第81話 逆鱗
前話翌日
調査二日目の早朝、監察団一行は子爵が現れる前に情報交換を行った。
昨日の午後、ユーキやディートリッヒ嬢たちが子爵側の監視を引き付けている間に宿屋を離れた随行者たちは、子爵邸から出て来る者の動きを逆監視した。
案の定、二組の怪しげな者たちが邸から現れて散って行った。
随行者たちが分かれて尾行すると、一組は代官ニードが普段寝起きしていた部屋に向かった。
子爵の使いが部屋に入ろうとしたところで随行者たちは姿を現し、有無を言わさず同行して部屋に入った。
そのうちの一人がスタイリス、クレベール両王子の方を向いて胸を張って報告している。
「部屋の中は、とても簡素なものでした。廊下から窓に向かって右側の壁際には手前から机と寝台。左側には大きな瓶が敷物の上に置かれていました。花瓶、あるいは水瓶でしょうか。ただ水は張っておらず訓練用の模造剣が二本いや三本でしたか、無造作に突っ込んでありました。その奥には大きな書棚があるだけでした。その書棚も本は数冊しか無く、他に酒瓶とグラス、子爵邸にあったのと同程度の上物が数本置いてあるだけ、といった具合でした。
本当に寝起きだけで、普段の食事や入浴等の生活の基盤は子爵邸に置いているのでしょう。ただ、机の引き出しには鍵がかかっておらず、机の上と引き出しからこれらを回収して来ました。子爵から遣わされてきた者たちは恨めしそうな顔をしておりましたが、監察団の当然の権限を行使し、問答無用でこちらで押さえました」
代官の部屋に押し入った随行者たちが押収してきたのは、かなりの量の子爵家あるいは代官宛の領収書や請求書の類、そして領の昨年までの経理諸表を始めとした種々の書類の分厚い束だった。
報告を聞き、また机の上に置かれたその書類の束を見て、クレベール王子は「良くやった」と頷き、隣のスタイリス王子に話し掛けた。
「これらを分析すれば、子爵邸で発見された今年の経理の表の妥当性、代官が水増ししているか否かが検討できますね。兄上、これはかなりの収穫ですね」
「ああ、そうだな。それで、お前たち、件の契約書はあったのか?」
「いえ。それは発見できませんでした」
「書棚の方は探したんだろうな?」
「はい。書棚はそもそも殆ど空の状態で、探すことすら不要な状態でした」
もう一組の子爵の使いは、酒場に行き、ニードの馴染みの女を探していた。
監視していた随行者たちも同じ酒場で彼らの近くの席に座って聞き耳を立てたが、結局、目当ての女は『あんな暴力男を部屋に引っ張り込むほど私は馬鹿じゃないわ』と大声でつっけんどんに返事をするだけだった。
「つまり、収穫無しか」
「はい、殿下」
スタイリス王子はそれを聞いてむしろ満足そうな声を出した。
「構わん。それはそれで仕方なかろう。その分、調査範囲が絞られるわけだ。御苦労だった。他はどうだったんだ? クレベール、何かあるか?」
「そうですね。ユークリウス殿下、何か情報は得られたかな?」
クレベール王子は自分たちとは机の反対側に座っているユーキに尋ねた。
ユーキは二人の王子を交互に見ながら答える。
「はい、噂話ではありますが。話をした菓子屋の女主人、料理屋の給仕の男や店主の皆が、先代領主に対しては、安定した暮らしができていたと称賛と感謝を述べる一方で、当代の代官が来てからは全般にわたる増税と暴力、そして景気の悪化と将来の不安とを訴えておりました。料理屋の主は、代官と手下の衛兵に料理代を踏み倒されたとも憤慨しておりました」
「ユークリウス、批判の対象は代官だったのだな?」
「はい、スタイリス殿下。もっとも、子爵は継爵以来の殆どの時間を王都で過ごし、住民と接触するのはもっぱら代官だったことが影響しているとは思いますが」
「お前の分析は不要だ。住民が非難していたのが代官であったことが重要なのだ」
そう言うスタイリス王子の言葉を聞きながら、クレベール王子はさらにユーキの隣にいるディートリッヒ嬢に尋ねた。
「ディートリッヒ嬢の方はどうでした?」
「私の方もユークリウス殿下と同じです。衣料品店と雑貨屋の二店を回りましたが、子爵邸からの高額品全般の注文の激減とそれに引き続く景気低下が領全体に蔓延しつつあるとも、嘆いておりました」
「そうでしたか。御苦労でした。今のところは以上のようですね、兄上」
クレベール王子は、現時点では追加の情報はもう無いと見て、正使であるスタイリス王子に水を向けた。
「ふむ。状況をまとめると、一連の事件は、全て代官の専横によるものと判断できそうだな。責の大半を負い、罰されるべきは代官だ。契約書も、子爵が知らぬうちに代官が勝手に持ち出して処分したのだろう。子爵本人には、代官の監督不行き届きはあるがそれだけだ。それが現時点での私の判断だ。どうだ?」
スタイリス王子はさもあらんと自分の考えを披歴した。
全員、納得したであろうと言わんばかりである。
だが、その時にユーキが声を上げた。
「お言葉ですが、スタイリス殿下。今回の訴えは、二件とも子爵側による契約違反が争点です。契約違反の事実の確認がまだですし、もし違反が認められたら、契約の当事者が子爵である以上はその責は子爵に負わせるべきではないでしょうか」
「何だと?」
ユーキに論点のずれを指摘され、スタイリス王子はむっとして語気を強めた。
「ユークリウス、俺に逆らうつもりか?」
「逆らう、というつもりはありません。ですが、本来の争点は、契約違反の有無だと思います」
「煩い! 小賢しいことを得々と言うな! そんな事は当たり前だ。訴えがあった以上は契約違反はある、そんなことは調べるまでもなく俺には最初からわかっている! それを踏まえて、どのように決着させるべきかを俺は言っているのだ。いいか、昨夜子爵は宴の席で、俺に対して『今回の件では反省している、今後は陛下の御意に従って領主としての威厳を保ち、陛下の御威光を遍く領に知らしめる』と約束したのだ。クレベール、お前も聞いていたな?」
「はい、確かに」
自分の顔を見て確認する兄に対して、クレベール王子は特に異論を唱えず従う様子を見せる。
スタイリス王子はそれに力を得てユーキを振り返って声を大にした。
「聞いたか? 陛下の御威光を広めることを考えてみろ。子爵に大きな罪がないのであれば、村との契約は一度解消させて、改めて適当な契約を結ばせれば良い。少々の増税は受け入れるべきで、それは陛下も閣議で述べておられたのだ。辺境伯の方は、これまでに受け入れた小麦粉や徴収した関税に見合った額を支払わせた上で契約内容を再交渉させれば良い。その支払いのためにも、増税は必要だろう。これで子爵も辺境伯も傷つかずに丸く収まり、陛下に感謝してその御前にひれ伏すことになる。どうだユークリウス、これこそが穏当で誰も傷つけぬ、裁かぬ名裁きと言うものだ。わかったか!」
得意満面、これで誰も何の文句も無いだろうという、したり顔だ。
だが、ユーキはあくまで契約順守の原則を指摘し続ける。
「それは違うのではありませんか。村人は領主との契約の継続を願って訴え出ているのです。もしも村人に何の落ち度も無ければ、それに契約の解消と増税を命じては、今後、誰が契約を守り領主に従いましょうか。契約は守らせるべきです」
それを聞いて、スタイリス王子の額に血管が浮き上がった。
自分の主張に逆らわれたことがよほど気に入らず怒気が噴き出したようで、端正な顔を真っ赤にして大きく歪め、机を叩いて怒鳴った。
「何?! お前は俺の膝にすがって来た者を、振り払えと言うのか! この監察団の正使は誰だ?!」
「殿下です」
「そうだ。お前は何だ?」
「見習いとして随行に加えていただいております」
「その見習いが、正使に向かって偉そうな口を利くとはどういうことだ?」
「……申し訳ありません。ですが、」
「まだ言うか? いいか、貴族は陛下の赤子、大きな罪科がないなら、救ってやるべきだ」
「では村人は?」
「そんな事は知らん。王都の民でもあるまいに、田舎の領民の事は田舎領主が考えるのが当然だろう。王族がそんなことまで構っていられるか!」
スタイリス王子が怒りながら発したその言葉を聞いて、ユーキは体中の血が頭に上るのを感じた。
それは違う。絶対に違う。王族は、国民全てを考え、できるだけ多くの人を幸せにするのが仕事だ。
国王陛下は常々そうおっしゃられているし、僕もそれを信条にしてこれまで励んできた。
それを否定されてたまるものか。
ユーキは顔を赤くして、思わずスタイリス王子を睨みつけてしまった。
それを見たスタイリス王子は、ユーキの顔を指差してさらに怒鳴りつけた。
「ユークリウス、正使に向かってその眼は何だ! お前は何様のつもりだ! いいか、今回の監察の任務は、子爵を貴族として教育指導することだ。その辺の村人を救うのが目的ではない。それをわきまえろ。そもそも、その村人共が正しいとは限らんだろうが! 村を調べもせずに、なぜ契約違反があったとわかる! お前はそんな事だから、周りから馬鹿正直だの糞真面目だの、謗られるのだ。庶民に阿り、王族としての威厳が足らん。前にも言ってやったろうが、まだわからんのか。その腰の剣同様の、この鈍の愚か者! 王族の恥晒しが!」
そう叫びながら、スタイリス王子は再び大きな音を立てて机を叩いた。
会議室に怒号と大きな衝撃音が響き渡り、座の多くの者が体をびくりと動かす。
その一方でユーキの体は動じない。だが、顔はさらに紅くなった。
相手は正使殿下とは言え、あまりの辱めに唇を震わせ右手を握りしめる。
左手で腰に帯びた紅竜の剣の鞘を掴んで立ち上がりかけ右手は柄に伸びそうになったが、そこにクルティスがすっと近寄って「殿下、御辛抱を」と囁き、隣の席のディートリッヒ嬢もユーキの上着の裾をぐっと引いた。
左手の紅竜の剣も、『相手にするな』と言わんばかりに落ち着いた冷たさを鞘越しに伝えて来る。
ユーキは息を二度、三度と深く吐くと、歯を喰いしばって両手を何とか開き、席に座り直した。
座の空気は吹雪が吹き荒れているかのように寒々しい。
随行者のうちスタイリス王子に極く近い者は薄ら笑いを隠そうともしないが、それ以外の者は表情を消して沈黙を守っている。
はあ、はあ、とまだ息を荒げているスタイリス王子にクレベール王子が静かに声を掛けた。
「兄上、今のはお言葉が過ぎるのでは」
「ふん、愚か者というのが気に障ったのであれば、愚かでないことを証明して見せろ。そうだな、ユークリウス、どうしても子爵を罰したいと言うのであれば、子爵に責任があることの明確な証拠を示せ。それができれば、『愚か者』は取り消してやる」
スタイリス王子は荒い息のままでユーキに告げた。
体を反らして椅子の背もたれに預けて顎を突き出し、ユーキを見下ろしながらの宣言だ。
お前には到底できはしまい、とその態度が言っている。
ユーキは再び歯を喰いしばった。
そのような事を言われる憶えはない。自分は村人の側にも子爵の側にも偏った立場を取ってはいない。
スタイリス王子の言っていることは無茶苦茶で、契約違反があると言ったりまだわからないと言ったり自己矛盾を起こしている。
理屈も何もなく、感情に任せて暴言を振り回しているだけだ。
その様な男に、このまま、周囲の者の面前で侮辱されたままには済ませたくない。
しかしながら、正使と見習いの立場の差は大きい。
投げつけられた侮蔑の言葉も、指導・教育だと強弁されればそれまでだ。
憤りは胸に燃え盛るが、事を荒立てても得られるものは何もない。
ディートリッヒ嬢は相変わらず上着の裾をがっちりと掴んでいるし、クルティスはいつでも飛び掛かって抑えられるように後ろで構えているだろう。
何より帯びた紅竜の剣が、いつのまにかその重みを増し鉛ででもあるかのように足腰を椅子に喰い込ませ、その氷のような冷気で『ビビりを相手にしても仕方がない』と告げている。これでは立つに立てない。
ディートリッヒ嬢やクルティスの言いたいこともわかる。
するべきは正使殿下と争う事ではない。訴えに関わる事実を掴む事だ。
今の時点ではまだ、誰に非があり誰が責を負うべきか、何の確証も得られていないのだ。
ユーキは何とか感情を抑え、伏し目がちに静かな声で答えた。
「子爵を罰するのが私の本意ではありません。ですが、承知しました」
「ほう。だが、お前にできるかな? できねば王都に戻った後に、パーティーの座興話で一同を大笑いさせるのに使わせてもらうとしよう。その前に、まずは愚か者が在りもしない物を捜し回ってウロウロするのを楽しく見物させてもらおうか。良い土産話ができそうだ」
「兄上、その位で」
クレベール王子が重ねて止めた事で、スタイリス王子はやっとユーキへの誹謗を止めた。
「よかろう。では、今日の調査に入るか。クレベール、手筈は昨日の予定通りで良いのだな?」
「はい、兄上。それからもう一つ、お願いしてよろしいでしょうか?」
「何だ? 面倒なことは御免だぞ」
「子爵に、もう要らぬ動きをせぬように、それと無く釘を刺していただけませんでしょうか。昨日、代官の部屋を押さえ損ねたことで、懲りてはいるでしょうが」
「それと無くか。手ぬるいようにも思うが、まあよかろう」
「よろしくお願いします。では、皆も、頼む」
「ユークリウス、『愚か者』でない証拠が山の中に落ちていることを祈るんだな。そんな可能性は無いと思うが。では、俺は行ってくる」
スタイリス王子が側近と供の者を連れて場を去ると、一同が大きく息をついた。
やれやれ、といった空気の中、クレベール王子がユーキに話し掛けた。
「ユークリウス殿下、気持ちはわかる。だが、正面から理屈を兄上にぶつけてはあのようになってしまう。そのことは考えても良かったかも知れないな」
「はい、クレベール殿下。申し訳ありません」
「謝る必要はない。それに、真面目は殿下の美点でもある。今後の足しにすれば良い。兄上の言葉を取り返せるよう、調査の方を励まれたい」
「承知しました」
「では、皆も、気を取り直して欲しい。調査はまだ二日目だ。先は長い。焦らずに行こう」
「はい」
一同が立ち上がり動きを始める中、クレベール王子は座ったままで考えていた。
先程は肝を冷やした。
兄の言葉は酷すぎた。
ユークリウスに決闘を挑まれても仕方が無いほどのものだった。
副使たる自分がもう少し早く兄を止めるべきを出遅れてしまい、危うい所だった。
もしそうなっていたら、この監察は成功するどころか大惨事に終わっていただろう。
兄は正使でありながら、そんなことにも気が回らない。
だが、ユークリウスは堪えた。
見ようによっては、王族にあるまじき、どうしようもない臆病者だ。
侮辱を受けたが故の決闘となれば、正使も見習いも無いのだから。
闘いを怖れて相手に従い『愚か者』の名に甘んじたのであれば、兄が言うまでもなく王族失格だ。
しかしそうではなく、自分の名誉を捨ててでも訴え出た者達のために働き監察を成功させる事を選ぶ、大いなる器の持ち主なのであれば。
周囲の中で、ユークリウスを惰弱と見ていたのは、一人二人、それ以上いただろうか。
少なくとも自分には、闘いを怖れる腑抜けには見えなかった。
いや、あの二人の間にすぐに立てなかった自分こそが腰抜けではないのか。
兄の怒気とユークリウスの憤りに気圧されて足腰に力が入らなかった。
理がどちらにあったかは明白だ。
それでも旗幟を明らかにできなかった自分はどうなのだ。
兄と、ユークリウスと、自分と。
クレベール王子は考えに沈み込み、供の者に促されるまで立ち上がることを忘れていた。
お読みいただき有難うございます。




