第53話 辺境伯の館
前話翌日
翌朝、ケンは夜明け前にブルーノ兄に起こされた。
ブリギッテ義姉さんが用意してくれた焼きパンと野菜入りの温かいスープを食べた後、アルフ兄に促されて荷馬車の荷台に乗り込んだ。
ブルーノは小声で『頑張れよ』とささやき、笑顔で見送ってくれた。
町が見えなくなるとブルーノが準備してくれた作業着に着替え、手拭いで頬かむりをする。
荷台でもぶつぶつと言上の練習をしていると、御者席のアルフから声が掛かった。
「どうせ昨晩はあまり眠ってないんだろ。練習はもう十分だ。その位にして、居眠りでもしてろ。寝不足でぼやけた頭では、閣下の質問に答えられんぞ」
「わかった」
ケンは兄の言葉に従い、素直に眠ることにした。
腿を抱えて膝に頭を乗せていると、すぐに寝付いてしまった。
アルフは振り返ってその様子を見て笑ってしまったが、すぐに真剣な顔つきに戻った。
この弟は、たまに会うたびにどんどん成長している。
背は伸び、体つきは逞しくなった。もう俺やブルーノとそれほど変わらないぐらいだ。
その背中に背負っているもの、大事に思っているものも増えていっているようだ。
村の現実に向き合って、どんどん大人にならざるを得ないのだろう。
でも寝顔には幼さがまだまだ十分に残っている。
この離れて育った可愛い弟のために、兄である自分がしてやれることは少ない。
アルフは信心深い方ではないが、弟にこの試練を何とか無事に乗り切らせてやって欲しいと、神に祈った。
荷馬車が辺境伯領の領都の街中に入る少し前に、ケンはアルフに起こされた。
寝起きのぼーっとした頭では、言上をまともにできるわけがない。
しゃきっと、目を覚まさせておくように言われた。
ケンは手を組んで上に挙げ、背伸びをする。
首を左右に二、三度曲げているとさっぱりした気分になり、頭も冴えて来た。
荷台から顔を覗かせて外を見ると、天気は良い。
今日の成功を約束してくれているものと、無理にも信じ込むことにした。
そうこうするうちに荷馬車は街中に入る。
ケンが見たこともない大きな街だ。
建物の規模も人の数も、ケンの知っている町や村とはびっくりするぐらいに違う。
多分、何千人いや、ひょっとすると万を超える人が住んでいるのだろう。
自分には想像もできない人数だ。
ケンは頬かむりを被り直し、顔を出さないように気を付けて、幌の隙間から街並みを見物した。
様々な商店が建ち並んでいて、ひっきりなしに人々が出入りしている。
その賑わいにケンが驚いて目を見張っているうちに、辺境伯の大きな館に到着した。
荷馬車は一度表門を通り過ぎて、大通りから横道に入った。
どうやら裏門から入るようだ。
アルフが門番に気安く声をかけると、重厚な木造りの門が大きく開かれた。
門を通ってさらに進み、大きな建物の裏口、といってもかなり大きな出入り口の前で荷馬車は止まった。
アルフは御者席から降りて来ると、ケンに荷物を降ろすように言った。
「これを厨房に運ぶんだ。手伝ってくれ」
ブルーノが準備してくれた野菜入りの二つの箱を荷台から降ろすと、アルフは箱の一つを持った。
ケンがもう一つの箱を持つと、アルフは近くにいた使用人らしい女に、荷馬車を馬車寄せに移動させておくように頼み、先に立って歩き出した。
「こっちだ」
アルフは建物に入ってすぐ右手の扉を開けた。
扉が開くとたちまち様々な食べ物の匂いが押し寄せて来る。
中では何人もの男女が忙しく立ち働いている。
辺境伯の家族以外に奉公人もたくさんおり、彼らのための食事を一日中作り続けているのだろう。
いかにも盛運の下にある貴族家の厨房といった風情で、活気に満ち溢れている。
太った男が、働いている男女に陽気な大声で次々と指示を出している。
アルフは厨房の中に入るとその太った男に声をかけた。
「料理長、頼まれていた野菜だ。選りすぐりの特上ものだぞ」
「おお、有難う。済まんが、その台の上に置いてくれ」
「ここだな。ケン、お前のもだ。料理長、俺は閣下のところへ行ってくる。その間、こいつをここで待たせてやってくれないか?」
「ああ、いいぞ。その隅の椅子にでも座ってろ」
「ケン、ここで暫く待っていてくれ。閣下にお願いをしてくる。大丈夫だ、落ち着いて待っていろ」
そう言い残すとアルフは厨房から出て行った。
ケンが椅子に座って物珍しさにきょろきょろしていると、料理長がやって来た。
「おう、お前、アルフの所の若い者か?」
「はい」
「御苦労さん。これでも食えよ」
そう言うと小さな杏の実を投げてよこしてきた。
「有難うございます」
「ふーん」
皮ごとかじりついて食べていると顔をじろじろ見て来るので思わず顔を伏せる。
「おい」
ケンはびくっとした。
だが料理長は構わずに言った。
「顔が汚いなあ。お前、さては荷馬車で居眠りしてただろう」
「え……」
「目やにだらけじゃねえかよ。顔を洗って来な。そこの扉を出たら裏庭に雑用用の井戸があるから」
「はい……」
「そんなだらしない顔のやつに、御前様の館に出入りされたくねえよ。ほーれ、さっさと行って来い」
「済みません」
ケンは食べ終えた杏の種をごみ箱に捨てると、慌てて厨房から飛び出した。
後ろから、大勢の陽気な笑い声が聞こえる。
ケンは料理長から言われたとおりに裏口から裏庭に出た。
周りを探すと、確かに隅の方に井戸がある。
多分、馬に水をやったり、荷馬車を洗ったり、周囲の植木に水を撒いたりするのに使うのだろう。
釣瓶を落として水を汲み、置いてあった桶に溜めて顔を洗う。
冷たくて気持ちが良く、さっぱりして有難い。
風も涼風となって、顔に心地良い。
頬被りしていた手拭いを取り顔を拭いていると、後ろから女の声がした。
「そこの男」
「……」
「お前よ!」
「俺?」
驚いて振り向くと、簡素なデザインの、それでも上等な生地でできているであろう濃紺のドレスを着た中年の女が声を掛けて来た。
「見ない顔ね」
「トリニール町の代官様の下男です。荷物運びで参りました」
「そう、丁度いいわ。ちょっと手伝ってちょうだい」
「代官様に、厨房で待つように言われてるんですが」
「すぐに済むわ。運んで欲しい荷物があるの。ついて来て」
「ですが代官様が……」
「代官の下男なら御前様の下男も同然よ。いいからついて来なさい」
「はあ」
ケンは迷ったが、騒ぎを起こすわけにはいかないので、やむを得ず従うことにした。
どうやら、今しがた館に着いた荷馬車から、小さなチェストを運ぶらしい。
「これよ。持って来て」
大層な造りのチェストだが、持ち上げてみると大した重さではない。
中身は服か何かだろうか。
自分で運べば良さそうなものだが、貴族というのは面倒なものだ。
ケンは言われるままに、チェストを持ち上げて肩に担ごうした。
「ちょっと待ちなさい! 大切な荷物なの、乱暴な持ち方は止めてちょうだい」
「はあ、済みません」
叱られたので止む無く肩からおろし、両手で体の前に抱え持つ。
女は満足したのか、先に立って歩き出した。
裏口から館に入ると、廊下を進み、曲がり角を何回か曲がって階段を三階まで登り、とある部屋の前で女は立ち止まった。
「いいこと、このお部屋にいるお方に何か話し掛けられても、直接お答えせず、私に答えるようにすること。いいわね」
「はい、承知いたしました」
ケンの返事を聞いて女は変な顔をしたが、そのまま部屋の扉を開けて、中に声をかけた。
「お嬢様、王都のクローゼ商会からお衣装が届きました」
すると部屋の主らしい若い女の声が応えた。
「ありがとう。そこに置いておいてちょうだい」
「承知しました」
そう応えると、ケンを連れて来た女はケンの方に向いて言った。
「部屋に入っていいわ。扉の横に置いてちょうだい。大切なものだから、そっと置いて」
「はい」
指差された場所にケンがゆっくりとチェストを降ろすと、女に10ダラン銅貨を一枚渡された。
「御苦労様。これ、駄賃よ。行っていいわ」
ケンは頭を下げて早々に部屋を出ようとした。
ところが、部屋の主の若い女が声を掛けてきたために、足を止めざるを得なくなった。
「貴方、ちょっとお待ちなさい」
「お嬢様、この者は荷物運びの下男です。直接話しかけられてはなりません」
「下男? 本当に? それにしては体つきが良いわね、何か武術をやっているのではなくて?」
「お前、そうなの!? よもや刺客では?」
女は慌ててお嬢様の前に立って庇おうとする。
「大丈夫よ、モリア。この人、緊張はしているけれど、殺気はまるで感じないもの」
「あの」
ケンは『モリア』と呼ばれた女に向かって恐る恐る話しかけた。
「何? 言ってごらんなさい」
「怪しい者ではございません。早く代官様の所に戻りたいんですが」
「お嬢様、この者が言うには、ファジア代官に連れられて来たとのことです」
「そう、それは悪かったわね。モリア、案内してあげなさい」
「ですが、お嬢様」
「アルフ殿が怪しい者を引き入れる訳がありません。早くなさい」
「承知しました。お前、先に部屋から出なさい」
「はい、有難うございます。失礼いたします」
ケンが部屋から出て、廊下を来た方向に戻ろうとすると、モリアが引き留めた。
「待ちなさい。お前、本当に下男なの?」
「はい」
「本当に? 言葉使いも、らしくないわね」
「いえ、そんなことは」
「まあ、いいでしょう。後で代官に尋ねてみます。厨房の場所はわかりますか?」
「いいえ」
「突き当りを右へ。階段を一階まで下りて左へ。さらに突き当りを左へ。一番奥が厨房よ。それ以外を歩き回らないように。いいわね?」
「はい、有難うございます。失礼いたします」
ケンが立ち去ると、モリアは少し間を空けて後をつけた。
しかし特に不審な挙動もなく、厨房に戻るようだ。
と思ったら、すぐに代官と一緒に出て来てこちらへ来る。
モリアは慌ててお嬢様の部屋に戻った。
「お嬢様、あの男、やはり代官が連れて来た者で間違いないようです。厨房から、代官と共に出てきました」
「そう。やっぱりただの下男だったのかしら。何か張り詰めた雰囲気があると思ったのだけれど、私の勘違いね」
「それが、そうでも無さそうです。代官に付き従って、御前様の執務室の方に向かいました。ただの下男であれば、御前様に引き合わせることはあり得ないと思います」
「まあ。誰かしら。お父様の所へ行ってみようかしら」
「それはお止めなさいませ。お仕事の邪魔をしては、なりません」
「そうね。ああ、あの人の手を見せてもらえば良かったわ。剣胼胝があれば、すぐにわかったのに。折角ですもの、手合わせして見たかったわ」
「アンヌお嬢様、ついこの前にも武術好きが過ぎると、御前様と奥方様のお叱りを受けたばかりでございましょう。自重なさってください」
「はい。残念だけれど、仕方ないわね」
お読みいただき、有難うございます。




