エクスカリバーに選ばれた侍がランスロットと化け物退治する話2
.1
青白い月に照らされた長屋の立ち並ぶ町の一角に、ひとりの男の人影があった。
音もなく、滑るように移動するそれは清流のなかに揺蕩う一匹の魚のようだった。
髷を結んだ頭の下にある目元は影になっていて、顔立ちの輪郭も光に溶けてぼんやりとしている。だが、口元だけはしっかりと真一文字に結ばれていたが、どこか柔らかな印象を受けた。
男の足取りはしっかりとしていて、ある場所を目指して進んでいた。
――会わなければ……彼に……。
誰に聞かせるわけでもなく、男は呟く。会わなければならないと。
やがて彼はぼろぼろの長屋が立ち並ぶ一角に、目的の扉を見つける。
立ち止まった男は、ゆらりと手をあげ、表面が擦り切れた木製の引き戸を叩いた。
――彼女を助けるために……。
――こんなところでじっとしていると、風邪を引いちまうぜ。
ある、江戸に長い長い大雨が降った日、お京が店先にちょこんと座っていた蛙を眺めていると、店から顔をちょこんと覗かせた夫の信太郎が番傘を掲げて言った。
お京は彼の声に振り向くと、勝気そうな、快活な笑みを浮かべた。
――信さん。大丈夫だよ。ちょっとこの子が心配で、見てただけ。
いうと信太郎は、自分も店から体を出して、不思議そうにお京の足元を覗き込んだ。
――蛙がなんだってんだい?
――ずっとここでじっとしてるから、もしかしたら誰かを待ってるのかなって。
笑って、「例えば?」と聞いてきた信太郎に、お京は少し恥ずかしそうに答えた。
――なにって……恋人とか?
彼女がそう言うと、信太郎は内から湧き出す思いをかみしめるように腕を組んでうんうん頷いてから、慈愛に満ちた目でお京を見て、それから蛙に再び視線を戻した。
――それを言われたら、追い出すわけにはいかねぇな。おいお客さん、好きなだけ泊って行けよ。
そしてさりげなくお京の肩を抱いて身を寄せる。柔らかな温かさを感じて、自然とお京は信太郎に寄り添った。
跳ねる水で着物の裾が濡れるのも気にせず、二人は身を寄せ合っていた。
胸にあふれる思いのままに、お京は彼の名を呼ぶ。
「信さん……」
だが、そこでいつも、お京の夢は途絶えるのだ。
鈍色の雲が流す涙の音を聞きながら、お京は薄明るい部屋の中で目を覚ます。起き上がると目じりから流れ落ちた涙を指で拭い、数分間ぼうっとしてから朝の支度を始める。
台所で顔を洗い、服を着替えて唇に紅を差す。それから朝餉を食べ、店を開けるための準備を始めた。
前々から漬けておいた大根、雨の中外を走る俸手振から買ったばかりのれんこんにごぼうと鰤などの色とりどりの食材たち。どれも新鮮なものばかりだ。
物憂げにため息をついていたお京は色鮮やかな食材たちをみて気持ちを切り替えると、白魚の様な指を唇に持っていき、いたずらでも考えるような表情になった。
てきぱきと朝の準備を終えた彼女が雨の中のれんをかけに店の扉に近づくと、雨音にまぎれて誰かが走る音が聞こえてきた。
別の棒手振かしらと、気にすることなく戸を開けようとしたとき、彼女が引き戸に手をかける前にそこが勢いよく開く。
お京は目の前に立っていた人物をみて、思わず目を剥いた。
「信さん!」
そこに、彼女の思い人が立っていたような気がしたのだ。が、彼女の言葉をきいて、見知らぬ男は首を傾げた。
「……? 人違いじゃないかい?」
それが、お京と正八の、最初の出会いだった。
この江戸においてお京が営む居酒屋『さくらや』は知る人ぞ知る隠れた名店と言えた。
手ごろな価格で提供される極上の料理が人気で、加えて店を切り盛りするお京に、太い客が付いていた。
お京は年齢は二七の、黒目がちな色っぽい瞳と、すっきりした鼻筋の美女で、どこか濡れたような雰囲気がある。いつも春の日差しのように微笑んでいて、ちょこんとした薄い唇から出る言葉も、客の心にしみわたる優しさを持っていた。
店内は入ってすぐの土間の近くに調理場があり、床几と子上りがあるだけの小さな居酒屋ではあるが、彼女が料理を準備し店を開けると、朝も早いというのに常連がぞろぞろと入ってくる。
お京は彼らを精いっぱいの笑顔で迎え入れた。早くも忙しくなり、ぱたぱたと動き回っていると、店先に黒い大きな影が差した。
入ってきた人物に、お京はからっと元気よく声をかけた。
「いらっしゃい」
「お京さん、おはよう。今日もきれいだね」
のれんをくぐって入ってきた恰幅の言い、上等な身なりをした男性に、お京はしずしずと頭を下げる。
「まあ、欣造さんったら。冗談がお上手なんですから」
「本当のことですよ。憂鬱な朝でも、あなたの顔をみたら元気が湧いてくる」
店の壁際に設けられた座敷に座る欣造は、江戸では結構な規模を誇る大店の店主だ。最近は気合を入れるために、ここで食事をしていると言ってはばからない。
彼にいつものをお願いしますと言われ、お京は背後のかまどを振り返った。そこには米を入れた小さな土鍋が置かれていて、もうそろそろ泡を吹きそうだ。お盆に浅漬けと、朝一番から煮込んでおいた鰤大根、豆腐とねぎの味噌汁を添える。
米が炊き上がったら、鍋をお盆に乗せ、欣造のもとへ持っていった。
彼は湯気の立ち上るつやつやのご飯を目にすると、肉に刻まれたような細い瞳をいっそう細くする。
「おお、これこれ。これがないと始まりませんなあ」
お京は彼の嬉しそうな表情を見て、粉砂糖みたいな淡い笑みを浮かべる。店に人が来てくれることが好きだが、何よりこうやって自分の料理を楽しみにしてくれることが一番うれしい。
しゃもじでご飯をかき混ぜ、お椀に乗せて差し出すと、自由になった手をそっと欣造がつかんだ。彼はやさし気な声色でお京に話しかける。
「お京さん、うちに来ませんか? 私は毎日あなたのご飯を食べたいんです」
さすがにそんなことを言われたら、こちらも困ってしまう。
「欣造さん……私には……」
だが、欣造は引き下がらなかった。
「あなたもあんなことがあったんだから、不安でしょう? 誰か守ってくれる人が必要だ」
どう答えたものかと眉根を寄せ頼りなく笑っていると、横から野次が飛んでくる。
「おうおう欣造の旦那、お京さんが困ってるじゃねえか」
「そうだそうだ。くだらねぇこと言ってねぇでさっさと手を放しやがれ」
同じように食事をしていた、ひいきにしてくれている大工職人のたくましい男たちからの文句に、欣造は慌てふためく。
「わ、私は本気で言ってるんだ。お前たちにとやかく言われる筋合いはない!」
彼が怯んだ隙に、お京はつかまれた腕をするりと引き抜いた。温度の残る手にもう片方の手を添えて、ぎこちなく笑う。
「い、いややわ欣造さん。変な冗談ばっかり……」
欣造は、ばつが悪そうに頭をかいた。
「……困ったときにはいつでも言ってくださいね。力になりますから」
お京は振り向かずにうつむいた。だが、影の差した表情をなんとか明るい色に染めて応えようとした時、
引き戸を動かす軽やかな音が店内に響き、つられて顔を向けたお京は、現れた人物を見て表情を明るくした。
「正八さん!」
のれんをくぐって現れたのは、黒の擦り切れた着物をまとった、どこか人懐っこそうな顔立ちの青年だった。
「邪魔するぜ」
無造作に伸ばした黒髪の向こうにある眠そうな瞳がお京をとらえ、まなざしが絡まった瞬間彼女の胸が少しだけ甘酸っぱくなる。
「いらっしゃい。今日は早いんですね」
新たな客の登場に安心感を覚えながら訊くと、彼は頭をばりばりと掻きながら店内の床几にこしかけた。
「最近仕事がなくて暇でねぇ。同居人に叩きだされちまって」
「あら、それは大変ですね」
息を吸うようにとんでもないことを口にする青年の姿がおかしくて、お京はくすくすと笑う。注文を聞くと、寒いから熱燗を頼むと彼は告げた。
彼は七日ほど前から、毎日のようにさくらやに通ってくれていた。常連は見ない顔の青年に怪訝なまなざしを向けていたが、いつの間にか、するりと人の輪に入ってしまっている。
正八を睨みつけていた欣造が、ぶすっとした表情で皮肉を口にする。
「朝から酒盛りとは、いい御身分ですねえ」
正八は、自嘲するように肩をすくめた。
「あんたも一緒にどうだい? 鰤大根、つまみにももってこいだろ?」
「遠慮しておきます。あたしはこれから仕事なので」
「残念」
正八はちゃらんぽらんという言葉を分解して絵を書いたら、きっとこんな姿をしているのだろうと誰もが思う様な人物だったが、不思議と彼のふるまいには不快感がなかった。
そしてお京はこの気まぐれな野良犬に似た青年と話す時間が嫌いではなかった。
湯煎した徳利を盆にのせて正八が座る長い床几に置くと、彼は嬉しそうにお猪口を持った。
お京は徳利を持ち上げ、持ち上げられた器に注ごうとする。
「お京さん、そんなろくでなしと関わるとろくなことになりませんよ」
不機嫌そうに欣造が言ったが、正八はそれにすら便乗し、だらしない口元を半月の形にする。
「そうそう。俺みたいなのに関わるとろくなことにならねぇぜ」
だが、お京はふるふると首を振った。
「大切なお客様ですもの。そんなことはできません」
そのままとくとくと酒を注ぐと、正八は嬉しそうにお猪口の中身を煽り、瞳を細めた。
「美人にお酌してもらえるなんて、早起きは三文の得だねえ」
彼の言葉が自分の胸のぽっかり空いた部分にすっかり嵌ったような気がして、お京は口元に手の甲を当ててうふふとほほ笑んだ。
それを見ていた欣造は不機嫌そうに鼻を鳴らしたあと、土鍋のご飯を思いきりかき込んだ。
.2
朝の客をさばききった後の誰もいなくなった店内で、お京は床几に座り一息ついていた。ぷっつりと人の流れが途切れた店内には、静寂が漂っている。
お京は少しの間だけ店を閉め、床几に腰かけて虚空に視線を漂わせた。
――あんなことがあったのだから……
欣造の言っていた言葉が頭の片隅にずっと残っている。彼の言葉を反芻するたびに、胸が締め付けられた。
だが糸の切れた凧のようにぼんやりとしていたお京の耳に、聞きなれた声が響いてくる。
「お京……お京……」
声を聴いたお京は弾けるように顔を音の方向に向け、急いで準備を始める。
小鍋に入れた白米に水を多めに入れ火にかけ、おかゆを作る。用意していた梅干しを添え、少し冷ましてから、自分たちが暮らしている店の二階に駆け足で向かう。
階段を上がって薄暗い廊下を進み、彼のいる部屋の前までくる。襖の前にしゃがみ込み、盆にのせた食事を置く。
お京はうつむきがちなまましばらく固まっていたが、意を決して控えめに襖をあけ、部屋の中に声をかけた。
「ごめんなさい信さん。お食事ですよね……」
すると、光の刺さない闇に満ちた和室の中から乾いた声が聞こえてきた。
「お京……そこにいるのか……」
「はい、信さん……お京はここにいます……」
すると声の主は、どこまでも落ちていく最中に発する断末魔のように暗い声色で言った。
「俺がいない間でも、大丈夫だったかい……」
無言で頷くと、彼は少し安堵したようだった。
「すまないね。私の愛しいお京……」
彼の声を聴くたびに、お京の表情に差す悲しみの色は増していく。
「食事はそこに置いておいてくれ……ちゃんと食べるよ……」
お京は、眉根を寄せ、唇をかみしめながら必死に明るい声を出した。
「絶対、よくなりますから……お京は大丈夫です……」
最後にもう一度、ありがとうと口にした信太郎の言葉を聞き届けてから、お京は襖を閉めて下に降りる。
削れるような気持ちを抱えたまま店に入ると、見慣れた後姿が目に入った。
だれ。と声をかけようとしたとき、正体に気付く。
「正八、さん……」
すると、声をかけられた本人は振り返り、後頭部を掻きながら頼りなく会釈をした。
「どうも、お京さん」
目じりに浮かんだ涙を彼から見えないように拭い、無理やり笑顔をつくる。
「ご、ごめんなさい。店を少しの間だけ閉めていたの」
「いや、こっちこそすまねえ。無理に入っちまった」
正八は悲し気な表情でお京をみていた。もてなすべきお客さんにそんな表情をさせていることが悲しくて、お京の心が沈む。
「待っていてください。すぐに何か作りますから……」
いそいそと動き出した若おかみをみて、正八が引き留めるように手を伸ばし声をかけた。
「いや、それよりも――」
振り返って首を傾げたお京は、彼のしぐさをみて目を見張る。
正八は首の後ろを片手でぼりぼりと掻きながら、おずおずと言葉を口にした。
「よかったらでいいんだが……」
彼は言葉を途中で区切り、しばらく宙に視線を漂わせてから言った。
「桜でも見に行かないかい?」
それを聞いた瞬間から、お京の胸に抗いがたい誘惑が生まれる。普通ならありえない誘い。いつもなら断っているところだが、気づけば彼女は頷いていた。
「す、少しなら……」
答えを聞いた正八は、首を傾けて恥ずかしそうに笑った。
――お前さんは桜が好きなんだねぇ。
頭上に咲く薄紅色の花を子供みたいな表情でみつめていたお京は、彼の言葉をきいて頬をぷぅっと膨らませた。
桜は白い日差しを花びらに透かして、淡い色の影を二人に投げかけている。
揺れる信太郎の肩に手のひらを当てて、少し押す。
「あなただって好きなくせに!」
いうと、彼は昔よりたくましくなった顎に角ばった指を当て、食いしばった口元からくつくつと笑い声を漏らす。
「それにしたって、あんまり昔と変わんねぇもんだからよ。つい笑っちまった」
お京と信太郎は幼馴染だった。幼いころから一緒に遊び、笑い、たくさんのことを経験してきた彼が言うのだから、きっと事実なのだろう。でも、変わっていないと言われたことが悔しくて、わざとお京は唇をとがらせた。
「もう、知りません」
彼から離れて一人で桜を見ようと足を動かしたその時、彼女の手のひらを信太郎の大きな手がつかむ。
おや、と思い振り返ると、お京の頭にもう片方の信太郎の手が伸びる。
驚いて身をすくませるが、彼の手はきれいに結われたお京の髪の毛にそっと触れ、何かをつまんだ。
信太郎が、お京の目の前にそれを差し出す。
「あ……」
「こいつも、お前のことが好きみてえだな」
目の前にあったのは、散った桜の花びらだった。みずみずしくも、風に揺れて散ってしまった命のかけら。
信太郎は花びらをそっとお京に渡すと、首の後ろをぼりぼりとかいた。
「昔と変わらず……ってことだよ」
言葉の途中で挟まれた沈黙の意味を読み取って、お京は微笑んだ。
店から出てしばらく歩くと、江戸における桜の名所とされる土手にたどり着く。二人は川沿いの道に咲き乱れる桜を眺めながら並んで歩いた。
お京は自分に合わせてゆっくり歩いてくれる正八に、柔らかなまなざしを向ける。
「ありがとうございます。気を使っていただいて……」
形のいい眉を下向きにしたお京に、あっけらかんと彼は言った。
「少し疲れてるんじゃないかい? もう少し休んでもいいと思うんだがねえ」
彼の言葉に一瞬ぽかんとしたあと、お京は首を控えめに振った。
「いいえ。あのお店はあの人との夢なんです。だから毎日開けていたくて」
「あの人って、旦那さんかい?」
お京は目を伏せ、頭を縦に動かす。
「ずっと、お店を持ちたいって二人で言ってたんです。お互いに料理の勉強をして、どんな時でも開けられるようにしようって」
幼いころから信太郎は料理の店を持ちたいと言っていた。おなか一杯食べることができたら、些細なことなんてどうでもよくなるから、みんなを幸せにするようなお店を開きたいと。お京もその夢が素晴らしいものだと思った。だから二人三脚、二人で夢に向かって走ってきた。だから……
「だから私は……」
言いかけて、隣にいる正八がとても真剣なまなざしでこちらを見ていることに気が付いて、お京ははっとした。沈んだ顔になっていたのをごまかすように笑顔を作り、顔の前で手をひらひらと振る。
「ご、ごめんなさい。せっかく桜を見に来たのに暗い話をしてしまって」
けれど、正八はやさし気な表情になってうんうん頷いた。
「いや、そんなことねえよ。大したもんだよあんたは。俺みてえな奴には想像も、やろうともおもえねえよ。そんな大それた夢」
腕を組み、言葉をかみしめるように顔を伏せてから、彼はしみじみと言った。
「粋な夢だねえ」
それをきいて、お京は正八の優しさに包まれたような気持ちになった。彼の言葉の裏には、何十年来の友人が話すときの様な、裏打ちされた優しみが存在していたからだ。
お京は、ずっと胸にくすぶっていた暖かな思いが、明確に燃え上がるのを感じ取る。
正八は桜並木の途中で立ち止まり、お京をまじまじとみつめた。彼にみつめられると、自分の内心を見透かされている気持ちになる。
お京は恐る恐る訊いてみた。
「あの、なにか――」
だが、言葉の途中で正八の手のひらがお京の頭上に伸びる。一瞬身をすくませたお京だったが、彼の手は自身の頭部に乗った何かをつまんだようだった。
正八の指先が、桜の花びらをとらえていた。
彼の言葉に、忘れかけていた過去が顔を覗かせる。呆然とした表情のお京の手のひらを取ると、正八は花びらをそこに置いた。
彼の行動を一拍遅れて認識したお京は、そっと握らされた手のひらを開いて、中にある薄紅色のかけらに悲しみの視線を投げかけると同時に、静かに呟いた。
「冷たい……」
正八の手のひらは、氷のように冷たかった。
一通り桜を見終わった二人は店に戻る。お京は会釈をして帰っていく正八を見送りながら、彼の病的なまでに冷たい体のことを考えていた。
もしかして彼は体の調子が悪いのではないか、病に侵されているのではないかという想像が、どうしても頭から離れなかった。
普段ならこんな空想は頭の片隅に追いやって、気にすることもなく作業に戻れるはずなのに、なぜか頭にこびりついて離れない。
たまらずお京は、戻ったばかりなのに店から出て、正八を探した。
体の調子が悪いなら、少しくらい店にいてくれたってかまわない。何ならお医者様を呼ぶくらいの気概だった。出て行ってからそれほど時間は経っていない。近くにいるはずだ。内心焦りながらさまよっていると、思いが天に通じたのか、店から少し離れたところで見慣れた着物姿が目に入った。
江戸を流れる水路にかけられた橋の上に、彼は立っていた。立ち姿がどこかふらついて見えるのは、気のせいだろうか?
体調が悪いのであれば、医者を呼ぶから店で休みませんか? と言おうと駆け出しかけた時、正八が橋の向こう側を見て、手を上げた。
つられて同じ方向を見ると、彼の視線の先には、世にも珍しい金色の髪をもつ、白皙の美青年が立っていた。背筋がぴんと伸びていて、浅葱色の着物を着ている。彼はしっかりとした足取りで正八に近づくと、腰に手を当てて眉間にしわを寄せた。なにやら叱っているようで、言われている正八はただひたすら両手を合わせ平謝りしている。
今朝、同居人に叩きだされちまったんだよと言っていたことを思い出す。二人の親し気な様子をみるに、もしかしたら金色の髪の彼がくだんの同居人なのかもしれない。
だったら、自分が改めて誘う必要もない。和やかに並んで歩く二人を見届けたお京は、胸元に手を当て数秒間目を伏せてから、来た道を戻る。
――そう、自分は必要ない。
彼は自分の助けを必要としていないのだと考えると、胸にきりりとした痛みが広がる。言葉にできない感情は蜘蛛の巣のように心臓に巣食い、血管を通って体をがんじがらめにする。
店に戻ったお京が痛みを訴える胸元を握りこんでいると、二階から夫の声が聞こえてくる。呼ばれたお京は久しぶりに彼の寝室に足を踏み入れた。襖をあける前に、控えめに声をかける。
「信さん、お京です。入ってもいいですか……?」
すると、乾いた声が返ってくる。
「ああ。こっちへおいで……」
黒い影に覆われた部屋の中へ、敷居をまたいでお京は踏み出す。
音もなく、襖が閉まった。
.3
それは雨の日だった。しとしとと涙を流す雨雲に覆われた空が、江戸の雑踏を天と地の間に閉じ込めていたころ……。
帰りが遅い信太郎を案じたお京は、傘を一組持って店の外に出た。酒が切れたので問屋に行ってくると言っていたが、いきなり雨が振ってきたし、少し帰りも遅いと感じたからだ。背中を通る悪寒に突き動かされるように、お京は息を切らして問屋への道を進んだ。
だが、もう少しで目的地に着くというところで、道を占拠する大きな人だかりに突き当たる。
なにがあるのだろう? 急いでいるのに……。道行くものとして当然の疑問を胸に近づいていくと、だんだん周りの声が鮮明に聞こえてきた。
――喧嘩を止めようとしたんだって?
――気の毒にねぇ……。
――やった奴は逃げてるのかい?
聞こえてくる不穏な言葉。お京はいつの間にか大股になり、傘を揺らして人だかりをかき分け、そして――
「どうして……」
お京は、夢の全容を把握することなく目を覚ます。がばっと起き上がると、勢いで目じりに溜まっていた涙がこぼれた。彼女は頬を走るそれを指で拭うと、あたりをきょろきょろと見回した。
自分の寝室で眠っていたようだが、どうにも記憶があいまいだ。肌に感じる温度と、外の日差しの色をみると、どうやらいつも通りの時間に起きてはいるらしい。
お京は大急ぎで朝の支度をし、店を開けた。不思議と体は気持ちとは裏腹に活力に満ちていて、やってきた常連は疑うことなくお京のもてなしに舌鼓を打った。
「いやあ、今日もお京さんの料理は最高ですねぇ」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると励みになります」
「特にこのねぎまぐろ煮、こんなにおいしいものは食べたことがない」
新鮮なまぐろを小さくぶつ切りにし、鍋の中に輪切りにしたねぎとともに入れ、だしや醤油で煮たものだ。しゃきしゃきとしたねぎの触感と、味がしみしみになったまぐろは、思わず白米をかき込みたくなる味わいを持っている。
小鉢に入ったねぎまぐろをちまちまやりつつ、それをおかずに子供みたいに口いっぱいにご飯をほおばる欣造に微笑みながら、お京は正八のことを考えていた。前日にみてしまった、変わった髪色の彼についてどうしても聞きたくて。
だが、考えてみて気づく。自分はこの店に来るお客について、詳しいことはほとんど何も知らないのだと。
ひそかに衝撃を受けながらも、子上りに座っている大工衆にお茶を注いでいると、ゆらりと入り口に影が差した。ざざざと音を立てて戸を開いたのは別の人物だった。謎の落胆を感じながら、お京は対応する。
気が付けば、お京はだれよりも正八の来店を心待ちにしていた。
「そりゃあんた、恋だね」
そのことを近所に住む薬問屋の女房である「まつ」に相談すると、さくらやの床几に座ってねぎまぐろをつついていた彼女はあっけらかんと言い放った。
お京は顔を赤らめる。
「何言ってるんですかまつさんったら……私には信さんが……」
「そうはいってもあんなことがあったんだから、もういいと思うんだけどねえ。いい加減切り替えなよ」
そんなこと、できるはずがない。夫を愛しているお京にとって、それはどんな罪よりもひどい裏切りだ。
でも……
「まさかお京さんがそんな若い子にぞっこんだなんてねぇ。どこが好きなんだい?」
そういうわけじゃ……と反論しようとしたが、お京は自分でも、なぜ正八に惹かれているのか躓いてしまう。
顎に指を当てて考えると、ほどなくして意外な結論にたどり着く。
「信さんに……似ている気がするの」
それを聞いたまつは、まぐろを食べる手を止め、真剣なまなざしでお京を見た。
「あんた……」
彼女の顔には、どこか哀れみがにじんでいた。
――この前隅田川の桜のあたりで、琵琶持ってるのをみたよ。もしかしたらいるかもしれない。
まつの言葉を信じて、お京は正八がいるであろう場所に行ってみることにした。以前彼とともに見た桜が咲いている川辺に向かうと、なんと本当に正八がいた。
彼は桜の根本に座り込んで、琵琶を弾き、聞いたことのない物語を歌っていた。
桜舞い散る中で音楽を奏でる正八の姿は驚くほど幻想的で、物珍しさから多くの人が彼の歌に耳を傾けていた。その姿を静かに眺めていると、お京の胸がつきん、と高鳴る。
それだけで、お京は自分が正八にどんな感情を抱いているかに気付いてしまった。
歌を歌い終わると、正八は顔をあげ、ほどなくしてお京の姿を認めた。胡坐の上に琵琶を乗せる格好のまま会釈してきた彼に、お京は同じように頭を下げる。
立ち上がって近づいてきた正八に、お京は恥じらいの混ざった尊敬のまなざしを向けた。
「琵琶を弾けるなんて……正八さんって凄いんですね」
「いや、ただの下手の横好きさ。本職と比べると子供の遊びみたいなもんだ」
肩をすくめる正八に、お京は尋ねた。
「さっきのお話は、何て名前なんですか? 鰤天って?」
彼が歌っていたのは、平家物語でも、お釈迦様のありがたいお話でもなかった。聞きなれない言葉がたくさん出てきて、興味をそそられた。
お京の興味津々な顔を見て、正八は左手の人差し指で頬を掻いてから言った。
「ありゃあ『アーサー王の伝説』だよ」
「あぁさぁ王……ですか?」
なんともあいまいな名前の王様だなと思い、顎に人差し指を当てて考えていると、正八がにまにましていることに気付く。表情から何を考えているのか読み取られたと思ったお京は、顔を赤らめてうつむいた。
「ご、ごめんなさい。馬鹿にしているわけではなくて……」
「いや、わかってるから。大体みんなそういう顔をするんだよなぁ。まあ、海の向こうの話だからそうなるのも当然だよ」
けらけら笑う正八に向かって、勢いよくお京は顔を上げた。
「正八さん、日ノ本から出たことがあるんですか?」
すると彼は、かみしめるようにゆっくり頷いた。
「昔のことさ。行って帰ってきた。それだけ」
彼の言葉を聞いて、お京はどこか腑に落ちたような気分になった。正八の纏う、どこか現実離れした雰囲気のわけを、理解できた気がしたから。
どきどきしながらお京が横顔を眺めていることに気づいた正八が首を傾げた。
「お京さん、何か用事があるんじゃないのかい?」
それを聞いて、お京ははっとなると同時に、どう取り繕ったものかと思考をめぐらした。あなたの顔を一目見たかったの、なんてことをいうわけにもいかない。冷や汗を垂らしながら必死になって考えていると、横に立っていた正八がゆらりとよろめいた。
道端にひざまずいた正八に、とっさにお京は寄り添う。
「正八さん!」
みると、いつの間にか彼の額には玉の様な汗が浮き出し、肌からは色味が抜けていた。お京は持っていた手拭いで彼の汗を拭きながら、大丈夫かと声をかける。
「正八さん! どこか悪いところでもあるんですか……!」
正八はお京に自分の手のひらを向けると、そっと首を振った。
「なんでもねぇよ。よくあることなんだ……ありがとよ……」
唖然とする彼女を置き去りにして立ち上がろうとするが、やはり途中でよろめく。青年のわきの下に自分の肩を滑り込ませたお京は、ぜえはあと息をする正八に、問答無用で告げる。
「駄目じゃないこんな体で外に出たら! お医者様にかからないと!」
だが正八は、医者と聞くと頑なに首を横に振った。
「医者だけは……やめてくれ……」
声色から本気で嫌がっていることが感じ取れた。無理に連れて行くと途中で無理して抜け出そうとするかもしれない。そう考えたお京は、焦りを隠さずに妥協案を口にする。
「なら、少しでいいからうちで休んでいってください。お医者様に行くよりは近いですし、空き部屋ならたくさんありますから」
そう言ってお京は、道行く通行人に頼んで駕籠を呼んできてもらった。
駕籠者に頼んで正八を自宅二階にまで運んでもらったお京は正八を自分の寝室の布団に横たえ、彼の額を濡らした手拭いで拭く。荒い息を吐く正八を、お京は切なげに見つめる。
「こんな体で動いてたなんて……無茶するんですから」
「はは、言われちまったなあ……」
ふざけて笑おうとするが、そうする体力すら奪われ始めているらしい。凍えたような吐息が聞こえてくるだけだった。お京は手拭いを濡らしなおし、絞ってからまた汗を拭いた。正八はぼんやりとした瞳でお京を見つめ、力なくつぶやく。
「すまねえなお京さん……俺のせいであんたの夢、途絶えちまった」
聞いてから一拍置いて、彼が何のことを言っているのか理解できた。自分がいつでもお店を開けておきたいと言っていたこと、それを自分のせいで途切れさせたことを、彼は悔やんでいるのだ。
お京は静かに首を振ると、相手を落ち着かせるように静かな口調で言った。
「そんなこと言わないでください。正八さんの健康のほうが大事です」
言い終えてから自分がとんでもないことを口にしたことに気が付いて、お京は席を外そうとした。だが、彼女の手に、かすかなぬくもりが引き留める。
視線をずらすと、正八の手が、お京のそれに重なっていた。
お京は、驚いた顔で正八をみる。
「離れねぇでくれ……俺のそばに……」
彼の言葉を聞いた瞬間、お京の喉がひきつる。何か大切なものが、体からにじみ出ようとしている。それを自覚するのが恐ろしくて、お京は反射的に手を振り払おうとした。
だが、正八はどこにそんな力を残していたのか、上半身を無理やり起こすと、お京を抱え込む。
抱きしめられてからしばらく彼女は胸の中でじたばたしていたが、やがて高鳴り始めた胸の鼓動に導かれるように、気が付けば彼の背中に自分から手を回していた。
「お京さん……俺ぁ、あんたのことが……」
「正八さん……」
ふたりは重なり合って、より一層強く抱きしめ合う。
熱を持ったふたりは、ゆっくりと体を離す。正八はしっかりとお京を見た。
「俺ぁここにいる……どこにも行ったりしない」
「わたし……ずっとあなたのことが……!」
そして、二人の唇が近づき、触れ合いかけたとき……ふと、お京の耳に声が聞こえてくる。
「いるのかい、お京――」
信太郎の声だった。
それを聞いた瞬間、お京は硬直してから弾けるように正八から体を放し、閉じられた襖の向こうにいる人影に振り向いた。
障子にぬうっと映り込んだ大きな人影は、向こうからこちらを覗き込むように背中を曲げ、ぐりんと首を下げていた。まるで首でも吊っているかのようだ。
声の主は障子越しに暗いまなざしでお京を射抜くと、枯れた喉から絞り出すように言葉を紡いだ。
「俺を裏切るのか……お京……」
信太郎の言葉に、胸が引き裂かれたように痛んだ。お京はあまりの衝撃にかぶっていた仮面すべてを投げ捨て、裡にに隠されていた、ずっと隠してきた幼い少女の顔をあらわにする。
目一杯、瞳に涙をため、消えていく人影を追いかけて部屋を飛び出し、夫の部屋に駆け込む。そして、上半身を起こした状態で布団に横たわっていた信太郎に、涙声で縋りつく。
「ごめんなさい……! ごめんなさい……! 貴方のことを裏切ろうとするなんて……お京は悪い子です……っ!」
涙を流しながら懺悔するお京の頭に、大きく骨ばった手のひらが添えられる。彼の手から伝わってくるぬくもりに、濡れた心が安らいだ。
「愛しているよ、お京――」
「私もです、信さん……」
いつの間にか、普段の優しさを取り戻していた信太郎の声を聴いて、意識が闇に沈みそうになる。だが、ぼんやりと体を包むまどろみに、すべてを投げ出そうとしていた時――お京の視界に、青白い輝きが浮かび上がった。
その光はお京の意識をひっかけて、急速に覚醒させ始める。危機感をあおるような、きらきらした青色。意識を取り戻したお京は、はっきりと晴れた視界の中、それを持つ彼に向かって、呆然と声をかけた。
「正八……さん……」
気づけば、いつの間にか敷居を越えて、正八が部屋の中に入ってきていた。
彼の瞳には、青と白のきらめきがまばらに散りばめられている。まるで万華鏡のようだ。
彼は先ほどまでの体調不良が嘘だったかのようにしっかりとした足取りで自分たち二人に対峙している。なんと声をかけていいか言いあぐねていると、彼は輝く瞳を伏せ、ぶつ切りに言葉を発した。
「お京さん、あんた誰としゃべってるんだい?」
奇妙なことを聞くものだ、と思ったが、お京は相手に対する申し訳なさから、その疑問をすぐに頭の隅に追いやる。
「何って……私の夫の信太郎さんです。私たちはずっと幼馴染で、結婚してずうっとこのお店をやってき――」
言いかけて、頭がずきん、と痛くなり顔をそむける。何が起こっているのだろう。体中を悪寒が走っている。何か悪いことが起きている。言葉を詰まらせたお京が前を向いたとき、さらにあり得ないことが起こっていた。
室内に、新たに二人の見知らぬ客が立っていたからだ。そのうちの一人は金に輝く髪の青年で、お京はあっと驚く。
浮世離れした美貌を持つ金髪の青年が、正八に向かって言った。
「正八、早く終わらせてしまったほうがいい。このままだと――」
「わかってるってランス、それよりお鈴ちゃん、こいつで確かなんだよな?」
正八がランスと呼ばれた青年の隣にいる、吊り気味の瞳をしたかわいらしい少女に尋ねると、少女は控えめにこくりと頷いた。
「うん。姿は変わってるけど、化鳥で間違いない」
その瞳は、まっすぐ自分の後ろにいる『彼』を見つめていた。
お京は、事態が飲み込めなくて焦った声を出す。
「ど、どう言うことなんですか? 貴方たちは誰? どうして私を――私の夫にそんなことを……」
だが、正八は焦る様子も見せず、ただ切なげな瞳でお京を見つめていた。その瞳の奥には、ぬぐい切れない悲しみがにじんでいて、それをみたお京の脳裏に、まつのまなざしが思い出された。
――あんなことがあったんだからさ……。
またもやズキンと頭が痛む。いやよ、思い出したくない。あんなこと……もういやなの、あんな思いをするのは!
頭を抱えて考えを振り払おうとするが、無意識で拒否しているかのように涙が流れた。
そんなお京に、悲しみをにじませた正八の一言がとどめを刺す。
「お京さん、あんたの後ろにいる『それ』は何だ……?」
否定するために後ろを向いた瞬間、お京は目を剥いて『それ』を視認し、すべてを思い出す。
――ああ、そうだ。
彼女の視線の先には、見上げるほどの大きさの、どぶの塊のような化け物が鎮座していた。
――どうして忘れていたんだろう、信太郎は、信さんは……あの夜死んでしまったのに……。
.4
信太郎は、あっけなくお京の前から永遠に居なくなってしまった。町人の喧嘩を止めようとした結果、殺されてしまったのだ。
傘を持って町を走ったあの日――雨の中、泥にまみれて血を流しながら横たわっていた彼の姿が浮かび上がる。全身びしょ濡れで、地に這うような格好で息絶えていた信太郎の姿は、十数分前まで生きていた夫とは同一人物だとはとても思えなかった。
誰よりも周りの幸せを考えていたあの人が何故――思いは尽きず、やってきた同心に引きはがされるまで亡骸に縋りつき、咽び泣いた。
もうあの人の笑顔を見ることも、声を聞くことも、ぬくもりを感じることもできない。お京は世界にたった一人、投げ出された気分だった。
何日も店を閉め、ただひたすらに泣きはらした後は、心配する常連たちに向かって表面的には悲しみを装いつつも、その実魂を失ったかのような空っぽの心で葬儀をこなした。そしてすべてを終えた後、一人店に佇んでいたお京は、気が付けば自分の喉元に包丁を突き付けていた。
あの人が毎日丁寧に手入れしていた包丁の刃に映る、鬼気迫る自分の表情……それに気がついたとき、反射的にお京は吐き気を催し蹲る。
あの人が愛してくれた昔の自分とはあまりにもかけ離れた今の姿に、お京は目じりに涙をにじませる。この行動が愛などではなく、身勝手だということはお京が一番よくわかっていた。けれども、
「ひとりでなんて、無理よ……」
子供の様な口調で、お京は言葉を絞り出す。
彼女はわかっていた。自分は信太郎がいなければ、操り手のいない凧と同じだということに。風に流されて、どこまでも飛んでいってしまう人間なのだということに。
彼女の命の糸を握っていたのは、まぎれもなく信太郎だったのだ。
だが、お京が信太郎への思いと、自身の感情の板挟みになっているときに、それは聞こえてきた。
「お京……」
彼女の耳に、聞き間違えようのないあの人の声が聞こえてくる。お京はがばっと起き上がり、声のする方向に顔を向けた。
「……! 信太郎さん……っ!?」
呼び声に応えるように、二階に続く階段から声がかかってくる。
「お京……こっちへおいで……」
愛する者の声を聴いて、お京はふらふらと声のするほうへ近寄っていく。おぼつかない足取りで階段を上がり、ただひたすらに彼を求めて歩く。
誰も使っていない、空き部屋の前にお京は立ち止まる。そこから、信太郎の声がする。
「信さん……いるの……?」
音もなく、ひとりでに襖が開き、お京は目の前に満ちる闇に、そこにたたずむ妖に向かって、倒れ込むように踏み出した。
すべてを思い出したお京は、静かに涙を流しながら、自分を飲み込もうと迫る闇を見上げた。
これは罰なのだと思った。死者から目を背けていた罰。生きることも死ぬことも、すべてを投げ出そうとしていた自分に与えられた、たった一つの償い。
お京は飲み込まれる寸前、正八のほうを振り返り、唇の動きだけで言葉を紡いだ。
――ごめんなさい、正八さん。
.5
お京を飲み込んだ化鳥は、さらに一回り体の大きさを上げ、こちらを取り込もうとうねうねした触手を伸ばしてくる。
苦々しい視線を化鳥に向けていた正八の背中に、ランスロットの声がかかる。
「正八! このままではお京さんが!」
「わかってる!」
言いながら、意識を目の前に戻す。餌である人間の情念を直接取り込めるようになった鳥のあやかしは、原型をとどめないほど肥え太りながら、お京の声で話し始める。
――どうして居なくなってしまったの……。
――なんで喧嘩程度で、あの人が死ななければならなかったの……?
――あなたがいない世界なんて、私は……。
どれも痛々しいまでの、お京の本音だった。ある日突然愛するものと引き裂かれる痛み、彼女の胸の奥に押しとどめられていた澱のような感情を、化鳥が掬い取って言語化しているのだ。
正八は人ならざる世界を見る浄の瞳で、彼女の言葉一つ一つに込められた思いを見つめる。同時に、彼女がどこにいるのかも。
目の前の彼女を、こんな風になる前に助けられたらどれだけよかったことか。でも、できないことを悔やんでも仕方がない。正八は眉間にしわを寄せてから、一歩化鳥に向けて近づき、そして言った。
「わかってるぜ、まだ食い足りねぇんだろ?」
正八の言葉に一瞬化鳥が動きを止め、次に触手で正八を取り囲んだ。捕食体制を整えた化鳥に向かって密かにほくそ笑んでから、正八は真剣な表情になって叫んだ。
「なら、俺を喰らえ!」
言った瞬間、世界が闇に包まれる。やがて肌を撫でるぬらぬらとした触手の感覚が無くなると、閉じた瞼の裏側が肌色に光る。
薄く目を開けた正八は、いつの間にか江戸の街角に立っていた。
目の前には、しゃがみ込んだお京と、彼女の前にうつぶせで倒れ込んでいる信太郎の亡骸があった。
正八が一歩踏み出すと、振り向くこともせずにお京が呟く。
「私、ずっと忘れていたんです。あの人が死んだことを」
彼女の声は頑なな背中とは対照的に震えていて、まるで今にもちぎれてしまいそうな糸に似ていた。
亡骸からじわりと広がり続ける血液が、お京の足元に流れていく。彼女はそれを指先ですくうと、ゆっくりともう片方の手を添えて、胸元に抱いた。
「正八さんごめんなさい。貴方は私のことを気遣ってくれたのに、私は……」
寂し気に震える背中に向かって、気付くかわからないが正八は肩をすくめた。
「しょうがねえさ。いきなりだったんだもんな。そりゃあ藁にもすがりたくなるよ」
からっとした態度に、お京の背中が震えはじめ、言葉尻がかすかに濡れる。
「どうして来たの……? 私は――」
「このまま死ぬつもりだって? 魂を差し出して」
お京が唇をかみしめたのが分かった。必死に泣くのを堪え続ける彼女に、正八は首を振った。
「まだ、やり直せる。一緒に帰ろう、お京さん」
彼のどこまでも続く優しい声色に耐えかねたお京は、がばっと立ち上がりながら振り向き、言葉をまくしたてようとした。
「そんなこと――っ!?」
だが途中で彼女は絶句し、目じりを裂かんばかりに瞼を開く。
彼女は、信じられないものを見る表情になりながら、正八の隣に立つ人物をみつめた。
なぜなら正八の隣には、
「久しぶりだね。お京」
亡くなったはずの、信太郎が立っていたのだから。
ありえない出来事が、目の前で起こっていた。背後にある信太郎の死体と、目の前に立つ信太郎を見比べながら、お京は混乱する。
「これって……あの……そんな……!」
すると、正八の隣に立つ信太郎が困ったように笑い、首の後ろをぼりぼりと掻いた。見慣れた彼の癖だった。ちょんまげ頭に人のよさそうな下がり眉と瞳。角ばった鼻筋と顎の線。柔和な口元、見間違えようがない、信太郎だった。
「どうして……」
驚愕の表情を浮かべるお京に、信太郎は近づいていく。彼は申し訳なさそうに眉を下げながら言った。
「すまねえなお京、俺のせいで、こんな思いをさせちまって」
状況が飲み込めず目を白黒させている彼女に、信太郎は言葉を付け足した。
「正八さんに頼んで、ここまで連れてきてもらったのさ」
後ろを振り向いて頷き合う二人をみてから、お京は正八に尋ねた。
「本当なんですか? 正八さん――!」
彼は、かみしめるようにゆっくり頷く。
「ああ。正真正銘、本物さ。あんな偽物なんかじゃなく」
聞き終えると、改めてお京は目の前にいる信太郎を見つめる。何度も見た笑顔、ぬくもり、声――かけがえのない記憶が目の前をよぎり、自然と瞳に涙があふれ始める。
それをみた信太郎は、ゆっくりとお京を抱きしめ、胸に頭を押し当てた。
途端、泣き出し始めるお京の頭を、信太郎はあやすように撫でる。
「信さん……! 信さん……っ!」
「ああ、お京、ごめんなあ……一人にして……」
お京は、信太郎の冷たい胸元を握りしめ、暖かな涙をこぼす。
「私……あなたがいなくなったこと、認めたくなくて……わたし……っ!」
ごめんなさい、ごめんなさいと泣きじゃくるお京を受け止める信太郎も、表情をゆがめて愛するものを濡らすことのない涙を流す。
お互いを支えながら、折り重なって地に崩れ抱きしめ合う二人。お京はゆっくりと頭を胸から離し、いまだ泣きそうなままで信太郎に尋ねた。
「でも、どうして信さんがここに……?」
すると彼は、後ろにいる正八に振り返ったあと、視線をこちらに戻す。
「それはな……」
「女房があやかしに取り憑かれたぁ?」
深夜、突如として長屋の扉を叩いた幽霊の話を聞いた正八とランスロットは、顔を見合わせた。
江戸の町で居酒屋を営んでいた信太郎の妻、お京が何やらあやかしに憑依され、信太郎が店に近づけなくなったのだという。喧嘩を仲裁しようとして誤って殺されてしまって以来、密かに妻を見守っていたがにっちもさっちもいかなくなったので、幽霊仲間に聞いてここに駆け込んできたようだ。
座敷にきちんと正座し、理路整然と話す幽霊の話を聞いた正八は、胡坐をかいた状態で腕を組み、うんうん頷いた。
「そりゃあ大変だな」
隣で話を聞いていたランスロットは首をかしげる。
「だが、そんな厄介なあやかしがいるのなら清明殿が気付くのでは……?」
信太郎はそれを聞いて、しょんぼりと肩を落とす。
「店全体が膜みたいな何かに覆われていて、見ただけでは分からないんです。ただ、近づこうとするとあやかしの気配に圧されて……」
それをきいて、今度こそ二人は顔を見合わせた。
「店をやってるんだろ? 客はどうなんだい? 何か変わったところは?」
信太郎は首をふるふると横に振った。
「それは大丈夫なんです。でも、日に日にお京とあやかしのつながりが強くなっているのが分かって……」
彼女がどんなあやかしと関わっているのか、何をされているのか、全くわからない。悔しそうに歯を食いしばる信太郎を見て、正八は顎に手を当てて考え込んだ。
「幽霊のままだと、近づけねえのか」
「せめて私がまだ生きていれば、絶対に防げたことなんですが……あいにくこの通りでして。情けない限りです」
だが、正八は信太郎の言葉になにかひらめいたようで、指をぱちんと鳴らす。
ランスロットが不思議そうに首を傾げた。
「正八?」
「要は、体があったらいいんだろ?」
言うなり彼はずいと体を信太郎に近づけ、相手の顔を覗き込んだ。青年のきらきら輝く蛋白石のような瞳を間近で見て、信太郎がたじろぐ。
正八はまっすぐ相手を見据えたまま、信太郎を指さして言った。
「あんた、俺の体を使いな」
信太郎の話を聞いたお京は、びっくりして正八をみた。彼は恥ずかしそうに顔を背け、明後日の方向を向く。
まさか初めて会った時に感じた信太郎の気配の正体は――
言わずともわかったのか、信太郎が視界の端で頷いて言う。
「ああ、あの時は俺が正八さんの中にいたんだ」
彼は正八の中でお京をみつめ、時に正八にささやいたりして、お京の魂を現世に繋ぎとめようとしていたのだ。自分の慕情のわけを理解したお京は、複雑な気持ちで二人に交互に視線を向けた。それをみた信太郎が、申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「本当にすまねえ。でもそうしねえとお前さんを永遠に失っちまうところだった。だから……」
体を少し離して、頭を下げ平謝りする信太郎に、お京は精いっぱいの強がりを――涙を指先で拭ってから泣き笑いの表情を浮かべて言った。
「もう、信さんったら……いつもいつも、とんでもないことをするんですから」
初めて夢を語られた時もそうだった。貧しい農民だった自分たちが店を持てるわけがないと思っていたが、彼は夢をかなえた。そして今、まず実行できない破天荒な方法で、ふたりはお京の心を現実に引き戻したのだ。
お京の瞳は、もう過去を見てはいなかった。愛する者の導きを経て、視線は目の前に注がれている。
彼女がもう闇にとらわれていないことを悟った信太郎は、お互いを納得させるように頷く。
「お前さんがこの空の下にいる限り、俺はいつでもお前さんをみているよ。大丈夫、お京、お前さんは一人で立って生きていける。だって――」
俺にはもったいねえくらいの、いい嫁さんなんだから。
会話が結ばれると、再び二人は抱きしめ合った。その様子を嬉しそうに見届けた正八の胸元から、和紙で作られた人型がひょっこり顔を覗かせる。
人型は正八の肩に立つと、聞きなれた声で話しかけてきた。
「正八殿、そちらはどうなりましたか?」
声の主は清明だった。多忙な中、式神を飛ばして手助けしてくれていたのだ。正八はにんまり笑い、それに応える。
「大丈夫だ。つながりはほとんど切れてる」
「なら……」
正八は頷き、神妙な面持ちで信太郎とお京に近づいた。
「信太郎さん、俺の中に。お京さん、今から結界を張るから俺のそばから離れるな」
足音を聞いてはっと顔を上げた二人は、お互いを見て頷いた。名残惜しそうに離れてから信太郎は人魂になり、正八の中に入る。お京が正八にぴったりと寄り添うと、正八は彼女を見て頷き、肩から降りて地に立った式神に向かって呼びかける。
「ランス!」
その声は、外側にいる白皙の騎士に届いていた。
.6
肩にのせていた式神から聞こえる声を聴いて、ランスロットはきっとした目つきで前を見据えた。
隣にいたお鈴を手で制し後ろに下がらせると、彼は腰に差した刀の鯉口を斬る。鞘から刀を引き抜くと、胸元から一枚のお札を取り出し、それで刀身をなぞる。なぞられた刀身から炎が上がり、刀全体を包み込む。
炎が晴れたあと、彼の手の中には白銀の刀身をもつ片手剣が握られていた。ちょうど、正八のもつエクスカリバーに酷似した形を持つ剣だった。
「お鈴さん、危ないですから下がっていてください」
少女はこくりと頷いて、部屋の敷居のあたりまで下がる。それを見届けたランスロットは、力の源を失いかけて苦し気にうごめいている目の前のあやかしに向かって、ためらいなく踏み出す。
危機感を覚えたらしい化鳥が、彼を貫こうと幾筋も触手を走らせる。だが美麗の騎士は襲い来る脅威を軽々と避け、あまつさえ背後の少女を守るために触手を切り裂いて見せた。
曲芸の様な動きで化鳥の前まで来たランスロットは、白光を纏った白銀の剣を容赦なくあやかしに突き立てた。
「アロンダイト!」
騎士が叫ぶと、柄のあたりまで深々と突き刺した刀身が、内側でまばゆく輝き始める。光は化鳥の体内を満たし、負の感情で肥え太った鳥は、やがて急速にぶくぶくと膨らみ始め、最終的に光を蓄え続けることができずにはじけ飛んだ。
そして、一人の女を惑わし続けたあやかしがいた場所に、一組の男女が現れる。
ランスロットは彼らを見て、心底安心した口調で言った。
「大丈夫か、正八」
お京に覆いかぶさるようにして守っていた青年は、ゆっくりと顔を上げた。
「相変わらず刺激が強いぜ。お前さんの剣は」
まばゆい光に包まれたお京は、自分の名を呼ぶ声を聴いてゆっくりと瞳を開く。目の前には、正八がいた。
「……正八さん」
「気が付いたか。どこか痛いところはあるか?」
お京が首を振って立ち上がると、彼女の耳に小鳥のさえずりが聞こえてくる。音のするほうに視線をやると、部屋の天井をくるくると、一匹の黄色い小鳥が飛び回っていた。
「あれは――」
「あれが化鳥の、本当の姿」
敷居の辺りにいた、お鈴と呼ばれていた少女が、こちらまで近づいてきて言った。彼女がゆっくりと左手の甲を頭上に掲げると、鳥のあやかしはかわいらしい羽音を響かせながらそこに停まる。
少女は、右手の人差し指で化鳥と戯れながら続けた。
「この子は亡くなった人のまなざしや、声を感じさせることができる」
それを聞いて、お京は自分があそこまで心捕らわれた理由に合点がいく。だが、驚いたまなざしで化鳥を見ていたお京に少女はちらりと視線をやってから、悲しげに瞳を伏せた。
「この子は、私の所にいた子なの。ごめんなさい、あなたにとてもつらい思いをさせてしまって……」
彼女の罪悪感に触れた瞬間、お京は反射的に口を開いていた。
「いいえ、もしその子がひどいことをしていたのなら、それは私のせいよ。私が、信さんのことを乗り越えられなかったから……」
暗い表情で沈み合うふたりの間に、へらへらと正八が挟まった。
「ま、まあまあお二人さん、そんな落ち込まずに! お京さんに取り憑いてた化鳥は奇麗になったし、お鈴ちゃんの仲間も戻ってきたし、それに――」
言葉を区切ると、突如として彼の体から何か白い煙のようなものが立ち上る。それは空中でとどまり、やがて一陣の風となってお京の耳元を通り過ぎて行った。
そよ風のような感触を肌に覚えた瞬間、お京の耳に声が聞こえてくる。
――ありがとう。お京、思っていてくれて……。
信太郎の声に振り向いたお京は、窓の向こうに消えていく気配を感じ取って、背後の虫小窓に駆け寄る。
格子の隙間から見えた空の色に、お京は信太郎の笑顔を見た。
.7
すべてが終わった後、ランスロットはお京に向かって申し訳なさそうに頭を掻く正八をみていた。彼は気まずそうな口調でお京に謝罪する。
「すまねえな。いくら目的があったとは言え、あんたをだますようなことをしちまって」
それに、お京は穏やかな表情で首を振る。
「いいえ、お礼を言っても言い足りないくらいです。あなたのおかげで、私は……」
切なげなまなざしを胸元に当てた手に落とす彼女は、気を取り直し顔を上げた。
「あの、いつでもいらっしゃってください。お代はいりませんから、あの人と私の料理、食べてほしいんです」
それを聞いた正八は、安心したように肩の力を抜く。
「もう、大丈夫だな」
お京は、飛び切りの笑顔を正八に向けて言った。
「はい……! 私は一人じゃないって、やっと気づけましたから……!」
その場を後にする正八たちを、お京は姿が見えなくなるまで手を振って見送り続けていた。
彼女の表情に、もう陰りはなかった。
満足げに頭の後ろで腕を組み、るんるんと歩く正八に、ランスロットは話しかける。
「本当に、一時はどうなるかと思ったぞ。まさか自分の体に死者の魂を入れるなんて」
一つの体に二つの魂、それも片方は死者。相反するものを取り込めば、器がどうなるかなんて考えなくてもわかる。
不機嫌そうに咎めるランスロットに、正八は気楽に言い返した。
「でも、一番効いただろ?」
「だが……」
まあまあと、振り向いてなだめるように手をひらひらさせる正八をみて、しょうがないといったん矛先を納める。実際、それ以外にいい方法を思いつけなかったのも事実だ。
口をもごもごさせるランスロットとは対照的に、正八は後ろにちょこんとついてきているお鈴に声をかける。
「お鈴ちゃん、化鳥の様子は?」
すると彼女は、包むように閉じた両手を少し開けて、中を覗き込む。
「今は少し眠ってるみたい。――大丈夫、もう邪気は感じない」
「そりゃあよかった」
ランスロットは、腕を組んで顎に人差し指を当てた。
「だが、本来おとなしいはずのあやかしがどうしてあそこまで狂暴化したんだ? 正八、過去に何か似たような事件はあったか?」
言うと彼は、ゆっくりと首を横に振る。
「いいや、俺も今回初めてだよ。とりあえずさっさと清明に会って、色々調べてもらうか……」
「そうだな……」
正八は、ため込んだ疲れを放出するように伸びをする。と次の瞬間、腹の虫をぐううと鳴らした。
「……戻って飯食わしてもらうか」
「馬鹿者、報告と化鳥の保護が先だ」
青空の下に、青年の悲壮な声がこだました。