第49話 アンジェラ
ユーキが小さい頃から身の回りの世話をしているアンジェラの話です。
本編の流れにはあまり関係ありませんが、軽い話が欲しくなって入れました。
王国歴223年4月初頭
ある朝、ユーキは朝食を一人で食べていた。
皿の上に載っているパンケーキは、給仕をしてくれているアンジェラが得意で、ふんわりと柔らかくほの甘く、とても美味しい。
いつもは蜂蜜を少しだけ掛けて、あっという間に食べてしまう。
だが今朝は昨日のことがつい何度も思い出されてしまって、なかなか食が進まない。
閣議で国王の御下問に答えた所、厳しく叱責されたのだ。
各領の生産性を向上させるために、お前ならどのような策を講じるかとの問いに、ユーキは領民の転領を国が命じるべしと答えた。
農地が足りず領民が飢えがちな領から、土地が余って耕し手が足りない領に人を移せば、効率が著しく向上すると考えての事だった。
それに対して国王は、それに駆り出されて慣れぬ土地に無理やり移される民はどう思うか、領の最重要資源である民を奪われる貴族はどう思うか、考えてみたことがあるかと問い直した。
ユーキが答えに詰まると、思い付きだけで物を言うな、国にとっては良くても関わる者に都合が悪くてはうまく行くわけがない、様々な立場を思いやる心が無くて王族が務まるかと、激しく論難された。
ユーキは常日頃から、国王には叱られて当たり前と心得た上で閣議の傍聴に臨んではいるが、それにしても昨日の叱責には凹んだ。
一夜明けても、なかなか気を取り直すことが出来ない。
今日はメリエンネ王女の見舞いに行く予定だが、こんな状態では逆に心配されてしまいそうだ。
溜息をついていると、ユーキの様子を見ていたアンジェラが近付いて来た。
「坊ちゃま、お加減が悪いのですか?」
そう言うと、いきなりユーキの額に手を当てた。
「うん、お熱は無いようですね。いや、少し熱くなってきた?」
「いきなり触るのは止めてくれない? 恥ずかしいから」
「そう言われましても昔からこうでしたので。むしろ以前は当たり前のようにおでこを差し出して下さいましたが」
「いや、僕ももう大人だから」
「大人でしたか。ホホホホ」
アンジェラは右手の甲を口に当て、高らかに笑う。
「何、その笑い」
「失礼しました。ですが、『坊ちゃま』と呼ばれて平気な方を大人とはお認めしがたいと思いまして」
「慣れちゃっているんだから仕方ないじゃないか」
「なんでしたら、『若様』とでもお呼びしましょうか?」
「もういいよ。そのうち、大人だと認めさせてみせるから」
「はい、何か月、何年かかるかわかりませんが、私を納得させていただけたら、お認め致しましょう」
アンジェラのその言葉を聞いて、ユーキは花園楼での薄とのやり取りを思い出した。
不安になった。僕は励めているだろうか。務めをおろそかにしていないだろうか。
そしてつい、口にしてしまった。
「ねえ、アンジェラ、僕の事をどう思う?」
アンジェラは驚いたように大袈裟に両手を口に寄せた。
「え、もしかして坊ちゃま、私の事を? お望みに? 大人って、そう言う……」
「いや、何言ってるの。そう言う意味じゃなくてさ」
ユーキは慌てて訂正しようとしたが、アンジェラは耳を貸さず、さらに身をよじりながら大仰な声で言う。
「でも主従だし、齢も離れているし。……いえ、愛さえあれば身分や年齢の差なんてきっと乗り越えられる。愛は自由よ!」
今度は身を反らし、手を天に向かって差し伸べている。
指先までピンと伸びていて、なかなかのものだ。
『身分の差なんて』か。
「うん、意見の趣旨には大賛成だね。でも、盛り上がっている所を申し訳ないんだけど、お祖母様も母上も、同じことをやっていたから。『血の繋がりなんて!』とか言って」
「はい、当家の女性陣の伝統芸術でございます。私はヘレナさんから教わりました。ヘレナさんは、『この両手で産湯をお使わせした坊ちゃまにお望みを受けようとは……』とかやってらっしゃいました」
アンジェラは同じポーズのまま答えた。
「そうなんだ。もうこれ以上伝わらずに断絶することを祈るよ」
アンジェラは元の給仕の姿勢に戻った。
「つれのうございますね、坊ちゃま。で、何でしたでしょう。ユークリウス殿下御自身について、第三者からの客観的人物評価を叙述せよとの御命でございますか?」
「……そう冷静に言われるのも恥ずかしいけど、どう思う?」
「ボタン、ですね」
「ボタン?」
「はい。ボタンでございます。それに象徴されているかと」
「意味がわからないんですけど」
ユーキが呆れ声で言っても、アンジェラは動じずに続ける。
「まだ坊ちゃまが幼い頃、五歳ぐらいの事でございましょうか。国王陛下がお出ましの時に、お目にかかるためにお召し替えされた際、服のボタンを自分で留めるのだとおっしゃって」
「そんな事があったの?」
「はい。当たり前のようにうまく行かず、半べそをかきながらも、懸命に続けられて」
「それで、うまく行ったの?」
「いいえ、全然。なかなか留められず、留まったと思ったら段違いで、悔しそうにされながら外そうとしてなかなか外れず。お召しに間に合わなくなるかもと、はらはらしながらも、見守っておりました」
「結局、どうなったの?」
「しばらくしてこちらの顔を見られた途端に、涙を流しそうになりながら、悔しさをこらえて『アンジェラ、やって。おねがい』とおっしゃいまして、ええ」
アンジェラは感慨深げに言って言葉を切った。
「それで?」
「それだけです」
「どういう事? やっぱり意味がわからないんだけど」
「私は感動しました。自立しようと粘り強く努力し、至らなさを潔く認め、昂る感情を抑え、人の気持ちや立場を思いやる。そのような人として大切なものを、幼くして既に持っておられると」
「ちょっと大げさじゃない?」
「いいえ、決して。貴族の子女には、『やってもらって当たり前』『できないのはちゃんと教えないお前が悪い』『こんな服、こうしてやる、ビリビリビリ』『できるまでいつまででも立って待ってろ』というような方々が、五歳どころか成人の儀を迎えてもおられます。それを思えば、高い評価に値します」
「そうなんだ」
「はい。他に象徴的な事象としては、食事でも、好きなものでもむやみに食べ過ぎない、嫌いなものでも頑張って食べる、でも本当に食べられない時はきちんとそう言って下さる、というのもあります。総括すると、誠実、謙虚、努力、克己、配慮で表されると評価しております」
「有難う。ちょっと、照れるね」
ユーキが照れて頭を掻くと、アンジェラは容赦なく続けた。
「短所としては、謙虚が過ぎて見ててじれったいというか、遠慮すんなというか、ガンガン行けよというか」
「言い方」
「御自分を主張する積極性をお持ちいただきたいと、かねて考えておりました」
「そうだね、自分でもそう思う時はある」
「でも取り越し苦労だったようです」
「え?」
「いえ、何でもありません。思うに、坊ちゃまは御前様の影響を強く受けておられるかと」
「父上の?」
「はい。御前様は伯爵家から王族に婿入りされた難しい御立場ですが、マレーネ様を陰から揺ぎ無く支え、御自身は目立たずとも苦にされず、家政もしっかりと担われておられます。御前様は頼りなさそうに見えて、本当の人格者でいらっしゃいます。恐らく、坊ちゃまはそのお姿を見て、知らず知らずに学ばれているのかも知れませんね。素晴らしいことだと思います」
「そうかなあ。でも、父上をそう言ってもらえるのも、似ていると言われるのも嬉しい」
ユーキが少し和んだのを見て、アンジェラは微笑みを浮かべながら問う。
「そうですか。時に、何か自信を失われるような事、あるいは御自分を試されるような事でもあったのですか?」
「え? どうして?」
「自分の事を人に尋ねるのは自信のない証拠ですから」
「なるほどね。うん、まあ。本当にこんな自分で大丈夫だろうか、もっと励まなくちゃと思う事があって」
「そうでしたか。それでしたら、そうですねえ、芯のような物、家で言うなら柱や棟木、船でいうなら竜骨、そう言うものをお持ちになれば、他人からの評価や自分への疑問にぶつかっても揺らがなくなりますよ」
「そう言われても、どうすれば良いのか」
アンジェラは微笑みを消し、真面目な顔つきになった。
滅多にないことだ。
「例えば、坊ちゃまは国のため、国民のために励んでおられますよね。それは陛下やマレーネ様、御前様に言われてそうするのですか?」
「うーん、最初はそうだったし、自分を磨くためというのもあったけど、今はそれだけじゃない」
「では、その他に何が?」
「ほら、笑顔って、気持ちいいよね? 王都の街を歩いたり、参賀の式に出たりした時に、笑顔の人たちがいるとそれだけで嬉しいなあって。この人たちに幸せにあって欲しい、このまま笑顔でいて欲しい、そうするとそれだけで僕も嬉しい、単純だけどそう思うんだ。そのために僕にできることをしたいって、そう考えて」
ユーキの答えを聞いてアンジェラはうんうんと、満足そうに頷いた。
「では、それを御自身の芯になさいませ」
「僕の芯?」
「はい。何かを考えられる時、判断される時に、本当にこれは人々を笑顔にできるのか、みなの幸せのためになるのかを考えられればよろしいのではないでしょうか。それで御自分が納得のいく御判断ができれば、人に誹りを受けても気にならなくなりましょう。大丈夫、坊ちゃまはその人を幸せにできます」
「なるほど、そうだよね」
「はい、お考えになってみてください」
「うん、そうするよ。有難う。昨日の僕は、確かに人の幸せを考えていなかった。もう一度自分で考えてみる」
みんなを幸せにする。
そうだった、僕はそう誓ったんだった。落ち込んでいる場合じゃないんだ。
暗かった気分も、アンジェラと話しているうちに立ち直って来た。
取りあえず今日は、メリエンネ様のお見舞いを頑張ろう。菫さんも頑張っているはずだ。
ユーキは、冷めかけた紅茶のカップを取り上げ、ゴクリ、ゴクリと飲み込んだ。
アンジェラには感謝だな。
「でもアンジェラは凄いね。昔から、普段は僕に教育がましいことを何も言わない、冗談みたいな事しか言わないけど、何かを尋ねると自分の考えを持っていてちゃんと答えてくれる。それに、武術も凄いんでしょ? 一撃必殺のカトラリー遣いだって? 以前にクルティスが言っていたよ」
「クルティスは、普段は子供以外にはあまり喋らないくせに、坊ちゃまには何でも言っちゃいますね。叱っておかないと」
アンジェラは「フッ」と溜息をついて肩をすくめてみせ、そして盆を片手で振る仕草をする。
「まあ、盆でも何でも硬い物の角で頭を力一杯殴れば、大概の人は倒れますから、必殺と言っても大した話ではございません。術と言っても、こんなことが出来るぐらいですし」
そう言うと、四角い盆を右の人差し指に乗せてくるくる回して頭上に持ち上げて見せる。
さらにどこから取り出したのか、左手ではフォーク二本でお手玉を始めた。
「三本に増やしてみますか? 四本までいけそうな気がしますが」
「い、いや、いいよ。凄いね。わかったよ」
ユーキがそう言うと、盆はピタリと止まりストンと落ちてアンジェラの手の中に納まった。フォークはどこかへ消え去っている。
「御当家でも用いられている、銀食器のナイフとかフォークとかは柔らかいです。造りも優美で繊細です。手が滑りやすいので持ち方にもこう工夫が必要ですし、突き刺して固い骨に当たると、グニャッと曲がってしまいます。必然的に弱点を狙ってこのようにググッとえぐるので、結果としては一撃で戦闘不能になりますね。例えば……」
「うん、具体的な事は言わなくていいかな。食事中だし。その手つきや身振りも止めて。頭の中に想像図ができちゃうから」
アンジェラは膝を曲げて何かを振る格好をしていたが、ユーキが悲痛な声を出すとピシッと給仕の姿勢に戻り、ユーキのカップに紅茶のお代わりを注いだ。
「坊ちゃま、情けないですね。建国の英雄王やその臣下の諸将は、激戦後の血熱れの中で平然と戦陣食を貪られたと聞きますよ」
「今は戦時中じゃないから。そうならないようにするのが僕たちの務めだから」
「『平時は戦時のごとく、戦時は平時のごとく』とも申します」
「万一そうなった時は頑張るから、今は普通に食事させて欲しい。折角の美味しいパンケーキだから」
「そういうところもですね」
「え?」
「ごく自然に褒めて下さるところ。お仕えする者として、とても嬉しいです。これからもずっと坊ちゃまのために尽くそうという気になります」
「うん、よろしくね」
「はい、坊ちゃまのお子様に、ナイフとフォークをいかに使うかをお教えするのを楽しみにしております」
「……それ、テーブルマナーの事だよね?」
もう一話、ユーキ側の話を入れてからケンの話に戻ります。




