第107話 マレーネの叫び
前話同日午後
ユーキに対して、リュークス伯爵の養女にして王妃殿下の侍女見習であるヴィオラとの婚約が命じられたと、その知らせを告げる国王の使いは、ユーキの母マレーネ王女、そして祖母マルガレータ王女に対しても直ちに送られた。
マルガレータ王女は使いにそのことを知らされるや否や、やりかけの仕事も放り出してマレーネ王女と夫のユリアン卿の邸に飛んできた。
マルガレータは、マレーネとユリアンの部屋にノックもせずにずかずかと入るなり、悲痛な声でマレーネに問い掛けた。
「マレーネ! 聞いた? どういうこと?!」
マレーネは自分の執務席で机に両肘を突いて頭を抱えていたが、母親の声にハッと顔を上げて席を立ち、駆け寄ると両手を取って握り合い、互いの顔を見合わせて二人ではらはらはらと涙を流す。
ユリアンも立ち上がったが、二人の様子に気圧されている。
「お母様、私たちも、今、知らされました。爺……陛下に先手を取られてしまいました。無念です。やっぱりユーキを問い詰めて、折檻してでも報告させて、菫ちゃんの身柄を確保しておくべきでした……」
「マレーネ、お前、折檻って……」
「何てこと! マレーネ、ユーキを菫ちゃんに取られるのは仕方ない……私も覚悟していたわ……でも、肝心の菫ちゃんまで妃殿下に横取りされるなんて! 私の側で育てようと思ってたのに……痛恨! 我が短い一生の不覚だわ……こうなったら謀反を起こして奪い返すしか……」
「義母上、短い一生とか謀反とかって」
「お母様、私、今から謁見室に殴り込みに行きます!」
「マレーネ、いい加減にしなさい! 義母上も好き勝手を言わないで。ユーキが我々ではなく陛下に直談判することを選んだんですからしょうがないでしょう。これからユーキたちが挨拶に来るのです。しゃんとして下さい、しゃんと」
「はーい」「はーい」
一方、ヴィオラはユーキと共に、国王夫妻から供されたささやかな祝いの昼餐を取った後に、装いも新たにユーキの実家に向かった。
今は王家の衣装庫から選りすぐられた、紫色のドレスに身を包んでいる。
わずかな青色から裾に向かって明るい紫へのグラデーションのドレスで、王妃が若い頃に着ていた物である。
大切に保管されていたそのドレスを、王妃付きの着付け師が短時間のうちにヴィオラに合わせて縫い直した。
大変であったろうが、ヴィオラが着た姿を見た時の満足そうな笑顔からすればきっと、激務は報われたと思っているだろう。
頭には、これも王家の宝物庫から王妃が自ら選んだ、紫青玉を紫水晶が取り囲んだ小さなティアラを乗せている。
化粧は王妃の侍女たちが担当したが、やや頑張り過ぎたかもしれない。
二人がクルティスを従えてユーキの実家に着いて馬車を降り、玄関を入ろうとしたところで上空を旋回していた二匹のハーピー、もとい、待ち構えていた出迎えのヘレナとアンジェラに捕まった。
ヘレナとアンジェラは緊張で身を固くしているヴィオラを、ついに捕らえた貴重な獲物の検分と言わんばかりの目で眺めまわすと頷き合った。
アンジェラが「10分……いえ、15分」というと、ヘレナが「わかったわ。足止めは任せて」と応じて奥へと急ぎ足で去った。
一方のアンジェラはヴィオラの二の腕を左手でハーピー掴み、いや鷲掴みにすると、ユーキに向かって右手の親指を立てて見せた。
「殿下、良くぞ捕らえられました。さすがは大人であらせられます。獲物、いえ、お嬢様は暫し私にお預けください。お嬢様、大丈夫、怖くありませんからね。ぐふふふ」
そう言うと笑いながら強引に、半ば怯えるヴィオラを化粧室へと引きずるように連れ去った。
……
ユーキが待つこときっかり15分、ヴィオラは全く別人になって出て来た。
強すぎた顔の色は全て綺麗に落とされ、素の可憐な美しさを活かした薄化粧になって帰って来たのだ。
陶器のような艶やかな肌を、少し恥ずかし気に見せる頬のわずかな紅。
眠れぬための目の下の隈は、跡形もなく白粉が消している。
輝く紫色の瞳を際立たせる、カールのかかった長い睫毛。
少しだけ差した陰影が上品な鼻をさらに気高く見せ、薄桃色の口紅が唇を豊かに柔らかく輝かせる。
はにかんで俯きがちに近寄って来るヴィオラを見て、ユーキは見惚れるばかりで何も言えなかった。
再びエスコートの手を取るときに思わずこぼれた「綺麗だ……」の一言以外は。
後ろでは壁にもたれて首を傾けたアンジェラが、「殿下、私やりました。やり切りました。私の全ての人生は、この15分のためにありました……白い灰になりました……」とか何とか聞こえよがしに呟いていたが、残念、ユーキの耳には入らなかったようだ。
気を取り直したユーキがヴィオラをホールに導くと、祖母のマルガレータ、母のマレーネ、父のユリアンの三人もそれぞれの従者を従わせ、先導するヘレナを後ろから押し倒さんばかりの勢いで歩いて来た。
それぞれに落ち着いた色の上品なドレスや正装に身を包みこれぞ王族と言う装いが、その大股の歩様とは調和していないのが何とも無念である。
いつの間に現れたのか、ユーキ達の背後にはクーツやクルティス、立ち直ったアンジェラを始め、家の者達も勢揃いして澄まし顔で立ち並んでいる。恐らくクルティスが呼び集めたのであろう。
「貴女が菫ちゃん? 何て可憐な……愛らしい……ちょっとこちらへいらっしゃい……」
マルガレータがヴィオラを見るなりふらふらと歩み寄って抱き着こうとするのを、ユーキが間に入って制止する。
「お祖母様、挨拶がまだ済んでおりません」
「そんなのどうでもいいわよ。どきなさい、ユーキ。早く、早く」
「母上、ここは私の家、私が先です。それに一回2分制限です」
「マレーネ、そんなドケチなことを言わなくても良いじゃない。私は老い先短いんだから先にしてよ。堪能させてよ」
「それ言い出してからもう十年経つじゃないですか。何が短いんだか。駄目です。私が先です」
「ユーキ、なんでこんな可愛い子をお母さんに隠してたの?」
「そうよユーキ、折角あの爺い……陛下をあっと言わせようと思ってたのに。先にあっちに行くなんて、この親不孝者! 育てた甲斐がありません!」
「……お二人とも、ヴィオラ嬢が怯えております。もう、このまま王城に帰しますよ!」
祖母と母の騒ぎに呆れてユーキが強めの声を出すと、ヴィオラに手を伸ばしてもつれ合っていた二人が、ピシッと背筋を伸ばして直立した。
マレーネが言った。
「ユークリウス、大儀に思います。今日の良き日を寿ぎます。では紹介を受けましょう」
横で父のユリアンは呆れながらも同様に姿勢を正した。
ユーキはヴィオラと頷き合うと、紹介の言葉を始めた。
「母上様、お祖母様、父上様。これなるは、菫、改めてヴィオラ・リュークス嬢と申します。庶民の生まれにして、父、母、共に既に鬼籍に入っておりますが、父母の刎頸の友の薫陶を受け、齢13、かくも立派に成長いたしました。リュークス伯爵閣下の養女となり、既に国王陛下、妃殿下のお許しを受けここに私の許嫁として紹介させていただきます。よろしければヴィオラ嬢の挨拶をお受け下さいますよう、一子ユークリウス、心よりお願い申し上げます」
「良いでしょう、ユークリウス。ヴィオラ・リュークスとやら、聞きましょう」
マレーネの静かな促しに、ヴィオラは小さく礼をした。
その顔は緊張で固いが、頬は紅く紫瞳は輝いている。
ゆっくりと顔を上げると、凛とした声で挨拶を始めた。
「はい、ありがとうございます。皆様方の御目に掛かれます事、光栄至極に存じます。かたじけなくもユークリウス殿下に御紹介いただきました私、菫、花街という卑しき里の妓女の館花園楼にて生を受け、父の顔を知らず、母、葵を早くに病に失いました。そのまま儚くなるべき露命を周囲の皆々様の御厚意により禿として繋ぐうちに、幸運にも殿下に御知遇を頂き、その正義に篤く弱きに優しいお人柄をお慕い申し上げておりました。この度もったいなくもお妃にとのお望みを頂き、この身には過ぎたこととは知りつつも、殿下の御心のみをお頼みし、か弱き力なれどもお支えしたいと存じ、国王陛下、妃殿下のお許しを頂きました。さらにリュークス伯爵閣下のお家にお迎えいただき名をヴィオラ・リュークスと改め、本日皆様方のもとに参りました。不束者ではございますが、皆様方のお教えとお叱りを頂き、もって殿下に相応しい者となるべく精一杯励みたく思います。何卒、よろしくお願い申し上げます」
菫、改めヴィオラは挨拶を終えるとドレスを持ち、膝を曲げてゆっくりと頭を下げた。
マレーネは満足そうに頷いた。
「ヴィオラ・リュークス」
ヴィオラに掛けた厳粛な声は、さっきマルガレータと縺れあっていた時とはまるで別人である。
「はい」
ヴィオラは頭を下げたまま聞いている。
「私は王姪マレーネ・ヴィンティア。こちらは私の母、王妹マルガレータ・ヴィンティア殿下、こちらは夫のユリアン・ウィルヘルム・ヴィンティア卿です。貴女を将来ユークリウスの妃として迎える事、心より嬉しく思います。まずは慈愛深き王妃殿下の御手の下で、ユークリウスに相応しいと万人が認めるように修行に励みなさい。その暁には、ユークリウスと二人で力を合わせ、偉大なる国王陛下の下、王家の一員として国のため国民のため、持てる力を尽くしなさい。そして二人の愛を大切に、幸福になりなさい」
マレーネはそこで祖母を振り返った。
「お母様、いかがかしら?」
「そうね。私も異存はありません」
祖母はマレーネに頷いて肯定すると、ヴィオラに優しく話し掛けた。
「ヴィオラ、貴女は卑しい里の生まれなどではありません。どこで生まれ育とうが、貴女は父と母の愛によって生を受けた者。周りの愛によって育まれた者。それは何より尊いのです。またユークリウスは自身精一杯励み、また精一杯励む者を愛する男。貴女は沢山の愛の下、精一杯に生きてユークリウスを選び、ユークリウスに選ばれたのです。その身を誇りなさい。何度でも言います。貴女は卑しくありません。貴女を生んだ者、育てた者を誇りなさい。貴女自身を誇りなさい」
「はい、ありがとうございます。マルガレータ殿下……」
ヴィオラは、マルガレータ王女の優しい言葉を聞いて目に浮かんだ涙が流れないように、懸命に我慢している。
「あ、母上ずっるい、それ私が次に言おうと思ってたやつ。取らないでよ。ほら、ヴィオラちゃん泣いちゃうじゃない」
「ユーキ、ぼさっとしているんじゃないの、ハンカチ、ハンカチ」
「あのー、私、まだ何も言っていないんだが……二人とも、いい場面が台無しじゃないか。ヴィオラ嬢、ユークリウスをよろしく頼む」
ユーキがハンカチで涙をそっと拭いてやると、ヴィオラはにっこりと笑って礼を言った。
「皆様、ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
「可愛いいい……ああ、もう我慢できない!」
マルガレータが矢も楯もたまらずヴィオラに抱き着いた。
「母上、2分で交代ですよ、2分。ああ、こんないい娘に、将来お母様と呼んでもらえるなんて……。幸せ! ユーキ、良くやりました。なんて親孝行なの、育てた甲斐があったわ!」
「違うわよ、マレーネ。『お母様』は私。貴女は『母上様』」
「そうだわ、『お姉様』呼びも格別甘露かも!」
「その設定、まだ続いているのか。まあ、どのみち私も「お父様」と呼んでもらえるのか。嬉しいなあ」
盛り上がって馬鹿騒ぎする三人にユーキが呆れていると、ヴィオラがマルガレータの腕の中で、とても言いづらそうに言った。
「あの、申し訳ありませんが、その事なのですが……」
「なあに、ヴィオラちゃん」
「本日の朝、国王陛下、妃殿下にお目に掛かった際に、マレーネ殿下宛にお言付けをお預かりしまして」
「私に? 何ておっしゃっていたの?」
「真に申し上げにくいのですが、必ずお伝えするようにと、国王陛下に厳命されました。その、『まずはリュークス家の娘になったのだ、父、母と呼ばれたのはこっちが先だ。もう何度も呼ばれたぞ、羨ましかろう』、と……」
「あっ……。くそじ……陛下! 悔じいいい……!」
部屋中に響き渡るマレーネの悲痛な叫び声に、家中一同、一斉に目を逸らした……
あと二話で第一部完結予定です。




