった。
「ほら、ちゃんと拠点くらいある。入るぞ」
「あれ、私逃げられてたんじゃ?」
「あんな人目につくところで商談ができるか」
「なるほど。じゃあ、お邪魔します……」
ビルの中は薄暗い。エレベーターに貼られた故障中の張り紙は、ビニールのコーティングが黄ばみ出していた。
青年は脇の鉄扉を開いて、さらに照度の低い非常階段を進んでいく。
「相手が本物の“情報屋”だろうと、今の時代道端からタダで事実が聞き出せる可能性は低い。“情報屋”を使おうとするんだからそのくらい弁えてると思ったんだがな」
青年はこちらからわざとらしく目を逸らして、上の階の方を見ている。
――イヤミな人。
場の雰囲気にもやられて、途端に陰鬱な気分へ陥る未良。おそらくこの青年は、どういった経緯で彼女が明石と揉めたかも察しがついている。その件にしても、結果的に助けてくれたとはいえ、強く呼びかけなかったら無視されていたかもしれない。
この人へ不用意に事情を明かすのはやめておこう――踊り場を折り返して目の前にした彼の背中に、彼女は誓った。
彼の部屋は三階の一室だった。広さが10坪程度なのはまだいいとして、おそらく青年が使用しているであろうデスクが入り口から隠されてすらいない。点けっぱなしになったパソコンも、こちらから画面の全体を見ることができた。そもそも客が来ることを想定していないのだ。おまけに、デスクの横には仮眠用のベッドが置かれていた。
未良は目を細める。
この男は信用できない。客のいない“情報屋”となると、より売り込みに力を入れているということで、他人をスキャンダルで揺するやり口が主ということ。彼女の目的である興信所のような依頼に応じることはできないだろう。だいいち、これでは“情報屋”なのかも怪しい。どちらにせよ問題なのは、彼が「自分にはわからないことを聞かれる」と確信していた上で、ここに未良を招き入れているかもしれないということだ。
呆然としていた未良に対し、青年が不満そうな顔で話しかけてきた。
「なんだよ」
「あっ。いや、なんか来るまでのボロい感じと比べたら思ったより明るいというか。なんか四方を暗幕が囲ってるようなイメージだったので?」
「何だそのイメージ。文化祭でやる占いの館じゃないんだぞ」
ひとまず誤魔化して、未良は先にパソコンのあるデスクにまで踏み込んでみる。青年の反応は、これも“情報屋”という割に薄い。ゆっくりと歩み寄ってくるのをよそに、未良は青年についても探りを入れてみようと話を続けた。
「あ、名前聞いていいですか?私は牙隈未良っていいます」
「架殻木ノア」
「ノアさんね……。やっぱりハーフなんですか?」
「ああ。母親がドイツ人だ」
「ちなみに、年齢は?結構若く見えるんですけど」
「19だよ」
「あ、19歳?じゃあノアくんって呼びますねー」
「いや、お前さっき女子高生って言ってたろ。『じゃあ』でなんでくん付けなんだよ」
「いいじゃないですか、同じ若者ってことで。でも19で“情報屋”って凄いですよね。“オモテの仕事”みたいなのもあるんですか?」
「いや、これでも大学通ってるからな。こっちはバイトみたいなものだ」
「へえ、実は私も高校行きながらちょっと芸能のお仕事してるんですよ!気が合いそうで嬉しいです!」
流石に警戒があるのか、ノアは仕事場を観察している未良を追い抜かして、デスクのオフィスチェアへ腰掛けた。
「で?そんなコンパみたいな話をしにきたんじゃないだろ」
「あ、はい……。でも、お金とかは払わなくてもいいんですか?」
未良はあえて無知のふりをして、財布を鞄から取り出して聞いてみる。これまでに巡った数件の「サク」拠点候補で何人かの“情報屋”と接触したが、「サク」の居場所について噂すら聞かないという場合は事前に断られている。信用の得られないやり口は“情報屋”としてのタブー行為だからだ。
「そんなに足元見られたいのか?内容によるだろ」
「そっか、そうですよね!」
未良は取り出しかけた財布をおどけた素振りで鞄の底へと押し付け、あからさまにしまって見せた。
一応、未良を騙してやろうという気がそれほどないようには見受けられる。ひとまず気の張りを落ち着かせた未良は、途端に低い声で続けた。
「ええと。私、『ABY』で有名な『サク』さんに頼みたい依頼があって……」
「“情報屋”に“情報屋”を探させようだなんてな」
ノアの腰掛けた椅子が軋む。
「アレに何の用があるんだ?」
「人探しです!超が付くほどのVIPで、多分そんな人のことが分かるのって『サク』さんくらいだろうって思って!」
未良は、鉄仮面だったノアの表情が一転して険しくなるのを見た。
「『サク』には危険な噂もある。不用意に近づかない方がいい」
「何か知ってるんですか!?どこにいるか分かりますか!?」
「悪いが何も教える気はない。その話題をすれば俺の身に関わる」
未良は息を呑んだ。ノアへの期待が薄かったこともあって、気が緩んでいたのだ。ただ、それは決してノアの言う「サク」の危険性を鵜呑みにして、それそのものを恐れたわけではない。「身に関わる」という部分が事実だったとして、明かすのにそれだけのリスクが伴う情報を、今話している架殻木ノアが確実に握っているという状況を前に緊張が走っているのだ。
未良、というよりは一般的な予想として、「サク」は複数人で構成された組織であるという見方がある。「サク」は“ポスト・メディア”とも称されるが、彼が普段の投稿で取り上げる情報は有料無料を問わず幅広いジャンル・規模に及ぶもので、膨大な情報網なくして実現できない“報道”とも呼べる代物だ。だとすれば、それらを調達する“記者”もまた、正体を明かさず各地に散らばっているということになる。その一人がノアだという可能性については、当然未良にも思い至るところだった。
未良はふと、パソコンの画面を見直した。「ABY」のアプリはインストールされている。「ABY」の普及率を考えれば、それだけでは何の確証も得られないが、この場所がノアにとって極めてプライベートな領域であることは分かる。アカウントやDMを確認できれば何かが分かるという予感があった。
未良は勢いよくデスクへと踏み込んだ。椅子に腰掛けていたノアは多少無理矢理に押しのけて、「ABY」を起動する。
しかし、それは「架殻木ノア」のアカウントで、それ以上でも以下でもなかった。DMにも目立った履歴はない。
「何のつもりだ」
「え、えっと……」
「まあ、お前の考えも大体の検討はつく。結論は得られたか」
未良は思わず眉を顰めた。
“ノアの言う通り”、こんなことをしても結論が得られるわけがない。ノアがもし未良の予想した類の人間だったとして、そんな人が初対面の未良にそこまでの隙を見せる筈もないからだ。
ノアの警戒度を引き上げてしまうことにはなったが、未良は折れずに作り笑顔で答える。
「いえ、ごめんなさい!そんなつもりはなかったんですけど、ちょっと見てもらいたいものがあってですね」
「見てもらいたいもの?」
「はい!私、やっぱり本命の依頼もノアくんにお願いしようかなって思って」
「ABY」は動画サイトの要領でも高く支持されているSNSで、資格を持つユーザーが投稿する動画は全世界から容易にアクセスできる。
未良が再生させたのは、資産家のディルク・デ・ヘンゲルによる日本向けのインタビュー式PVだ。
「――なるほど。目が見えないからこそ得られるものもあったということでしょうか」
PV内でインタビュアーの声を聞いていた男は、両目を隠していた黒いサングラスの縁に軽く触れている。
「ええ。色に溢れた視覚の世界を失って以来、物事の本質を判断する“眼”は一層養われたように思います。ビジネスとは常に取捨選択を迫られるものですが、今思うと、このハンディキャップこそが私を助けてくれたように感じます」
ディルクは流暢な日本語で語る。
「さて話は変わりますが、このPVは日本人向けに制作されています。ディルクさんは親日家としても有名ですが、日本のどこがお好きなのでしょうか?」
ディルクはわずかな時間差ののちに恥ずかしそうに笑って答える。
「私はやはり、アイドル文化ですかね!」
「なるほど、確かにディルクグループ傘下のひとつには芸能事務所があり、数々のジャパニーズ・アイドルが所属しています。噂によるとその始まりも、ディルクさんの鶴の一声だったと……」
「ええ。アイドルとは光を失った私の感じ取れる数少ない“輝き”です。しかしそれは期限付きで儚い、流星のようなもの。私はその輝きを世界中に、リアルタイムで届けたいという思いで――」
マウスを取っていたノアによって、動画はそこで止まった。未良はその顔を下から覗き込んだが、さほど大きな変化はない。しかしディスプレイの光に照らされた瞳孔は、心なしか大きくなっているような気がした。
「もういい、まさかディルク・デ・ヘンゲルとは」
ノアは苦笑いをしてみせて、こちらを見下ろしている。もちろん、ノアが一介の“情報屋”程度なら、近づくことなどできる筈もない大物だ。だからこそ、未良は「サク」を探すしかなかった。
「マスコミが死んだ今の時代では数少ない“著名人”の一人。芸能界も活躍の場は狭くなったが、確かにこういう奴らにあやかれば、まだ自分自身が有名になり信用のカーストを上げることはできる」
ノアはこちらを睨んでいるようだったが、未良はそれと目を合わせずに口を閉ざしていた。
「で、こいつの何が知りたいんだ」
「分かるんですか!?」
未良はノアの顔を再び見上げた。
「分かるなんて言ってない。確認だ」
「えっと、いつどこでならこの人に会えるか知りたくて」
「会える、だって?」
ノアは先ほどまでと比べると、大げさまでに驚いた様子だった。
「――悪いが、知らない。ストーカーでもあるまいし、普通居場所なんて逐一分からないだろ」
「そ、そんな!」
するとノアは未良に近づいてきて、掴まれた肩ごとデスクから引き離された。
「話は終わりだ。見送るよ」
「待ってください!そうだ、リークしますよ!ノアくんが『サク』にとっての重要人物かもしれないって!」
「確証もない憶測が売れると思うのか?おまえが今芸能でどれだけ有名かは知らないが、あらゆるニュースが眉唾の今、お前如きが流したただの噂が定着するわけもない」
ノアに無理矢理玄関まで連れられるが、足を止めてドアに手をかけた隙に、未良は両手で彼の服の袖を掴み、頭頂部を押し当てて引き止めた。
「お願いします!受けて、もらえませんか……?」
“ノアは、本当にディルクのことなど知らない”。それは、何となく未良にもわかっていた。しかし、本当に彼が「サク」に近い存在だとすれば、これ以上ディルクに近づくことは不可能だ。
未良からすれば、ディルクと会わずにその先の未来など考えられない。ディルクでなければいけない。だから、それを探す手段も「サク」でしかないのだ。彼本人が知らずとも、「サク」と接触ができるのなら、連絡をとって情報網を利用してもらうよう頼み込むしかない。
ノアにしがみつき、目も閉じて必死に頭を下げていると、瞼の表面から暖かいものが溢れていく感覚に気付く。目を開けると、視界は一面に張られた涙で揺らいでいた。
「見た目よりは強かで頭の回る奴だと思ったんだが。知らないって言っただろ、良心に訴えかけてどうにかなるものじゃない」
「わかってます!でも、私はこうするしかないから……!」
ノアの動きが、そこで止まる。
「本気で言ってるのか?『こうするしかない』って」
「はい」
未良は不思議に思って顔を上げる。ぼんやりとはしていたが、ノアは何を思案しているのか、明後日の方向を向いている後頭部だけが視界に映った。
「――なるほど。そうだろうな」
ノアは突然未良を引き剥がして、デスクへと引き返していく。
懇願が受け入れられて、ノアが動いてくれるのだろうか――そんな期待からすると、ノアの口からは斜め上の言葉が飛び出した。
「おい、お前パソコンのとこに財布落としてるぞ。俺を退けて勝手に『ABY』開いたときだろ」
「え?ああ、ごめんなさい」
未良が振り返ると、ノアは財布を手に取っていただけではなく、既にその中身にまで手をかけていた。
「よし、まだ現金は持ってるな。――おお、やっぱり。そういえばそうだ」
「ちょっと、勝手にやめてください!」
ノアは3枚の紙幣を抜いてこちらへ見せてきた。
「これが報酬でいいよ」
「……はい?」
未良は目を丸くした。
「運が良かったな、ディルクは今日本国内だ。夕方には会えそうだぞ?」
ノアと別れた未良は、ディルクが来るという場所へ電車で向かっていた。
都心の電車内が作る人の壁と相対して、席に座ってスマートフォンの画面を眺めていた。
「サク」は普段通りの定時投稿で、変化は見られない。未良がノアと接触していた時間は投稿の合間に当たるが、「サク」なら時系列のリスクにも予約投稿を用いて対処するだろう。
『本日通話アプリに大規模障害 回線が通っているように見える仕様に注意!』
『独占インタビュー ものまねニュースター・HENGE 新作ネタも披露』
これが、あれ以降に「サク」が発した情報だ。
――本当に、あの人が「サク」?
未良には、やはり釈然としない部分があった。いくら“プロファイリング”しても状況証拠に敵うものなどないと理解はしていたが、彼自身が言うように、「サク」はそこまで迂闊ではない気がする。未良を自らの拠点に招き入れるまでは善意だとしても、そこからの会話には隙が多すぎた。未良の追及に対し嘘のひとつもつかず、ひたすら煙に撒こうとする言動。とても自身の最大の秘密を隠す態度に思えない。
電車がカクンと揺れる。ハブ駅に着いて、かなりの乗客が入れ替わる。人の壁が少し崩れて、閉塞感が和らいだ気がした。
再び電車が発つところで、未良は「ABY」を閉じる。
未良にとって「サク」の正体など、本来はどうでも良かった。今はひたすらにノアの言ったことを信じていればいい。
手持ち無沙汰になって、未良は背後の車窓に首を傾ける。
太陽。暮れかかったその情景は、未良に4年前の病室の記憶を想起させた。
まだ姉の岼果が入院してまもなく、未良は中学校が終わるたびに彼女を訪れている頃だった。
「そんなに毎日来なくてもいいよ、未良。来る度にそうやって泣いてるんだもの、逆に普段の貴女を忘れちゃいそう」
「ごめんなさい……」
一度目を拭って顔を上げるものの、壊れた蛇口のようにまた涙を溢していた未良を見て、岼果は失笑する。その後で、少し寂しそうな顔を向けてきた。
「私のほうこそ、ごめんね」
「何が?お姉ちゃんが謝ることなんて何もないよ」
「芸能事務所、どこか受けるんじゃなかったの?」
「あ……」
咄嗟に岼果から目を逸らす。
未良が女優の夢を志すようになったきっかけは姉の牙隈岼果だ。高校生までアイドルとして絶大な人気を誇っていた彼女は卒業を機に女優へ転身し、そこでも高く評価されていた。未良にとって彼女はずっと憧れの対象だが、特に彼女の演技が好きだった。アイドルだった頃は火の燃えるような熱さを全身に受ける感覚があったが、女優になった彼女は、同じ火でも太陽のようで、どこか光の暖かさに似たものを感じ取れたのだ。具体的な演技力の問題ではない。本質として虚ろなはずである劇中の登場人物も、彼女の何気ない演技を通して、まさに“恒温的”な命として自然に受け入れることができた。
しかし、彼女はほんの数週間前にそれらを全て失った。交通事故で脊椎を損傷し、体の大部分に障害を負った。
「私に気を遣わないで?受けてきなよ」
「そんなんじゃないよ」
未良がわずかに顔を背けていたところで、頬に岼果の指が触れた。その指は少しひんやりとしていて、震えている。そこに宿った若干の力に恐る恐る身を任せて、未良は再び岼果と顔を合わせる。彼女の方は優しく笑みを浮かべていた。
「確かにね、私も最初はすごくショックだった。体のほとんどはもう動かないって言われて、当たり前だったはずのものすら失って。でもね、最近気づいたんだ」
頬に触れていた岼果の手は未良の輪郭をなぞって、未良の肩を掴んで止まった。
「私にはまだ、貴女の体があるから」
「私の……?」
「そう。貴女の心に私がいるなら、この体には私がいて、私の体でもあるんだって。だから未良の心が今のまま私を大切にしてくれて、やりたいことを自分の体でやってくれたなら、私もそれが幸せだから」
電車が停まり、またカクンと揺れる。ノアから伝えられた目的地の駅だった。未良は乗客をかき分けて、人混みから駅のホームへと抜け出す。
――そうだ、私の「やりたいこと」。
未良は岼果の言葉から、決意を再確認する。
電車が出て、車窓から見えた夕日が再び顔を見せた。