死者からの着信
パラコートという除草剤をご存じだろうか。毒性の強い除草剤で、数多くの自殺や他殺事件を引き起こして問題となった。少量でも体に入ると致死率が高く、解毒剤がない。自販機の飲料にこれを混入させて十数人を死亡させるという連続殺人事件も起きている。今では一般販売は禁止されているはずだ。
満開を迎えた桜が少しずつ散り始める頃のことだ。桜は散り際がいちばん美しい。花見客の頭上に舞い降りる花びらは雪のようだ。この河川敷の桜並木も例外ではない。海からの暖かい風で、青天の空の下、桃色の花びらが舞っていた。
大学生の男性4人と女性4人の計8人が、桜の木の下にシートを敷いてお花見をしていた。彼らはコンビニで買った弁当や菓子を囲んで座り、瓶ビールをプラスチックのコップに注いで飲んでいた。宴が始まって5分も立たないときだ、女性の一人が胸を押さえて倒れ込んだ。十数秒、もがき苦しんだ後、呼吸不全で死亡した。彼女の落としたコップの中身はほとんどこぼれており、コップの内側には桜の花びらが一枚だけ付着していた。
連絡を受けて駆けつけた警察の調査で、彼女の死因はパラコート中毒であることが分かった。同じ瓶から注がれたビールだったが、彼女のコップにだけ、パラコートが検出された。プラスチックのコップはコンビニで購入され、その場で開封されたもので、事前に毒を塗り付けることはできない。したがって、ビールが注がれた直後に毒が混入されたことは確かだ。その場で8人の荷物が検査されたが、パラコートを所持している者はいなかった。
彼女以外の7人が共犯であれば、なんらかの細工はできたかもしれない。しかし、男性同士、女性同士はそれぞれ同じ大学のサークル仲間だが、二つのグループは今日初めて顔合わせしている。出会い系サイトで知り合って、花見合コンというわけだ。
正之はその男性4人の中の1人で、元子というその女性の死を目の前で目撃したその日の夕方、同じくその場にいた栄二ともに部室に戻っていた。栄二のデスクの上には相変わらず、オロナミンCの瓶が並んでいる。
正之は大学のミステリー研究会というサークルに所属している。実は他の大学のミステリー研究会との合コンだったのだ。先方の代表と連絡を取り合っていたのが栄二だ。
「連絡はしたの?」
「まさに殺されたのが、その女性だよ。向うの代表。アガサとか、名乗ってたな。本名を知ったのも殺されてから。他の3人とも連絡先を交換する前に惨劇が起きたからな。連絡なんて取りようがないだろう。」
「E女子大のサークル棟に行けばコンタクトは取れるんじゃないか。」
「それはそうだが。彼女たちも仲間が亡くなってショックが大きいだろうね。しばらくは関わらない方が良い。」
栄二はオロナミンCのふたを開けて口を付けた。正之は話を続けた。
「初対面であの惨劇だもんな。最初は悪い冗談かと思ったよ。ミステリー研究会だからってわけじゃないけど。」
「俺も一瞬、彼女たちの演出かと思ったよ。でも現実に人の命が奪われた。それも不可解な謎を残して。笑えないな。」
「毒殺されたことは確かだよな。女性3人が怪しいんじゃないか?」
「でも、俺たちずっと向かい合って話してたし、パラコートなんて液体を混入させる隙があったか? 所持品の検査でも何も出てこなかったし。」
正之はオロナミンCの瓶を持つ栄二の右手の人差し指と中指の先に巻かれた傷バンに気付いた。
「ところで、お前その指どうしたんだ。」
「この前の実習ではんだごてに触っちまってな。」
携帯電話の着信音が聞こえた。栄二がポケットからそれを出して開いた。栄二は顔をゆがめた。
「どうした?」
「いやなんでもない。」
栄二は部屋から出ようとした。一度振り返って言った。
「なあ、『桜の森の満開の下』って知ってるよな。桜の木の下で女が本性を現すってやつ。女は鬼だったんだよな。」
次の日、警察から連絡があり、現場検証の結果を聞かされた。彼らの座った場所の周りに散乱した花びらのいくつかに異変があった。一部が溶けかけているようだった。分析するとパラコートを吸った花びらであることが分かった。そして、すぐ隣の桜の枝の一部にパラコートが塗り付けられた痕跡があった。おそらく、前日から事件発生までの間に、花を含むその桜の枝にパラコートが散布され、それを吸った花びらが、舞い降りて、彼女のコップの中に落ちた、と結論付けたようだ。桜吹雪の中で花見すれば、花びらが料理や飲み物の上に落ちることは考えられる。
僕は栄二に疑問を投げかけた。
「しかし、20本は桜の木が並んでいるんだ。無数に舞う花びらの中で、毒を吸ったのは枝一本分、そのたった一枚の毒の花びらを小さなコップの中に引き寄せるのはどれだけの確率なんだ。」
「相当、運が悪かったんだな。警察も事故で片づけているようだし。除草業者のミスなんだろう。」
「でも、あんなところに除草剤をかけるだろうか。桜の木に恨みがあるわけでもないだろうし。」
「もともと他の場所で使うはずだったのを誤って噴射することだってあるだろう。」
現在ではパラコートは毒物に指定され、誰でも簡単に入手できるものではなかった。近隣にある個人経営の除草業者が疑われた。その物置にパラコートが発見された。警察は、彼が除草の途中に誤って木の枝に掛けてしまったものと結論付け、業務上過失致死で逮捕した。損害倍書を請求されている。
正之には心に引っかかるものがあった。
「謎が多い事故だな。ミステリー研究会としては、放置できないよな。」
「首を突っ込まない方が良いぞ。遊びじゃないんだから。」
栄二は乗り気でなないようだった。
僕はまず業者に話を聞きに行った。かれから証拠不十分で釈放されていたようだ。初老のおじさんが出てきた。
「冗談じゃねんよ。変な噂がたって、注文は減るし。だれが、桜の木の枝に除草剤をかけるだって?」
「パラコートってのは今では許可がないと手に入らないですよね。流出する可能性はないのですか。」
「こっちはちゃんと管理してんだよ。盗まれるもんじゃねん。」
僕はこの業者が夏場の繁盛記にアルバイトを雇っていることを思い出して、そのことを聞いた。
「まあ、確かにな。こっそり他の容器に移し替えて持ち出せないこともないか。」
僕は去年までの3年間のアルバイト生の名簿を見せてもらった。数人程度だが、大学生の学校名と氏名をメモした。
E女子大のサークル棟を尋ねた。さすが、女子大だ。小奇麗な建物。ミステリー研究会と書かれたドアをノックすると、ドアが開いて、女性が出てきた。
「三田晴美さんはいらっしゃいますか?」
「お待ちください。」
再びドアが開くと、見覚えのある女性が出てきた。元子のとなりに座っていたショートヘアの小柄な女性だ。
「三田ですが何か?」
「牧村です。先日お会いしましたね。すみません、ご友人が亡くなられて日が浅いのに。」
「はい、どうも。何の御用でしょうか?」
「この前の事件のことで、僕の推理を聞いて頂きたいのです。」
晴美の表情が険しくなった。
「場所を変えません?」
僕たちは事故現場の桜並木に向かって歩き出した。小川に沿った田舎道だ。晴美が先に口を開いた。
「さきほど事件とおっしゃいましたね。事故の間違いですよね。」
「いいえ、事件です。ある動機を持って意図的に起こされた出来事です。そしてあなたがそれに関わっている。」
「聞かせてもらいましょうか。」
「あなたは、2年前の夏休み、除草業者でアルバイトしていましたよね。今回のことで疑われたところです。」
「へぇー。まさか、私がパラコートをこっそり持ち出して、あの桜に吹きかけた、とでも言いたいわけ?」
「確信はありません。だが、あのとき集まったメンバーの誰かが、まだ暗いうちにパラコートを桜の木の枝に吹きかけた。その人は初めから殺すターゲットを決めていた。パラコートを吸った花びらを使って。」
「あなたもわかるわよね。その花びらをどうやって彼女のコップに誘導したのかしら。」
「簡単なことです。僕たちが集合して準備でごたごたしているとき、犯人はこっそりとパラコートを含んだ花弁を桜の木からもぎ取った。人差し指と中指で摘まんだまま、それをずっと隠し持っていた。かぶれないように傷バンをつけておいた指でね。傷バンは花びらを目立たなくする効果もありますね。そして隙を見て元子さんのコップに落とした。あたかも不運な事故に見せかけようとした。枝についていたパラコート付きの花びらは風で散って適度に分散して僕たちの周りに散らばった。他の無害な無数の花びらに交じって。すべて事故に見せかけるための設定ですね。あなたは元子さんの隣に座っていましたよね。」
「へぇー、面白いこと言うわね。私を疑っても無駄よ。私は当日、傷バンなんてつけていなかった。あの場所にシートを敷いたのも私ではない。」
「そう、元子さんのコップに花びらを入れることができた人間は他にもいる。コップにビールを注いで配っていたのは、栄二だ。元子さんの手前に座っていた長髪の男性。覚えていますよね。ビールを注ぎながら隙を見て花びらを落とした。桜は散り際で花弁はあちこちに舞っていた。どさくさに紛れて落としても気付かないだろう。」
「まあ、すてきな推理。それをどうして私に話す必要があるわけ?」
「去年、全国で起きたパラコート連続殺人事件。知っていますよね。」
晴美の顔色が変わった。
パラコート連続毒殺事件は去年の4月から11月に連続発生した無差別毒殺事件だ。何者かが除草剤のパラコートなどを飲料に混入させ、数十人を死亡させた。日本各地で自動販売機の商品受け取り口にパラコートなどを混入した清涼飲料水が何者かによって置かれた。第三者がそれらを「取り出し忘れの商品を幸運にも見つけた」と判断し、飲んでしまったことで命を落とした。現場には監視カメラも少なく、物的証拠もほとんど存在しなかったため、犯人は特定されないまま迷宮入りした。
「被害者の名簿を調べたのです。三田和也さん。あなたの弟ですよね。」
「何が言いたいのです。」
「2年前の除草業者アルバイトに栄二も参加していた。栄二は物置にあったパラコートをこっそり持ち出した。あなたはそれを目撃した。そして、栄二が例の連続殺人事件の犯人だと気づいた。帽子をかぶってマスクをして作業していたからおそらくお互いに顔は知らないだろう。」
「その人が犯人だなんて、よく断定できるわね。」
「彼はよく、全国の田舎町にでかける趣味があった。写真を撮るのが好きなんだ。僕もたまに付き合わされたよ。事件は決まって彼が出かけた先の自販機で起きた。彼はよくオロナミンCを飲んでいたな。前前から察しがついていたよ。」
「で、なぜ、栄二さんが元子を殺したのかしら。」
「栄二はあなたを殺そうとしたのだ。おそらく、あなたは彼を脅迫しましたよね。最初は出会い系サイトでコンタクトを取った。そのうち彼がミステリー研究会に所属していることも知った。例えばこう持ちかけた。『自分はパラコート連続殺人の犯人を知っている。犯人特定に至った推理を公開したい。ミステリー研究会同士集まって議論しないか』とかね。あなたは犯人特定につながる証拠を一部ちらつかせたはずだ。不安になった栄二は事故に見せかけてあなたを殺害する計画を思いついた。」
「それで?彼はどうして間違えて元子を殺したのかしら?」
「あなたが、殺したんだろう?」
晴美は口を押えて笑いをこらえた。
「な、なに言ってんの!? わ、私が! くすっ、意味わかんない。」
「栄二とやりとりしていた『アガサ』。それは君だよね。例えば、宴会の趣向として、君は元子さんに「入れ替わり」を提案した。ミステリー研究会の人間ならそういうの好きだろう。当日は元子さんが「アガサ」として振舞った。確かに、現場を仕切っていたのは元子さんだったよね。そして、栄二のターゲットになった。」
「よく、次々に思い付くわね。なんで私が友達を殺さなきゃならないの。あー、おかしい。」
「あなたの弟は元子に殺されたんだろう。彼女はパラコート殺人事件の模倣犯だ。この機会を利用して復讐を思い立った。」
「もー、ついていけない、あなたの妄想には。」
晴美の笑いは止まらなかった。しかし、その目の奥には殺気がみなぎっていた。
例の桜の木の前に到着していた。大部分の花びらが散ったその葉桜は冷たい空気を放っていた。
栄二のもとには毎日のようにアガサからのメールが届いた。着信音が鳴るたびに栄二の心拍数は上がった。次々に連続殺人の証拠を提示される。気になって、着信拒否することもできなくなった。
あの花見から2週間後、栄二はパラコートを飲んで自殺した。