第83話 黒い毛虫
承前
ユーキたちが話をしながら馬を進めるうちに時間は経ち、街道の分岐点が現れた。
正面に続く太い道が主街道で、領境の町を経てクリーゲブルグ辺境伯領に至る。
辺境伯領へ行くにはこちらの方が近く、便利でもある。
左側に分かれた細い道が、山の麓のフーシュ村を経てネルント開拓村へ至る道だ。
フーシュ村からは主街道とは別の辺境伯領への道が出ている。
衛兵長からそのような説明を受けて、一行は進路を左に取った。
さらにしばらく行くと、やがてまた両側に畑が出て来た。
フーシュ村が近くなったのだろう。
「衛兵長、ここからクリーゲブルグ辺境伯領まで、6マイル以内に入りましたか?」
「まだですね。ですが、あと1マイルは無いと思います」
また農民を見つけるたびに聞き込みを繰り返し、彼らから同じような言葉を聞く。
それを繰り返しているうちに、一人の農夫の所で様子が変わった。
その小柄な農夫は、ユーキたちが進む道からかなり離れた小麦畑の一角をうろうろと行ったり来たりしては、頭を抱えたり、何かを地面に投げつけたりして、イライラしている様子だった。
いち早くその様子を見つけて馬の頭を巡らせて近寄って行ったベアトリクスに対して、その男は手を振り上げて怒鳴りつけ、追い返そうとしている所でユーキたちが追いついた。
「お前ら何だ! ここは俺の畑だ、近付くな! さっさとあっちへ行け!」
「お気を悪くされましたら、ごめんなさい。私たちは怪しい者ではございません。少しお話をお伺いしたかっただけですの」
「うるさい! さっさと出て行け! 出て行かないと、こ、こうだぞ!」
農夫は手近にあった鍬を振り上げて脅しつけるが、その手は震えており、人を傷つけられそうにはどうやっても見えない。
「何をする! この方々は!」
衛兵長が大声で叱り付けようとしたが、それを遮るようにクルティスが素早く前に出て馬を跳び降り、農夫の前に立った。
クルティスに上から見下ろされ、小柄な農夫は一歩、二歩と後退る。
「何だ、このデカブツは! お、お前なんか怖くねえぞ!」
言いながらもさらに後退る農夫に向かって、クルティスはにっこり笑いながら無造作に近づいた。
「く、来るな! えいっ!」
農夫が目を瞑って振り下ろした鍬の柄を、クルティスは左手で軽く受け止めると、右手でその刃を軽く回す。
捩じられた鍬は簡単に農夫の手を離れてクルティスの手に納まり、農夫はドスンと尻餅をついた。
「くそっ、どうにでもしやがれ!」
「はいよ、おっちゃん」
クルティスは男の前にしゃがむと鍬を返した。
農夫は驚きながらも受け取る。
「お、おう」
「どうにもしないよ。ちょっと話を聞かせてくれればいいんだ。それだけだよ」
「だ、だけど……」
クルティスたちが農夫と揉めている間に、ユーキはさきほど農夫がうろうろしていた場所をじっと観察していた。
そして、注意深く一本の麦を折り取った。
その麦の穂は、黒く縮み、あたかも毛虫のように見えた。
『逸れエルフが着けて来た黒い毛虫』という紅竜ローゼンの言葉が甦る。
農務を取り扱う役所に実習に行った時に、資料で他国での発生例を読んで知ってはいたが、実物を見るのは初めてだ。
話だけのものとばかり思っていたが、国内にもあったとは。
ユーキはその麦を持って皆の所へ戻り、まだ畦道に尻をついている男の前に踞むと、その麦の穂に触らない様にして差し出した。
「心配していたのは、これですね?」
その黒い麦の穂を見て、農夫はぽつりと答えた。
「ああ、そうだ」
「何ですか? それは」
ベアトリクスが尋ねると、農夫がぽつり、ぽつりと答える。
「黒縮病だ。……知らずに食うと狂い死ぬ。……放っといたら、どんどん別の麦にも染っていく」
「どうすればいいのですか?」
「焼くしかない。周りの麦も一緒に、早く焼くんだ。それしかない」
「では、なぜそうされないのですか?」
「そんなことをしたら、俺が代官に殴り殺されちまう!」
憤った農夫が跳ね起き、半分泣きながらベアトリクスに突っかかろうとする。
クルティスが間に入り、農夫の肩を叩いて落ち着かせようとした。
すると今まで黙っていた衛兵長が男に話しかけた。
「大丈夫だ。衛兵長の俺が保証する。落ち着いてゆっくり話せ」
そして衛兵長はユーキたちの方を向いて話し始めた。
「この領では、麦の黒縮病が出やすいのです。30年ほど前にいきなり大発生してから、先代が麦類は各村での自給程度に作付けを抑えるようにしておりました」
「そうだったのですか。それで抑制を……。初めて聞きました」
「はい。他の領に聞こえると、この領の人間や作物が変な目で見られかねませんので。領内でも黒縮病の名は口に出さぬようにと、先代が触れを出して以来、みんな気を付けているのです」
「それで、これまで聞き込んだ農夫たちは単に『病害』とか言っていたのですね」
「はい。領内でも農村以外ではこの病の事を知らない者が増えて来ております。最近では発生数もめっきり減って来ています。昨年までは、発生したらすぐに焼き払ってその後に村長を通して代官に報告する事になっていました。そうすれば、焼いた麦の分は免税です。ところが、最近、別の村で一人の農夫がそれを行ったところ、ニードの……代官の逆鱗に触れたのです。恐らく前の代官から引き継がれていなかったのだと思います。代官は激怒して話もろくろく聞かず、脱税行為とこじつけて棒打ち50の刑にしました。執行したのは、代官が王都から連れて来た衛兵の連中です。その農夫は、ほどなく亡くなりました。その事が伝わってからは、全ての村で、代官に報告してから焼くことにした方が良かろうとなったのです。この男もそうするつもりだったのでしょう」
「そうなんだ! 村長にはもう何日も前に言った! 村長も代官に知らせると言ってた! だのに、まだ焼き払う許しが出ないんだ。もう、どんどん広がるんじゃないかと心配で心配で」
ぶるぶる震えながら必死で訴える男を見ながら、ユーキは衛兵長に尋ねた。
「そうですか。それはそのように処理せよと、代官が触れを回したのですか?」
「いいえ。代官は麦を焼いたと聞いただけで激怒し、病の事は聞こうとしませんでしたので。それなら、そのようにした方が良いだろうという、噂です」
「噂? 全部の村に一様に代官への対処法の噂が広まっているのですか?」
「良くわかりませんが、そのようです」
ユーキは衛兵長をじっと見た。
「そうですか。ひょっとすると意図的に噂を流した者がいるのかも知れませんね」
「……」
衛兵長は何も答えず、ユーキの視線から逃れるように顔を逸らした。
「そんなことより、俺はどうすればいいんだよ……教えてくれよ……エヴァン爺さんみたいに殴り殺されたくねえよ……」
「エヴァン爺さん?」
「ああ、代官と手下の女の気に障って、殴り殺されたんだ。そうはなりたくねえ。でも早く焼かないと、この畑だけじゃない、村の他の麦も、全部台無しになっちまう。そんなことになったら、みんなに申し訳ねえ……」
農夫は黒縮病と代官の二つの恐怖の板挟みになり、頭を抱えてぶるぶる震えている。
ユーキは、ゆったりとした静かな声で、農夫に話しかけた。
「大丈夫ですよ」
「何がだ?」
「貴方がです。殴り殺されたりしません」
「……本当か?」
「本当です。ですから、私の尋ねることに、落ち着いて答えて下さい」
「お、おう」
「今なら、どのぐらいの広さの範囲を焼き払えばいいですか?」
「え、ええと、そうだな、今病気が出てるのはこの畑だけだけど、結構点々とあちこちに伝染っていて、その周りも、念のため綺麗に焼かないといけなくて、火が燃え移らないようにさらにその周りを青刈りしておくんだから、え、ええと、ええと、1エーカーの半分の、半分ぐらい、かな」
「その分の税はいくらですか?」
「地租が、1エーカー2ヴィンドに上がっちまったから、ええと、ええと、」
「50リーグ」
「そう、そうだ。それに小麦を売り払う時の手数料が5リーグかかる」
「わかりました。ここに1ヴィンドあります。もし代官に何か言われたら、このお金で税金分を支払って下さい」
ユーキはそう言って財布から取り出した金貨を農夫に渡した。
「えっ。いいのか? こんなにもらっちまっていいのか? 多いんじゃないのか?」
「ええ。本来ならあなたの稼ぎになったはずの分も焼くのですから。その代わり、決して周りに病気が広がることのないように、丁寧に綺麗に焼いてください」
「わかった、任せといてくれ! ありがとよ。俺、早速手筈を整えるよ。村の連中に手伝ってもらわないといけないし。余る金で、みんなで一杯やることにする。みんな喜ぶよ。俺、もう行っていいか?」
「ええ。帰り道にもここを通りますから、その時にきちんと焼いたかどうかを確認させてもらいます」
「おう、もちろんだ。安心してくれ、俺も早く焼き払いたくってしょうがなかったんだ。じゃあ、行ってくる。ほんとに、ほんとにありがとな!」
男は立ち上がると村の方角に走り去った。
「殿下、よろしかったのですか?」
男の姿が遠くなっていくのを見ていたユーキに、衛兵長が尋ねた。
「何がですか?」
「与えた金額です。多かったのではないかと。あの男が言った、55リーグちょうどでも良かったのでは」
「そうでしょうか」
「金が多く貰えるとわかれば、わざと病害を起こして申告する者が出るかも知れません」
「そうかも知れませんね。でも、私はそうはならないと思います」
「理由をお伺いしてもよろしいですか?」
「ええ。あの人は、畑の事をとても心配していた。自分の身も心配していましたが、少なくともそれと同じ位、畑の事を心配していました。それに、病の処理方法もちゃんと知っていた。農業のベテランでしょう。そんな人が、わざわざ自分の畑を汚し、作物を傷つけ、自分のプライドを貶めるようなことをするでしょうか? 私はしないと思いました」
ユーキはそこで一度言葉を切り、衛兵長の眼を見ながら続けた。
「そう、例えば良心ある衛兵は、領民をわざと刃向かわせ、それを逮捕して手柄とすることはしないでしょう。何とか領民を守ろうと苦心して情報を流すことはあっても。自分の職業に誇りを持つ者は、誰でもそうではないでしょうか」
衛兵長が俯くのを見て、ユーキは少し硬くなっていた声を和らげ、静かに言った。
「むしろ、早く焼き払うべきだと言う彼の判断を何とか後押ししてあげる方が良い、そのために少しばかりのお金の力を借りようと考えたのです」
「ですが殿下、話を聞いた他の者がするかも知れません」
そう口を挟んだベアトリクスの方に、ユーキは向き直った。
「その可能性はあります。でも、農業は共同作業です。今の人も、仲間を大切にしていてその力を借りに走って行った。誰かが農業を冒涜するような行為をしたとして、仲間たちが放置しておくでしょうか? そんなことはまずあり得ないと思います」
「なるほど、わかりました」
ベアトリクスたちが頷く。
それを見ながら、ユーキは言葉をさらに続けた。
「もし彼のような、仕事に誠実な農民がそのような事に手を染めるとしたら、それは普通に農業をしていては暮らしていけない、そんな状態になった時です。幸い、この領はまだそこまでは行っていない。あくまで現時点ではですが。この先も悪政が続けば、どうなるかわかりませんね。それに、」
ユーキは最後に、静かに微笑みながら言った。
「私は、甘いかも知れませんが、民を疑うところから始めたくはないのです」
ほどなく一行はフーシュ村に着いた。
今夜はここの村長の家で宿を借りることになる。
衛兵長が村長に一行の用件や事情を説明し、ユーキが黒縮病の件について尋ねたところ、先日代官が泊った際に話そうとしたが『今は病どころではない、帰りに聞く』と取り合ってもらえなかったとのことだった。
また、増税や麦の増産の件について尋ね、代官に強要されて止むを得ず受け入れた事、村民が不満をため込んでいる事を村長から聞いた。
またエヴァン爺さんの件についても報告を受け、ユーキたちが哀悼の意を表してその日は終わった。
噂や伝聞に過ぎなかった代官の非道は、今や確実な証言が得られ始めた。
今日の道中で行き会うと予想していたその消息は未だに知れない。
明日はいよいよ、ネルント開拓村だ。
早朝の出発に備え、ユーキたちは早めに床に就いた。
読者の皆様へ:本話中に登場させた「黒縮病」はお察しの通り、「麦角病」をモデルとしております。麦角病をそのまま用いようかとも考えたのですが、麦角病について調べれば調べるほど、扱いが難しく一度感染が拡大したらこの物語が想定している時代の農業技術で防疫することは困難だと考えるようになりました。作者の筆力では作中でコントロールできないため、架空の防疫可能な疫病として「黒縮病」を創出した次第です。御理解御容赦頂けますよう、謹んでお願いいたします。




