46.初めての歌唱
困ったことになった…
私の歌なんて、皆様に聴いて頂くような価値はないのに…
思ってもみなかった流れに困惑し、しかもこんなに大勢の人の前で歌うことへの羞恥心が、リリーをさらに萎縮させた。
百合子だった頃も、体操の舞台は何度も経験したけれど、歌を人前で歌ったことはない。
うつむいて口を結ぶ。
周りの人は流れを見守る構えだ。
その時、
「リリーお嬢様、無理はされなくて宜しいのよ。
今日は貴女に楽しんで欲しくてお呼びしたのだから」
マルグリット先生が優しく微笑みながらそっと抱き寄せてくれた。
その手の温かさを肩にほわゎと感じたら、身体の強張りがほどけ、なんだか気持ちが前向きになってきた。
そうだわ、リノン様、シエル様の演奏はとても素敵だった、ローズ様のバイオリンも真剣さには心を打たれたわ。
お茶もお菓子も美味しかったし、私は先生と皆様にお茶会を楽しませて貰ったんだわ。
では、私もちゃんとお返ししなくては。
上手に歌えるか分からないけれど、精一杯頑張りましょう!
リリーはふっ と顔を上げて(腹を括って)テラスに進み、参加者の皆様に向き直った。
みんなジャガイモ、カボチャ、トマトよ…!
緊張しないおまじないをする。
神様どうか、声が震えませんように…
胸の前に指を組み、目を閉じて祈った。
深呼吸をひとつ、おおきくして、お腹の底に力を溜める。
そして、リリーの声が庭園に響いた。
マルグリット先生が気に入ってくれていた、アメイジングな歌だ。
"道を見失い、迷子になっていた私は、今は道を見つけた”
"前は見えなかったものが、今は見える”
神様への感謝の歌だが、最近リリーと融和したばかりの百合子に、よく合った歌詞だった。
指を組んで歌う姿は、神々しくさえあり、本物の天使様のようだ。
皆、まばたきも忘れてリリーの歌う様子を見つめている。
子供特有の、幼さの残る高く甘い声が、大人の独唱とはまた違って優しく響き、心に溶け込むようだった。
優しい音色なのに声は細くなく、よく通り、遠くの人までもちゃんと届いていた。
リリーは最後の1小節まで心を込め、歌い終わった。
すぐに拍手は起こらず、間があって、割れんばかりの拍手を貰った。
「さすがリリーお嬢様!!」
マルグリット伯爵夫人がまたしても泣きながら駆け寄ってきた。
「おっと」
リリーは極度の緊張と酸欠でふらつき、倒れかけた所で、シエル様が支えてくれた。
「あ… ありがとうございます」
「いや。とても素晴らしい歌声だった。聴いたことのない歌だったけど、賛美歌かい?」
「はい。そうだと思います…」
リリーは背中をシエル様に支えてもらって身体を起こした。
リリーがしっかり立ったことを確認すると、シエル様は
「リリー嬢、今日はお会いできて良かった。またお会いできることを願っているよ」
とリリーの手をとり、甲に唇を寄せた。
本当に触れそうな距離で止めてリリーを見上げ、一瞬ふと動きを止めてから笑みを浮かべる。
そしてテラスから颯爽と立ち去ってしまった。
「…! …!」
こういうことに免疫のないリリーは頬を染めて口をぽかんと開け、その後ろ姿を見送った。
「本当に、素晴らしかったですわ!!」
「歌で心を打たれたのは、初めてです!」
「何て言う歌ですの? 素敵な旋律でしたわ!」
お茶会の参加者の皆様からの賛辞が止まらず、褒められ慣れていないリリーはまたあわあわするばかりだ。
マルグリット先生は鼻高々、といったドヤ顔でその様子を見ている。
目を真っ赤にして両手でドレスを握りしめているローズ嬢に、気づかないままに。