第63話 魔の森の伝説
王国歴223年5月(前話の約一週間後)
監察団はピオニル子爵領を目指した。
王族が正副使であるため、通過する各領では領主館に宿泊して領主あるいはその代理の挨拶を受けながらの旅である。
三人の王子と随行の多くの者が馬に乗り、荷物等が馬車で続く。
初日はまあまあの天候だったが、二日目、三日目は雨風に見舞われた。
毎年この季節特有の「春のエルフ渡り」と呼ばれる嵐だが、幸い今年は進めないほどの雨ではなかったので、一行は騎乗用の合羽を羽織り、通常より遅いながらも先に進んだ。
三日目の宿に用いた領主の館で聞くと、天候は二日間相当荒れて主街道も南へは通行できなかったと言う。
どうやら嵐は南に偏ったようだ。
四日目、昨日までとは打って変わった好天に恵まれた。
雨で埃が洗い流されたのか、この季節にしては空が抜けるように青い。
行程はこの先、ローゼン大森林に沿って進むことになる。
街から出てしばらく行くと、雨で増水した、森の中から流れてくる小川に差し掛かった。
架けられた古びた木橋を渡るときに、スタイリス王子が川の流れを見ながら、誰にともなく言い出した。
「そう言えば、この森の中に小さな湖があるらしいな」
「ええ、それなりに綺麗な湖で干ばつの際も枯れないらしいです。千年ほど前には無かったらしいのですが、いつの間にか湧き出した水が溜まって結構な大きさになり、五百年前にはもう今と同じ程度の規模になっていたとか。この森自体、大昔はそれほど広くなくて荒れ地が多かったそうですが、湖ができてから繁りだし、今では国の南部を二つに分ける大森林です。今もまだ拡がり続けているらしいです」
クレベール王子の従者が答えた。
「ほう、貴様、詳しいな」
「殿下、この森の呼び名を御存知ありませんか?」
「『ローゼン大森林』だろう」
「その通りですが、誰もそうは呼びません。名を呼ぶのを恐れ、『黒く深き魔の森』と言います。この森は多くの領にまたがりますが、どの領でも村人はこの森には入りたがらぬそうで、事実上、どの領にも属さぬ扱いです。迂闊に一人で入り込むと、なかなか出てこられないのだそうで。昔に若い男が迷い込んで行方知れずになり、二度と出てこなかったり、何年か後に出てきたときには爺になっていたり、ということもあったそうです」
「湖の魔に捕まって、精を吸われたとか?」
「でも、美人なら本望なんじゃないのか?」
従者が言い伝えを教えると、随行者たちも口々に茶化して笑った。
「ユークリウス、お前はまだ女に縁がないんだろう? パーティーでも良いようにからかわれていたじゃないか。妖魔でも相手してもらって経験を積めばいいんじゃないか?」
スタイリス王子がユーキを小馬鹿にして笑うと、何人かが「違いない!」と追従笑いをした。
相手をしても仕方がないので、ユーキは黙って放っておくことにした。
だが、それを機に、随行の者たちが口々に話し出した。
「最近も、人攫いから逃れようとして森に走りこんだ村の少女が、そのまま出て来られなくなったとか」
「うん? 私の聞いた話では、少女を攫った拐かしの一団が追手の衛兵から逃れようとして森に入ったところ、少女だけが森のかなり離れた場所から出て来て、拐かしも衛兵も諸共に行方不明になったことになっているが」
「村の少女じゃなくて、行商人の荷馬車が盗賊に襲われて森に逃げ込んだんじゃなかったか?」
「ああ、もういい! 馬鹿馬鹿しい。ただ迷子になったものを魔のせいにしたがるとは、田舎の愚か者らしいじゃないか。それで森に入るのを怖がるとは、臆病にも程がある、というものだ」
がやがやと笑いながらの下らない噂話の何が気に障ったか、スタイリス王子がイライラした声を出した。
側近たちは、機嫌を取ろうとし始める。
「そうですとも、スタイリス殿下。湖の事がそれなりに知られているということは、少なくともそこまでは無事に行って帰って来られた、ということでしょうに」
「ここはひとつ、我々が湖まで行って、魔とやらを退治して見せますか? そんなもの、おらぬとは思いますが」
するとスタイリス王子の側近がいかにも『閃いた!』という顔つきで言い出した。
「今、伝説を思いつきましたよ! 湖の岸辺には不折の名剣が刺さっていて、それを抜いて持ち帰った者は、湖の精ウンディーネの加護を得て救世の名君となり、絶世の美女を娶ると言われている、というのはどうです、殿下?」
「伝説を今思いつくって、おかしいだろ! どうですと言われても、そんなもの聞いたことが無いぞ」
「いえいえ、これから殿下が刺さった剣を抜くのです。そして話を我々が広めれば良いのです。街の酒場で馬鹿な雀どもに酒を飲ませて話してやれば、勝手に囀ってあちこちに広めてくれますよ」
「殿下の国民人気がさらに上がりますな!」
「元々殿下は美しい令嬢方からも人気の的ですから、絶世の美女を娶られるのは、間違いありませんしね!」
スタイリス王子はにやっと笑った。どうやらお気に召したようだ。
「まあ、下々に広めるかどうかはともかく、パーティーでの話の種にはなるかもな!」
「殿下、国王陛下の使者が寄り道をするのはいかがかと思いますが……」
「ユークリウス、つまらないことを言うな。お前は堅物すぎる。前を見てみろ。追い付きそうだろうが」
前方にかすかに先を急ぐ馬車が見える。
国王の監察団が来ることを知らせようと、ピオニル子爵が王都から先んじて出発したのだが、ここ数日のエルフ渡りの雨風で進めなかったのだろう。昨日に追いついてしまった。
今朝は早くに慌てて出発したらしいが、馬車はぬかるんだ悪路のせいで遅々として進まず、まだ全く距離が空いていない。
「監察の知らせと監察団が同時に着いては、迎えの準備もできんだろう。ここは少し余裕を与えてやっても良いではないか。そのための待機なら、問題はあるまい? 我々の荷馬車も遅れているのだ」
それは違うだろう、下らないお遊びをしている場合じゃない、隠蔽工作を防ぐためにできるだけ早く到着すべきだとは思ったが、正使に逆らっても仕方がない。
「承知致しました。お教え有難うございます」
ユーキが遜ると満足したらしく、スタイリス王子は時間潰しの相談を始めた。
「それで剣はどうする。俺が今帯びているやつは、皆が既に知っている銘剣だから、湖で抜いてきたといっても通じるまい?」
「剣など何でも良いのですよ。後から柄や鞘をそれらしく装飾してやれば済みますから。どんな剣でも使わなければ折れることは無いのです。まあ、伝説の剣だから、古びている方がそれらしいですな」
「そうだな……デニス、お前の剣をよこせ。一番ボロボロ……いや、古めかしいのはお前のやつだろう」
勝手なことをいわれて、随行者の従者のデニスもさすがにムッとする。
「それはちょっと……」
「いいじゃないか。ただとは言わない。そんなに高くもないだろうが、色を付けてやる」
スタイリス王子はそう言って財布をまさぐると、ヴィンド金貨を投げよこしてきた。
デニスは腹は立ったようだが、1ヴィンドあれば数振りは買える安物であることは間違いないし、正使殿下に逆らってもこの先良いことは何もない。
渋々、鞘ごと剣帯から外して渡した。
スタイリス王子はそれを左手に持つと満足そうにニヤリと笑い、木立の中に入ろうとする。
「では行くか。川沿いを行けば、道に迷うことはないだろう」
「あの、殿下、私はここで供の者と共に皆様をお待ちいたしますわ」
随行の一人が躊躇いがちに言い出した。
ベアトリクス・ディートリッヒ伯爵令嬢、随行者の中で唯一の女性だ。
「私は、魔とか霊とか、そういうものが苦手ですので、お恥ずかしい次第でございます」
「ふん、まあ、女は怖がりだからな。仕方あるまい、好きにしろ。男は全員来い」
スタイリス王子は言い捨てて森に分け入った。
ベアトリクスを除いた随行者たちも続いた。
ユーキとクルティスは菫と菖蒲の言葉を思い出して顔を見合わせたが、正使の命令ではやむを得ない。
不承不承ながら従うことにして、森に向かって共に「失礼致します」と一礼してから後を追った。
一行は徐々に密になる木々の間を小川に沿って馬を進めた。
当初は互いに軽口をたたいていたが、静まり返って鳥の声もしない雰囲気に、徐々に無口になった。
小一時間ほど行くと、湖に出た。
一行が思っていたよりもずっと大きい。
湖岸は大半が樹木に覆われて鬱蒼としている。
向こう岸の木が低く見え、湖というより沼と言った方が良いような印象だ。
風はなく、湖の湿気で空気が重く感じられる。
「おお、いかにも妖精がいそうな雰囲気だな! よし」
スタイリス王子は道中ずっと森の雰囲気に気圧されていたが、辺りの情景に満足したのか、上機嫌で馬から降り、デニスから取り上げた剣を抜くと湖岸に近づき、いきなり一度二度、左右に振った。
「危ない!」
ユーキが思わず小さく叫ぶと、スタイリス王子は怪訝な顔をして不満そうに咎めた。
「何が危ないんだ? 俺を剣の素人とでも思っているのか」
「いいえ、申し訳ありません」
謝られて満足したのか、気を取り直したようだ。
「ふん、良いだろう。では、伝説の英雄になるとするか!」
そう言いざまにスタイリス王子が剣をもう一度振った刹那、手が滑ったのか、取り落としてしまった。
ユーキははっとしたが、手を離れた剣は地面に落ちず、そのまま空中で止まった。
「ん? な、なんだ?」
スタイリス王子は驚きのあまり鞘を取り落とし、右手を左手で押さえながら一歩二歩と後ずさった。
剣は空中で横に倒れかけたが、水平になって留まっている。
かと思ったらふるふると震えながらゆっくりと回って向きを変え、切っ先をスタイリス王子に向けた。
「ど、どうなっているんだ?」
「え? え?」「こ、これは」「妖精?」
皆が驚いているうちに剣が少し上がり、するするとスタイリス王子に向かってくる。
「うわ! やめろ!」
スタイリス王子は尻餅を突き、後ろ向きに這って切っ先から逃れると、急いで立ち上がって馬に駆け寄り、飛び乗ると振り返りもせずに一目散に逃げ出した。
他の皆も慌ててその後を追う。
ユーキたちもそれに続いた。
声もなく数分間逃げたところで、スタイリス王子が馬を停めた。
皆が追いつくと、震えながら問いかけるでもなく呟く。
「何だったんだあれは……」
周囲が無言でいると、気を取り直したのか、急に大声を上げた。
「何かの錯覚だ! ありえない! 俺は剣の達人だぞ! それなのに、剣が勝手に手を離れて俺を刺そうとするなんて! ありえないだろう!」
「そうですそうです」「剣が空中を勝手に動くとか、ありえません!」「剣が狂って殿下に刃向かうなど、あっていいはずがありません!」「その通りです」「錯覚に違いありません」
「そうだよな。だが」
皆の追従に少し落ち着いたのか、スタイリス王子は周りを見回すと無表情でいたユーキに目を止めた。
「剣をあのままにしておく訳にもいくまい。子供が拾いでもしたら危ないからな」
そしてニヤッと笑って命じた。
「ユークリウス、取ってこい。お前、さっき『妖精?』とか言っていたな。いもしないものにおびえているようでは、王族の恥だ。剣を拾って、そのついでに妖精などいないことを確認してこい」
「……承知しました」
ユーキは一瞬考えたが馬を返した。
クルティスが続こうとするが、スタイリス王子が口を歪めて薄ら笑いしながら引き留めた。
「待て、お前は敷物を出せ。ユークリウスが戻るまでここで休憩する」
どうやら自分が怖い思いをした腹いせに、ユーキに肝試しをさせたいらしい。
クルティスは無表情のままユーキを見たが、ユーキが頷いて見せると「承知しました」と返事をして下馬し、周囲の者に気付かれぬようにまた森に向かって一礼して、『(しばし場所をお借りいたします)』と心の中で呟いてから休憩の準備を始めた。
ユーキは急ぐでもなく躊躇うでもなく、皆がさっき言っていたことを考えながら湖に向かって馬を進めた。
他の皆は剣が独りでに動いたものと思っているらしい。
どうやら、自分が見たものとは若干違うようだ。
どちらにせよ、信じ難いことではあるのだが。
そうこうするうちに森が開け、先程の場所が目に入った。
それはまだそこにいた。
こちらに背を向け、地面に刺さった剣を抜こうと踏ん張りながら。
ユーキが馬から降り、声を掛けるべきか迷いながら歩を進めると、その少女がこちらを振り向いた。
「やっぱり戻ってきたね。ちょっと手伝ってくれないかなあ、王子君」
お読みいただき有難うございます。




