第32話 遣り手婆
承前
部屋が二人きりになると、ユーキは菫に近づき、真っ直ぐに座り直した。
菫は相変わらずもじもじしており、顔を少し上げてユーキを見てはまた顔を臥せ……を繰り返している。
ユーキも恥ずかしくなったが、みんなが戻ってくるまで、時間は少ししかない。
折角椿さんが気を利かせて作ってくれた時間だ。無駄にはしたくない。
こここそが以前に父上が言っていた、蛮勇の揮い所だ。
ユーキは決心して話しかけた。
「菫さん」
「ひ、ひゃいっ!」
菫は腰を浮かす。座ったまま跳び上がらんばかりだ。
「驚かせてごめんなさい」
「い、いえ、大丈夫です」
「とても恥ずかしいけど、時間がないので、はっきり言います」
「あい」
「君が好きです。初めて逢った時から。今日また逢えて一緒に過ごせて、やっぱりそうだとはっきりわかりました」
「……」
「さっきも言ったように、今日これで終わりにしたくない。君の事をもっと知りたい。僕の事をもっと知って欲しい」
「……」
「だから、また会って欲しい。嫌ですか?」
菫は強く首を振り、急き込んで、そして力を振り絞るように答えた。
「嫌だなんて! あの……私も……またお目文字しとうございます」
「本当に?」
「あい。今日、お助けいただいたこと、一緒に踊らせていただいたこと、ありがたく、楽しうございました。このこと、きっと忘れまいと。ですから先程、また会いたいと言って下さった時、嬉しくて」
「うん。僕も嬉しいよ。じゃあ、差配の方に、今のこと、また会いたいってことを御願いしてもいいかな?」
「あい。でも、よろしいのでしょうか」
菫の声が弱く、かすれる。
「何が?」
「私は禿です。シュトルム様は、実は……その……」
「王族であること?」
「あい。ご評判が傷つき、ご迷惑がかかることになりますまいか?」
「そんなこと、構わない。僕にとっては評判より君の方が大切だ。それに、そのことも含めて、僕のことをもっと知って欲しいと思うんだ。今すぐにと言うんじゃない。少しずつ、僕のことを知って、そしてできれば、好きになって欲しいと思うんだ」
「あい。でも……私は今でも……」
菫が真っ赤になって俯く。それでも懸命に顔を上げ、見つめ合った二人が互いに手を差し伸べようとした時だった。
「入りますよ」
控えの間から声がして、白髪の女を先頭に、皆が部屋に戻って来た。二人は慌ててそちらに向いて座り直した。
女はユーキの前に座った。
女の顔を見ると、老いてはいない。
40歳前ぐらいだろうか、顔付き目付きはきつく目も口も細いがすっきりと整った、歴とした美人だ。
女の後ろに、椿と柏、菖蒲が控える。クルティスはユーキの脇に座った。
「菫、貴女もこちらに来なさい」
「あい」
女に声を掛けられ、菫は菖蒲の横に移る。
それを確かめて、女は手を突いて頭を下げて挨拶した。
「当楼の差配を任されております、薄と申します。よろしくお願いいたします。本日は菫をお助けいただき、有難うございました」
「シュトルムと申します。おもてなしを頂き、こちらこそ有難うございました」
「お粗末でお恥ずかしうございます。それで、」
薄は一息入れて語を継いだ。
「菫との再会をお望みと伺いましたが、真でございましょうか」
「はい、ぜひ」
「申し訳ありませんが、菫はまだ禿です。今回は御恩があったのでともかくも、お客様のお望みで会わせることはできません。妓女になりました後に、それでもお望みでしたら当楼にお上がりくださいますればと思います」
それはそうだろう、とユーキは思う。
だけど、ここで引き下がったのでは話にならない。
僕の気持ちを何とかわかってもらわないと。
「いえ、そういうことではなく。禿として、妓女としての菫さんと遊びたいというのではなく、人としての菫さんにまた会いたいのです」
「禿でも妓女でもなく?」
「はい。遊びではなく、本気で菫さんを想っているのです。菫さんに私のことをもっと知っていただきたい、そう思うのです。この気持ちは嘘ではありません。本物です」
「失礼ながら、シュトルム様。商家の御曹司でいらっしゃるとか。まだ商いの御修行中では? 妓楼の女に現を抜かしておられてよろしいのでしょうか? 私がお家の主であれば、首に縄を着けても引き戻し、修行に身を入れよと叱りつけると思うのですが」
これもちょっと聞くと、もっともな話だと思う。普通に考えたらそうだろう。
でも、違うんだ。
仕事は仕事、好きな人は好きな人で、別の話だ。
仕事に励むためには好きな人の事を考えてはならない、なんて絶対におかしい。
仕事は仕事できちんと励む、それで何の問題もないはずだ。
それは王族だろうが商人だろうが同じだ。
「薄さん」
「何か?」
「ここに居られる皆さんは薄々、あるいははっきりとお気付きだと思います。シュトルムは仮に使っている名前で、私は実はユークリウス・ウィルヘルム・ヴィンティアと言う者です。国王陛下の大甥に当たり、マレーネ殿下の息子です」
「王子様……商人様と聞かされておりましたが。柏、話が違いますね」
「婆様、申し訳ございやせん」
「婆様、殿下は御身分を無理に隠そうとなさっておられません。むしろ御身分を知ることで私たちが困らぬかと、お気遣いで隠しておられたのです。お噂通りのお優しく御誠実なお人柄と私は思います」
「椿、貴女の意見は後で聞きます」
「……あい」
椿さんが取り成そうとしてくれたが、薄さんはにべもない。
「殿下、王族であらせられれば、ますます妓楼の禿に懸想していてはなりませんでしょう。ユークリウス殿下と言えば芯から真面目なお方と、当楼にお上がりになる貴族の方々もお噂しておられます。ですが、ひと目会っただけの禿に『本気で想う』とのお戯れとは、評判違いとしか思えませぬ」
「婆様、ひと目ではございやせん。殿下が菫に会われた初回は、九年前の然る方の御葬儀の時。それ以来、ずっと想い続けて下すったのなら、菫にとって果報というものではございやせんか」
「柏、お前の意見も後になさい」
「……へい」
柏さんの口添えにも一顧だにしない。
でも、皆さんが応援してくれているのは有難い。
これですごすごと引っ込んだのでは、椿さんや柏さんにも申し訳ない。
ここは僕にとっての頑張りどころだ。
「柏さん、有難うございます。薄さん、柏さんがおっしゃられたように、私は九年前からずっと菫さんだけを想い続けてきました。このようなことに、嘘は言いません」
「それは大層有難いことですが、やはりまだ御修行中の筈。惚れた腫れたの懸想事をなされていては、御務めや御評判への影響は計り知れませぬ」
「御心配には及びません。もちろん修行中の身ではありますが、務めをおろそかにするつもりは毛頭ありません。評判など、何と言われても構いません。そんなものよりも、私には菫さんの方が大事です。この事は言いふらしていただいても構いません」
「そのような事ができる筈もございません。当楼の者が王家のお方を誑かしているとでも噂になったら、楼の一大事でございます。それに、他の方々が何と言われるか。殿下にお嬢様を嫁がせたいと考えておられる貴族方、お妃様に上がりたいと望まれている令嬢方も、おひとりやおふたりではないそうな。そのような御縁談への差し障りにもなりましょう」
「……そのような話は初めて聞きました」
「失礼ながら、殿下のお身持ちのあまりの堅さに、お話の持って行きようがないと、皆様嘆かれておられるとのお噂です」
「そうであれば、私にはむしろ甲斐があるというものです。他の人ではない、菫さんにもう一度逢えた時に胸を張って向かい合いたい、ただその一念で過ごして来たのです」
「ですが……」
「もちろん、今は未だ将来の事をどうこう言えません。何より、菫さんはまだ未成人です。それに菫さんは今日の私しかまだ御存じない。他の部分もたくさん知っていただきたい、私も菫さんの事をもっと知りたい、そしてこの想いを確かめたいのです」
「……」
「薄さんは、王族であれば妓楼の禿に恋をしてはならない、とおっしゃいました。なぜですか? 妓楼に勤めておられる方々の、何が他人より劣ると言われるのですか? 今日こちらへ来る道すがら、菫さんは、自分の仕事を、自分が学んでおられることを、胸を張って嬉しそうに教えてくれました。妓楼勤めであることに誇りを持たれているのだと思います。私はそれを聞いて、より一層菫さんが好きになったのです。自分の仕事に一所懸命励んでいる人を好きになったことを、私も誇りに思います。それで落ちる評判なら、いくら落ちても私は気にしません。どうか、お願いします」
「はぁ」
ユーキの力のこもった言葉をそこまで聞いて、薄は大きな溜息をついた。
「お噂通り、真面目で一途なお方だこと。菫本人のみならず私どもの前で、恥ずかし気も無くそこまでお気持ちを堂々と。ただの遊びではないとのお話はわかりました」
薄が静かに頷き、ユーキの顔がパッと明るくなる。
「それでは!」
「いいえ」
「え?」
「今のお気持ちは承知しました。ですが、失礼ながら、王族はいざ知らず貴族では、その場では熱い思いを語りながらもあっという間に冷め果てて、妓女を酷く捨て去る方々を何人何度も見て来ております。今のお気持ちのみで信じ参らせて、菫をお任せすることはできませぬ。菫はまだ幼く、悲しい思いをさせとうはなく」
「ですが、」
「お聞きください」
「はい」
「しかれど、貴方様のお言葉には、そのような貴族方とは違う何かを感じさせるものはございました。また、菫も貴方様を憎からず思っている様子」
薄が振り返ると、菫は頬を染めて頷く。
「ですので、お文のやり取りならお認めしたく思います」
「文。手紙ですか?」
「はい。本来なら禿に対してはそのような事も許さぬもの。貴方様ならではの特別であることを御承知おきください」
「はい」
「椿に気付でお願いいたします。貴方様の、そして菫の気持ちが心底からのものならば、会えずとも気持ちは通じましょう。そうでなければ、そのまま綺麗にお別れいただければ共に傷つかずに済みます。何か月、何年かかるかはわかりませんが、お文のやりとりを姐である椿が読ませていただき、貴方様と菫のお心根は真に違いない、二人は芯から通じ合っていると納得したならば、会うことをお認め致しましょう。いかがでしょうか」
椿が電に打たれたように驚いて薄を見るのを他所に、ユーキと菫の顔が輝いた。
「有難うございます! もちろんそれで結構です。嬉しいです。さっきまでの、もう二度と会えないかもしれないという不安に比べれば。手紙で何度でも気持ちを伝えることができるのですから」
「菫もそれでよいですね? 貴女も修行をおろそかにしてはなりませんよ?」
「あい! 婆様、ありがとうございます。必ず今以上に励みます」
「椿も」
「婆様、私が読んで決めるのですか?」
「それが何か? 姐でしょう?」
「……あい。承知しました」
椿は納得しがたい表情をしたが、不承不承に首を縦に振った。
「では、決まりですね」
「はい。薄さん、有難うございます。椿さん、よろしくお願いいたします。柏さん、菖蒲さんも、皆さんのおかげです。また、本日のおもてなしを有難うございました」
「お粗末様でございました」
「菫さん、出来るだけ早く手紙を書きます。文章が下手なんだけど、頑張ります」
「殿下、お待ちしております。あの、何卒ご無理をなさらぬようにお願いいたします」
「いえ、大事なことですし、楽しみでもあるので頑張ります」
「嬉しうございます。では私も楽しみにしてお待ちいたします」
ユーキはほっとした。とりあえず、一歩前進だ。
しばらく会えないと思えばもう少し話をしたくもあるが、しつこくするべきではないだろう。
それに、いつまでも馬車を待たせておくわけにも行かない。
「はい。では薄さん、今日はこれで失礼いたします」
「あい。お出まし、有難うございました。柏、御案内を」
「へい。では殿下、こちらへ」
柏に導かれて廊下に出ると、クルティスがユーキに尋ねた。
「あの、殿下」
「クルティス、何?」
「普通に手紙をお家に届けていただくと、母上様に知られますが、よろしいのですか?」
「別に構わないけど、こちらにお手間をかけることになるね。ああ、そうだ、お前が行き来して運んでよ」
「へ? 俺?」
「ああ、それ、若い頃にあっしもやりやした。まだ若い衆になる前でやすが、旧主が、親に内緒で愛しい妓女の所に手紙を届けてくれって」
柏が口を挟んだ。
澄ました顔をしているが、口元がニヤニヤと笑っているのを隠そうとはしていない。
「へえ。そうだったんですか」
「ええ。それが頻繁で、あっし自身が廓通いしているようにあっしの親に思われて、大層叱られやした。本当のことを言う訳にもいかず、随分と苦労しやした。クルティス様も頑張っておくんなさい」
「あー、はい(面倒臭いから親父にはぶっちゃけよう。御前様にも言っちゃった方が良いか)」
「クルティス、何を考えているのか知らないけど、母上や父上に知られても、僕は全然構わないから。こっちから報告しようと思っているぐらいだから」
「いや、禿とは言え、一応花街の娘なんで。ちっとは隠した方が体面がよろしいし、何と言うかこう、暫くの間は親に隠れてとかの方が、心の内に燃え上がるものもありはしやせんか?」
「……柏さん」
「へい?」
「いろいろと有難うございます。隠します」
お読みくださり、有難うございます。




