第66話 子爵の帰領
前話翌日ピオニル領
その日、代官ニードはかなり寝坊した。
昨夜の深酒が祟り、まだ酒が残っている。
頭痛が数日前のエルフ渡りのように何度も繰り返し襲って来て、気分は朝凪とは行かない。
だが、昨夜は愉快だった。
シェルケン侯爵家でハインツの下にいた時には考えもつかなかったような、最上等の酒を王都から取り寄せて飲んだ。
自分の才覚で得た地位だ。好きなように使わせてもらう。
今夜も美味い物を食って酒を飲むぞ。
そんなことを考えながら散らかった自分の下宿部屋を片付けてからピオニル子爵の邸に出勤すると、子爵家の馬車が玄関先に停まっている。
子爵が領に戻って来る予定はなかったはずだ。
何事かと急いで邸の中に入ると、従僕たちが慌ただしく走り回っている。
そのうちの一人が、こちらを見つけて、急き込んで言った。
「代官様、代官様の執務室で閣下がお待ちです。お急ぎください」
嫌な予感がして急いで執務室へ行こうとすると、いきなり館内に子爵の怒鳴り声が響いた。
「ニード! ニードはまだか!!」
残っていた酔いは一瞬で醒めた。
ニードが小走りに急ぐと、子爵が執務室から出て、廊下に立っている。
「閣下、どうされましたでしょうか?」
「どうもこうもあるか! 王都から監察使が来る! ネルント村の田舎者どもが、王都に上訴しやがった! 領主を畏れぬ糞塗れの下郎どもめが!」
「上訴?」
子爵は顔を真っ赤にして口汚く罵っている。
ニードには全く理解できなかったが、廊下で大声で話すような事ではない。
「閣下、ゆっくりとお伺いします。まずはお入りください」
子爵の背中を押すようにして自分の執務室に入らせた。
執務室で自分用の安楽椅子に座らせると少し落ち着いたようだが、顔の紅潮はひいていない。
執務机の前に立ち、尋ねた。
「お伺いします。何があったのでしょうか?」
「王城から使いが来た。ネルント村の者が、税についての契約が破られたと訴え出たそうだ。国王陛下がお取り上げになり、監察使が送られた。俺はその知らせを受けて、できるだけ早く出発して急ごうとした。途中でエルフ渡りの雨風に遭って遅れて監察使に一度追い付かれてしまったが、何とか引き離して夜通し馬車を走らせて戻って来た」
子爵は一気に言うと、はあ、はあ、と息を継ぎ、また怒鳴る。
「ニード、いったい何がどうなってるんだ? 税を上げろとは言ったが、監察使を送られるほどのことを命じた覚えはない!」
ニードは背中を冷汗が流れ落ちるのを感じた。
拙い。子爵に命じられた以上に税を上乗せした事は露見したのか?
「……上訴の受付を担当する官は、シェルケン侯爵閣下の息がかかっていたかと思います。何かあればそこで差し止めていただけるものと思っていたのですが。侯爵閣下から何か連絡は?」
「無い。何も無い。何がどうなっているのかわからない。だが、どうやら連中はクリーゲブルグ辺境伯に、訴状を陛下に届けるよう頼んだらしい」
「よろしいでしょうか?」
脇に控えていた男、子爵に同行してきた王都詰めの者が、口を挟んできた。
「陛下からの使者によれば、ネルント村からの訴えに加えて、辺境伯からの添え状として、我が領との契約からの違背の訴えが出されたとのことです」
「その契約とはいったい何なのだ?」
「当領での小麦の作付けの抑制と、辺境伯領からの小麦粉の支援に関するもののようです」
「ニード、どうするつもりだ? 俺は契約の内容は何も知らんぞ。お前が、親父が交わした契約など全て気にする必要は無い、俺の代になったら無効だと言って来たのだぞ。辺境伯とも手切れをしてしまえば全てそれまでだと。だから、俺はそんな契約書なら焼き捨てて構わんと返事したのだ。今更どうにもならんぞ。おいニード、領は全て任せて王都にいろと言ったのはお前だぞ。俺には何もできん。いったいどうするつもりだ!!」
年下の子爵に大声で怒鳴りつけられて、ニードは心の中で毒づいた。
うるせえガキだ、何もできないんだったら黙ってやがれ。
どうせ始末はこっちで付けることになるんだ。
クリーゲブルグ辺境伯領との契約を破棄交渉せずに無視したのは、辺境伯の権威を落とせというシェルケン侯爵の指示に従ってやったことだ。だが、やり過ぎたか?
まあいい、そんなことはどうにでもなる。
ニードは冷静を装って、無理やりに作った笑顔を子爵に向けた。
「閣下、お静かに。御安心ください。辺境伯との契約については、互いの認識にずれがあるだけのことです。仮に結果的に違約になったとしても、そこは交渉事です。譲歩も含めて辺境伯と交渉すると監察使に答えれば、何とでもなりましょう」
「ネルント村の方は? 陛下に問題にされるようなことをした覚えはないぞ! お前、俺の知らない事を何かやったのではないだろうな?」
拙い。そっちは拙い。事実を言うわけにはいかない。
農民どもめ、何てことをしやがったんだ。
調べが入る前に何とかしないと、大変なことになる。
ニードは笑顔を必死に保とうとする。
「お手紙でお許しを頂いた以上の事はしておりません。陛下は、辺境伯との問題と合わせて考えたのかも知れません。個々には些細なことでも、二つ合わさると目を瞑れないということもありえます」
「じゃあ、どうするのだ」
「村の連中に、訴えを取り下げさせれば済むことです」
「どうやって?」
「兵をお貸しください。田舎の農民の事です。多少頭を使う輩がいるようですが、そういう奴に限って力には弱いものです」
「脅すのか?」
「いいえ、和解のためのただの穏便な話し合いです。兵はこちらが本気であることを示すためだけのものです。但し相手が力ずくで通そうとすれば別ですが」
「鎮圧するということか?」
「そのような大事ではありません。もし連中が暴れればもちろん全員取り押さえます。しかしそうはなりますまい。何十人かの兵と剣を見れば、腰を抜かして従うでしょう。農民とはそういうものです。ああ、一人二人は跳ね返りがいるかも知れませんが、そいつらはきちんと懲らしめます。それで済むことです」
「しかし、監察使はもう遠からず、数日中にもやって来るぞ」
「準備が整い次第、すぐに出発します。なあに、往復で三日もあれば片が付きます。監察使には、訴えは取り下げられたと、胸を張って答えれば良いのです。御安心ください。もし私が戻らぬ間に監察使が来られたら、御自分は契約も何も知らない、関係ない、代官に任せてあるとお答えください」
「ああ、実際に俺は何も知らんのだからな。任せて良いのだな?」
「はい。お任せください。私の行先はできるだけ御内分に。どうしても話さざるを得なくなったら、代官は穏便な話し合いに行ったのだと」
「それは問題にならないのだな? 本当に大丈夫なのだな?」
「大丈夫ですとも。事実なのですから」
「それならば、すぐに準備にかかれ」
「はい」
子爵はどうやら落ち着いたようだ。ニードは王都詰めの者に尋ねた。
「ところで、監察使には、どなたが来られるのですか?」
「正使がスタイリス王子、副使がクレベール王子とのことです」
……王子、それも二人だと?
冗談じゃない。王族が来るとは一大事だが、子爵にそれを言っても始まるまい。
スタイリス王子は庶民の人気が自慢らしいが、それ以上に王族らしく権力志向が強く、自尊心が強いとも聞く。
うまく煽てて取り入れば、何とかなるかもしれない。
ニードは子爵に向き直る。
「若い王子お二人を選ばれたということは、恐らく、国王陛下はそれほど大事とは思っておられぬのでしょう。お二人は齢も閣下と近いですから、お若い方同士、親交を深めさせる狙いもあるのでしょう」
「そうだろうか」
「はい。重大事であれば、正使はともかく、副使には優秀な官を充てるものです。どうか篤くおもてなしいただいて、国王陛下へのお取り成しをお願いしてください。特に正使のスタイリス王子には、恭しく、丁寧な接遇を心掛けてください」
「そうだな」
「私は急いで兵を出します。閣下は、監察使を迎える準備をよろしくお願いします。とにかく丁寧な対応、十分な儀礼ともてなしを家令や侍女頭に命じて整えさせてください」
「よかろう。いいかニード、訴えは間違いなく取り下げさせろ。何としてでもだ。いいな」
「はい、閣下。では、失礼いたします」
ニードは執務室を出ると大きく息をついた。
よし、税額の事は詳しく聞かれずに済んだ。
後は、跳ねっ返りの農民どもを始末すれば済む。
30分後、ニードは衛兵の詰所の小部屋で、衛兵長と睨み合っていた。
衛兵全員を率いて共にネルント開拓村に行くようにとの指示に、衛兵長が従わないのだ。
「私は行かない」
「……どういうつもりだ」
ニードは衛兵長ににじり寄り、ゆっくりと顎を突き出しながら見上げ、半目でさらに睨みつける。
衛兵長はニードより頭半分背が高い。
彼は動じず、ニードの目を睨み返す。
「どうもこうもない。命じられたのはお前だ。お前が行けばいい」
「お前は衛兵長だろうが」
「前に言った。お前と一緒には行かない。大したことじゃない、お前と一緒に行く奴をみつけるだけ、なんだろう?」
「衛兵長の務めを放棄するつもりか?」
「私は本来閣下の直属だ。閣下が戻られている今、ただの代官に過ぎないお前に衛兵長の務めをどうこう言われる筋合いはない」
「なんだと?」
ニードの右手が伸び、衛兵長の胸倉をつかむ。
「ただの代官だと? 今回の出兵は、俺が閣下から任されたのだ。俺の指示は閣下の指示だ。それに従わないと言うなら、覚悟があるんだろうな?」
衛兵長は慌てず、その手首を掴むと、ゆっくりと力を込めていく。
「どうにかできるものならやってみろ」
「……」
「国王陛下からの監察使をお迎えするのに、衛兵も儀礼の準備が必要だ。それを衛兵長が監督しなくてどうするんだ? 聞こえているか? お前のくだらない暴力沙汰につきあう暇は、な・い・ん・だ」
そう言いながら、ニードの手首を握る手に、思いきり力を入れる。
「くっ。放せ!」
ニードは苦々しげに言うと衛兵長の手を振り払った。
「衛兵たちには、希望者はお前についていくように言ってある。残りは俺と、監察使を出迎える手筈を整える。お前が王都から連れてきた連中以外に、何人がお前にへつらうかな?」
「今の言葉、憶えてやがれ……監察使が帰ったら、決着をつけてやる」
「ふふん」
ニードが脅すが、衛兵長は鼻先で笑う。
「絶対に後悔させてやるからな」
ニードは歯ぎしりして言い捨てると、人数を揃えるために部屋を出て行った。
結局、ニードに従った衛兵は、王都から連れて来た5人を含めても、領都詰めの50人のうち16人だけだった。
もう少し人数が欲しかったが、他の町から集めていては時間が掛かりすぎる。
領都の傭兵ギルドにも募集をかけたが、その日のうちに応じたのは4人だけ、しかも急いでいるこちらの足元を見られて結構な額を吹っ掛けられた。
ギルドで傭兵を雇うには、通常は半金の前払いが必要だ。
もし任務完了前に死んだら1ダランも入らなくなるので当然だが、今回は急ぎで都合がつかないと言い張って、相場より相当高く雇う代わりに全額後払いということにした。
どうせ支払うのは子爵の金で、自分の腹は痛まない。
それに事が思い通りに済んだら、難癖をつけて値切り、その差額のいくらかを懐に入れるつもりだ。
開拓村までの往復の駄賃程度にはなると、ニードはほくそ笑む。
総勢は自分を加えて21人。多くはないが、無力な農民どもを脅すには十分だろう。
お読みいただき有難うございます。




