第4話 王都の馬場に吹く風
第4話~第7話は、もう一人の主人公、王族の末の連枝であるユーキに話は移ります。
王国歴218年9月(ユーキ12歳)
この日、この国の草原を渡ってくる風はいつもより穏やかだった。
風の国と呼ばれるヴィンティア王国は、一年中風が吹く。
夏から秋に移ろうとするこの季節には、湿った南風と乾いた西風がせめぎ合う。
今日は西風が優勢で、爽やかさが優る風のそよぎの心地よさを、貴族も庶民たちも楽しんでいることだろう。
だが、この国の王族の一人であるユーキはその風に気付かないでいた。
いや、気にしている余裕がなかった。
ユーキは最近始めた乗馬の練習に懸命だった。
馬の背は不安定だ。鐙をしっかりと踏んで膝をゆるめ、手綱を握りしめて真っ直ぐ鞍に乗って背を伸ばす。
「(遠くを見る、遠くを見る、)」
従者であり教育係でもあるクーツに教えられた言葉を心の中で繰り返しながら、馬の歩みに合わせて腰でバランスを取り、背中と首で衝撃を吸収して頭を揺らさない。
教えられたことは覚えているのだが、だからと言ってそれが実行できるかどうかは別問題だ。
実際には鞍から転げ落ちないようにするのにユーキは必死だった。
馬場のちょっとした凹凸で馬の歩みのリズムが変わり、鞍が少し傾くだけで姿勢が崩れる。
「くっ」
つい馬と馬場に目を落とすと背中が丸まり、さらにバランスが苦しくなる。
額から吹き出す汗が顔を伝い、顎から滴り落ちるが、拭うこともできない。
「殿下、腰が落ちております! それでは馬に振り回されてしまいます!」
集中を切らすと、クーツから叱責の声が飛んでくる。
汗は顔だけではなく全身にかいている。
乗馬練習用の馬場は、草原の中にある馬の繁殖牧場に併設されている。
もし余裕があれば、はるか彼方から草原を越えて吹いてくる風を心地よく思い、その行く末を眺めることもできるのだろうが、それどころではない。
前を行く従者見習のクルティスが悠々と馬を進めているのを見ると、羨ましくもあり恨めしくもある。
「殿下、気をそらさない! 常歩で落馬するようなことがあっては、王族の名折れとなりますぞ!」
後ろからくるクーツの声には容赦がない。
そう、まだ馬をゆっくりと歩かせているだけなのだ。
しかし、馬には王子の権威は通じない。
気を緩めると、いきなり止まったり曲がろうとしたり、練習を始めて間もないユーキには思うに任せない。
ユークリウス・ウィルヘルム・ヴィンティア。ユーキの本名だ。
親しいものには私的な場ではユーキと呼ばれている。
この国で王位継承権を持つ者の中で最も年下の12歳。
まだ12歳だから、と言い訳したくもなるが、同時に練習を始めたはずのクルティスは既に苦も無く乗りこなしているのだ。ユーキは溜息をつきたくなった。
クーツの息子のクルティスは、剣術や体術も上達が早い。
ユーキもそれなりに自信はあったのだが、一つ年下のクルティスにあっという間に追い越されてしまった。
悔しいのは、身長まで抜かれそうになっていることだ。
勝てるのは勉学だけであろうか。
こちらはクルティスは得意ではないのか、年齢以上の差がついている。
もっともクルティスは従者見習の修行があるため、いつも一緒に学んでいるわけではない。勝って当たり前ではないか。
……余所事を考えていると、またクーツに注意されてしまう。
ユーキは気を引き締めて馬の歩みに集中する。
「少し休憩いたしましょう」
小一時間ほど練習を続けた後に、やっとクーツが声を和らげた。
三人は馬に水を与えて柵に繋ぐ。
ユーキは馬場の脇に据えられた椅子に腰を下ろした。
クーツとクルティスがコップをのせた盆と水差しを持ってくる。
ユーキはクルティスが注いでくれたコップの水を一気に飲み干した。
「ああ、なんて美味い水なんだ」
「全くですね」
クルティスも飲みながら笑って言う。
本当かなあ。お前は汗を殆どかいていないじゃないか。
僕なんか、背中に力を入れすぎて、ひきつりそうなんだ。
空のコップを持ったまま両腕を挙げ、こわごわと背筋を伸ばす。大丈夫だ。
そのまま胸をそらし、うーん、と力一杯に息を吸い、腕を下ろしながら吐き終わると、ようやく風の爽やかさを意識できた。
もう一杯、水を注いでもらい、こんどはゆっくり味わいながら飲む。
井戸からの汲みたてだろうか、冷たくて美味い。
「殿下、かなり様になって参りました。毎日続ければ一週間ほどで、速歩に進むことができましょう」
「毎日かあ。体中が痛くてたまらないよ」
「初歩のうちは、一日休むと取り戻すのに二日かかります。毎日やっていれば、馬の動きに慣れる頃には体の痛みは治まります」
「そんな日が僕に来るのかな……来れば良いな……」
「弱音をお吐きなさいますな。それから『僕』ではなく『私』とおっしゃって下さい。乗馬は体の芯の鍛錬になります。剣術の上達にもつながりますぞ」
「そうであればいいな。剣も馬も、これ以上、クルティスに引き離されたくはないから」
「ならば今少し、修行時間を増やしますかな」
「勘弁して欲しい」
クルティスは横で何も言わずに控えているが、顔は笑っているのが見えた。悔しい。
「いや、やる。時間は増やして欲しい。その分、学術を減らしても構わない」
「そうは参りません。そちらはそちらでしっかりと学んでいただかないと。午後は導師の博士がいらっしゃいます」
「文法、算術、地理、歴史」
ユーキは嘆息した。
「いずれも大切な科目です」
「学術も嫌いではないけど、導師の勿体ぶった喋り方がまどろっこしくて。午後は疲れて眠くなるし」
「眠っている場合ではありませんぞ。殿下にとって、無駄に過ごせる時間はありません」
あーあ、またクーツのお説教が始まるよと、とユーキは心中で嘆き、急いで口を挟んだ。
「焦らせるような事を言わないでくれるかな。僕はまだ、12歳なんだ」
「『僕』ではなく『私』です。良いですか、殿下は王族ではありますが、陛下にお近くはありません」
「むしろ遠い。末の大甥だからね。王位に縁がないことは明らかだよ」
「だからといって、それに備えなくて良いということにはなりません。王族の義務です」
「無駄なことだね」
肩を竦めて見せたが、クーツは怯まない。
「そうはおっしゃいますが、良く学んでおられます」
「内容は興味深いから。それに、王位はともかくとしても、王族として国民みんなを幸せにしたい。そのために励むのも務めだろう?」
「その通りです。さらに言えば、仮に玉座に座られなかったとしても、ゆくゆくは王家から放たれて爵位をいただくか、貴族家に養子として入られるか、いずれにせよ小さからぬ領の主になられるかも知れぬのです」
「うん」
「その時のためにも、学びをおろそかになさらないでください。また、民の実情を直接知るようになさってください」
「うん」
「なにとぞ、良い主となっていただきたく思います」
クーツは口癖のようにこれを言うのだ。
「良い主とはどのようなものだろうか」
「それは御自分でお考え下さい」
「面倒だなあ」
「面倒なものです。そうですね、足掛かりを差し上げるとすれば、逆に悪い主とはどのようなものかを考えてみられてはいかがでしょうか」
「それは足掛かりになっているのだろうか……同じことを言い替えているだけのように聞こえる……」
「それも含めて、お考え下さい。では、汗も引いたようですし、訓練に戻りましょうか」
「よし、やろう。まずは乗馬だ。馬もまともに乗りこなせないようでは、良い主どころではないだろうからな。ましてや、みんなを幸せにすることなどできるはずもない。やるぞ、クーツ」
ユーキはコップをテーブルに置いて勢いよく立ち上がる。
「その意気や良し。励みましょうぞ」
乗馬の訓練が終わると、ユーキたちは馬車に乗って馬場から王城内の邸まで戻った。
窓を開けると昼前にもかかわらず冷たい空気が入ってくる。
どうやら季節が変わろうとしているようだ。
草原を眺めると、良く伸びた草が秋風になびいているのが見える。
良い王とは、良い領主とはなんだろうか。
多くの、できることなら全ての国民を幸せにするには、僕はどうあれば良いのか。
ユーキは自問自答を繰り返す。
「悪い領主とは、領民に嫌われる領主か」
「いや、領民は自分たちのすぐ周りの事、そして今の事だけを見て領主を好いたり嫌ったりする」
「領全体を、そして領の将来を考えるのが領主の役割だ。大部分の領民にとっては良い策も、一部の者にとっては不利益となることもある」
「将来の領民のための策が、今いる者たちの負担でなされる事もある」
「全ての領民に好かれる領主など、お伽話の中にしかいない。領主を嫌う領民は常にいる、場合によっては大半の者に嫌われると覚悟するべきだ」
「逆もそうだろうか。良い領主とは、領民に好かれる領主か」
「人気取りの策を行えば、その場の人気は得られるだろう。税を減らせば、領民は喜ぶ。でも、未来のための事業、開拓や街道整備に使える資金は減ってしまう」
「その日の食に困っている民に施しを行えば、感謝はされるだろう。でも、それを当てにして働かなくなる者が出れば、他の民は不満を持つかもしれない。働かずに生きていけるなら、誰だってそうしたい」
「いや、仕事に誇りを持ち、働くこと自体を喜びとする者たちもいる。そういう者たちを大切にし、増やしていくことが重要だ。みんなが働くことで幸せになって欲しい。そのためにはどうすれば良いのだろうか」
良い王とは、良い領主とはなんだろうか。どうすればみんなを幸せにできるのか。
あの日の誓いのために、そしていつか来るその日のために、準備をしなければならない。
馬車が邸につくまで、ユーキはあてどもなく沈思黙考する。
クーツとクルティスはその様子を見て静かに笑みを交わすと、またユーキを見守り続けた。
次話は、ユーキの従者見習で親友でもあるクルティスの話です。