第1話 村の塔に吹く風
第1話~第3話は主人公の一人、ケンの少年時代のお話です。
王国歴217年11月(ケン13歳、プロローグの5年半前)
風の国と呼ばれるヴィンティア王国のピオニル子爵領にあるネルント開拓村の塔に、もはや冬かと思わせる冷たい風が吹きつけている。
ケンはこの塔から草原を見ているのが好きだった。
八歳の時に義父である村長に連れられて初めてこの塔に登ってから、暇があるとここに来るようになった。
五年経った今でもそれは変わらない。飽きずにここから草原を眺めている。
塔と言ってもたいしたものではない。
ピオニル子爵領の主要部から山を越えた盆地にあるネルント開拓村は、開拓の最前線だ。
その村の役場を兼ねる村長の家に設けられた、見張り用の物見台をケンが勝手に『塔』と呼んでいるだけなのだから。
それでも見晴らしは十分だった。
塔のある村長の家は、村の中でも小高い丘の上にある。
田舎の村には他に高い建物は教会の小鐘楼しかない。
少しばかりの粗末な家々からなる小さな村のすぐ周りの畑とそれを囲む生け垣、少し離れた川、そして川の向こうの未開の草原と荒れ地がここから見渡せる。
その遥か向こうは森、そして山々が周囲を取り囲んでいる。
この塔からは、風が草原を通り過ぎるのが目に見えた。
腰ほどにまで伸びた草が、山から吹き下ろし森を越えて渡ってきた風に薙がれては立ち直り、また垂れては頭を上げる。
その波が遠くから繰り返し、繰り返し、ゆっくりと押し寄せてくる。
晴れた日には、陽光を反射して光の波のようにも見える。
話に聞く海の、金波銀波とはこのようなものなのだろうと、見たことのない北方の海岸の景色を想像してみたりもした。
しかしここでは風に潮の香はしない。春から夏には青臭い草熱れが、秋から冬には饐えた埃臭い枯草の臭いがする。
また野生の獣臭さも漂ってくる。
草原には、しばしば山から銀鹿の群れが、冬でも残る草を食べにやって来る。
時には血の匂いがした。
いやな匂いだ。黒狼に襲われた銀鹿の血の匂いだ。
黒狼は突然やってくる。
遠吠えが、狼が来る前触れだなんていうのは、お伽話だ。
わざわざ前触れをして獲物を警戒させるような愚かものは、生存競争を勝ち残れない。
禍は突然訪れるものだ。
春から夏の、森の中に若く弱い獲物が多くいる季節には、黒狼は草原には滅多にやってこない。
手強い大きな銀鹿に挑まずとも、襲う相手は手近にいる。
この時季は植物の伸びる勢いもよく、ウサギやネズミなどの小動物が育つには良い季節だ。それは取りも直さず、軟らかくて美味く、捕まえやすい獲物が豊富にいることになる。
しかし秋になると、生き残った小動物は素早く賢く狩り難くなり、その数も減る。
冬になると穴倉に隠れて冬眠してしまう動物も多い。
そうなると、黒狼は危険を犯してでも大物の銀鹿を狙いにやって来る。
ケンは黒狼が銀鹿の群れを襲おうとするのを、この塔から何度も見た。
見るたびに恐ろしい光景だが、眼を離すことができなかった。
恐ろしくありながらも、黒狼と銀鹿との戦いは、彼にとっては魅入られるものでもあったのだ。
以前からそうだったわけではない。
塔から周囲を眺めるのも好きだったが、ケンがもっとも好きだったのは、村長の後ろに付いて歩いてその仕事ぶりを見ることだった。
村を見回り、村民の悩みを聞いて相談に乗り、畑や野山を見て回って将来の開拓を考える。
あるいは、書類仕事をする村長の真似をして文字や算数の勉強をする。そういうことが何より好きだった。
それが、ある時、ある事を切っ掛けに、そうではなくなった。
村長の手伝いは相変わらず一所懸命にやっている。だが今では、何もかもを忘れていられるのは、心から惹き付けられるのは、この塔の上で黒狼の戦いを見ることだけだ。
銀鹿の群れが山を下り、森の近くの草原に来た時を黒狼たちは狙ってくる。
夫婦と子供なのか、何の関係もないものたちの集団なのかはわからないが、何匹かが協力して襲ってくる。
遠くから見ると、豆ほどの大きさの銀茶色の粒の群れの周りを、さらに小さな黒い粒が近づいては離れ、離れては近づいていく。
ケンはそれを塔から見守っていた。
黒狼は無理をしない。
これは決闘ではない。無理に獲物を倒しても、自分が傷ついては間尺に合わない。
銀鹿の角で内臓に届く傷を受けては死を免れない。
体当たりを受けても、蹴りを受けても、大事になる。
銀鹿は黒狼よりも一回りも二回りも体が大きく重いのだ。
もし傷を負い、走れなくなれば仲間から取り残され、あっという間に他の獣に襲われる。
銀鹿を狩るのは大切だが、自分が狩られないことはそれ以上に大切だ。
銀鹿も無理はしない。
賭けられているのは、自分や仲間の命だ。
黒狼を倒しても仕方がない。群れの全てが逃げ切らなければならない。
成獣の雄が黒狼と一対一で闘えば互角以上の勝負になるかもしれないが、その結果には何も得るものは無いし、相手は集団で襲ってくる。
群れの中の弱者を守ることにこそ、銀鹿の戦いの意味がある。
そのため黒狼と銀鹿の応酬は、互いに慎重なものになる。
黒狼たちは、弱く幼い、あるいは年老いた銀鹿を群れから切り離そうとし、あちらこちらから襲いかかる。
銀鹿の成獣たちはそうはさせじと、黒狼と群れの間を走る。
時には黒狼に向かって突っかかり、群れから引き離そうとする。
ある程度距離を取れれば、急いで仲間を山に向かわせる。
山に入ってしまえば、脚力の強い自分たちが勝る。
黒狼は諦めて森に帰るしかない。銀鹿たちの逃げ切り勝ちになることは多い。
しかし、黒狼たちの知恵が勝つこともしばしばある。
一匹が銀鹿のリーダーに挑戦して釣り出し、その隙に他の黒狼が鹿の群れを突き崩す。
あるいは遠巻きに周囲を回り続け、弱い鹿が怯えをこらえきれなくなり群れから飛び出すのを、辛抱強く待つ。
一匹を群れから切り離してしまえば、狩りは八割方終わったも同然だ。
群れに逃げ戻ろうとする獲物の先手を打って、黒狼の一頭が群れとの間を走る。
もう一頭が前に回って方向転換を余儀なくさせ、速度が落ちたところにもう一頭が待ち伏せている。
避けようとしたところを斜め後ろから跳びかかり、倒したところで狩りは終わる。
銀鹿の群れは、生贄となった仲間を置き去りにして、山へ帰っていくしかない。
狩られたものの血の匂いは、風向きによっては、遠くケンのいる塔にまで届く。
ケンは餌食に群がる黒狼たちを眺めながら、その日の狩りの顛末を何度も何度も、繰り返し繰り返し思い起こす。
何匹がどこから現れ、どのように銀鹿たちを取り巻き、いつ襲い掛かり、どう待ち伏せていたか。
銀鹿はどこにまとまり、どのように防ぎ、いつ襲撃者の隙間を駆け、どう去って行ったか。
そしてなぜ彼らがそう動いたのか、考えていた。
黒狼や銀鹿が草原を立ち去った後も、冷たい風に吹かれながら塔にたたずんで、いつまでも考え続けていた。