第70話 開戦
承前
ニードの衛兵隊の荷馬車は九十九折の山道を抜けて、峠への最後の急峻な坂の下にたどりついた。
ニードは坂を見上げた。
この光景を見るたびに嫌になる。
前の代官が開拓村を半ば放り出して村長に任せきりにした気持ちが分かる。
全員が乗ったままでは、荷馬車はこの坂を登れない。
ニードは全員に下車を命じた。
二頭輓きだ、御者役と装備だけならなんとかなるだろう。
自分たちは歩いて登らざるを得ないが、わずかな距離に過ぎない。
まあ、準備運動と思えば良いさ。
衛兵たちが降り、隊は荷馬車を先頭に坂をゆっくりと登り始めた。
衛兵たちは、ぶつくさ言いながらその後ろから付いて行く。
ニードは最後尾を進んだ。
坂を少し登ったところで、上の方から物音がした。
嫌な予感に駆られて見上げると、坂の上に複数の人影が見えたと思ったとたんに声が降ってきた。
「停まれ!」
停止を命じる上からの声に、ニードは反射的に叫んだ。
「上の者、何者だ!」
「お前たちこそ何者だ!」
誰何は、逆に相手からの誰何で返された。
ニードは走って隊列の先頭に出ながら叫び返す。
「領主たる子爵の代官だ! お前たちは開拓村の者か、無礼者め!」
「ああ、そうだ。だがこっちが無礼者ならそっちは無法者だ! 契約を破っておいて、何が領主だ、代官だ! 俺たちは国王陛下に訴えた。その決着がつくまでは、代官面は止めてもらおうか!」
上からの声は若い。どうやら青二才の正義感で訴え出たのだろうが、権威と権力の怖ろしさを知らないと見える。
そんな奴は脅して賺すに限る。
どうせ、監察使がそこまで来ていることはまだ知るまい。
「そんな訴えなど無効だ、若僧め! 訴えたところで国王は貴族の味方だ。いいか、いきなり税が上げられて驚いたのだろうが、この国ではこのくらいの税は普通にあるんだ、お取り上げになる訳がない! それどころか、王の罰は厳しいぞ! 悪いことは言わん、王都で絞首台にぶら下がりたくなければ、今すぐ取り下げたらどうだ! そうしたら楯突いたことは目を瞑ってやらんでもない。鞭打ちも回数を半分に減らしてやるぞ!」
「無効? 本当に無効なら、取り下げも何もないだろうが! みんな聞いたか? 契約を破る代官様が、有難くも鞭打ちを減らして下さるってよ! 『悪いことは言わん』だと? どの口が言ってるのか、見えないとでも思ってるのか!」
こちらを馬鹿にした返事と共に、ゲタゲタと大勢の笑い声がする。
ニードは坂の上を睨みつけると、衛兵たちに指示を出した。
「進め!」
すると隊列が進む間もなく、矢が一本、先頭の馬車の前方の地面に突き刺さった。
「下がれ、下がれ!」
「停まれといったろう! 次は当てるぞ!」
ニードが慌てて命じた後退に、上から警告の声がかぶさった。
畜生、この位置関係は不利だ。止むを得ん。
ニードは声の調子を変え、懐柔を試みることにした。
「わかった、話し合おう! 訴えを取り下げれば、鞭打ちは無しだ。税も少しは負けてやる。それでいいだろう!」
「馬鹿を言うな! 契約を守れ! お前がマーシーを袋叩きにしたことも、俺たちは忘れていないぞ! 何が『それでいいだろ』だ! 税は元通り、違う代官を寄こした上で、お前は棒打ち三十回、そうでなければ取り下げない!」
「ふざけるな! そんなことができるか!」
「だったらもうお前とは交渉しないまでだ! 領主様御本人か国王陛下のお使い様を連れて来い!」
「何だと! よかろう、反逆罪で吊るし首にされたいなら、そうしてやる! おい、上にいる他の奴! 首謀者を捕まえて連れて降りて来い! そうしたら、首謀者以外は吊るし首は勘弁してやる! いいか、五分だけ待ってやる!」
すると上からまたどっと笑い声がして、同じ若い声が返事をした。
「さっきも言ったろう! お前の言葉なんか誰が信じるか! そんなお前以下のバカは、この世にいねえよ! 吊るし首にしたかったらここまでやって来い! 俺たちは、死ぬ覚悟はもう出来てるんだ、お前らと違ってな!」
何だと? もう我慢ならん。
そっちがそのつもりなら、望み通り皆殺しにしてやる。多少の損害は止むを得ん。
「いいだろう、後悔してももう遅いぞ! 全員、剣を抜いて進め! 斬り捨てて構わない! 目にもの見せてやれ! 攻撃だ!」
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坂上
「攻撃だ!」
坂の下からニードが攻撃開始を命じる叫び声が聞こえる。
ケンは仲間達に「弓矢だ」と声を掛け、それに応じて七人が立ちあがって弓に矢をつがえた。
「狙いは馬だ。構え……よく狙え……放て!」
ケンの声に応じて、一斉に矢が放たれた。
手製の粗末な矢だが、第一射には試射で綺麗に飛んだものを選りすぐっている。
狙いは違わず、何本かが敵の隊列の先頭の荷馬車を引く二頭の馬車馬に当たった。
「グヒーッッ!」
馬が痛みに暴れ出して後ろ足で棒立ちになり、荷車は坂を転がり落ち始める。
それに引きずられて馬が倒れ、その衝撃で馬たちを荷車に繋いでいた留め具が外れた。
荷車は坂を落ちる途中で転覆して坂の下まで転がり、立ち上がった馬はその横を通って兵を跳ね飛ばして逃げて行った。
兵も何人かが傷ついて倒れたらしく、複数のうめき声が聞こえる。
それ以外の者は曲がり角の向こうへ逃げ戻ったようで、坂の上から見通せる範囲には、立ち上がっている者、こちらへ進んでくる者は一人もいない。
「柵を立てろ」
ケンは坂の上に目隠しを兼ねた矢避けを立てるように仲間に指示を出すと、大きく息をついた。
初戦は思い通り、いや、思った以上の出来だ。
準備ができていない敵の出鼻を挫いた。
馬と荷馬車を使い物にならなくし、兵も何人かは戦力外になっただろう。
こちらは意気揚がり、誰も傷ついていない。
用意した手の内も、まだ弓矢しか見せていない。
だが、安心しちゃだめだ。
相手の出方が予想できたのはここまでだ。
ここから先は、相手の出方次第で機敏に対策を変えなければならない。
自分が試されるのはここからなのだ。
ケンは大声を出して喉が枯れそうなのに気が付いた。
革袋から水を一口、二口飲む。生温いがそんなことを気にしている場合ではない。
『絶対に折れるな』『守りに必要なのは心の強さ』、辺境伯様とお嬢様の言葉を噛み締める。
俺が仲間たちの先頭に立ち、何としても村と、村のみんなを守り切るんだ。
相手の馬はもう使えない。普通に攻めてくればまた弓矢の餌食だ。
だとすれば、相手の次の手は何だ? 考えろ。相手の手を読むんだ。
ニードはどんな野郎だ?
無茶な契約を無理やり押し付けて来た。理屈も何もない。
断ったら、脅し、暴力を揮って来ただけだ。
複雑なことをして来るような知恵があるとは思えない。
であれば力押しで来る可能性が高いし、その方が有難い。
どの手で押し返す?
坂の下を監視していると、ちょろちょろと顔を覗かせている奴がいる。
多分、ニードだろう。
「次に頭が見えたら矢を射るんだ。当たらなくても構わない、けん制してこちらの様子を探らせないようにするんだ。二、三本でいい」
また頭が見えて、仲間が矢を放つと慌てて引っ込んだ。
臆病者め、ちょっと煽ってやろう。
「どうかお言葉通り、お進み下さいませ! 契約も守らない御領主の、お口約束がお得意な、おつむのお良ろしいお代官様!!」
ケンが叫ぶと、仲間たちが大声で笑った。
笑えるのは、緊張しすぎていない証で悪くない。ニードの頭にも血を昇らせただろう。
だが、緩んで油断に繋がってはまずい。
「みんな、気を引き締めろ」
「おう!」
声を掛けると何人かが鋭い声で答える。これなら大丈夫だ。
さらに坂下の様子を見ていると敵も弓兵が現れて矢を放ってきたが、数本が山の中に消えていくと諦めたようで、引っ込んで行った。
よし、この分なら敵の飛び道具は心配しなくて良さそうだ。
「矢と石の準備だ」
指示を出すとケンはもう一度大きく深呼吸し、また坂の下を監視する。
その落ち着いた様子を見て、仲間たちは自信を深めた。
ケンに付いて行けば大丈夫だ。
ケンの指示をしっかり聞いて実行すれば、必ず勝てる。
仲間たちは互いに頷き合った。
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坂下
最初の進攻が弓矢で応戦されて跳ね返された後、ニードは無事な者たちとともに曲がり角の手前に戻ると、周囲を見回して人数を数えた。
無事なのは十七人、ということは倒れているのは三人か。
「くそっ」
農民どもめ、まさか本気で射掛けて来るとは思わなかったが、俺様に歯向かうとはいい度胸だ。
いいだろう、あの世で後悔させてやる。
全員に武装を確認するように命じておき、曲がり角のぎりぎりまで進む。
様子を窺うためにそろっと顔を覗かせるとたちまち矢が何本か飛んで来た。
慌てて頭を引っ込めると、上からの声が降って来た。
「どうかお言葉通り、お進み下さいませ! 契約も守らない御領主の、お口約束がお得意な、おつむのお良ろしいお代官様!!」
嘲りの叫び声の後には嗤い声が続いて聞こえ、ニードの感情が煮え滾った。
「農民風情が馬鹿にしやがって……」
頭に来たが、迂闊に飛び出すと一方的に矢を浴びてしまう。
こちらも弓は何張か持ってきているので、試しに射させてみた。
だが坂の下からは曲射で高く射ち上げないと峠の上まで届かない。
空へと放った矢は、夏の南風が逆風の上に横からの谷風までが重なり、あおられて勢いを失い山側に流れていく。これでは狙いのつけようがない。
一方で峠の上からの射ち下ろしは、風の影響を殆ど受けずに直射で狙い放題だ。
このまま攻撃を続ければ、弓矢だけで殲滅されかねない。
ニードが唇を噛みながらどうしようか考えていると、ボーゼが近づいて来て、囁き掛けた。
「ねえ代官様、一度、領都に戻って準備を整えてきた方が……」
「煩い、馬鹿を言うな! 農民どもにおめおめと追い返されたのでは、俺の名折れになるだろうが! それに、そんな暇はない。今、何とかしないと、後はないんだ!」
「……」
不服そうなボーゼを退けて、ニードが考えながら辺りを見回していると、上の連中が射掛けてきた矢が落ちているのが目に入った。
良く見ると矢じりがついておらず、木の枝先を斜めに切り落としただけのごく粗末なものだ。
貧乏人どもの雑な細工だ。こんな矢では、まともに狙いはつけられないだろう。
よし、これなら行ける。
「いいか、お前ら。坂を登り切って連中の中に入り込んでしまえば、こっちのものだ。所詮は素人の農民どもだ。近間の戦いになれば負けるわけがないんだ。おい、そこのお前たち、馬車から鎧を引き出せ」
何人かが姿勢を低くして荷馬車の残骸に走り寄り、崩れ落ちた荷物から鎧を引き出した。
鎖帷子の肩、胸、腹、腿の部分に鉄製の厚い装甲板が取り付けられた鎧だ。
かなりの重さだが、全員が今着ている革鎧よりもはるかに頑丈だ。
これなら田舎造りの矢も刃も通じないだろう。
念のためにと持ってきた五領が役に立つとはな。やはり準備は大切だ。
ニードは自分自身の周到さに満足して頷くと、周囲の者たちに自信たっぷりに命令を下した。
「鎧を着たら、前に立て。あの矢を見てみろ、あんな安物の弓矢など狙いはつかないし、当たったところでこれを着ていれば怖くない。他の者は、全員、鎧兵の後に隠れて続け。頭を下げて走るんだ。今に見ていろ、泥塗れの農民どもめ。今度は血塗れにしてやるからな」
命じられた衛兵たちは不安そうに互いを見交わす。まさかこんなことになろうとは。
王都組の五人も鎧を着込みながらむっつりと黙り込んで何も言わない。
全員がニードの目を避けながら隊列を組んだ。
命令は命令だ。嫌でも行くしかないのだ。
お読みいただき有難うございます。




