第26話 鍛錬
王国歴222年10月(ユーキ17歳)
暑かった夏が嘘のように、日に日に秋風は勢いを増し、気温も下がっていく。
運動をするには良い気候の日が続く。
今日のユーキの鍛錬は体術だ。クーツの指導の下、クルティスが相手を務めてくれる。
ユーキは昨夜の事を忘れようと、気合を入れて臨んだ。
昨夜は王家の行事とその後のパーティーに出席した。
社交界に出るのは気が進まないが、王子としての公務とあれば、欠席はできない。
もっとも、最近は好意的に声を掛けてくれる貴族や令嬢方も少しずつ増えてきた。
昨夜も、これまでにも何度か話をしたことのある、成人の儀を終えてそれほど間もない二人の貴族令嬢から巧みに誘われて慣れないダンスを踊った。
その後に外の風に当たって体の火照りを冷まそうとテラスに出ようとした時、その二人の令嬢が外で笑いながら話をしているのが耳に入り、良くないと思いながらもついつい立ち聞きしてしまった。
二人はユーキの事を噂していたのだった。
ユーキがいたたまれなくなってそっと去るまでの間、『噂通りの堅物』『会話も踊りもぎこちない』『スタイリス王子のような華やかさも、クレベール王子のような翳と深みもない』『所詮は小物』……果ては『夫にしたら人生が詰まらなくなる』とまで、貴族特有の美辞麗句で包み隠して言い合っていた。
別に令嬢方に好かれようとは思っていないが、面と向かった際にはとても楽しそうにしていた二人だっただけに堪え、ユーキは落ち込んだ。
年下にまで、そう思われているとは。
陰口なんか聞くものじゃあないと、身に沁みてわかった。
クーツの指示に従い、ユーキとクルティスは道場の中をゆっくりと走って体を温め、ストレッチを行った後に、基本の型を繰り返す。
「フッ! フッ! フッ!」と気合を込めながら拳を握って突きながら前に出る、前に出る、前に出る。
相手の突きを想定してそれを払い落としながら後ろに下がる、後ろに下がる、後ろに下がる。
あるいは、蹴る。足を払う。腕を取って捻る。さらに懐に入って投げる。
最初は入りすぎた気合のせいか肩が力んで姿勢が崩れてクーツに厳しく注意されるが、動作の繰り返しの回数が増えるにつれて邪念が消え、無駄な力が抜けて動きがスムーズになってくるのがわかる。
この感覚がわかるようになってきたのは最近のことだ。
クーツに尋ねるまでもなく、上達が自分でもわかり、嬉しくなる。
型練習に励んでいる間は自信のようなものが湧いてくる。
訓練の最後は、クルティスとの組手だ。
今日こそは、一本を取って見せよう。
防具を付け、気合を入れなおして臨むのだが……
「行くぞ!」
「どうぞ」
クルティスが落ち着き払って答える。
余裕のある態度が小憎らしい。身長の差で上から見下ろされるし。
クルティスはさらに背がぐんと伸びて、もう僕より頭半分以上高い。
僕だって、王族としては低いかも知れないけど、庶民の中に入れば標準よりは高いんだけど。
ああ、悔しい。
今日は、今日こそは、一本取る。
籠手を付けた拳を軽く握り、左腕を少し曲げて前に出し、右の拳は顔の前に上げる。
クルティスは逆に右前に構え、ゆっくりと右の拳を上げ下げしている。
その呼吸をはかり、息を吐き切ったところを狙って左足をすっと前に出し、左拳を突き出す。
軽く払われるが、これはフェイントだ。
腰を落として右足を振り出し、クルティスの体重が乗った右足を前から蹴る。
うまく入った! クルティスの体勢が前に崩れる。
そこを懐に入り込み、腰に乗せ、腕を引き込んで腰を跳ね上げて、背中から床に投げ落とす! はずだった……。
体勢が崩れたはずが、実際にはクルティスはそこからこちらの体を抱え込んで前に倒れ込みながら回転し、背中から着地する。
その勢いで両足をこちらの腰に絡めてさらに回る。
何がどうなったかわからないうちに、気が付いたら背中を完全に取られ、腕を首に巻き付けられている。実戦であれば簡単に絞め落とされているだろう。
クーツの「それまで!」の声を聞くまでもない。また負けた。
クルティスは先に立ち上がると、こちらに手を差し出してきた。
無表情なのが、さらに悔しさを煽る。
その手を掴んで立ち上がる。
「もう一本!」
「どうぞ」
何とかこの表情を崩してやりたいものだ。
その後何本か組手を続けたが、今日も一本も取れなかった……。
「今日はこれまでとしましょう」
クーツの声を聞き、ユーキは床に座り込む。
結局歯が立たなかった。
手足を投げ出し、大の字に寝転んだ。悔しい。
その横にクーツとクルティスがそっと腰を下ろす。
頭の防具を外し、「あー、悔しい」と声に出すと、ますます悔しい。
どんどん差が広がっていく気がする……。
いや、そんな事はない、僕も強くなっているはずだ。はずなのだが。
情けない気持ちが募って来て、どうしようもない。
知らず知らずに目に涙が溜まり、汗に混じって頬を流れ落ちる。
その様子を見ていたクーツが静かに声を掛けて来た。
「殿下、かなり上達されましたな」
「いや、お世辞はいいよ」
涙声が隠せない。
「お世辞ではありません。構えも動きも、この数か月ほど、めきめきと進歩しておられます」
横でクルティスがうんうんと頷いている。
「その数か月の間に、クルティスに一度も勝てていないんだけど」
「クルティスもまた伸びておりますので」
「ますます差をつけられているんじゃないか?」
ユーキは投げ遣りに答える。
クルティスが手加減をしているのはわかる。いや、わからない。
手加減をしているのだろう、と思うだけだ。
手加減をしているのだろうが、どこをどう緩めているのかがわからないのが悔しい。
自分を磨いて心身共に強くありたいと、懸命に励んでいるのにこのざまだ。
絶望感を覚える。
僕ごときがどんなに励んだところで、仕方が無いのだ。
「そうおっしゃいますな。クルティスは別とお考え下さい。体術、剣術、槍術にせよ、同じ年頃ではクルティスとまともに闘える者は、恐らく王都中を探してもそうはいないと思います。少々年上でも、適いますまい」
「大人でも?」
「きちんと鍛えていない者であれば。もちろん、鍛えぬいた手練れの大人には力押しされれば負けるでしょう。しかし、一年、二年と経て、体がさらに育って筋力が増せば、それもいずれ克服するでしょう」
「すごいな。それでは、いずれ武芸者になって国中に名を轟かすことを目指したらどうかな? 有名な武芸者になれば、僕なんかじゃなく、国王陛下に直接仕えることもできるだろうし」
「それは致しません!!」
今までほとんど喋らなかったクルティスがいきなり立ち上がり、顔を真っ赤にして大声を出したのでユーキは驚いて起き上がった。
クルティスは睨むようにこちらを見つめ、歯を食いしばっている。
驚いた。こいつが僕に怒ったのは、いつ以来だろう。
もしかすると、初めてかもしれない。
「なぜ。うだつの上がらない下っ端の小物殿下に仕え続けても、碌なことはないよ」
「そのような事はありません!」
クルティスの声がさらに大きくなる。怒鳴っていると言ってもいいぐらいだ。
クーツは立ち上がって息子の肩をそっと叩いてなだめて座らせ、自分も真っ直ぐ座り直して静かな声でユーキを諭した。
「殿下、滅多なことを申されますな。祖母君も母君も御前様も、殿下の将来を楽しみにしておられます。我等も、殿下にお仕えしていることを誇りとしております。殿下を一廉の方と信じて付いて参っているのです。我々だけではありません。身の回りのお世話をしているヘレナやアンジェラたちも、家中の他の者どももそうです。どうか、むやみに卑下なさらないでください」
「そうは言われても、武術も馬術もクルティスに遠く及ばないし、学術とて、そう優れているわけではないことは、自分でもわかる。精一杯自分を磨いているつもりなのに、この有様だ。王族の血も薄いから、将来は小さな領の領主に出されるのがせいぜいだろう。貴族たちからも馬鹿にされているし。僕のどこに見所があるのか、僕にはわからないよ」
「そうですな、御自分では御覧になれない所ですな」
「お前たちには見えるのか?」
「上に立つ者、皆を率いる者に無くてはならないものを殿下はお持ちなのです」
「それは何?」
「真摯さです」
クーツは静かな声で諭し続ける。
だが、ユーキには的外れな慰めにしか聞こえない。
半ば意固地になって反発してしまう。
「真摯さ? そりゃ、王子としての学びは、一所懸命に励んでいるつもりだよ。確かに真面目かもしれないけど、他の王子たちやその周りの貴族たちは、僕のことを『糞真面目で馬鹿正直』って言っているんだろう? 知ってるよ。その通りだと思うし」
「いえ、申し上げているのは学びだけではありません。それに真摯と馬鹿正直は、全く異なります。それから、『僕』ではなく『私』です」
クーツは言葉を切り、暫しユーキを見つめていたが、ゆっくりと、しかし力を込めて言葉を続けた。
「良いですか、殿下。良くお聞きください。
人から習ったこと、言われたことを素直に聞く、これはある種の正直でしょう。しかしそれを鵜呑みにしては、馬鹿正直と謗られても仕方ありません。殿下はそのようなことをなさいますか? いいえ、決してなさいません。人に言われたこと、書物で学んだこと、見たもの、聞いたこと、それらの一つ一つを御自身で考え直されています。他の見方、違う意見はありえないかと、あれこれと思いを巡らせておられます。その挙句に、ぐるっと回って結局元の考えに戻ったとしても、それはもう、殿下御自身のものとなっております。この御努力を真摯といわずして何としましょう」
「……」
ユーキは無言になった。そしてクーツの言葉に耳を傾け続ける。
「また、殿下は相手の立場によってその言葉に軽重を付けたりなさりません。何かの助言を導師から言われた場合でも、クルティスやアンジェラたちから言われた場合でも、同じようにきちんと耳を傾けてお考えになられます。かといって安易に取り上げるのでもなく、御自分なりに考慮して判断してくださる。それが我々にとっては真摯に扱っていただいているということで、嬉しく、有難いのです。ですから我々もまた、真摯にお仕えしようと励むのです。これは、なかなか持てない美点です。自信をお持ちください」
「そういうものなのかな」
「はい、そうです。クルティスもそうです。元から素質はありましたが、よもやこれほど伸びるとは思ってもおりませんでした。ですが、殿下のお姿を見て、思う所があったのでしょう。時間を見つけては隠れて一人で修行をしておりました。倦み飽きること、うまく行かぬことがあっても、その度に殿下のお姿を顧みては、思い直して懸命に励み続けておりました。それでここまで来られたのです。この者のその思いをお汲み取り下さい。この後もそうあり続けるために、どうか殿下も真摯であり続けてください」
「……わかった。もう一度考えてみる」
いつもの穏やかな調子に戻ったユーキの言葉を聞いて、クーツの顔が緩む。
「ありがとうございます。では、ここまで励んだこの者を褒めてやってはいただけませんでしょうか」
「うん。クルティス、よくここまで強くなった。偉いぞ。これからも励んで欲しい」
「ありがとうございます。これからもお傍にあり励み続け、一身を賭けてお護りいたします」
答えるクルティスの顔がまた紅くなっている。だが、今度はその意味が違うようだ。
「ああ、そうしてくれ。頼りにしているよ」
「はい、殿下!」
「でも、やっぱり、負けるのは悔しいなあ。特に身長が」
ユーキがそう言ってもう一度大の字になると、クーツもクルティスも声を上げて笑った。
「そうですな。では、午後は予定を変更して、ちょっと気晴らしをいたされてはいかがでしょうか」
「何をするんだ?」
「城下の視察に行かれてはいかがでしょう」
「視察?」
「遊び、とも言います」
ここから暫くユーキの話が続きます。




