321.SIDE リリー④
舞台、オペラ座の怪人…
オペラ座で『ハンニバル』という演目の主役だった女性が、怪人に脅されてその役を降りる。
その代役を、怪人が惚れ込んでいた主人公が務めることになったわけだが、この『ハンニバル』という話はローマ帝国という国からの攻撃を退けて自国へ凱旋した所から始まる。
要は、戦争が主題の話だった。
なんなら、主人公が恋人(←戦将)から戦争の勝利の証として生首を贈られるという場面もある。
つまり、この演目で着るドレスの刺繍は花や星のような可愛らしい雰囲気のようなものでなく、流された数多の血や命を悼みながらも、勝利できたことへの賞賛を含ませる図柄が好ましい。
百合子は、悲しみと喜びに共通する"涙"を主題に、雫モチーフを幾何学化した図柄に決めた。
銀糸のみの簡素な部分、大小様々なスパンコールを重ねる部分、スパンコールの上に輝くビーズを載せて縫い付ける華やかな部分、それを組み合わせる。
20分程で、端切れは見事な模様がキラキラ光る刺繍で埋め尽くされた。
その美しさ、複雑さに姉は息を飲んだ。
そして、しげしげと眺めて言った。
「アンタ… 病気してえらく変わったなとは思ったけど、最早別人ね。
こんなに複雑な図柄を、下絵も描かずに縫い付けるなんて…
前のアンタなら絶対できなかったわ。
信じられない」
「寝込んでいる間、ずっと夢を見ていました。
私は違う世界で暮らしていて、そこでは皆がドレスを着ていたのです。
ですから、ドレスの柄ならたくさん見て参りました。
刺繍も好んでおりましたので、ある程度はできますわ」
あぁ〜… なるほど…
最近転生モノが流行ってるから、百合子もそんなの見たりしてたのかしら。
おおかた高熱で訳がわからなくなって、現実との境界があやふやになったんでしょ。
それで妙なお嬢様言葉だったのね…
違和感がすごいのよ。
いつか治るのかしら…
何にしても、今は助かった!
しばしの沈黙の後でお姉様は頷き、「これでいきましょう!」と言った。
図案があれば真似はできるというお姉様に、端切れにいくつかの刺繍をし、それを参考に作業を分担した。
リリーだったら、身体を起こしておくだけでヒーヒー言っていたのに、百合子の身体だと、多少食事を摂らなくても徹夜でも、ほとんど気にならず刺繍を進められた。
刺繍が大好きだったリリーは、いつも力いっぱい刺繍をしてみたかったが、体力がもたずに作業はいつも途切れ途切れで、完成までにかなり時間がかかった。
しかし今は違う。
2人3脚でどんどん布は刺繍で埋め尽くされ、病室の薄暗い明かりでも見事に輝く。
百合子は、楽しくて楽しくて仕方なかった。
翌朝10時に、ついに刺繍は完成した。
あとは、選んだレースを裾に合わせ、全ての本縫いを行うだけだ。
リリーはミシンを見たことがなかったので、扱えるわけもない。これはお姉様に任せることにした。
「さすがにミシンまでは無理だったか」
夢で謎のスキルを獲得した妹であったが、もともと家庭科が2の百合子だ。
ミシンができないことにむしろホッとされた。
さすがにミシンがけは自宅でするらしく、お姉様は1度帰ることになった。
いくら頑健な百合子の身体も、1週間飲まず食わずの点滴から突然の徹夜により、実はヘトヘトだった。
お姉様を見送った後でもう1度意識を手放した(爆睡)。
※ ※ ※ ※
あれから精密検査の後、意識が戻って2日後にお母様と一緒に退院した。
着慣れない服を着て、履いたことのない靴を履いて初めて見た景色は、本当に百合子を驚かせた。
すごい勢いで道を走るカラフルな乗り物。
馬が引いていないのに車輪が回っている。
御者が誰も誘導をしている様子はないのにぶつからずすれ違えている。
不思議…
リリーの国では、歩きながら物を食べたり飲んだりする人はいなかったが、ここでは普通らしい。
そしてすごく人が多い。
服装も皆似たりよったりで、これでは貴族と平民の区別をどうつけるか分からない。
へ〜!
ほ〜!
と目を丸くして周囲を観察する娘を、母様は心配そうに見つめながら、家まで連れ帰った。




