第103話 菫の覚悟
承前
テレーゼは菫と二人きりになると、座り直して菫に真っ直ぐに向いた。
一対一でその姿を改めて見ると、なるほど、まだ子供ながら美しく可憐な面立ちだ。
媚び笑いをするでも緊張に引き攣るでもなく、口を一文字に引き締めた表情は、王侯貴族にも負けぬ気品を湛えている。
これは客への態度を楼で丁寧に仕込まれてのものだろうか。
舞踊の修行も厳しく怠りないのだろう、身に無駄な肉はついておらず、それでいて少女らしいまろやかさも失っていない優しい体付きだ。
視線を顔に戻してその紫色の大きな瞳を見ていると、輝きに引き込まれてそのまま虜になってしまいそうになる。
この娘と恋心を交わしていたのであれば、なるほどユークリウス王子が是非許嫁にと国王に掛け合いに来たのも良く分かる。
テレーゼは淡々と菫に尋ねた。
「菫さん、ユークリウス殿下をどうお思いなのですか? 真の所をお聞かせください」
その問いを聞き、思いも掛けず菫の表情が曇り視線が落ちた。
「それは……立派な方であらせられます。尊敬申し上げています」
「そうですね。お若いながら大層立派な方と私も思います。ですが今お尋ねしているのはそういうことではありません。昨日、殿下は貴女を将来の妃として望まれたとか」
「あい……」
「お受けされた気持ちに誠はあるか、手練手管でないか、真実を確認せよと妃殿下から命じられて参りました。どうなのですか?」
「それは……」
菫が答えを躊躇うのを見て、テレーゼは小首を傾げそうになるのを堪えた。
ただ肯定の返事を確認すればそれで済む、そういう単純な任務と思っていたが、どうやらそうではなさそうだ。
「いかがされました? 実の無い、手練だったのですか? まさかこのような大事になるとは思っていなかったとか?」
「いいえ、手練手管などでは決してありません。殿下をお慕い申しております。心から、お慕い申しております。昨日殿下がお望み下さった時、どんなに嬉しかったか……もし叶うのであれば、いつも、いつまでもお傍にありたく思います……ですが、昨日お受けした後も、私のような者で務まるか、国の恥となりはしないか、殿下に御迷惑をおかけしないかと、心が千々に乱れます。お受けしなかった方が良かったのかも、と」
テレーゼはすぐには応えず、菫の眼をじっと見詰めている。
紫色の瞳の奥深くにある、心の揺らぎを見透かすように。
無理もない、この娘はまだ13歳、成人の儀も済まぬ子供なのだ。
いや、ただの子供であれば何も考えず疑わず、このお伽話のような幸運を喜び勇んで受けただろう。
自分が面しているものの尊さと畏ろしさ、それを知り、深く考えることができるからこそ心が揺らぐ。
妓楼勤めであれば、男女の事やその心の機微も少なからず知ってはいよう。
だが、この聡い娘は、それだけでは済まない決断を迫られていると知って揺らいでいるのだ。
テレーゼはこれまで長く王城の侍女、そして侍女取締として過ごして来た。
そのため、下級貴族の子女から侍女となりそして高位貴族に望まれて嫁いだ娘たちを多く知っている。
その仲を取り持ったことも少なくない。
その娘たちは皆それぞれに我が身の幸運を喜ぶと共に、多かれ少なかれ将来の不安に駆られて心の安定を失うものだった。
ましてや、菫は庶民の禿で相手は王子なのだ。
その妃となれば、事は二人の間だけでは収まらない。
一度受ければ、もう楼には戻れない。
王族に加わり、貴族を従え、庶民の前に立ち、始終衆目に曝されて生きて行く事になる。
ユークリウス王子を深く愛していて、求婚を受けると一度は返事をしたかもしれない。
それでも、聡明であればあるほど心が揺らぎに揺らいで何の不思議もありはしない。
テレーゼは菫に深く同情した。
けれど、だからといって、揺れる心を見過ごすわけにはいかない。
この娘は王子の妃となるだけではない。
テレーゼの見るところ、やがては王妃、王母となる可能性も小さくはないと思われる。
諾否いずれにせよ覚悟を決めてもらわなければ、国のため、ユークリウス殿下のため、そしてこの娘のためにもならない。
王妃殿下はそれをも見越して、ただの使いではない、侍女取締たる私をここに送り込んだのか。
テレーゼは心を決め、元から色の無かった声をさらに透明に、冷ややかにした。
「御自分は殿下には相応しくない、そうお考えなのですか?」
「わかりません。相応しくありたいとは思います。ですが……」
「心が定まらぬと?」
「あい。本当にそう成れるのかと。それに、ここまで育てていただいた、楼にも申し訳ありません」
「そうですね。貴女をここまで育てるには、皆さん大変な御苦労をされたことでしょう。殿下の下に参られれば、それが無になるかも知れませんわね」
「あい、それを想うと、あまりにも申し訳なく思います」
「恩知らずと罵られるかもしれませんね」
「あい。これまで長く育てていただいたご恩を思えば、何を言われても仕方ありません。楼の皆様にはどれほど可愛がっていただいたか、言葉に尽くすこともできません」
菫は、揺れ動く心、もどかしく苦しい想いを吐露していく。
だが、テレーゼの静かな口調は変わらない。
「……殿下よりも、楼の方々が大切なのですね?」
「いえ、そのような事は! 殿下の事は何よりも大切に! でも、その殿下にも、楼にも迷惑をかけるのでは……」
「それぐらいなら、殿下のことを諦めた方が良い、ですか?」
冷たい、とも思えるテレーゼの言葉のためか、己の心の葛藤のためか、菫は涙をぽとぽとと落とし始めた。
「情けない。泣けば答えずとも許されるとでも?」
「いえ、決してそのような」
菫は化粧が流れるのも気にかけず、袖で涙を拭き、口を一文字に引き絞ってテレーゼを見上げる。
零れる涙は止まらない。
しかしテレーゼにはそれを気に掛ける様子はない。
むしろ声は高く、厳しく、鞭のようにしなって打ち付けられる。
「そのような事で、これから先、務まるとお思いですか? 王族の妃となれば、貴女の一言一句、一手一足、貴族や庶民がこぞって目を皿のようにして粗を探し、何かあれば、それ見た事か禿上がりめがと謗るでしょう。泣けばますます嘲笑いましょう。それでも妃の座を望まれますか? 相応しくあれると言えますか?」
「……」
「妓女となっても同じでしょう。客は貴女の振る舞いを全て品定めします。踊りにしても歌にしても、上辺ばかりの愛想か、誠を込めた芸なのか。流す涙の一粒も、手練手管の嘘泣きか、ひと時の仮初めと言えど想いを込めた真心か。妃か妓女か、どちらの道を通るにせよ、真に覚悟を決めなければ真の高みには辿り着けぬ、そうではありませんか?」
「……」
「殿下は本心で貴女をお望みなのです。貴女の苦しいお立場も御承知で、貴女と共にありたいと。殿下御自身もこれからの厳しい道をお覚悟を決めて、貴女と支え合いながら共に歩みたいと願われたのです。殿下は陛下に誓われたそうです。何があっても貴女を護ると。心から貴女を信じると」
「……」
「人生は、何かを得るために何かを捨てる日々の連なり。その中でも、大きな決断をしなければならない時があります。一度に二つの道は歩めないのです。心を強く、覚悟をお持ちなさい。そして、確かな所をお話しなさい」
「……」
そこまで言うと、テレーゼの表情が急に柔らかくなった。
再び俯いて背を丸めてしまった菫の顔に己の顔を近づけると、菫の両肩を優しく手で包み、囁いた。
「菫ちゃん、良く聞いて。これは妃殿下の御使いではなく、女の先輩として言う事よ。殿下を幸せにしたければ、自分が幸せになりたければ、殿下をどう思うのか、どうありたいのか、心の底をぶちまけなさい。貴女の道は貴女が決めなくちゃならないの。周りのことなど、どうでもいいし、どうにでもなる。心を本当に決めてぶつかれば、道は必ず開けるわ。後先考えてちゃダメ。もう一度しか、聞きません。言わねば、一生後悔しますよ? どうか、肝心な時に躊躇ってしまった私の轍を踏まないでね?」
そして菫の肩を一度優しく撫でた後に表情を消し、座り直して威儀を正した。
テレーゼは声高らかに問う。
「では王妃殿下の御問いへのお答えを聞きましょう。国王陛下の大甥にして、王姪マレーネ・ヴィンティア殿下の嫡子ユークリウス・ウィルヘルム・ヴィンティア殿下は、妓楼花園楼妓女椿付き禿、菫様を正妃とするべく御婚約をお望みです。お受けになられますか?」
菫は背筋を伸ばし、顔を上げた。両の拳を固く握って腿に置く。
その目は光っているが、もう涙はない。
あたかも睨みつけるかのように、テレーゼの目を見詰めて口を開いた。
「お受けいたします。ユークリウス殿下を心からお慕い申しております。殿下のお傍に立つために、どのような苦労も厭いません。どのような誹りにも挫けません。殿下をお支えできる、妃として相応しい者に、きっと成って見せますと、お伝え願わしゅう思います」
そしてもう一度テレーゼを見詰めると、手を突き、静かに頭を下げた。
「確と聞きました。其処元の応諾を、この王城侍女取締テレーゼ・コルネリア、間違いなく国王陛下、王妃殿下に復命いたします。良くぞ言われました」
テレーゼは一際声高らかに応えると、顔を再び緩めて菫に近付けて優しく囁いた。
「酷いことを言ってごめんなさいね、菫ちゃん。でもね、貴族の中には、自分の地位、身分だけを誇りとして、他を見下げることを悦ぶ者がいっぱいいるの。その者たちにとっては、貴女は格好の餌食に見えるのよ。そんな連中に負けちゃダメ。どうか、頑張ってね」
「あい、コルネリア様。お教え、胸に刻みます」
テレーゼはにっこり笑って頷くと、また表情を消した。
顔を横に向け、障子に向かって声を掛ける。
「薄さん、他の者もそこで聞いておられるのでしょう? お入り下さい」
その声に応じ、穴だらけの障子をそーっと開け、薄、椿、柏、菖蒲がばつが悪そうに入って来て正座する。
いや、菖蒲だけは「えへへ」と笑っているが。
テレーゼは気に留めた様子もなく、薄に話しかけた。
「薄さん、差し支えなければ、これより直ちに菫さんを王城に同道したいと思います。陛下も妃殿下も早く菫さんに直接会うことをお望みです。恐らくそのまま、さる貴族家の養女とされるはず。いかがですか?」
「しかるべく。何卒、この子をよろしくお願いいたします」
「承りました。このような場所では、身請けに金子が必要と聞き及びましたが、いかほど?」
「いえ、不要でございます。ダラン銅貨一枚たりとも、頂くつもりはございません」
「そうは参りますまい。この子をここまでに育てるための入用は、少ないものではないはずです。遠慮は要りません」
「いいえ。この子は私の親友葵の一人娘。例え陛下がお相手でも、金銀で売るようなことはいたしませぬ」
「殊勝ね。わかりました。貴女たちに大切に育てられた子、私も大切にお預かりいたします」
「何卒、よしなに」
「ですが、陛下も妃殿下も子供の幸福には御篤志を持たれております。友人の子を斯くも見事に育んだ、その褒美なら受け取っていただけますね?」
「はい、謹んで。御志、かたじけなく思います」
テレーゼは満足げに薄に頷くと、菫に向き直った。
再び緊張した感情の無い面持ちに戻り、『うん、うん』と喉の障りを払っている。
「で、菫さん。実は他にも、確認して王妃殿下に報告しなければならないことがあるのですが。王妃殿下の厳しい御命で、実に大事なことです。決して包み隠さず、きちんとお答えくださいね?」




