第31話 妓女の踊り
承前
着替えの後、ユーキたちが案内されたのは二階の部屋だった。
一面に椿の花が東方風に描かれている襖を開けて控えの間に入ると、菫はその先の障子の前で正座し、奥の客間に向かって声を掛けた。
「姐様、お客様方をお連れ致しました」
「お入りいただいて」
「あい」
菫は、中からの柔らかな女の声に答えて障子をすーっと開き、脇に控えて手を突いて頭を下げた。
「どうぞ」
促す菫の声に導かれてユーキたちが中に入るとそこはかなり広い部屋で、入り口近くは板の間、奥は敷物を敷き詰めて、そこに豪華な着物を着て華やかに粧した若い美女が立っていた。
「あら」
女は声を上げるとするすると近寄って、白く細い指先でユーキの胸を撫でて来た。
「まあ、お二人とも良い体……鍛え上げていらっしゃる」
思わずユーキが腕で胸をかばうと女はクスリと笑い、今度はクルティスの体を惚れ惚れと撫で回す。
「特にこちらのお方は、近衛の中隊長と言っても通じそう」
クルティスの奴、満更でもない顔をして頭を掻いていやがる。
お前、鼻の穴が拡がってるよ。
でも中隊長と言えば実戦単位の指揮官で、前線でのリーダーになる。
近衛の花形で、家柄に実力と実績が伴わないと就けない憧れの地位だ。
「お褒め頂き有難いですが、我々商人風情には過分のお言葉です。近衛の皆さんに聞かれたら気を悪くされます。士気が落ちるのでお止め下さい。この体は力仕事をしているからです」
「あらあら商人様ですか? 仕事でつく筋肉は偏るものです。荷を担ぐのと剣を振るのでは、体の形は変わります。それに、商人様なら、近衛の士気などに気は回りませんですことよ?」
「……えーと、詮索は止めていただけると助かります」
「あら、失礼。ここは夢の里、現とは遠い場所でしたわね、無粋な根掘り話は止めにしましょうね」
「はい」
「でも、問うに落ちず、語るに落ちるは人の常、どうぞお気を付けあそばせ。もっと大人になられませんとね」
「励みます」
「うふふ、真面目なお方。廓は肩の力を抜いて大人の遊びをする場所ですわ。そう、体もお口も大人にして差し上げましょうか」
女はユーキの胸に触れんばかりに体を近づけて顔を見上げると、扇子で自分とユーキの口に交互に触れる。
菫も菖蒲もそれをちらちらと目を上げて見て、手を上げそうになったり口を動かしたり、はらはらしているようだ。
「ではお座りあって。竹葉はいかが?」
「竹葉?」
「うふふ、お酒の事ですわ」
「いえ、酒は飲みませんので」
「では、果汁でも。菫、菖蒲、用意を」
「あい」
二人が準備のために部屋を出ると、着替えた柏が入れ替わりに入って来て、女に近づいて耳打ちをした。
「坊ちゃん方、失礼いたしやす。椿、ちょいと」
「あら、ふーん。まあ、やはり。うふふ」
柏が『ごめんなすって』と部屋から下がり、再び入れ替わりに菫たちが戻ってユーキたちの前に果汁と軽食の膳を据え、女の両脇に下がって座ったところで女がユーキたちに頭を下げた。
「私、当楼の妓女、椿と申します。菫と菖蒲の姐でございます。本日は、私の妹、菫の危難をお救い下さりましたこと、姐としてお礼申し上げます。有難うございました。ささやかではございますが、お礼の膳、どうぞお召し上がりください」
「当然のことをしたまでです。過分のお礼を頂き、かえって恐縮です」
「いいえ、他人の危難を見て見ぬふりして通り過ぎる輩の多い中、御自身の危険を顧みずお助け下さった事、ほんに有難く思います。本来ならば、私が音曲、舞踊などでおもてなしすべきと存じます。ですが、雨宿りの態を取らせていただいておりますところ、私が芸をお見せするとお部屋代やお線香代が生じてしまいます。それでは反って失礼かと思い、遠慮させていただきます。その代わりと申しては何ですが、これなる二人、菫と菖蒲の舞踊の稽古を御見学いただこうかと思います。菫、菖蒲、支度を」
「あい」「あい」
菫が東方風の三弦の楽器を取り出して椿に渡す間に、菖蒲が場を片付けて踊れるだけの空間を作る。
そして二人がユーキたちを向いて座り、小さな扇子を前において手を突くと、椿が声をかける。
「用意はいいかえ?」
「あい」「あい」
二人が答えると、椿が三弦をゆっくりと弾き出した。
『チントンシャン、シャントテチン』と流れる曲に合わせ、菫と菖蒲が踊り出した。
手舞い足舞いを繰り返し、やがて扇を拡げてヒラヒラと揺らせては閉じ、また拡げてゆらゆらゆらと踊らせてはまた閉じる。
聞いた事もないゆったりとした曲の響に合わせて、見た事もないその踊りを懸命に踊る菫の姿に、ユーキは目を奪われた。
菫の一挙手一投足、首の傾げや視線の動き、それに合わせてユーキの視線も動くが、同時に菫の顔からも目が離せない。
踊りながら微笑んでは真顔に戻り、また嬉し気に微笑んで見せる。しかしその笑顔はやがて悲し気になっていく。
ユーキが次第に身を乗り出して一心不乱に見つめていると、時々菫と目が合い、お互いに顔が赤くなる。
それでも目を凝らして見るうちに、二人がくるりと回り、開いた扇を左手でゆるゆると左右に傾けながら前に差し出し、右手がそれを追おうとしたところで曲が終わった。
ユーキが呆けているとクルティスがパチパチパチと拍手をし、ユーキも慌てて一緒に手を叩いた。
菫と菖蒲が扇を閉じて座り直して頭を下げたところで、椿が尋ねた。
「いかがでしたか、シュトルム様」
ユーキは、慌てて言葉を捜すが見つからない。
頭をひねり、心の奥を探って何とか答えを捻りだした。
「……素敵でした。こういう踊りを見たのは始めてで。何と言っていいのか良くわからないですけど、菫さん……も菖蒲さんも。とても綺麗で。とても素敵でした」
「あらあら。クルティス様はいかがでしたか?」
「俺も踊りを見るのは始めてで、違っているかもしれないですけど、花と蝶を題にしたものなのかなと思いました。踊っている菖蒲ちゃんと菫ちゃんが花で、扇が蝶に見えたので。菖蒲ちゃんの踊りは動きと動きの繋ぎを大事にしているのか、流れるようにスムーズで、華麗でした。菫ちゃんの方は逆に、個々の動作をしっかりと確かめながら踊っているようで、一つ一つの姿勢が美しかったと思います」
「おや、クルティス様は随分と見巧者でいらっしゃる。いかにも、花と蝶の踊りでございます。花は妓女、蝶は殿方、蝶は蜜を求めて花へとやって来て暫しの恋に落ちるものの、花が盛りを過ぎると余所へと飛んで行ってしまう。殿方の移り気を責める妓女の踊りでございます」
「そうなのですね。僕は踊りを見るのが精一杯で、全然わかりませんでした」
「踊りを、ですか? 花ではなくて?」
「あ、いえ、その」
「うふふ」
椿は満足げに笑うと、顔を引き締めて菫と菖蒲に向いた。
「菫、貴女は時々お客様に気を取られ、足がおろそかになっていました。集中なさい」
「あい。申し訳ありません」
「菖蒲、貴女は逆に踊りに入り過ぎです。妓女の踊りはあくまでお客様に喜んでいただくためのもの。貴女が楽しんでどうしますか。時々はそっとお客様に目を流して、楽しんでおられるかどうかを確かめるように」
「あい。えへへ」
「えへへではありません」
「あい」
椿はユーキたちに向き直り話を続ける。
「このような踊りは初めてとのこと。普段の貴族様方との社交では、やはりパーティーなどでダンスをなさるのですか?」
「はい、一応は。ただ、到底得意とは言えず、笑われたりするのですが」
「あら、なんと失礼な。ですが、どのような踊りでも、どこか通じ合うものはございますわ」
「そういうものなのですか?」
「あい。菖蒲も菫も、少しはダンスも踊れます」
「ダンスもですか? 凄いですね」
「ええ。ですから貴方様方も、今のような踊りもお憶えになれますわ。少しお試しになっては?」
「試し?」
「あい。一手二手、踊ってみられてはいかがかと」
「でも、どう踊るのか、全然わかりません」
「それはお教え差し上げますわ」
「いえ、でも」
「宴席で踊りの一差しや二差し、座興でもできぬようでは、お商いにもお差支えがあるのでは? それとも丸きりの朴念仁でいらっしゃる? うふふ」
椿はユーキを挑発するように笑って見せた。
「ええと。そこまでおっしゃるのであれば」
「あらあら。では、菫、一度ゆっくりとお手本をお見せして」
「あい」
椿の命を受け、菫は同じ曲の半分弱ほどを、今度は手足の動きを説明しながらゆっくり、ゆっくりと踊って見せた。
「よろしいですか? では今度は、菫、菖蒲、お手を取ってお教えして差し上げて」
「あい」「あい」
それを聞いて菖蒲が先にユーキに近づこうとしたが、クルティスがすっと間に入って菖蒲の手を取った。
「菖蒲ちゃんは俺に教えてくれな?」
菖蒲は口を尖らせたが、不承不承に頷いた。
「あい。私は教えるのが下手なので、グルテン様のおみ足を踏むかもしれません」
「クルティスな。構わんぜ、踏めるものならな」
「絶っ対踏む」
「菖蒲。後でお話があります」
菖蒲が椿の声を聞き流して早くもクルティスの足を踏もうとし、クルティスがそれをひょいひょいと避けている間に、菫はおずおずとユーキに近づくとそっと手を差し伸べた。
ユーキも立って前に出て、恐る恐るその手を取ろうとする。
が、指と指が触れた途端に互いに手を引っ込めてしまった。
それを見て椿は頭痛を堪えるかのように頭を押さえる。
「菫、さっさとなさい。シュトルム様もお覚悟を」
「あい」「はい」
促されて二人は向き合って、菫が差し出す両掌の上にユーキが手をそっと乗せた。
それを互いに軽く握りあい、顔を赤くしながら微笑みを交わす。
椿は視線を逸らして三弦の調子を合わせながら、「はぁ」と溜息をついた。
菫は嬉しそうにユーキに告げる。
「シュトルム様、私がお手を引きますので、それに合わせて動いて下さい」
「うん、わかった。よろしくね」
「ようございますか? 参りますよ?」
椿が声を掛けて三弦を弾き出した。
一節二節、ユーキと菫は目と目を見合わせながら踊っている。
ユーキは動きを憶えようと一所懸命だ。
間違えそうになると、菫がにっこり笑って手を引いて導く。
三節四節、クルティスと菖蒲も、曲の間は真面目に踊っている。
こちらは菖蒲が教えるまでもないようで、二人楽しく踊っているように見える。
五節六節と進んだところで椿が曲を止め、手を叩いた。
「お二人とも、お見事です」
「有難うございます。菫さんの教え方が上手だったので」
「いいえ、私は何も。シュトルム様がお上手なのです」
「とても楽しかったです」
ユーキと菫が話をしている横で、クルティスは曲が止まって油断した所を菖蒲に足を踏まれていた。
「いてっ」
「やりい。えへへ」
「ちっ、油断した」
「菖蒲、後でたくさんお話があります」
「椿さん、俺も楽しかったので、勘弁してあげて下さい」
「仕方ありませんね。菖蒲、お礼を申しなさい」
「クル……クー様、ありがとうございます」
「諦めやがった」
「あ・や・め」
「えへへ」
ユーキたちが席に戻り、椿たちと話をしていると、障子が開いて柏が表れた。
「失礼いたしやす。お迎えのお馬車が参りました。雨も小止みになり、いつでもお戻りになられやす」
「おや、もうそんなに時間が経ちましたか。それではそろそろお開きに致しましょうか?」
椿がユーキに声をかけた。
ユーキは少し躊躇ったが、意を決して返事をした。
「あの、椿さん」
「何か?」
「あの、また会いに来てもいいですか?」
「あら。私にですか? それは光栄ですが、普通に楼にお上がりになると、結構なお部屋代とお線香代がかかりますが」
「いえ、そうではなく……菫さんに」
「おや、まあ」
それを聞いて菫の頬が赤くなる。
「あらあら、まあまあ。どうしましょ。今日逢って、もうそのお言葉。菫をお気になさっているとは思いましたが……一目惚れでございますか?」
「一時の事ではありません。以前にも逢ったことがあって……その時から……何とかまた逢いたいと思っていました。今日、折角逢えたのにこれでお別れしたら、もう二度と逢えないんじゃないかと思って。そうはなりたくないので。お願いします」
「それはそれは。ですが菫は禿の身。修行の妨げになっては困ります。軽いお気持ちであれば御遠慮を願いたいのですが」
「主人は本気です。あの子に逢いたいとか、どこにいるのかなとか、たびたび聞かされました。もう、うざくって」
「クルティス……有難う。でも言い方」
「菫の気持ちもありますれば……」
椿が菫を振り返ると、顔を真っ赤に染めて、もじもじとした上目遣いながらも、一心にユーキを見詰めている。
「聞くまでもなさそうですわね。菖蒲、薄婆を呼んで」
「……私の推し……」
「それはいいから、早くしなさい」
「あい」
「クルティス様、柏、少しお話があります」
「俺もですか?」
「あい。よろしければ、こちらへ」
「ああ、なるほど。わかりました」
「菫、その間、シュトルム様のお相手を。シュトルム様、五分もせずに戻りますので、菫に御用がありましたらその間にお済ませください」
「……わかりました。椿さん、有難うございます」
椿は嫣然と笑って立ち上がり、クルティスと柏を引き連れて障子を開けて、控えの間に移ると小声で言った。
「(クルティス様、私は柏と、遣り手婆を連れて参ります。それまでここでお控えください。二人にもしもの事があったら、お引き止め下さるようお願いします)」
「(もしもの事?)」
「(男女の行き過ぎた事。菫は未成人でございますれば)」
「(主人はそんな事はしないと思いますが、承知しました)」
「(では、よろしくお頼み申します)」
椿たちが出て行って襖が閉じられると、クルティスは静かに座り込んだ。
障子からは離れており、ユーキたちを気にする様子はない。
「(……キスぐらいなら別に構わないだろ。そんな思い切ったこと、ユーキ様にできそうな気はしないけど)」
次話に続きます。




